分我羅「者」?いえ「人」
「分」「我」「羅」ときて「者」で何故か
全く進めなくなってしまいました。最初は
「者は物体のモノではなく、人間=者なの
です」で文章が続くハズだっのですが。
で、「ブンガラッダー」の宛字ならば、
その動詞形「ブンガラッド」で「分我羅
人」でも良かろうとしたら繋がりました!
「人」とは「生命の中でも人類ヒト科」に
属する生き物で、物理的な「肉」の観点も
含め、その主体は「心」にある。(行動を
決めるのは脊髄反射以外は大体が自分の
思考や嗜好や感情、知識で状況を判断した
結果、つまり是非はともあれ心が選択した
解によって動いている)
「人の心」とは?ここで「我=自の分」を
思い出すと、我々が心と思い込んでいる
ソレは「現時点における自の分」であり、
決して「素の」「ヒトの心」ではない。
なら「分我羅」の視点でいう「人の心」
とは?羅は世界との密なる関わり、我は
関わりにより創られる個人、そして分は
永遠無限にして不滅の「世界」から我が
羅の関係を持つ範囲を時空軸で切りわけた
一部、つまり「分我羅」に染まる前の心
こそ「素の心」なのだ。それは「分我羅」
以前、永遠無限にして不滅の世界そのもの
の心だろう。確かに世界自体には心のモト
となる感覚も感情も生命も無いが、ならば
「在りよう」と解釈して考える。世界とは
時間と空間から「間」を外した「時と空」
なのだ。宇宙が消滅しても、そこに新たな
空がある、時は必ず流れている。そんな
存在の「在りよう=心の在り方」。私達の
心は源流に登れば「永久無限にして不滅の
在る」なのだ。
「在る」「ここ=現在に在り、そこ=過去と
永劫の未来に在り続ける」この世界に存在
する者として、まずは「無」ではなく、
「在る」を自身の心の基礎としてみよう。
何のこっちゃネン?だ~から「消えたり、
無くしたり、壊したり」そんなイメージは
全部アナタの「分我羅」の負の要素が思い
込ませているモノで、我々の本性は「永久
不滅の在る=自の分を容認する=自棄(ヤケ
)にならない」というコト。