父の子ら
兄とは12、姉とは4つ離れていた。他にも兄弟姉妹がいたはずだが、名を付けられる前に死んでしまったから分からない。俺が生まれた頃、兄は飛び上がって大きく喜び、弟だと、多くの兵や臣下たちに言い回ったと言う。この話は侍女たちが耳にタコが出来るほどに話し聞かせてくれた。
3人とも、母はない。自分に至っては、自分を生んだ後に死んだために顔さえ知らない。唯一母について分かっているのは、キヤという名だけだ。己の母の顔を覚えているのは兄しかいない。兄にその母の話を聞いても、兄の母は姉と俺の母ではなかった。皆が三人それぞれの母を持ち、それぞれに亡くしたのだ。
兄に話を聞けば、亡き母の姿に思いを馳せることもある。それでも母がいないながらにそれほど寂しさを感じなかったのは、良い乳母がいて、母の友であった父の側室たちがいて、父に負けず劣らずの愛情を注いでくれたからだと言えるだろう。何より、年の離れた兄が懸命に面倒を見てくれ、絶えず姉が可愛がってくれたことが大きかったに違いない。
父と兄と姉の愛情の下に、俺は育ったのだ。
「王子」
先日新しい遊び相手として兄に選ばれた兵を相手に、棒きれで遊んでいた俺は呼ばれてはっと顔を上げた。女官長のネチェルが大きめの壺を抱き、こちらに満面の笑みを向けている。
「兄君がお帰りのようですよ」
「兄上が!?」
棒切れを投げ出し、一目散に庭を飛び出して、おかしそうに笑うネチェルの前を通り過ぎる。
「王子、走ってはまた転びます」
「構うな!」
女官長の言葉を振り切り、部屋を出た。
「ネチェル殿は悠長なことを!もっと強く注意していただかなくては!……ああ、王子!そう急がれますな!また転びますぞ!」
慌てて若い兵たちが俺を追いかけてくるが、追いつかれて堪るかと笑いながら廊下を突き切る。
廊下で楽しげに髭を揺らし笑っているナルメルに声をかけ、女官たちの間を通り抜け、兵たちを飛び越え、近道をしようと廊下から庭へ着地した。
俺を追いかけていた兵から絶望に満ちた悲鳴が聞こえたが構いはしない。こちらの方が断然近道なのだ。
走っていると、ちょうど庭から戻ってきた姉とその侍女たちと鉢合わせになった。ぎょっとして俺を見て、「アンク!」と姉が声を尖らせた。掴まっては厄介だと何の返事もせずに一目散に逃げきろうと地を蹴る速度を増す。途中に通った庭の草に足を取られたものの、なんとか持ち堪え、今度は足元に注意しながら別の廊下に降り立ち、思いっきり床を蹴り上げて、そして兄がいるはずの正門側の外へ。
侍女や兵たちは俺が転びやすいことを知っており、この前も盛大に転び、膝を怪我したために走ることを極端に恐れるが、あんな怪我ごときで大げさになるのも馬鹿らしい。恐れていては何も出来ないではないか。走るのを禁じられるなど、以ての外だ。
外へ飛び出し、ラーの光を全身に浴びる。大きく息を吸い込み、呼吸を整えると、長い階段下に馬たちが嘶いているのを見つけた。その中で最も立派な馬。もちろんそこに跨るのは自分の兄だ。兄は颯爽と飛び降り、カーメスと何やら楽しげに話していた。
「兄上!」
馬の頭を撫でて馬を労っていた兄は、階段を駆け下りてくる俺に気づき、笑顔で迎えてくれた。
「また走ってきたのか」
目の前まで行くと、相手は「急ぐこともないのに」と少々呆れ気味に肩を竦める。
「兄上も俺が転ぶと心配しているのか」
「そうむくれるな。前も酷い怪我だっただろう。お前は足が少し曲がっているのだから、気を付けなければ」
確かに自分の足は綺麗に真っ直ぐではない。足の裏が少々内側に曲がっており、転びやすいのだと侍医から注意を受けていた。どうこう言われても、これは生まれつきなのだから仕方がない。歩いている内にどうすれば普通に歩くことができるかは自分なりに掴めていたし、周りが心配するほど気にもならなかった。
「王子……!」
