一夜ばかりの夢を見せて
初投稿です。
どうぞよろしくお願いします。
「……うぅ……気持ち悪……」
イライザ・オンサーガーは誰に向けるでもなく、そう声を絞り出した。
普段着飾ることのほとんどないイライザは、今日ばかりはと流行りのドレスを着込み、日頃は簡単に一纏めにして垂らしている金茶髪の髪の毛を綺麗に結い上げていた。
親や侍女達が何も言わなければ、一日中オーソドックスなブラウスに紺の長めなプリーツスカートと言う、侍女のお仕着せよりシンプルな服装で過ごしかねないイライザが、どうしてこのようなおめかしをしているのかというと。
それは、一般的な貴族子女にしては小さめな彼女の顔の半分を覆い隠す、黒猫の仮面が説明している。
本日は、毎年恒例の王宮主催仮面夜会なのである。
夏の暮れ、社交シーズン真っ只中に催されるこの夜会は、仮面を纏って参加する、と言う決まりがある。
この国には夏の終わりに妖精が悪戯する、と言う建国当初から伝わると言われる御伽噺があり、それにちなんでのことらしい。
貴族は仮面を被って舞踏会を、庶民は仮装して夜通しお祭りを。
それを行うことで、妖精に親近感を持ってもらい、悪戯とともに幸せを運んでくれますように、と言う意味が込められている。
もっとも、この夜会の歴史は古く、残っているのは形ばかり。夜会の由来こそ有名な話だが、仮面夜会は今やもう一つの意味を持っている。
この日ばかりは本来の貴族然とした柵を脱ぎ捨て、一夜の夢を見ようではないか、と言う。
貴族階級にある者は、常に人々の思惑の渦の中。声を掛けることさえ阻まれる者もいるのだ。
そんな貴族の派閥やら爵位やらの云々を今日だけは捨て置き、仮面をかぶることで忘れて夜会を楽しもう、と言うものだ。
また、百年ほど前に行われたこの夜会で、とある王族が何処かの令嬢を見初め結婚した、と言う年頃の娘なら憧れたくなる逸話があり、そのことからまだ婚約者のいない未婚の者達にとっては絶好のチャンスとなるわけだ。
この夜会で出会ってそのまま結婚した、と言う話も珍しくはあるが存在したため、令嬢らの心に更に火をつけたことは言うまでもない。
シーズンのど真ん中での仮面夜会ということもあり、日々の社交に勤しむ者達への慰労の意味合いもある。
そんな、王宮での夜会の最中、十七歳の年若い侯爵令嬢が、王宮庭園の端にある小ぶりなガゼボの手摺に腕を置いてベンチに倒れこむことは、普通はあり得ないのだ。
そう、イライザでなければ。
「……うぇ……酔ったぁ……」
聞いていて心底情けなくなる弱々しい声で、そう言葉を吐き出したイライザは、深く長く肺の中の空気を一新するかのように、大きく深呼吸を一つ。貴族令嬢らしからぬ少々はしたない言葉であることも、イライザは今は気にも止めていなかった。
オンサーガー侯爵家の次女である彼女は、仮面夜会の本日、家の自室でいつもの如く妖精学に勤しもうとしていたところ、普段は優しい父親に摘み出され、いつの間に用意していたのかと言いたくなる装飾品で飾られて、王宮に放り込まれたのだった。
ひどい話だわ、とイライザは誰もいないことをいいことにベンチに寝転がり、頬を膨らませた。
社交嫌い、かつ変人令嬢として知られるイライザは、社交がこの上なく苦手なのだった。貴族らしい物言いに慣れず、歯に衣着せての応酬が不得手。
思ったことをそのまま口にしてしまう彼女は、幼い頃から貴族の世界に嫌気がさしていた。肌が合わず居づらい。
社交界デビュー後もそれは変わらず、まるで呼吸するように浴びせられる社交辞令の数々。美辞麗句を並び立てられ、それを捌けないイライザは四苦八苦していた。
イライザが侯爵令嬢であったことも災いし、また本人が着飾ることを好まないだけで美しい見た目をしていたため、縁談の量は数知れず。舞い込む釣書にうんざりしてその全てを蹴っていたイライザは、今や国の中でもこの間婚約された王女に次いで、一二を争う残り少ない優良物件である。
高位貴族と縁組したいと躍起になっている貴族方のお陰で、夜会に出れば未婚男子に囲われ、社交のない日は見合いに引っ張っていかれると言う、自由を愛し面倒を嫌うイライザにとって最悪の日々であった。
幸か不幸か断れないような縁談も来ず、良縁を結ばなければならないほど切羽詰まった家でもないために、親から縁談を命じられることもなく。
最終的に行き遅れて家が選んだ者と結婚したくないのなら、自分で今のうちから見つけ出しなさいと言われてしまったと言うわけだ。
今日この夜会に放り込まれたのも、うまく口の回らない娘もこの仮面夜会くらいでは、誰かいい人を見つけるか見初められるかも知れないと言う、父の淡い期待によるものだった。
とは言うものの、イライザ自身は未だ十七と言う行き遅れどころか婚約適齢期入りたての娘である。今までこれだけ大量の縁談が来ていたことが逆におかしいのだ。
しかし女が美しくあるうちなど一瞬。五年もすればイライザは『行き遅れ』だと言われることを考えれば、早めに相手を見つけておくに越したことはないのだろう。
そうは分かっているのだが。
「こんな変わり者を見初めるような物好きはそうそういないですよ、お父様」
侯爵令嬢という付与価値が表についていない自分を好む者は、大層な悪食であろうとイライザは思った。
父はイライザの貴族の世界で生きづらい性格を憂いて、今回の仮面夜会に出席させたのだろうが、それ以前にイライザは少々変わっているのだ、貴族云々の前に。
イライザは仮面夜会の元とも言える妖精に興味を持ち、妖精学者顔負けの知識量を誇り、独自に研究を行っていた。
まだ自我もそこそこな幼い頃から何処か変わっていたためか、妖精に好かれる体質をしていたイライザは、常日頃から妖精と共に行動している。
まず妖精自体がある種のお伽話で、実際に存在はするが希少なものとして考えられている。その姿を目に捉えることは稀で、気紛れな性格をしていると。
一般的に世の中に出回る知識はそんなものだが、実際のところは全く違う。妖精は姿を現さないのではなく、人に妖精の姿を見れない者が多いと言うだけなのだ。その理由はいまだ不明だが、妖精はいつだって其処彼処にいるのだ。
彼らが保護色を持っているわけでも、視覚に影響を及ぼす力を持っているわけでもない。単純に、人間の目が妖精を捉えることを苦手としているだけであって。基本的に人々が見る、滅多に人の前に姿を現さないと言われている妖精は、彼らの日常のほんのひと時なのだ。
そんな中、イライザは妖精を見ることが生まれつき得意だった。幼い頃は無邪気に妖精と戯れついたり、話しかけたりもしていたのだが、おかげで他家の人々からは少々気味悪がられた。
イライザの祖母がイライザと同じく妖精を見ることに長けた人であったため、家の者との関係に悩むことが全くなかったことは、イライザにとって幸いだった。
今ではイライザも自分と他人の違いを知り、妖精はイライザから接触しない限り、特に何かされることはないため、人前で彼らと交流することは控えている。と言いつつ、人気のない場所で妖精と戯れていたところを目撃されて、変人令嬢だと揶揄されることは今でも度々あるのだが。
そんな少し──少しどころではないが──変わったイライザは、仮面夜会での人の多さに酔い、現在王宮の東屋で人々の熱気に当てられて火照った体を涼ませているところだ。
持っていた扇子を畳んでドレスの隠しに仕舞い、レース生地の手袋に包まれた年齢の割に小さな手でパタパタと顔を扇いだ。もしも礼儀作法に煩い姉がこの場にいたなら、「なんて格好で!」と悲鳴のような怒鳴り声が飛んできたことだろう。
