掻き消えた台詞はまだ秘密
一年ほど前、小さな市民ホールで自分と同じブレザーの制服を着た人--鏡原 信二がピアノを弾く姿を見た。その姿はとても繊細で美しくて、俺はその日から彼のファンになった。
「な、なあ、辞めよう! おまえは帰れってば!」
放課後。普段は音楽室で俺が望むまま様々な音色を奏でてくれる鏡原は、今日、授業が終わったと同時に、学園の門をくぐりぬけていた。向かう先は裏手の河川敷。
なんのためにそこへ向かうのか、理由を知っている俺は、彼の行く手を遮ろうとあの手この手で邪魔をした。しかし、彼は聞く耳を持ってくれない。
長い脚が、一直線に学園の裏手に向かうのを、結局俺は止めることができなかった。
(ああ、俺なんかのために戦おうとしてくれなくていいのに!)
俺は昔からヤンキーたちに目をつけられやすくて、今朝も他校のヤンキーに絡まれてしまった。
一瞬のすきをついて逃げ出した俺の背中に「放課後、集会場所に来なかったらどうなるかわかってんだろうな!」という陳腐だけど、地獄への招待状みたいな台詞が投げられて。
俺はそれからずっと、怖くて気が気じゃなかった。制服で俺の在籍している高校はばれてるだろうし、ヤンキーたちの情報網で俺の名前とかもろもろ、知られるのは時間の問題だと思う。もし、ヤンキーたちの集会場所に行かなかったらどうなるのか、でも、行ったところでフルボッコにされるのは目に見えてる。どっちのほうがマシなんだろう。わかんねえ。
そんな動揺は鏡原には一目瞭然だったらしく、会った途端、今朝の出来事を洗いざらい話す羽目になった。
そして今、彼はヤンキーたちに抗議の声をあげに行こうとしているのだった。
この河川敷を根城にするヤンキーたちは、ガラが悪いので有名だ。すぐに手を上げ、暴力沙汰が絶えない。
そんなところに鏡原が乗り込んで、そのきれいな指先が血で染まるようなことがあったらーー万が一、ピアノを弾くことに影響が出てしまったら。
俺はきっと、死んでも死に切れないくらい後悔する。
だから、引き返して欲しかったのだが。
「ねえ、今朝彼にちょっかいを出したのは誰だか知ってる?」
河川敷の高架下でタバコを吸っているヤンキーの一人に、鏡原がおもむろに声をかけた。その途端、ヤンキーたちは蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「おい、誰だよこのチビに絡んだやつ!」
「知らねえよ! そいつ何してくれてんだよ!」
二十人ほどいたヤンキーたちが、慌てて電話したりどこかに駆け出して行ったりする様子は、俺の想像していたのとは随分異なる光景だった。
「え、鏡原……おまえ、ナニモンなの?」
隣に立つ、清廉な雰囲気の美形を見上げる。ヤンキーとはまるで縁がなさそうな、優等生然とした鏡原が、散っていくヤンキーたちの中心に立っているのは違和感でしかない。誰かが落としたタバコの吸い殻を、先端まで磨かれたローファーで踏みつけながら、鏡原は俺を振り返った。
「何者でもないよ。ただ、かわいい後輩がいじめられてるのが許せないだけ」
にこりと微笑む姿には恐れも何も感じられない。かわいがられているのはわかってたけど、それだけでヤンキーたちに向かっていけるものなんだろうか。
そのとき、電話を終えた金髪のヤンキーが、俺を見上げて驚いた声を出した。
「おまえ、この人の兄貴が原田泰治サンだって知らないのか?!」
「えっ?!」
原田泰治は、この地域一帯で知らない人はいないほど有名なワルだ。目の前であたふたしている学ランだったりブレザーだったり私服だったりするヤンキーたちの、元締め的な存在。それが、鏡原の兄貴だって?!
「腹違いの兄だよ」
「えー!!」
原田泰治は重度のブラコンだって噂だ。そういえば、俺が初めて鏡原のピアノ演奏を見た日、ヤンキーに捕まって市民ホールまで荷物持ちをさせられたんだった。原田泰治ではなかったはずだけど、その取り巻きとかだったんだろうか。
目を白黒させて驚いていると、鏡原がヤンキーたちの見ている前で俺の肩を抱いた。グッと近づいた距離にさらに動揺する。
そんな俺に構わず、彼はあたりを見渡して宣言した。
「三橋くんは僕のものだから、誰も勝手に触らないでくださいね」
「えっ、それってどういう意味っスか?!」
坊主のヤンキーが問いかける。その瞬間、電車が線路を通過した。長い騒音にかき消されて、鏡原が何を言ったのかは聞こえなかった。ただ、目の前のヤンキーたちがぽかんと口を開けて驚いている姿が印象的だった。
鏡原のおかげで、それからヤンキーに荷物持ちをさせられたり、ボコられたりすることはぴたりとなくなった。でも。
「三橋さん、うっす!」
「おはよーございます!」
道端ですれ違うヤンキーたちにやたら丁寧に挨拶されるようになっちまった。
(こんなふうに絡まれるのも怖えよー! 鏡原のやつ何言ったんだよ、まじで勘弁してくれー!)
〜END〜