俺の後ろに、ようやくぜいぜいとしている兵が追い付いてきた。両ひざに手を当てて屈みながら俺を見るその姿に、何とも申し訳なさが溢れてくる。
「別に追いかけて来なくても良いのに」
子供しか通れないような道を飛び越えてきたのだから、大人の身体をした彼の苦労は容易に想像できた。
「そういう、訳には、参りません!」
ほらみろ、と兄が俺を肘でつついてくる。
「弟がいつも苦労を掛けるな」
「い、いえ……!!滅相も御座いません!」
兄への必死の返答は掠れてしまっていた。
「お前には褒美を取らせよう。よくやってくれている」
そう言いながら、兄の手が俺の頭を叩くように撫でていく。
「このような落ち着きの欠片も無い暴れん坊に、表情を変えずについて来られる者はなかなかいまい。どうしたものかと私も困っているのだ」
未だに息を乱したままの彼を苦笑して労う兄の上着を引っ張った。
この話はもういい。自由気ままに、あちらこちらと駆けて行く好奇心の塊と侍女に言わしめた自分に、ついてこられる者などまずいないだろうし、いたらいたで、それは邪魔でしかない。その者を振り切ってやろうと、俺は今以上に無茶をしてあちらこちらを飛び回ってしまうに違いないのだ。それを思えば、この兵は随分よくやってくれている。
兄の服を掴みながら視線を足先に落とし、土をサンダルで踏みつけた。自分で分かっているほど、自分の性格はひねくれている。素直で、何でも快く受け入れるこの兄とは違って。
「もうよい、兄上。つまらぬ」
何より、どこまでも自由に宮殿内を駆けて行ける気楽さを手放したくは無かった。
「それで兄上はどこへ行って来た?」
眉を下げてため息をつく兄が俺を見下ろした。
「西の方、ナイルの畔だ。神殿の工事があったため、その様子を見て来たのだ」
すると、兄の側近カーメスが俺の傍に膝をついて動物を積み上げた荷車を示した。
「王子、あれをご覧ください」
カーメスの指先にあるその光景にわっと声が漏れる。
どうしてこの光景に気づかなかったのか。
「すべて、兄君が狩られたのですよ」
想像を絶する量の、狩りで仕留められた動物が山のように荷台に積み上げられている。これらは今夜の宴に父たちに振舞われることだろう。
「凄い……」
「そうでしょう、そうでしょうとも!我が主ながら何と言うべきか私も誇らしい気持ちで胸がいっぱいに御座います。その狩りのお姿は同性の私でも惚れ惚れとするほどで、王子にもお見せしたかったと今何とも言えない気持ちでいっぱいなのです!兄君はまるで鷹の如く獲物を見つけると一目散に私どもに行くぞと声を掛けて走り出すのですが、もうそのお姿は雄々しき、そうですね例えるのであれば……!」
「もう良い」
兄が苦笑してカーメスの頭を軽く叩いた。
「カーメス、お前は言葉が多すぎる」
叩かれた本人はにこにことくせ毛を揺らしながら、「照れていらっしゃるのですか」と言っている。兄は叱ることなく口をへの字にして冗談気味に大げさなため息をつくだけをした。
カーメスは父と兄に望まれて宮中に仕えるようになった貴族出身の少年だった。兄より5つ年下、へらへらしていて、緊張感があまり感じられない兄の側近ではあるものの、軍事的な能力は若いながらにかなりものだと聞いている。兄との相性というか、仲と言うか、そういう感覚的なものがよく合って、傍目からすれば彼らはまるで相棒のようにも見えた。
「兄上はやはり凄い!!」
俺は大きく飛び跳ねた。きっと頬も真っ赤になっている。
「いや、このすべてを狩った訳ではない。皆がいてこそ狩ることが出来たのだ。私は最後のとどめを刺したに過ぎぬ」
「俺も行きたい!!今度こそついて行く!弓の腕は上がった、もう足手まといにはならぬ」
せがむと、兄は少し黙って顎に手をやり、唐突に考えを巡らせ始めた。何を考えているのだろうと、カーメスと頭を並べて兄の顔を覗き込む。兄が何を言ってくれるのか、胸が躍って仕方なく、頬が自然と緩んでしまっていた。
「……そうだな。ならば」