東屋の柱の間から三日月を見上げて、イライザは寝転がったことでシワになるであろうドレスと乱れる髪のことを考えたが、その時は仕方がないと忘れることにした。家に帰ったら嫁に行ったばかりの姉による説教が始まることが目に見えているが、この時のイライザにはそれさえも甘んじて受け止めようと思えるほど、疲れていた。
薄く化粧の施された、仮面から覗く頬に触れ、グニグニと揉んでほぐした。鼻から上は仮面によって隠れているのだが、顔の下半分は剥き出しなのだ。
仮面夜会とは言えど面に貼り付ける笑顔くらいは必要である。意図的に作り出す笑みほど、イライザにとって表情筋が疲れるものはない。社交用の笑みの一つや二つは用意しているのが普通の侯爵令嬢だろうが、イライザはその枠からは外れる。
まずは口角を上げるところから始めなければならず、特に楽しいこともないのに笑わなければならないと言うことは、彼女からすれば苦痛でしかない。
その年の令嬢たちと比べれば夜会に参加する回数の少ないイライザは、一応毎度の夜会で初めのうちは笑みを保つ努力をするのだ、精一杯。これも貴族としての仕事のうちだと考え、懸命に笑おうとするのだが、数十分もすればその笑顔はだんだんと凍りついてくる。
全力で口角を上げようとしても、上がらない。柔らかく細めようとする目元は、冷めたように鋭くなり。深い青の瞳は鈍く、そして暗く光り始める。
そのことからついたあだ名は“雪姫の冷笑”。変人令嬢に続き、微塵も有難くない呼び名である。
別にイライザだって、好きで笑わないのではない。自分でも表情を緩められるものなら、微笑みの一つくらいしたいのだ。もちろん大口を開けてと言うことではなく、普通に嫋やかな笑みを。
笑っているうちに脳が自身の笑みを認識して、楽しく感じることができると言う論文を少し前にとある学者が発表していたではないか。
正直なところ、今の自分に社交界で興がることができるものはなく、夜会に出ればただひたすら早くに時間が経つことを切実に願って過ごしている。そんな自分でも、上手い笑みの一つや二つくらいできれば、もう少しは楽しむことができるのではないかと思うのだ。
もうデビュタント以降、何度感じたことがあるかも忘れるくらい味わった、顔面の筋肉の疲れを逃がそうと揉みほぐして、イライザは背中を預けるベンチの椅子の上で足をぶらぶらと力なく揺すった。既に踵の低い靴は脱ぎ、ベンチの足元に並べてある。
未婚の貴族の娘が足を晒すのははしたないとされているが、この東屋は王宮で一時期働いていた姉から教えてもらった、人の来ることの少ないそこまで知られていないガゼボだ。イライザが王宮の夜会に参加するときにほぼ必ず使う避難場所である。
今日の仮面夜会という日に、こんな華やかな王宮庭園の隠されたように作られた他と比べると質素で静かな外れに来る者など、イライザ以外に居るはずが──。
もう少し時間を潰してから、やや早くはあるが帰路につこう。そう考え、イライザが瞼を閉じかけたところで、そう遠くない場所から足早な靴音が聞こえた。
──なぜこんな場所に人が?
訝しく思い、イライザは目を瞬かせ身体を起こすために腹筋に力を入れようとし、ベンチに手をかけた。
丁度、その時だ。
イライザの真っ青な瞳に、何かが写り込んだのは。
その何かは、東屋をグルリと囲むイライザが立った時の肩くらいの高さがある塀をひょいと超え、ベンチで仰向けに寝転がって足を放り出したイライザの上を跳ねるように跨いで、東屋に文字通り飛び込んできたのだ。
イライザは間抜けにもパカっと口を開けて、大きな青の目を見開き、その飛び込んできたーー仮面を付けた青年も仮面の奥の瞳を瞬かせ、二人は相手を穴が空くほど見つめた。
「…………」
しばし互いに凍りついたように固まって呆けていたが、イライザは自分の格好を思い出し、青ざめた。
ベンチに横たわり靴は脱ぎ捨て、足は上に上げて揺らしていたため、ドレスは地味にめくれ上がっている。酷い、酷すぎる格好だ。
慌てて起き上がりドレスを正して靴をいそいそと履いた。ジワリと頬が熱くなるのは仕方のないことだろう。気が抜けていたとはいえ、なんという失態だろうか。
誰も来ないだろうと踏んで寛ぐべきではなかったのだ。
あぁ、もう私のバカバカ。
心の中で自分を罵りながらイライザは、乱れた髪を整えて髪飾りの位置を戻しつつ、いまだに目の前で固まったままの姿の青年に向き直った。
「……あの、申し訳ありませんわ!お見苦しいものをお見せしました……!」
ガバリと腰を直角に折って石畳の床を睨みつけた。
イライザの声でやっと気を取り戻したのか、青年は息を吐くと、動く気配がした。
「あ、いや、私もすまなかった!」
イライザ同様、いやそれ以上に頭を下げた青年は、彼女にとって驚く反応だった。イライザは俯いたままの身体を起こして頭一つ分は背の高い青年を見上げた。
「いきなり現れて悪かった。あまつさえ、身体の上を飛び越えてしまって……」
眉を八の字に下げて、困惑したように言う青年は、十中八九本日の仮面の夜会の参加者である。
つまりはそれなりに高い爵位の家柄の貴族なのだ。詳しいことは分からないが、声や雰囲気からしておそらくまだ若いであろう。
イライザの知る高位貴族の若い男性と言うのは、なんと言うべきか、端的に言うと少し気取っているものだ。彼のように潔く頭を下げるところなど見たことがない。想像でしかないが、彼のようにイライザの上を跨いだとしたとしても、普通ならばイライザを上手く丸め込もうとするだろう。
そして社交を苦手とするイライザは、それを躱すことが出来ずに、一人でワタワタと困り果てることが容易に想像できる。
そんな、これまでに会ったことのない雰囲気の青年に、イライザは根拠もなく興味が湧いた。どうでも良いことのような彼の対応が、イライザにとって、理由もなくとても新鮮で心惹かれるものがあったのだ。
だから、だろうか。
青年が「本当にすまない! 貴女の憩いの場の空間を壊してしまって。それでは、私はこれで」と心から申し訳なさそうにして東屋から出て行こうとした時、思わず声をかけてしまったのは。
「……いえ、わたくしは大丈夫ですわ。そんなにお気になさらないで。……ですから、貴方がよろしいのでしたら、無理に行かれないで下さいまし。此方に用があったのでしょう?」
自分は今、自然に笑えているのだろうな。
無意識に口角が上がっていることを感じて、イライザは心なしか嬉しく思った。
満面の笑み、ではないが、多少変わり者でも家柄と美貌で人が寄ってくるイライザの柔らかな笑みは、仮面に顔の半分が隠れていても確かに美しいのだ。
イライザにそう言われることは予期していなかったのか、青年は狼狽えたように目を見張った。そして、クスリ、と緩く口の端を上げた青年は東屋の外へと向けていた足をイライザの方に向けた。
「……それならば、お言葉に甘えて。少しお邪魔しよう」
*
この東屋で少し休憩してから行こうと言った青年は、イライザの対面に当たるベンチに腰を下ろした。長い脚を組んで座る姿は、酷く様になっていた。
後ろで黒に近い紫のリボンで一つにまとめられた肩にかかるかくらいの長さの燻んだ灰色の髪と、濃い色をした瞳──本人曰く黒に近い暗い紫をしているらしい──を持った青年は、あらためて見ると仮面をしていても分かるほどの整った顔立ちをしていた。そう、夜会などに出席すれば、未婚既婚問わず、女性陣がキャーキャーと騒ぎたくなるような。
東屋に残ることを提案しておきながら、イライザは迷惑だっただろうかと思った。きっと自分以外にもこんな風に彼を誘ったことのある令嬢は多いのだろう。イライザ自身は下心があったわけでは全くないが、“貴族らしくない”と感じた彼に興味を持ったから、と考えるのなら純粋に青年への非礼の罪悪感だけで彼にああ言ったとも言い切れないのだ。
まあでも、一応「貴方がよろしいのでしたら」って付け足したし?
