8 キャンバス上の決意
この国の外? どういうことかと目を細めてヤナギさんを見る。すると、ヤナギさんは少し困ったように頭をかくと、再び口を開いた。
「この国の絵は面白いしすごいと思う。でもこの国の外にはもっと色々な文化があるからさ。アパート追い出されそうなら、いっそのこと自分からもう出てっちゃえばいいじゃん。それで違う所でチャレンジしてみなよ。国が変われば人も変わるから。それに……」
出てっちゃえば……? そんな軽いノリで言うことか? さすが旅人は発想が違う、違い過ぎて返す言葉が浮かばない。あまりにも突拍子もないことを言うヤナギさんを呆然と見つめれば、彼は何やらコートの内ポケットをごそごそと探っている。何かを探しているようだ。けれどもお目当て物は見つからないらしく、怪訝な顔を浮かべて言った。
「あれ? 持ち歩いて無かったか…… ちょっと待ってて」
そのまま食堂を出て行ってしまった。どこまでもマイペースな人だ。
それにしても、本当にあの人は最初からずけずけと踏み込んでくる。国を出るなんて随分と簡単に言ってくれるもんだ。飛行船も蒸気機関車は開発されたばかり。それに、女性の1人旅はまだまだ珍しい。だから、他の国のことなんて宿泊者から聞くぐらいで、私にとってはおとぎ話と変わらない。ずっとそう思っていた。
でも、彼の言葉に影響されてしまったのだろうか? 蒸気機関車と飛行船で何十時間も向かった先には一体何があるんだろう? 規則に縛られていな国ではどんな絵に出会えるんだろう? 今まで考えもしなかった遠い国に思いをはせ始めてしまっていた。
見知らぬ国々のことを考えていると、ヤナギさんが戻って来た。足早に食堂と突っ切って私の前まで来ると、立ったままの私に1枚の紙を差し出してきた。
「これ」
紙に書かれた文字を目で追う。どうやらこれは他の国の公募展の知らせのようだ。行ったことはもちろん無いけれど、その国の名前だけは聞いたことがある。今度は何を考えているんだろう? 紙から目を離し、楽しそうなヤナギさんに問いかけた。
「これは?」
「この国なら飛行船で行きやすいし、今からでも間に合うよ。それにこの公募展、1つの型にはまらないで色々な傾向の作品を好むから君にピッタリだと思う」
ん? ちょっと良いこと言ってる風に自信満々に語っている。何やら勝手に話を進められているが、ここでストップしないと……
「ちょ、ちょっと! 待ってください! 何で私がこの国出る前提で進めるんですか? それに近いって言ってもここ、この国から5日もかかるじゃないですか。これちょっとの距離じゃないですよ!」
「あ、あとこれ」
うん、聞いてない。さっきから会話のキャッチボールが成功しない。もし見えるのならば、彼の周りには私の放ったボールがいくつも転がっているに違いない。もう1回ボールを投げつけたいところだが、目の前に出されたものに興味を惹かれてしまった。
ヤナギさんがテーブルの上に置いたのは私の掌サイズの緑の皮のケースだった。折りたたまれたケースをヤナギさんが開く。するとそこには、1枚の身分証書があった。閉鎖的なこの国に住んでいても、さすがにこれのことは知っている。私も教会を出るときに発行してもらったからだ。使う機会なんてないので引き出しの奥の方に眠っている。
この証書には旅行者が旅先でもどこでも、何者であるかを証明できるように個別の紋章が刻まれている。これを持っていれば、同盟国間なら何かあった時に自分の国へ保護を求めることができる。ヤナギさんは普通に出してきたが、中には個人情報がふんだんに入っている。まあ、それを見ることができるのは紋章の専門家だけとはいえ…… こんな風に他人にホイホイ見せるものではない。
急いでケースを閉じ、ヤナギさんに押し付ける。
「こんな所で開いてたら盗まれちゃいますよ!」
「そうだね。じゃあちょっと君の鞄にしまっといて」
そう言ってケースをさっと取ると、私のキャンバスバッグにほいっと入れてきた。いや、だからこれ他人にホイホイ渡すものでもない。この人大丈夫? マイペースもここまでくると、怒りを通り越して心配になってくる。当の本人はのんびりと話し始めた。
「今、個展の準備してるんだけれど開催まで少し時間ができたんだ。久しぶりに時間たくさん取れたから旅でもしようと思って、芸術が有名な国を回ってる最中でさ。この国が最後の目的地だったんだ。でも旅って思っていた以上に荷物が増えるんだよ。今までの荷物はほとんど送ってるからいいんだけれど、この国でも買いたい画集とかまだすっごくあるんだよね」
……個展……だと? 目の前の変人はすごい人なのかもしれない。会話のボールは無駄打ちになると学んだのでそのまま彼の話の続きを待った。
「車輪付きの鞄使っても1人じゃ持つの辛くって。それに、飛行船って追加の料金払って持ち込む荷物の量を増やせたとしても1人当たりの量に制限があるんだよ。送ろうにも、この国は芸術関係の個人の持ち出し厳しくってさ。どうしようかとかなり困ってたんだよね。ここまで来て買うのを諦めたくなんてないし」