徐に顔を上げて俺を見た。
「今から遠出をしてみるか?もちろん、馬でだ」
「お兄様」
振り向くと姉がいた。
「アンクに何をさせるつもりなの」
どこからどう見ても、あの顔は怒っている。付き添いも連れずに我武者羅に走っていた俺のことを叱りに来たに違いない。頑固反対だという姉の表情に、兄は笑って何とでもなると返した。
「どうする、アンク」
兄から外へ誘われたのは、これが初めてだった。いつもは面倒な予定を立て、大げさに飾り立てた輿や父の操るチャリオットに乗せてもらって移動することの方が多く、兄の前、それも馬の背中に乗せてもらえるのは毎回何かの行事の時だけしかない。
兄に誘われた途端、これは特別だと興奮が身体中を駆け巡っていた。拒む理由などどこにあるというのか。
「行く!」
即答だった。姉のため息を聞いた気がしたが、初めての単独の外出に迷うことなく俺は頷いて、兄の手を取ると、兄はまだ幼い俺を前に乗せ、ナイルの畔に向かって手綱を引いた。
進んでいく景色がとても美しく、落ち着きを失って、きょろきょろと兄の腕の中から周りと取り囲む風景を眺め、何か見つけるたびに身を乗り出す。
毎年恒例の氾濫が近づいているせいだろう、ナイルは記憶よりも水かさを増し、これでもかと水面をなびかせている。
初めて意識して氾濫を眺めたのは去年のこと。黒々と蠢き、いつもの光景を一夜にして一変させてしまったナイルは、生きているのだと思った。兄が教えてくれたように、ナイルには神が住んでいて、だからこそ我々は生きて行ける。ナイルの神ハピによって命が運ばれ、生きるための作物を育ててくれる。我々はすべてに生かされているのだと。これほどに満ちた世界に生きている自分があまりにも特別に感じ、その幸福を噛みしめる。あの興奮をまた味わえるのだと思うと氾濫が始まる時期が待ち遠しくてならなかった。
全身に感じられる柔らかな風が好きだ。過ぎて行く水や土の匂いが好きだ。燦々と降り注ぐ、黄金を振り撒く太陽が好きだ。息も止まるほどに過ぎて行く光景の何もかもに心打たれ、隣を走るカーメスと一緒に声を立てて笑い、少し離れたところを走る他の兵たちに無邪気に手を振った。
ところが、そのまま連れて行ってくれるだけという甘い考えでは駄目だったことを後になって思い知ることになる。兄は兄なりの考えを持って俺を遠出に誘ったのであり、建物も人気もない、ナイルの畔まで来ると、馬を止めたのだ。どうしたのだろうと後ろの相手を振り返ると、相手は爽やかさに満ちた表情で、いきなり手綱を俺に渡してきた。
「さあ、お前の番だ」
ぎょっとして後ろの兄を見つめる目を見開く。
「馬の乗り方など、やったことがない……できぬ」
ふるふると首をふるが、兄の怖いほど自信に満ちた表情は変わらない。
「だからやるのだろう。お前ももう8つになる、馬に乗ってもおかしくは無い年だ」
「でも」
「でも、ではない。兄も初めてを乗り越えて今に至るのだぞ。馬に乗れなければ狩りにも行けぬ。……ほら、いつものあの調子を思い出せ。どこへでもひょいひょい行くのがお前だろう」
手綱を持たされ、兄を唖然と見上げる。
ああ、そうか。
姉はこれを分かって反対していたのだ。
この時ばかりは姉に賛同すればよかったと滅多にしない後悔をしてしまう。
「さあ、兄を真似てやってみよ。今まで散々見て来たはずだ」
この調子では、何もやらないで終わるというのは許されない。兄は俺がやるまで帰らないつもりなのだ。
どうしようかと戸惑いつつ、顔を上げて馬上から視界を見渡すと、カーメスが少し心配そうな面持ちでこちらを見つめ、他の兵たちも息を潜めて見守っていた。心配しているのなら止めてくれれば良いものを、兄に逆らおうとする者などまずいない。
自分が手綱を持った馬は、兄が後ろにいるにも関わらず、とても頼りない感じがしたし、その馬上もいつもに増して不安定な気がした。少しでも身体をずらしたら、地面にずるりと落ちてしまいそうだ。