そうである。イライザがここで過ごすことを構わないとは言ったが、そうしろとは言っていない。青年に悪いからと思ったことをそのまま口にしたのだ。そしてそれを受け取ってこの場にいることを選んだのは青年である。
言い訳じみたことを心で唱えつつ、イライザは雑念を頭から振り払った。
ふぅー、と長く息を吐き出し、上を見上げていたイライザは、チラリと目の前に座る青年を盗み見る。二人がそれぞれにベンチに座ってから、このガゼボは静まり返っていた。イライザは話し上手でなく、ちょうど良い話題をすぐに用意できるような性格でない。青年から自身と似たようなものを感じているイライザは、青年もきっと自分のように口がうまく回らないタイプの人であろうと見当をつけていた。
そして、本当に、何でもなく意味もなしに見ただけなのだが、バッチリと目が合ってしまった。
ジロジロ見ていたのではと思われるのではないか。そう危惧してパッと目を逸らしたイライザは、居た堪れなくなった。
「……すみません」
「……すまない」
沈黙が辛くて絞り出した声は、重なった。イライザは静かな空間がそれほど苦に感じる人間ではないが、青年はどうなのだろうか。もし自分とは違うなら、あんなことを言っておいて黙りこくっている自分は酷いのではなかろうか。口数はそれほど多くはないが、沈黙は苦手である人は意外と多い。
ここは何か話しておいた方が、いいのかもしれない。いつもなら人と、しかも貴族相手に話そうとすることなどないのに、どうしてこんな風に考えるのか、自分でも疑問だったが、彼が何処か普通の貴族達とは違うように感じるからかもしれない。
今までに感じたことのない好奇心に後押しされ、イライザは逸らしていた視線を正面に戻して、青年に身を乗り出した。
「お名前……は、今日聞くのは野暮ですわね。えぇと……」
前言撤回。やはり自分から誰かに話しかけることは自分には無理だ。口を開いてから五秒と経っていないのに、既に心が折れそうだ。本日二度目の自分への罵りをしながら、イライザは顔を手で覆った。
「……リオ、と」
「え?」
いささか掠れたような声が聞こえ、伏し目がちになっていた目を上げた。言葉があまりに短く、一瞬理解できなかったイライザの視線を受けて、青年は肩を竦ませた。
「愛称は『リオ』だ。そう呼ぶ者は少ないが、好きに呼べ」
そうか、愛称。合点がいったと言うように頷き、イライザはまたしても無意識に目元を緩めた。とは言え、イライザには特にこれといった愛称がない。家族も皆、そのまま呼ぶ。少し考えを巡らせてから口を開く。
「分かりましたわ。では……愛称、というわけではないのですが、わたくしは『ライ』とでも呼んでくださいな、リオ様」
端的に物事を伝える青年──リオに、普段貴族達と接する時に持ってしまう気負いが必要なく、イライザは酷く気楽だと思った。
いつもなら一度は噛むか閊えてしまうのに、スラスラと口から言葉が漏れ出ることに、感動を覚えるほどだ。
「…………」
だが、それも長くは続かず、すぐに沈黙が落ちる東屋。視線を彷徨わせるイライザは、リオの大きく骨ばった手のところで目を止めた。
「リオ様は騎士様なのですか?」
思わずと言ったようにそう零したイライザに、リオは黒地に白と銀の控えめな装飾のされたシックな仮面の奥で目を瞬かせた。
「……どうしてそのように?」
「あ、いえ。わたくし、弟が現在士官学校に在学しておりまして。前に弟に剣だこを見せてもらったのですけど、リオ様の手のものは弟よりハッキリ見えたので……どうなのかと思いましたの」
話しているうちに自分が何を言っているのかよく分からなくなってきて、最後の方は尻窄みになってしまった。不躾に見たつもりはないが、そんな風にじっと手を見られて、嫌に思われるかも。
しかしイライザの不安は杞憂だったらしく、気に留めた様子もなくリオは「なるほど」と足を組み替えた。
「ご推察どおり、私は王立騎士団の第四師団に騎士として所属している」
我が国の王立騎士団は、第一から第十師団まで存在し、主に第一師団が王族の警護つまりは近衛師団で、第二、第三師団が王都の警備、第四師団が第二の諜報部とも呼ばれる隠密師団にあたり、第五から第十師団までが国境、および主要都市の警備を担っているのだと、弟が士官学校に入ってすぐの頃、興奮した様子で説明していた。
「まぁ、でしたら『闇の騎士様』ですのね」
そう、第四師団は別名『闇烏の騎士団』と呼ばれている。世の中の話題には疎いイライザが情報を知るのは家族からがほとんどだ。このことも弟から聞かされた話で、騎士のことについては普通の令嬢が麗しい騎士を知っているところを、イライザは平民から大出世した実績ある騎士のことを知っている、と言ったように若干方向性の違いはあるが、それなりに詳しいのではないかと思う。
「あぁ、そんな名でも呼ばれていたな」
「弟が将来はそこに所属したいと言っておりましたわ。何でも、師団長様に憧れているとかで」
「…………そうなのか?」
「はい」
弟曰く、去年前師団長がその地位を定年ということもあって辞職し、新たに師団長に就任した若い騎士が弟の憧れの先輩らしい。弟が士官学校に入学した年に最高学年だった者だとかで、年齢を考えると師団長となるには随分若かったらしく、一部反発があったそうだが、実力は折り紙つきで実力主義の軍の中、特に第四師団の者達は当然のように納得していたという。
反発があったのがなぜか貴族の方だったのだと、弟が訥々と語っていた。
「現師団長様は高位貴族だとお聞きしたのですけれど」
「……あぁ、そうだな」
弟にとって英雄のような師団長のことは、騎士に関することの中でもよく聞かされていた。貴族達からの反対があったのも、新師団長がどこかの嫡男で、元々社交界に疎遠だったのに師団長に就任してしまえばさらに悪化し、今までの縁談も全て断っていたが、師団長になろうものなら結婚すらしないのではないか?と言う、高位貴族への輿入れを予定していた貴族達からの反発だったと聞かされた時、イライザは思わず笑ってしまった。
とは言え、本来貴族の娘にとって結婚は一番の大仕事だ。それが存在意義だという者もいるほどに。
イライザは特殊な事情と、子を慮る両親を持っていたためにその必要がなかったが、もし他の家に生まれていたら笑ってもいられなかったかもしれない。
「リオ様から見て、師団長様はどんな方ですの?」
「…………」
所属の騎士から見て、弟憧れの師団長はどんな人なのかという興味本位でして質問だったが、答えづらかったらしい。スッと目を逸らしたリオに、イライザは笑みをこぼした。
「……師団長のことについては私からは何とも言えないが」
今度に沈黙を破ったのはリオで、イライザは彼の言葉に不意を突かれて小さく吹き出してしまった。
なぜいきなり吹き出したのだと言いたげな目を向けられ、イライザは口を押さえながら謝った。
「ごめんなさい、思わず。その……貴族でそんなにはっきり言われる方って少ないので、新鮮で」
「……すまない」
目尻を下げて言ったイライザに返ってきたのは謝罪で、今度はイライザが何故だと目を向けた。
「どうして謝りますの?」
「いや、なに。どうも私は貴族らしいやりとりが苦手で。話す時に窘められることが多々あるのだ」
顔の横から垂れ下がる髪を耳にかける仕草をして、弱ったように笑いながらいう彼に、重なるものがあった。
「騎士団で過ごしている時は構わないだろうが、郷に入れば郷に従えと言うか、社交界の中ではあまり褒められたものではないだろう」
あぁ、そうか。彼も、なのか。
リオに出会って、イライザが心惹かれたこと、興味を抱いたこと。それは、ほんの一言二言のやりとりの間に、自分は直感で思ったのだろう。
彼と自分は似ている。貴族の、社交界の世界の、柵を、苦手としていることに。
でも、だからこそ、イライザは思った。
「だから、すまない」
「どうしてですか?」
リオが丁度言い終えたところで、イライザは間髪入れずに声を上げた。