「はあ……」
「だから、荷物持ち、って言ったら言葉悪いけれど一緒の飛行船に載る人を探してたんだ。あ、もちろんその間の給料払うよう。俺の目的地もこの公募展と同じ国だしどう?」
「どう? って言われても…… よく絵を見ただけの他人を誘えますね。持たせた荷物そのまま盗まれちゃうかもしれないんですよ?」
「昨日今日と、この宿屋の主人とか女将さんから君のこと聞いたけれど、そんな人じゃないかなって思ったから」
ご主人に女将さん…… 多分、ご主人は無口なので色々話したのは女将さんだ。キッチンで夕飯の仕込み真っ最中であろう女将さんの顔を浮かべる。なんとなくキッチンの方を見る。いた。なぜか女将さんは親指をグッと立てて私を見ている。目が合うともう一度グッと指を見せ、輝く笑顔で奥に引っ込んだ。なんだあのがんばれよっというアピールは。女将さんの真意がわからずそちらを見ていると、ヤナギさんが再び話を始めた。
「昨日俺が食堂でナンパしてると思ったらしくて、積極的に君について話してくれたよ」
「普通話します……?」
「大雑把なことしか言ってないからいいんじゃない? あ、ちなみに今日あそこで出会ったのは偶然だから」
待ち伏せじゃないからね、と最後に付け加えてきた。そこはあまり気にしていなかったんだけれど…… ヤナギさんは気にすること他にあると思う。主に勝手に人の絵を強奪したこととか…… 身分証書をほいほい渡していることとか……
とりあえず証書を返そう。キャンバスバッグから出さないと。そう思って伸ばした手はヤナギさんの手によって止められた。
「俺の出発までまだ時間あるから考えてみて。君は女性だし知らない人間と旅行なんて不安だろうから、その証書は君が持ってて。これで少しは信頼してもらえればいいんだけれど……」
ヤナギさんは「他に良い方法思いつかなくってさ」と笑っているが、こんなことするなんてギャンブラーすぎる。掴まれた手を振りほどくことも忘れて彼に尋ねた。
「どうして私にそんな話を?」
「この絵が好きだから。君がこの国に閉じ籠るせいでこの絵が殺されるのが嫌だって思ったから。それだけ。まあ、これも縁ってやつだよ」
上を向けば、私の絵を好きだと言った時と同じ真っすぐな目で見つめてくる。こんな突拍子もない話すぐには受け入れられない。国を出ることなんて今まで考えたことないし、目の前のこの人のことも画家らしいということしか知らない。なのに、なんでだろう…… ヤナギさんは嘘を言っていないと思えるのは。私は意外と騙されやすいタイプなのかもしれない。
ヤナギさんはゆっくりと私の手を離すと、おどけるように言った。
「どっちの絵を描き続けたいのかを決めるのは君だから、俺からのお節介はこのくらいで終了。気が向いたなら俺が旅立つ日、そうだな…… 13時にこの宿のロビーまで来て。嫌ならそれは宿の主人にでも渡しておいてよ」
キャンバスバッグの中に押し込められた証書を指差す。そして私を見て笑った。絵を語る時のキラキラとした笑顔。ずっと苦手だと思っていたその笑顔。何故だか今は嫌いじゃない。いいな、とすら思ってしまった。その笑顔に目を奪われていると、ヤナギさんはじゃ、と手を上げてそのまま部屋に向かってしまった。
一方的に提案して返事も聞かずに去るなんて…… 本当に勝手な人だ。でも、ヤナギさんは自分の考えをきちんと伝えてくれた。後は自分で決めろということだろう。
とりあえず物騒なので急いで証書をしまう。気がつけば、女将さんがキッチンから戻ってこちらをまた見ている。その目は好奇心で爛々としている。このままじゃヤナギさんとのことを確実に聞いてくるであろう女将さんから逃げるために、急いでキャンバスをしまうと宿屋を出た。
※※※
そのまま自室に戻る。ここを出たのはつい数時間前だというのに、何だかとても久しぶりに帰って来たような気がする。
何も置かれていないイーゼル、その前に置いた椅子座る。そして、ヤナギさんに言われたことを考えた。気持ちを整理するために、下書きだけのキャンバスをイーゼルに置いてみる。その横にパレット、証書を並べて置いた。
何だかこの数日で色々なことがあった。オーナーから退去勧告されるわ、変な部屋に転げ落ちるわ、不思議なパレット手にするわ、恐いぐらいマイペースな旅人に出会うわ…… うん、本当に色々あった。
頭の中で整理しようと思っていると、絵を描き始めた時のこと、学院での日々、この部屋に引っ越してから今日までの様々な出来事。ずっと前のことから順に思い起こしてしまっていた。けれど、そうすることでこれまでの人生で、周りについ流されていたことがいかに多いかを思い知らされる。
それでも、それでも唯一守ってきたもがある。
しっかりと見つめた自分の気持ちを今度はしっかりと掴み、顔を上げる。きっとこれが私の本当の気持ちだ。腹をくくらなきゃ。
そして、私はゆっくりとパレットに手を伸ばした。