こんなにも馬上は高かったか。もう何も思い出せない。不思議なことに、思い出そうとするほどにあらゆるものが頭から飛んで行ってしまう。
こう感じてしまうのは自分の気持ちのせいなのは分かっていたが、この状態ではどうしようもない。怖いものは怖い。不安なものは不安に変わりない。けれど、何かあっても良いように兄が後ろにいるのだろうと思えば、何とかなるのではと妙な出所の知れない期待がどこからともなく湧いてくる。
今まで見てきた馬上での兄の動きを頭の中に描きつつ、意を決して、えいやと引いたら、馬は勢いよく走り出した。
予想外のことに、思わず悲鳴に似た声を上げた。思っていた方と違う。全くの逆方向だった。ぐうんと凄まじい力に振り落されそうになりながら、咄嗟に身体を丸めて馬にへばり付く。
「そんな体勢では馬は言うことを聞かぬぞ」
声を上げる暇もなく、どうにか止められないかと手綱を握り直してみるものの、初めての馬に恐れをなして、力が上手く入らない。後ろの兄は助けてくれるどころか、高らかに笑っているし、へばりついている自分は馬の止め方など知らないし、徐々に恐怖だけが伸し上がって来て、このままナイルに飛び込む勢いで馬がナイルの方へ突進し始めた時は、これでもかと泣き喚いた。
「王子!!」
カーメスの緊迫した呼び声と共に、背後からすっと手が伸びてきた。
「──ああ、楽しい」
風を一身に浴びた兄は大きく息をつくようにして言うと、俺から手綱を取り、容易く馬を止めた。
何が楽しいのだと言い返す余裕などなかった。全身が震えてしまって自分が哀れに思えるくらいだ。
「兄上、いやだ、もう帰る」
目を真っ赤にして訴えるのに、兄は眉を下げて俺の頭を撫でた。
「王子たる者、そう簡単に泣くものではない」
隣にいた兄の側近であったカーメスも「そうですね」と追い打ちをかける。
「なかなかの乗りっぷりございましたよ、王子。このまま続ければきっと良い乗り手になりましょう。……今のは冷や汗をかきましたが」
「カーメスもこう言ってくれている。馬に乗れぬ王子など笑われるぞ。私の弟ならば泣かずに前を向け。馬が見せてくれる景色を目に焼き付けよ」
すると、カーメスは横目で兄を見上げた。
「しかしながら、兄君はやりすぎです。お二人揃って怪我でもなされたら私の首が飛びます」
「すまぬ、少し反省している。もうしない」
そう言いながら、兄は笑うだけだった。
少しどころか、反省の色など皆無ではないか。全く以て見えやしない。この兄にして、もうしないなどあり得なかった。
「さあ、馬がどういうものか分かったはずだ。今度は教えながらやろう」
馬がどういうものかなど考えられなかった。何が分かったはずだ、だ。兄のことは好きだが、こういう無茶苦茶なところは嫌いだ。
大嫌いだ。
「膨れるな、愚か者」
泣きべそをかいた自分の顔は兄ににらみを利かせていたのだろう、兄は俺の膨れた頬を潰した。ぶぶぶ、と無様な音がする。
「背筋を伸ばせ。いつものように」
嗚咽を呑みこんで、兄が教えてくれる「正しい」姿勢に直し、兄とは比較にならないほどに小さい手で手綱をおずおずと握った。
手を、兄が支えるようにして包んでくれる。同じ手だというのに、こんなにも大きさが違うのかと、思わずにはいられない。何があっても笑っていられる兄と、これだけのことで泣いてしまった自分の差を明らかにされた気もした。
それからの乗馬は専門の教師がつき、兄に見守られながら毎日習う破目になったのは言うまでもない。
兄のそんな無茶なやり方のおかげもあってか、嗚咽を漏らすほどに恐れをなしていた俺は1年も経たない内に、馬を乗りこなし、兄やカーメスと共に狩りまで出来るようになっていた。馬に跨り、初めて野鳥を射落とした俺の姿を、満足そうに微笑みながら眺めていた兄の優しい表情はどれだけ時が経とうと忘れられない。