「別にいいではないですか。わたくしは好きです、リオ様の飾らない物言い」
苦しそうに俯いていたリオが弾かれたようにイライザの方を向いた。ゆるりと笑い、イライザは首を傾げて見せた。
「わたくしも、貴族のこう……腹を見せないやりとりというか、駆け引きが苦手で。社交がどうしても上手くできないのですけれど、貴族の令嬢ですから夜会などに参加しないわけにもいかないので」
今日はよく舌が滑る。いつものしどろもどろなイライザを知る他家の者が見れば驚くことは間違いないだろう。
やはり、リオという似た者が相手だからなのだろうか。イライザは詮無いことを考えつつ続けた。
「性格も変わっているので、少し奇異の目を向けられますし。両親が、気遣って家の決めた者との婚姻を強制しないでいてくれたことが救いですわ。わたくしが嫁では相手の家も相手自身も苦労する可能性が高いですから」
こんなに自分のことを語るつもりはなかったのに。
止まるところを知らずに動く自身の口を不思議に思うが、今日くらいは好きに喋ってもいいかと、黙って聞いていてくれるリオに甘えさせてもらうことした。
「思ったことをそのまま口にしてしまって、相手を怒らせないかとヒヤヒヤすることもありましたわ。……と、まぁわたくしのことはいいのです。すみません、喋りすぎましたわ」
「いや、構わないが」
コホン、と一つ咳払いをして落ち着くと、イライザは真っ直ぐ、リオの仮面から覗く黒っぽい瞳を見上げた。
「……わたくしもリオ様と似たようなところがあると思うのです。ですから、今この場くらいは、肩の力を抜いて好きに喋ってくださいませ。わたくしも、今日ばかりは素でお話しさせていただきますわ」
悪戯っぽい目をして挑戦的な笑みでそう告げたイライザに、リオは目を奪われた。そしてまた固まったリオは、稍あってフッと笑いを零した。
「……貴族に、そんなことを言われたのは初めてだ」
「そうですか?」
「あぁ。多くが貴族として自覚を持てと、知ったような口をきかれる」
うんざりしたように吐き出したリオに、イライザはやはり少なからず猫を被っていたのだと思った。
「……あら、でしたら今のわたくしの言葉は知ったような口を聞いた内に入りますか?」
「……私としては、……ライ……嬢にあのように言われて、嬉しく思ったが?」
「ライで構いませんわ。……そうでしたの?それなら良かったですわ」
嬉しかったと言われるのは、イライザ自身も嬉しかった。愉快そうに肩を震わせるイライザに、リオは「どうかしたか」と尋ねた。
「あ、いえ……思えば最初に話した時から、今日のわたくしはよく喋っているな、と思いまして。どうしてかしら。いつもは貴族相手に尻込みして思っていることの三割も言えませんのよ。思ったこと以外は上手く口が回りませんから、結果口数がめっきり減ってしまうのですけれど」
「……それは、私もだ。貴族相手なら特に酷いのだが、基本口を開くことがないから。先ほどライに私の物言いでもいいと言われるまでも、今日は口数が多いと感じていた」
「……リオ様の口数は、わたくしが感じるには少ないのですけれど」
「いや、いつも比べればずっと多い。元がほとんど喋ることがないのだ」
「……そう、なのですね」
普段、どれだけ喋らないんだ。
思わずそう遠い目をしたイライザに、リオは苦笑してみせた。
「……いかんな」
「何がです?」
「ライを前にすると、口が軽くなるのだろうか。勝手に唇が動いてついつい話してしまう」
細まった黒い瞳が仮面越しに見え、それが一瞬、月の光に照らされて、闇烏の如く紫色に輝いた。
ゾクリと背中がなって、射竦められたようにイライザは魅入った。
仮面をつけていても美形だと分かるほどに、顔が整っているのは気づいていたが、社交界でもお世辞なしに美しいと言われる姉や弟に囲まれて育ったイライザは、美形に普通以上に耐性がある。
自分もその美形と言う枠に十分すぎるほど当てはまっていることは自覚していないが、それでもイライザはそこらの美人では心が揺らがない自信があった。
これは……。
──これは、リオ様は仮面で隠れているから分からないけれど、もしかしなくても物凄い美形なのでは?顔立ちが整っているとか、美しいとか、そう言う次元にない人なのでは?
そんなことをリオの顔を見ながらぼぅっと考えていたイライザは、彼の瞳の中に、自分が写っていることに気づいて、ジワァと頬に熱が広がった。
「……どうした、顔が赤いが、寒いのか?」
急に顔を赤くしたイライザを心配して、リオが手を伸ばした。夏の終わりとは言え、今は夜。それも庭である。肌寒い時間帯とも言えるため、イライザの体が冷えたのかと思ったのだろう。
東屋とは言え庭園の外れにある小さなものである。少し身を乗り出して手を伸ばせば十分に届く距離なのだ。
リオの顔を見たまま固まっているイライザに御構い無しに彼女の頬に軽く触れた。
「……熱くないか?」
ヒヤリと冷えたリオの指先が火照った頬に気持ちよく、気を抜きかけたが、イライザはさらに頬に熱が集まるのを自覚しつつ、慌ててリオの手首を掴んだ。
「あの、体調は大丈夫ですわ。それよりも、未婚の娘に触るのはどうかと思います……! 人前で足を晒したわたくしが言えたことではありませんけど……」
赤い顔のまま言うイライザに、すぐリオは手を離した。もちろん「すまない」と謝るのはもう決まりきったことだ。
パタパタと手で顔を扇いで、頬から熱を逃がす。
「……わたくし、少し夜風に当たってきますわ」
そう言い、イライザはベンチから立ち上がった。
*
「人は誰しも、慣れないことをするのは難しいものではございませんこと?」
楽しげにそう笑うイライザは、隣に立つリオを見上げた。今は二人、王宮の庭園の一角を散策中である。イライザが身体の熱を逃がすために、軽く歩いて来ると告げたら、リオが共に行くと言ったのだ。
このまま東屋にいるつもりはないらしく、かと言って今もなおダンスを踊る、仮面をつけた貴族で埋まる広間に戻るのは遠慮したいそうだ。何でも、妹君が同伴しており、いまだに結婚相手が決まっていないそうで。今日は夜遅くまで残ると言い張って聞かなかったから、自身も妹が帰る時間まで時間を持て余しているとのこと。
そこでエスコートを買って出たので、断る理由もなく、むしろこのまま別れるのも味気ないな、と思いお願いしたところだ。
そこで、だ。本人が言うには、エスコートをしたことなど、指折り数えるほどもないから慣れないのだが……と、リオは確かに言ったのだ。
「……完璧ですのね、エスコート。慣れませんのに?」
「一応教育はされていたが……。まともにやったことはない」
「そうですの」
彼の言う通り、慣れは感じない。どこかぎこちなさが残るものの、説明し難い上手さ──ひとことで言うなら、様になっているのだ。
慣れないのに上手いとか、ずるくないか。頬を膨らませたくなってイライザは、リオをジトリと見た。
「この感じでしたら、ダンスとかも上手いのではなくて?」
「教養はされているが、どうだろう。目も当てられないほどに酷くはないだろうが……」
「夜会などで踊ったことはございますの?」
「……いや、ない」
決まり悪そうに苦笑いをするリオに、イライザもつられて苦く笑う。
「……実を言えば、今日がデビュー以降、二度目の夜会なのだ」
「まぁ、そうなのですか。やはり騎士として忙しく?」
「……それもあるが、単に社交が嫌で」
「……なるほど……」
流れるように顔を背けたリオを横目で見て、イライザは控えめに頷いた。その気持ちは自分もよく分かる。夜会に行くと言うのは、社交嫌いからすれば一大事なのだ。
「わたくしも、一般の令嬢と比べると夜会に参加することは少ないですわね。とは言え、王族主催の物やシーズン終わりの王宮での夜会は、招待されれば参加しますけれど」
「私が参加したことのあるものは、初めての時と、デビューした年のシーズン終わりの王宮の物だけだ」