文字の読み書きや、外の国の言葉を教えてくれたのも兄だった。父がつけてくれた家庭教師カネフェルから教わったものを、その後に兄が復習として試してくれるという方法で、外の国の言葉でしか会話をしないと決めつけられることもあった。得意な言語ならまだしも、苦手なものだと、「発音が違う」、「言い方がなってない」と厳しく注意して来る。いちいち突っかかってくるものだから、俺は腹を立てて兄に食い下がった。
「兄上は厳しいのだ。ちょっと間違えるとすぐに注意する。細かいことにぐちぐちと。これくらいならばよかろうに」
「他の王族に会った時、恥をかくのはお前だぞ」
そう言われてしまうと、言い返す言葉がなくて黙り込んでしまう。
兄が時折第一王子として近隣諸国に赴いているのは知っていたし、自分もいずれはその役目に就かねばならないことは以前から耳が痛くなるくらい聞かされていた。
この役目からは逃げられず、他国に行き、その国の言葉をまともに話せない自分があまりに簡単に想像できてしまうのもまた悔しい。悔しいながらも仕方なく頷く俺を見て、兄はおかしそうに笑って、もう一度言ってみろと俺に促した。
数学などの学問においては姉と並んでカネフェルに習っており、姉が懸命に俺とは違う勉学に励んでいるところを、俺は兄への愚痴を零し続けていた。姉は自分の手元に目を落しながらも面白そうに笑っていたが、俺としては愚痴を言わなければやっていられない。
「アンク、それはお兄様があなたを想ってのことよ」
相手はようやく顔を上げて八の字にした眉のまま、軽く肩を揺らす。
「でも姉上にはそうでなかったのだろう?現に姉上は俺よりも自由にやっている」
「私は女だもの、王になることはない。けれどあなたは違う。王になる可能性は少なからずあるの。だからお兄様はあなたに厳しくする。立派な王になるには、時間がかかる……大変なことなのだから」
「でも父上の次は兄上だ。兄上さえまだ王になっていないというのに、何故俺がやらねばならない」
姉が少し悲しそうに肩を竦めるのを見逃さなかった。どうしたのかと聞こうとも思ったが、あまり聞いては行けないような気がして開きかけた口を噤む。
「姉上、俺は……」
「アンク、『俺』じゃないでしょう」
変なところを突かれて、思わずきょとんとした。
「何度言えば分かるのかしら。本当に、どこでそんな言葉を覚えたの」
さっきの話題を続けたくないから妙な部分に突っかかってきたのだ。それはそれでうんざりした。ますます反抗したくなる。
「兵が言っていたのだ。わたし、など言っていられぬ。こちらの方が強そうだ」
「呆れた。兵と王家は違うのよ?それなりの気品がなくては」
ぶうっと頬を膨らませて拗ねて見せると、姉は小さくため息をつく。表情に笑みは無かった。
「とにかく、お兄様の言うことは聞きなさい。すべてはあなたのためなの」
自分のため、と言われてもあまり納得がいなかった。
4つの時から始まった勉強尽くしの生活はともかく、いちいちやってくる兄の説教を思うとただただ辛いだけで、兄と姉の気持ちをちゃんと分かることが出来なかったのは、おそらく俺が幼すぎたからなのだということさえ、分かっていなかった。
「姫君、王子」
その時カネフェルが帰って来て、与えられた課題が出来たかどうかを尋ねてきた。
「姫君は素晴らしい。多くの国の言葉を覚えられましたな」
「ええ、もうどの国の方と謁見があっても大丈夫よ」
「さて、王子は」
愚痴ばかり零していた俺はひとつも解けておらず、はっとして課題と向かい合う。カネフェルと姉がくすくすと笑っているのを傍で聞きながら、慌てて解く有様だった。
姉より遅れてすべてを終らせ、乳母と共に部屋の方へ向かっていると、兄が姉と深刻そうな面持ちで話している姿を見つけた。あまり自分が入ってはいけないような雰囲気があり、兄の表情が怖くも感じてその場に立ち竦む。
「おお、喋り虫が戻ってきたようだ」