毎年、秋の中頃──シーズンの終わりに行われる国王夫妻の夜会──通称“終わりの夜会”は、この国で催される夜会の中で最も大規模な社交の場となる。国中の貴族がこぞって参加し、人数はもちろん、人々の装いや会場の装飾も煌びやかかつ華やかである。
それと同時にそれぞれの気合の入れようと言ったらなく、今回の仮面夜会とは違い相手の素性がわからないと言うことはないため、未婚の者は相手探しに勤しみ、その他は更なる伝を仕込みにかかる。この夜会だけは家族と共に毎年参加しているが、いつも以上に大変なことだけは覚えている。
「ライは?」
「何がです?」
「ダンスは得意なのかと」
「あぁ。どうでしょう。わたくしも酷くはないとは思いますが、自信があるかと問われれば……何とも。公の場で踊ったこともございませんし」
「……誘われはしないのか?」
「……お誘い頂くことはありますが、いつもお断りしております。その、体調不良を理由に……。ついでにすぐにバルコニーかお庭にでも避難するのが常です」
「出会って間もないが、とてもあなたらしいと思うな」
次はイライザが顔を背ける番だった。コツコツと庭園の道を歩みながら、リオとは反対側の花の方へと目をやった。
「でも、リオ様。本日の夜会が三回目だと言われましたけれど、デビュー年以降の王宮の“終わりの夜会”はどうされていましたの? あれは基本参加が普通ですわよね?」
そう、“終わりの夜会”は、貴族なら参加がほぼ決定事項だ。私情で断ることはないことはないが、極めて珍しい。
「騎士団での仕事があり、王都を離れていたことが何度かあった。それ以外は王宮の警備の方に勤めていたんだ」
「……隠密部隊ですよね? 王宮警備は第一師団だったと記憶していたのですが」
「…………不穏な動きがあった年だったんだ、丁度」
つまりは本当に毎年仕事で潰れていただけらしい。そう考えたところで、あら、とイライザは疑問に思った。
「あの、弟に聞いたことなのですけれど……」
「第四師団のことか?」
「えぇ、はい。えっと、第四師団は師団長様は貴族ですけど、他の師団に比べて平民の者が多いのですよね?」
「……あぁ、そうだ」
「でしたら、夜会に参加する人は少ないはずでしょう。ならば、貴族であるリオ様が夜会を欠席して警備すると言うのは……」
「…………」
チラリと横を見上げると、全く逆の方向に顔を逸らしているリオである。つまりは、そう言うことだ。
「……それほど嫌でしたのね」
「…………それほど嫌だったんだ」
「まぁ、わたくしがもし、リオ様と同じ立場に置かれても、夜会に出席することを選ぶとは言い切れませんわ。多分同じことをしたと思います」
「……あぁ、そうだろうと思う」
反対側の生垣へと目を向けてそのままのリオに、イライザは本日何度目か分からない苦笑をこぼした。
自分よりもずっと背が高い彼だが、こうしてばつが悪そうにする頬を掻く姿は、少し可愛らしく見える。
「そう言えば、リオ様はどうして第四師団に所属されているのですか?ほら、平民が多いのですよね? 何か理由がおありで?」
「……強いて言うなら、平民が多いから……だな」
「……やはり、貴族が多い近衛師団などはお断りでしたの?」
「そうだな。あと、単純に剣術などの真っ向からの戦闘能力より、隠密能力の方が高かったからだろうか」
「隠密能力と言うのは、闇に潜んで怪しい人達の密会を告発したりとか、あ、潜入捜査とかもしますの?」
「そう言ったことが全くないわけではないが、どちらかと言うとこの国の第四師団は国中の情報を集めるのが主な仕事だな。あとは一部が特務師団のような面を持っている。極秘捜査なんかはうちで担うことが多いな」
聞くところによると、第四師団は全十師団の中では所属人数が少ない師団らしい。いわゆる少数精鋭というやつだ。
しかし数は少ないが個々の能力が高く、完全なる実力主義と言う。貴族が少ないのも、家柄などで選ばれることがないから、贔屓目などなく所属する人選がなされているとか。また他に比べて、守秘義務に該当するものが多く、特務を命じられた時に貴族に関することであった時に私情を挟むことがない者でなくてはならない。
それに国に存在する諜報部とは繋がりがあるが、諜報部が所持する以上の情報を集めるための、騎士としての能力を持つ諜報部員達である。普通の騎士が晒される危険より、大きな危険と隣り合わせの師団なのだと言う。
「もしや、今の師団長様が就任した時に起きた反発も、師団長様が嫡男だからと言う理由があったのですか?」
「……よく知っているな」
「弟から色々と仕込まれていますの。特に第四師団のことに関しては。あとは想像ですけど」
瞠目して見下ろされ、イライザは肩を竦めてみせた。
「あぁ、そうだな。貴族の嫡男だったため、貴族達からの反発があった。だが、第四師団の者達と軍事の上層部は良しと判断したから、予定通りの人事になったがな」
「そうでしたのね」
「まぁ結婚がどうこうと言う、いかにも貴族らしいくだらない騒ぎもあったが」
「……お疲れ様です」
苦虫を噛み潰したように仮面に隠れる顔を顰めたリオは、イライザにトントンと肩を労わるように優しく叩かれて息を吐いた。
と、丁度その時、イライザの目の前を予兆なく真っ白い蝶が舞った。ぼんやりと白く光る羽は、それがただの虫であることを否定している。
──そう、妖精だ。
イライザはその蝶を目に写した時、あっと声を漏らした。そして思わず追いかけようと、足を一歩踏み出してしまったのだ。
普通の妖精ならそんなこと、イライザはしない。今もイライザの肩では幼少の頃から懐いている猫の姿をした妖精が寛ぎ、道を囲む生垣の花の花弁の側では羽根つき小人が飛び回っているのだ。
イライザが不意に動いてしまったのは、その白い蝶がひどく珍しい妖精だったから。
自分の趣味──いや、趣味の範疇を超えて没頭し、妖精学を学ぶ者として、白い蝶は妖精を見ることができるイライザでさえ、一生に一度お目にかかれるかどうかと言うくらい、稀有な存在だ。
しかし今、隣にはリオがいる。会ったばかりにも関わらず、イライザの貴族界で“変わっている”と言われる性格にも、歯に衣着せぬ物言いも嫌がらずに受け止めてくれる彼は、イライザが今までに出会った中でも稀な人間だ。
きっと、イライザが新たに“変わっている”ことを言っても、笑って流してくれる可能性は十分にある。けれど、妖精に関することは、“変わっている”で片付けられるものではないだろう。ある意味で霊感にも似た不思議な能力とも呼べなくない。
今ここで妖精を追えば、リオが訝しむことなど目の見えている。彼が、走っていくイライザを見送って金輪際関わることが無ければ妖精について説明しなくて済むかもしれない。だが、恐らくリオはイライザが走り出せば、己もそれに続くのだろう。そして急に走り出したイライザに、説明を求めるはずだ。
そうすればどうする?
適当に誤魔化すか?上手く嘘をつけないイライザは墓穴を掘るだけだ。
なら何も喋らないか?それはさらに訝しがられるだろう。変な子だと思われるかもしれない。
素直に話せばいいのか?普通でないと思われることは目に見えている。先ほどまでに話した、性格などの変人ぶりとは次元が違う。この能力こそ可笑しいのだ。
彼にさえ、気味悪がられるかも、嫌われるかもしれない。
チクリ、と胸の奥が痛み、それば嫌だと思った。
リオに出会って、それほど時間は経っていない。相手の本名さえまともに知らない、友人と言えるのかも分からない関係の彼に、拒絶されることを、イライザはどうしてか怖がった。
それでも時間は、イライザを待ってはくれない。
彼女がぐるぐると考えている間も、ふらふらと白い蝶はゆっくりではあるが着実に道の奥へと進んでいるのだ。このままでは見失ってしまう。
一歩踏み出したまま止まって百面相をしながら考え込むイライザを、リオは不思議そうに見下ろした。
──あぁ、どうしたら……! 白い蝶を追いかけたいけれど、リオ様に嫌われるかと思えば何だか辛いわ……! どうしてかしら、今まで周りにどう思われようがそこまで深く考えていなかったのに……!