深刻な表情を見せたのも一瞬で、俺を見つけるなり、兄は笑って俺をからかった。姉に先程の一部始終を聞いたのだろう。
「そんなんじゃない」
けらけらと姉と一緒に笑いながら、兄はおいでと手招きをしてくれる。
「遅かったな、アンク」
「カネフェルが出した問題がちょっと難しかったからな。手こずったのだ」
やれやれと大げさな素振りをしていると、姉がまた笑い声を立てた。
「嘘ばっかり」
年よりも大人びた姉の声だ。
「嘘じゃない!姉上はどうしていつもいつもそうだと決めつけて物を言うのだ」
「だって、そうでしょう。アンクはずっとぐちぐち喋って課題を解くのを忘れていたの」
「違う!」
むっと姉を見返した俺に、兄が庭の方を示して、にやりと口端を上げた。
「アンク、兄と共に弓でもたしなむ元気はあるか?それとも姉と口喧嘩を繰り広げ続けるか?」
ぱっと顔に熱が上がり、兄を振り返るとぶんぶんと横に首を振った。
「当然!兄上、勝負だ!」
すかさずカーメス持ってきた弓をそれぞれに受け取り、兄の手を掴んで庭へと飛び出した。
兄はいつも俺の前にいた。
人望も厚く、優しく正義感があり、必ず弱い者の立場になって考える、雄々しく王家に見合う人間。王の世継ぎに相応しいと、一体何人の者たちが口にしただろう。
異論はない。いつも自分の前を行き、何よりの憧れで、自分の何よりも目指すべき人物が兄だった。兄が王となるのなら、自分はその支えになれればいい。兄の抱く理想の土台に自分がいることができるのなら本望だった。
「アンク」
大らかに笑い、優しい眼差しを向け、おいでと手を伸ばしてくれる兄を目にするほどに、侍女たちの話し声が脳裏に甦る。
『──兄君様のご持病が再発しなければ良いのですけれど』
赤ん坊のころから身体が弱く、何度命を落としかけたか分からないという話だったが、兄のそういう姿を見たことがなかった俺には兄に持病があるなど、にわかには信じられなかった。兄が生まれて物心つくまでの間に持病の発作が酷かったことを聞いてはいるが、兄のそのような姿は見たこともなかったし、姉も、兄自身でさえも、持病に関しては口にしたことが無い。それどころか、兄はこれでもかと勇猛果敢な王子時代を過ごし、弟であった俺にあらゆることを自ら教授していたから、侍女達が病は治ったのではないかと口々に噂するほどだった。
俺も、そうだと信じて疑わなかった。
兄の病は治ったのだ。治ったに違いない。
治らない方が、おかしいのだ。
俺が馬に乗れるようになると、3人で出かける日も多くなった。姉は王女として輿に乗っても良かったのに、輿では遅いからと勇ましく馬に跨る。
男に生まれていれば良かったものを、という兄のからかいに、姉はつんとして怒った。兵たちからも「美しい」より、「勇ましい」と囁かれることが多かったから余計に兄の言葉に腹を立て、それに追い打ちをかけるかのように俺もからかった。
だが、姉が成長するほどに美しくなっていると噂されているのを、姉は気付いていなかった。兄の側近として一緒にいたカーメスの視線にも気付いていなかっただろう。
アケトアテンを出て、多くの町に駆けていく。一番遠くて、テーベの神殿まで。兵と侍女を引きつれ、王の子3人で民の姿を目にし、自分たちの祖先が遺した偉大な遺産の数々を巡った。
祖父が造らせたという神殿を目にし、顔さえ見たことの無い祖父の、死後にも残り続ける威厳に驚いて仕方が無い。3人で柱の間を走り抜け、祈っては、子供のようにはしゃぐ。
狩りも行った。ナイルに潜り、泳いで競争もしたし、魚も捕まえてそれを焼いて食べ、馬鹿みたいに何度も飛び跳ね、砂漠の上で大きく息を吸い込んで咽て兄と姉に笑われた。
地域ごとに違う商人が行き来し、彼らから珍しいものを購入し、帰りにも何か獲物を狩って、父への土産にした。父も見たことがないものに手を叩いて喜び、狩ってきた獲物はその日の宴に出された。