堂々巡りに考えがまとまらないイライザは、はあぁーと息を吐いて俯いた。そして、勢いよく顔を上げ、リオに向き直った。
いくら考えても仕方ない。ここは、強行突破である。
決断するが早いか、イライザはガシィとリオの首元の服を両手で掴み、引き寄せながら自分も身を乗り出して顔を近づけ、思いっきり睨みつけた。
「リオ様!」
「な、なんだ」
瞳孔を開いていきなり叫んだイライザに不意をつかれ、肩を揺らして及び腰になりつつあるリオから返事が来る。
「わたくしがこれ以上変人でも引きませんか?!」
「いきなりどうし……」
「引きませんか?!」
「あ? え、あ、あぁ!」
よく分かっていないリオに半ば強制的に返事をさせて、イライザは自身の中の重苦しい靄を一時的に振り払った。こんなもの、子供騙しでしかなく、妖精を追いかけるための自分への暗示でしかない。そんなことは自分で一番よく分かっている。彼にことを打ち明ければ、引かれるだろう。受け入れてくれる可能性はゼロではないが、低いと思う。悪くすれば怖がられて嫌われる。
そうなるのは、とても悲しいと思うのだが、それはどうしてだろうか。会ったばかりのよく知りもしない彼に拒絶されるのが、酷く恐ろしいのは、どうしてだろう。
分からない。けれど、もしかしたら。もしかすれば、普通でない、異常な自分を、理解して、くれるだろうか。
わけもわからず不安の渦巻く心の中で、ほんの少しの希望を持って、イライザはリオの手を引っ張って、白い蝶の後を追って、走り出した。
*
「おい、ライ。どこまで行くつもりだ」
「用が済むまでですわ!」
「その用とはなんなんだ」
「後で話しますから、少し待っていてくださいませ!」
「あぁ、そこ段差がある、気を付けろ」
「ありがとうございますわ!」
現在、二人は風情ある眺めの庭園を爆走中──いちおう小走り中である。時たますれ違う仮面を装着している、恐らく休憩しているところの貴族達に何事かと目を剥かれるが、そんなもの今のイライザにとっては些事でしかなかった。
イライザが急に手をとって走り出した時は、リオも飲み込めずに動揺していたようだが、有無を言わせぬイライザの雰囲気に飲まれたのか取り敢えず付いて行くことにしたようだ。それでもリオからすれば行き先は不明なのだから、一応どこへ向かっているのかと聞かれた。それをイライザが一刀両断したのが先ほどの会話である。
白光りする蝶は、妖精学では有名な種類の妖精だ。その実態は謎に包まれているが、白薔薇が関係していると言われている。白薔薇自体がこの世界では希少価値の高いもので、そこから生まれるとされる白い蝶の姿をした妖精はさらにレアな存在だ。
ここの王宮には薔薇庭があり、その一角に数は少ないが白薔薇が植わっていたはずだ。以前王宮侍女をしていた姉から聞いた話である。ついでに今日使った東屋も姉から聞かされていた、夜会の日にはもってこいの避難場所である。
しばらく蝶を追って、作法的には何とも言えない速さで足を動かしていたのだが、ようやく薔薇庭の白薔薇近くと言うところで、突如蝶が変な動きを始めた。白薔薇の生垣の上でぐるぐると円を描くように回り始めたのだ。蝶に追いついて速度を緩めたイライザは、こんな動きをすることは見たことがないと、目を凝らした。
不可思議な動きを見せる蝶を見上げたところで、イライザは周りにいつの間にか異常な量の白い蝶が集まってきていることに気がついた。
「……煩い上に多いな……」
ポツリと落ちた、リオの呟きを聞き取り、イライザは効果音の付きそうな勢いで隣の青年の方を向いて見上げた。
イライザの表情を見て何を思ったのか、リオは口を押さえた。
「あ、いや……何でもなくて……」
「……あの……リオ様」
「気にするな、ただの独り言だ。俺は何も聞こえない。見えもしない。普通だ」
矢継ぎ早にそう繰り返され、イライザは一縷の希望を持った。
もしかして、彼は──。
「リオ様! ……あの、リオ様は、」
「いや、私はな……」
「リオ様も、妖精が……見えるのですか……?」
最後の方は、小さくなって消え入りそうだった。リオの服の袖を小さく握りしめて不安そうに瞳を揺らした。
この蝶達は、存在感は妖精にしてはそこまで強くはない。一般的な人は見えないものだ。辛うじて淡く光るぼやける物体を目撃できるかどうか、と言ったところだろう。リオが普通の目をした者なら、煩いとか、多いとか、そんな言葉は出てこないはずなのだ。何も聞こえないし見えないと言うのは、墓穴を掘っているだけに聞こえる。
おまけとばかりに、イライザがリオに願うように視線を合わせると、小さく息を呑んだ。
「私も、と言うのは」
一つ一つ、言葉を切ってゆっくりと口を動かすリオの目も、イライザのように憂いと少しの希望で埋め尽くされていた。
「ライも、見えるのか?」
「……はい。わたくし、見えますの。妖精が。リオ様も、ですよね?」
「…………あぁ」
リオから出た一言が、イライザはどこかとても嬉しく思えた。どうしてだろうか。やはり、自分と同じ体質の者を前にしたからだろうか。
イライザが安堵して、声を上げようとしたところで、逆にリオに腕を突かれた。
「……なんか、新しいのが現れているんだが……」
「え?」
リオが指差す方向を見て、イライザは驚きで変な声を出しそうになり慌てて口を押さえた。
大量にいた蝶が大群のように渦巻いていたそれは、二人が重大発表をしている間に一人の少女へと姿を変えていた。
しかしその少女が人間でないことなど、一目瞭然。身体は淡く白く光り、背中からは蝶の羽が生えて、白薔薇の上で浮遊しながら二人を見ていた。
《あら、もう終わり? もっと続けていいのよ。こう言う恋愛劇って大好きなのよ!》
子供の域は出ているが大人とも呼べない、絶妙な塩梅の成長をした少女は、ポッと頬を赤らめて手で覆った。彼女の周りには数匹の白い蝶が飛び回り、神秘的な雰囲気を醸し出している。
そんな少女に対し、イライザとリオはと言うと、目が点、である。
《面白そうな二人がいたから、蝶々ちゃん達に頼んでここまで道案内させたんだけど、上手く行ってよかったわ!》
「「…………」」
《あぁ、照れなくていいのよ。ガゼボでの所から見てたけど、初々しくて可愛らしかったわ! さぁ、是非ともあたしに初心な貴方達の恋情勢を見せてちょうだい! あ、あたしのことは居ないものと思って!!》
鼻息を荒げて詰め寄ってきそうな勢いの少女に引きつつ、二人は顔を見合わせた。何とも濃い性格をしているようだ。
「あのぅ……あなたは白薔薇の妖精ですの?」
一応ここは聞いておきたいとイライザが遠慮気味に尋ねると、少女はハッとしてからよくぞ聞いてくれた!と言いたげなドヤ顔で言い放った。
《ご名答! あたしはここの薔薇庭に住む白薔薇の妖精よ! いっつもは蝶の姿でこの庭に来るカップル達のラブラブなところを見守っているの!》
「……さようで……」
《で、今日は偵察にやっていた蝶達が面白そうなあなた達が丁度二人で居るのを見つけたから、ここまで連れてきたってわけよ。二人とは今までずっと話してみたいなーって思ってたのだけど、なかなか上手くいかなかったのよね》
「……わたくし達のことを知っていたのですか?」
《妖精達の間では有名な話よ!》
「有名?わたくし達が?」
そんなことは聞いたことがない。いつの間に彼らの中で名が知られていたのか。リオも怪訝そうな顔でイライザとともに白薔薇の妖精を見やった。
《妖精が見える美貌の青の姫君と、妖精の声が聞こえる麗しの紫の騎士! 妖精達の間じゃ、よく話題になるのよ。あなた達と交流することは一種のステータスにもなるくらいにねぇ》
ニヤリと口角を釣り上げた妖精は得意げな顔つきである。楽しそうだなぁと若干他人事のようにイライザは考え、ん、と一つ引っかかった。