後から聞いた話では、こうして外に行くことを父や大臣たちに提案したのは兄だったと言う。おそらく自分たちを支えてくれる、そして自分たち王家が守らねばならない世界を、そこにいる民を、俺に目で見て感じさせるためだったに違いない。兄が設けてくれた機会によって俺は、自分の視界を覆い尽くした、父の治める国と民の姿が、心を揺さぶるほどに美しいことを知ったのだ。
就寝前に、兄が我ら王家、歴代の王の話をしてくれる。
兄は自分たちの祖先の王族の成してきたことを誇りとしており、自分もそうなりたいと強い野望を抱いていたのを姉も俺も知っていた。その野望は自分たち兄弟の夢でもあった。
「彼女は女性として実に素晴らしい業績を残したと言っていい。父上はあまりよく思っていないようだが、私は尊敬している」
姉もこの日は俺の隣で兄の話を聞いている。
今夜の話は、祖父の前に女王として君臨したハトシェプスト女王についてだった。女は王になれぬ習慣と習わしを破って王位についたという唯一の女王。
「それは王家の者としてどうかと。彼女は確かに偉大だけれど、王家のしきたりを破った方でもあるもの。私も好感は持てないわ」
「王家のしきたりとなるとお前は厳しくなるのだな。時にはしきたりを破らねばならなくなることもある。視野が狭いと良いことはないぞ、アンケセパーテン」
「その名前で呼ばないでちょうだい、お兄様」
姉はこの頃からアテンという神に不信感を抱いていた。
公の場以外で、自分はアンケセパーテンではなく、アンケセナーメンなのだとあくまでアメン信者であることを強調しており、ネチェルたちを困惑させたのも有名な話だ。そのせいもあって、兄と俺は彼女をアンケセナーメンと一人だけアメンの名で呼び続けていた。
兄と姉は議論を繰り返す。それを何となく聞いては、二人のやり取りにくすくす肩を揺らしながら祖父について綴られたパピルスに目を通している自分。
寝台にごろりと寝転がり、眠気を感じて大きな欠伸をした。自分としては、曾祖母より前の女王も凄いとは思うが、彼女よりも祖父アメンホテプ3世の話の方が好きだった。世界を渡り歩き、エジプト国土を広げ、大国に仕立て上げた我が祖父。顔さえ知らない祖父の話をナルメルや兄から聞くのが何よりも興奮し、胸が高鳴った。自分がその血を継いでいるのだから尚更だ。
もし自分が王になるのなら、そういう王になりたい。国を大きく、最も豊かに。
誰もが笑顔でいて、そして輝いたものに──。
「アンク」
兄と姉が俺を呼んで、自分の夢物語に幕が下りた。
父の次には兄がいるのだし、兄に子が生まれたなら自分に王位に回ってくる可能性はかなり低くなるというのに、今更ながらこんな理想を少しでも見た自分が少し恥ずかしくなる。自分は兄や父の理想を実現するための手助けができればいい。それだけが望みだった。
「どうした、アンク」
「何でもない」
起き上がって、二人の方へ向かう。
「我ら──」
兄弟3人で額を合わせるようにして、静かに兄が唱える。
「我ら3人、偉大な父の子として生まれ、神々を背に、エジプト王家として立っている。これを決して忘れてはならぬ。いかなる時も」
兄の口癖に、姉はしっとりと頷き、俺も兄の誇り高い瞳を見つめ返し、強く頷いた。兄から発せられるこの言葉が何よりも好きだった。その裏に隠れた、父と兄が味わっていた苦悩をまだ知らず、理解できていなかったことは確かだが、自分たちの置かれる立場がどれだけ重要なもので、自分の生まれを誇りに思ったからでもあった。
「我ら王家、国と民と共にあり」
兄の真似をしてあとから繰り返すと、兄は嬉しそうにそうだと頷いて頭を撫でてくれる。
「御身、生きてある限り心正しくあれ。皆、すべては死後に世界ありて。なせる業ことごとく屍の傍らに降り積むなればなり──我が生はこの言の中にある」
父から兄に受け継がれた言葉だった。
これらを胸に我らは生きねばならぬ。
こんな日々がずっと続くのだと信じて疑うこともしなかった。