「リオ様は声が聞こえるのですか?」
「ん?あぁ、そうだ」
イライザ同様、胡乱げに妖精を見ていたリオは、イライザに問われて頷いた。
「逆に妖精の姿はあまり見えないんだ。普通の人よりかは見えるだろうが。何もないところから声が聞こえることが多く、子供の頃は怯えたものだ」
「まぁそうなんですの」
「ライは見えるのか」
「はい。……リオ様は、先ほどの白い蝶は見えておりました?」
「あなたが急に走り出した時のことか? ……声は聞こえていたが、姿は見えていなかったな。ぼんやり光っている様には見えたが」
白い蝶達は、イライザには見えていたが、リオには見えていなかったそうな。しかしイライザに声など微塵も聞こえていなかったが、リオはちゃんと聞き取っていたと言う。
「……彼女は見えていますわよね?」
「あぁ、一応見えている」
白薔薇の妖精を示して聞くと、彼女ほどの力ある妖精なら見えるとのこと。
「先ほど煩いと仰っていたのは、蝶が大量にいたからですの?」
「そうだ。初めは一匹だけだったが、いきなり数が増えたからな」
なんとまあ、どう言う偶然だろうか。彼も自分と同じ、妖精と交流ができる人間だったなんて。話を聞くと、諜報活動などでも頼ることがあるらしい。妖精は中立な立場で客観的だ。その上、人から見えないと言う利点を持つため、それなりに危ない場所に入り込んでディープな情報を持っていることが多々あるそうだ。
基本素直な彼らは、情報を集めるには便利らしい。第四師団に属している理由の一つだったと言う。
「なんだ、そうでしたのね」
リオの話を聞き、イライザは我知らず笑みをたたえた。心弛んだように言ったイライザに、リオは目線で問うた。
「わたくし、さっき走り出す前に『これ以上変でも引かないか』って聞いたでしょう? ……あの時、リオ様に妖精が見えることを話そうか迷ったのです。気味悪がられるかもと、思ってしまって」
「……まぁ確かに、人間というものは理解の及ばない物を怖がるからな。私も幼い頃は思い悩んだものだ」
「えぇ、わたくしもそうでした。ですから、折角出会えたリオ様に嫌われるかもしれないと……そう思ったのです」
ゆっくりと目を逸らして俯いたイライザの表情は、憂げだった。月の光で顔が翳り、妖艶さが際立った。
「ですが、杞憂でしたのね!」
パッと顔を上げ、すぐにリオに向かって微笑んだイライザは、満足げだ。
「わたくしもリオ様も、同じでしたのね。わたくし、安心致しましたわ」
緩りと弛んだ顔でそう言ったイライザに、リオは瞬き、彼女のように表情を緩めた。
「そうだな。私も自分から妖精のことについて言うつもりはなかった。普通なら恐れられるから。今までで初めて理解を示してくれたライに蔑視されるのは、私も悲しいと」
「出会ったばかりで、こんな風に思うのは、なんででしょうね。やはり似た者同士だからでしょうか」
「……だから、だろうか。今日が終わっても、またライに会いたいと思うのは」
「……わたくしもです。わたくしも、またリオ様にお会いしたいですわ」
ニマァ。
音にするならまさにそれ。
ダラシなく緩んだ顔で、白薔薇の妖精はイライザとリオが雰囲気良く話す間近でそれを観察していた。
雰囲気ぶち壊しである。
イライザとリオは一度言葉を止め、妖精の方に顔を動かした。
二人の目が地味に恨めしそうな視線になるのは仕方のないことだろう。
しかし妖精は空気を読むことなく言い放つのだ。
《あら、二人とも遠慮しないで続けて? あたしはただの石ころとでも思ってくれればいいのよ》
揶揄いの混ざる目を向けられ、顔を手で覆い二人は同時に溜息をついた。興醒めというやつだ。
俯いていた顔を上げ、しばし互いの顔を見つめあってからどこからともなく呆れたように笑う。
とその時、まるで頃合いを見計らったように会場の方から音楽が流れてきた。この薔薇庭は、広間の建物の裏側にあり、人々のざわめきが微かに風に乗って運ばれてきていた。
「最後のワルツか」
「仮面夜会も終わりですわね」
流れる旋律は聞き慣れたもので、王宮で開かれる夜会の一番最後に決まって踊られるものだ。宵も更け行き、もうお開きの時間だ。
今日が終われば、いつもの生活に戻る。また貴族の中で渦に呑まれ、疲れてしまうのだろうか。
つかの間、沈黙が落ちて、イライザはそれが寂しく感じられた。
もう彼には、会えないのだろうか。
隣に立つリオの袖を引っ張ろうとしたところで、目の前にスッと手を差し伸べられた。
突然どうしたのかと瞬いて見上げれば、仄かに耳を赤くしてリオが言った。
「その……踊らないか……?」
言葉は端的で、すごく短いのに、心を打たれるものがあった。ダンスに誘われることは予想外で、イライザはドギマギとしたものの、せめて彼と、少しでも多くの思い出を残しておきたくてその手に自身の指先を乗せた。
「……お願いします……? あの、こういう時なんて言えばいいのか分からないのですけれど」
「……それは……私もだ」
後ろでニヤニヤと意地悪く笑う妖精を横目で睨みつつ、引き寄せられる腰をそのままリオに預けた。
「あぁ、あの、足を踏んだらごめんなさいませ! ちょっとわたくし、今動揺しております!」
「……大丈夫だ。今は私達以外誰も見ていないのだから、気にせずともいいだろう」
涙目になりつつ力強いホールドの中でイライザは切実に願った。なにせ、社交の場で踊ったことはほとんどないのだ。家のレッスンでは、それなりにお墨付きをもらえたが、自分がどれくらいのレベルなのかなど知らない。
それどころか今は柄にもなく、パニック状態だ。今まで殿方にダンスを誘われても、なんとも思わないどころか、気分が悪いからと軽く避けてきたというのに。
今自分は顔が赤くはないかと心配ながらも、イライザはダンスを楽しんでいた。
リズムに合わせてステップを踏んで、ターンして。ダンスをしていれば当然の、基本動作のそれらが、今はとても愉快に感じられた。
今までは踊っていても特に何も感じなかったのに、今日はどうしてだろう。
思い掛けずはにかんで、お手本のように安心できるリードに、安定感のあるフォローで、腰に手を当てるリオに顔を向ければ、彼も少なからず快さげにしているようだ。
「……リオ様」
曲が終盤に向かって行っているのが聴こえ、イライザは名残惜しむ様に名前を呼んだ。
「なんだ?」
「……また、会えますか?」
すぐに返事が返ってこず、イライザは無茶なことを言っているとわかっていても、それでも悲しかった。広い社交界。夜会参加率の低いイライザはもちろん、ほとんど参加したことのないリオは、今度夜会ですれ違うこともあるか分からない。もし遭遇したとして、仮面をつけた姿しか知らない相手に気づくのかどうかも怪しいのだ。
「また会えるのか、断言はできないが……」
「…………」
「私はまた、ライに会いたいと思う」
最後にキレのいいターンを回り、曲が静かに終わった。ふわりと頭を下げて互いにお辞儀をしてから顔を上げると、目の前にリオの顔があり、吸い込まれそうなほど深い、紫の瞳が仮面の奥に見えた。
「リオ様」
そこで一度言葉を区切り、イライザは正面からリオの顔を見定めた。
「また、お会いしましょうね」
それは、希望であり、願いだった。
精一杯の花が綻ぶような笑みを、リオに向けた。
「……あぁ。また会おう、ライ」
白薔薇の妖精の仕業か、白い花弁が天から降り出し、幻想的な空間が広がった。
そうして、また会えることを、祈ったのだった。
*
「お兄様ー? リオお兄様ー!」
庭園から広間へと戻るため、回廊を並んで歩いていた二人は、誰かを探す女の子の声に足を止めた。
「妹君ですか?」
「この声は……そうだな」
声のした方に足を向けながら、リオは腕を組んでいたイライザを覗き込んだ。
「お別れ、ですわね」
「そうだな」
「今日のこと、ずっと覚えていてもいいですか?」
「私もそのつもりだ」
下に落ちてしまう視線を、イライザは故意に上にあげ、リオの顔を見つめた。
「リオ様、また、」
──きっと、お会いしましょうね。
本当に最後だと思ってそう言おうとしたイライザは、目を見開いて硬直した。
黒猫を模した仮面の下の、淡く色づいた頬を、リオが優しく撫でたのだ。ピクリと肩を震わせたところで、イライザは手に何かを握らされたことに気がついた。
持ち上げられた左手には、黒みがかった紫なリボンだ。リオを見ると、後ろで結ばれていた髪が肩にギリギリつくかどうかと言う長さで弱い風になびかれていた。
「特に意味はないのだが、今日会ったことの証明になればいいな、と……女々しくも思ってしまったのだ。持っていてくれるか?」
イライザの左の手首にリボンを緩く結んでそう言ったリオに、イライザはそれならと、自分の髪に手を伸ばした。今日の髪型は、結い上げてはいるが、仮面を固定するための紐のおかげで、いつもの夜会に比べ装飾が少なかった。
代わりにリボンでいつくか結んでいたのだ。そのうちの一つを髪が崩れないよう慎重に抜き取った。
「では、わたくしのも受け取って下さいませね」
そう言っていそいそとリオの左手を掴んで手首にリボンを結んだ。深い青の──そう、イライザの瞳にと似た色のリボンだ。
「リオ様。今日はありがとうございました」
「こちらこそ。色々と話せてよかった」
「とても楽しかったですわ。まだまだ話し足りないほどです」
「今ならいくらでも話題尽きることなく喋ってしまいそうだな」
「夜が明けてしまいますわね」
「弟君によろしくと」
「第四師団ですものね。闇烏にお会いしたと言えば、弟に恨まれるかもしれませんわ。師団長様のお話、もっと聞いておけばよかったかしら」
「……。白薔薇の妖精にも、また会いに来いと言われてしまったな」
「今年の終わりの夜会では、途中で抜け出して遊びに行こうかしら」
「私も仕事の休憩時間にでも会いに行こうか」
なんとも元気のいい印象的な妖精の顔を思い出し、自然と笑ってしまう。
後ろ髪を引かれるように手を持っていた二人は、再び聞こえてきたリオを呼ぶ声に急かされた。
イライザの手がリオに引かれ、指先に感じた柔らかい感触は、一瞬で離れていった。
最後とばかりにイライザの頭を優しく撫でた。
「さよなら、ライ」
「リオ様、また、いつの日か」
会場の広間の方、妹君の声がする道へ足を伸ばしながら、リオは最後に一度だけイライザを振り返った。
*
「姉さん、本当にどうしたの? 仮面夜会の日以降、ずっと元気ないじゃないか。何かあったの?」
「……別に、大したことではないのだけれど……」
「そうなの? じゃあもうちょっと優しい顔してよ。一緒にいる僕まで変な目で見られるじゃんか」
イライザは隣で喚く、今年社交界デビューしたばかりの弟ハーヴィーに二の腕を突かれた。
本日はシーズンの終わり、王宮での“終わりの夜会”である。常以上の人の多さに目眩がするほどだ。やはり国中の貴族が呼ばれているだけあり、人数も規模もこの間の仮面夜会の比ではない。
今日のイライザは青紫の地に銀と言うシックな装いで、いつもよりも多くの人目を集めていた。
首元や耳元の装飾は華やかだが、髪の毛は複雑に編み込まれているものの黒に近い紫のリボンと白いレース飾りだけと言う物で、シンプルなそれが逆に艶やかで、更に美しさが際立っていたのは、イライザの知らぬことである。
そんな彼女は、会場のあちらこちらに視線を彷徨わせては、憂いげに息を吐くということをもう何度も繰り返していた。家族で参加しているオンサーガー家は両親と長女夫婦は社交に勤しむため挨拶に繰り出し、次女と長男は壁際で待機という正反対の状態である。
ハーヴィーがイライザのそばを離れ、イライザに接触できるのを今か今かと待っている男性陣と、動き出すハーヴィー自身を待っている令嬢達が、壁際の本来なら目立たない一角に集っているという、違和感の半端じゃない構図が出来上がっている。
「……姉さん、僕は少し知り合いに挨拶してくるけど、姉さんはどうする?」
「……わたくしはいいわ。行ってらっしゃい」
「分かった。ついでに言っとくけど、そうそうに避難したほうがいいんじゃない?この感じだと」
「えぇ、そうでしょうね……」
手にしていたワイングラスを近くを通りがかったウェイターに渡して、歩き出したハーヴィーの背中から、イライザは再び広間の中央の方へと目線を動かそうとし、「あぁそうだ」と言う弟の声でハーヴィーの方へ目を向けた。
「姉さん! 僕が掴んだ情報によると、今日の夜会にはあの! 憧れの第四師団長が参加しているらしいんだよ! 僕、探して遠くからでもご尊顔を拝見させてもらうつもりだから、戻るのは遅くなると思う!」
目をキラキラ、いやギラギラと光らせてそう言い放ったハーヴィーは、ようやっと……!と言いたげにこちらもギラギラと目を光らせるご令嬢達の間を縫って、人集りの奥へと消えて行った。
「……師団長様かぁ……」
弟が歩いて行った方向から目を逸らし、イライザは意味もなく金茶髪の前髪を弄んだ。ジリジリとにじり寄ってくる男の人達を出来るだけ視界に入れずに、あわよくばこの男性達は夢であってくれと現実逃避しつつ、気構えなくてよかった面影を記憶の中で追った。
──どうせながら師団長様でなくてリオ様に来て欲しいなぁ。
そんなことを思い浮かべて、はぁ、と息を吐き出す。仕事がなければ、今日は来ているだろうか。それとも、今日も王宮の警備を買って出て、やはり夜会には参加していないのだろうか。
もう一度、会場の中央に目を向けたとき、ザワリと周囲が騒めいた。何事かと目を懲らそうとして、イライザは周りの若い男子達に目も止めずに身を乗り出した。
どうやら、何処かの高位貴族が入場したらしい。近くの情報通のご婦人の声に耳を傾けると、いつもなかなか参加しない公爵家の嫡男が参加したとか──。
忽然、胸騒ぎがして、イライザは声をかけてくる青年達の間をすり抜け、ゆっくりと入口の方へ進んだ。
上座付近で令嬢達が群がり、様々な派閥の貴族達が注目している先ほどまでのイライザとハーヴィー達と張り合えるほどの、珍妙な構図のその中心。
一歩一歩踏みしめて近づき、ドレスで埋め尽くされたその隙間から、深い青のリボンで纏められた、燻んだ灰色の髪が覗いた。
「リオ様?!」
考えるよりも先に声が出て、それは騒めく中で真っ直ぐそして大きく響いた。いつも、夜会などで声を発することの少ないイライザに、驚きの目を向ける周りなど気にせずに、振り向く灰色と輝く濃い紫を呆然と見つめた。
イライザを目に写すと、目を見開いた青年は、令嬢達があれだけ群がるのも頷ける美貌を持っていた。
我先にと近づく令嬢達に断りを入れて、青年は長い脚をコンパスのように伸ばして、イライザのすぐ目の前までやって来た。
イライザの小さく細っこい肩に手を伸ばした彼は、幸せそうに顔を綻ばせた。
「ライ……また、会えたな」
そう言って、唖然とする周囲を置き去りに、イライザの額に軽く口付けると、その肩を引き寄せて、腕の中に閉じ込めた。
***
「イライザ! 王国筆頭公爵のライトン家の嫡男から縁談が来ているんだが、さすがにどういうことだ?!」
「姉さん! 僕の憧れの師団長様と、どこで知り合ったのさ?! リオン・ライトン様からの縁談が来るとか、羨ましすぎる!! 姉さん、僕のためにもぜひとも受けて! 結婚してー! リオン様が義理の兄とか、僕もう嬉しくて死ねるよぉ!」
後日、イライザの父と弟がオンサーガー邸で悲鳴をあげたのことは、また別の話である。
2020.09.14 2021.04.08 表現を一部変更しました。