7 キャンバス奪還
「いやー、すみません」
そうヘラヘラと笑いながら言うヤナギさんの手には、私の絵がしっかりと確保されている。きっと今、受付係の人と私の気持ちは同じだと思う。何やってんだ、この人は。2人で呆然とヤナギさんを見つめる。
「ちょっと君、来て」
我に返った受付係の人が絵に手を伸ばす前に、ヤナギさんはそう言うと絵をもったまま外に出て行ってしまった。絵を人質に取られているので、急いで追いかける。が、身長さのせいか。それとも足の長さのせいか…… もうちょっとの所で追いつかない。重い画集を持っているとは思えない速さだ。のんびりしてそう見えたのに。
「待ってください!」
この絵泥棒! そう心の中で叫びながら必死に追いかける。気がつけばもう宿屋の前まで戻ってきていた。ヤナギさんは足を止めることなく、そのまま宿の中へとスタスタと入ってしまった。ドアを吹っ飛ばす勢いで開け後を追う。すると、彼はロビーの中央で突然立ち止まった。そしてくるりとこちらを向いた。
「部屋……はまずいか。食堂ってもう開いてるよね?」
「は?」
色々言ってやりたいのに、これしか声が出ない。結構長かった追跡のせいで息がものすごく切れているせいだ。文句の1つも言えやしない。太ももに両手を当て、下を向きながら必死に息を整える。
と言うか、食堂? 何故このタイミングで食堂? まあ、食堂はランチ営業もしているので開いてはいる。今頃ピークも過ぎ、落ち着いているところだろう。いや、そうじゃない!
日ごろの運動不足がたたって息を整えるのに必死で、ヤナギさんからつい目を離してしまった。そのすきにヤナギさんは今度は食堂に向かってさっさと歩いていた。一体何なんだこの人は! マイペースか!
再び後を追えば、ヤナギさんは初めて会った時と同じテーブルに着こうとしていた。テーブルの前に回り込み叫ぶ。
「どういうつもりですか!」
驚きと怒りが混じり合い、頭の血管がピクピクと動くのを感じる。なのに、彼はそんな私のことなんてどこ吹く風という様子で、キャンバスをバックから取り出している。そのままキャンバスとテーブルの隅をせわしなく見始めた。私の講義の声はどうやら全く届いていないらしい。
一体この人どうしてくれよう…… とりあえず絵を返してほしい。よし、もう一度声をかけよう。
「あの! ヤナ」
「それとこれ」
私の声を遮ってヤナギさんは2つの絵を見つめて言った。右手でキャンバス上とテーブルの隅にひっそりと描かれた2つの私の絵を交互に指し示しながら。
ヤナギさんの手の動きにつられて2つの絵へと視線を移す。小さな黒い絵と、大きな色鮮やかな絵が視界の中に入ってくる。その瞬間、昂っていた気持ちが急速に冷めていく。自分でも驚くぐらい冷たい声で呟いた。
「それとこれが何だっていうんですか?」
「きちんと自分で見てみなよ。それから公募展に出しても遅くないんじゃない?」
さっきまであんなにヘラヘラしてたのに…… ヤナギさんはさっきまでとは打って変わり、とても真剣な顔で言ってきた。そのままキャンバスをこちらに向けてくる。思わずそこから目を背ける。
「何でそんなことを……」
「いいから見て」
あまりの強い口調に驚き、ヤナギさんの顔を見る。綺麗なオレンジ色の瞳が真っすぐに私を見ている。数秒間その目を見つめると、そのまま視線を下げ私の絵たちを見た。公募も何も気にしないで好きに描いた絵。パレットの力を借りて描いた絵。2つの絵を描いた日のことを思い出す。
様々な感情が溢れて絵から目が離せない。そんな私に低く、穏やかな声がかけられた。
「会ったばかりの人間が言うことじゃないのは分かってるけどさ。なんか君とこの2つの絵を見たら口出しをしたくなっちゃて」
「出てるの口だけじゃないですけどね」
「ああ、手も出してるか。でも、どうしても君がこの絵を出すのを止めたかったんだ。あくまで俺の考えなんだけどさ…… 自分の名前のもとに作品を出すってことは、自分がその作品を一番好きじゃないとダメだと思うんだよ。他の誰に何と言われようとも」
「それは……」
「好きだけで続けられるもんじゃない部分は確かにあるよ。けれど、最終的に自分を押し上げてくれるのは絵に対する想いだと思って俺はやってるから」
「……ヤナギさんもやっぱり絵を描くんですね」
「あれ? 俺そんな風に見えてた?」
「何となく」
絵の話をする時の楽しそうな瞳、真剣な表情からそう感じていた。宿屋の受付の勘もなかなかのもんである。
それにしても好き、か。私はちょっと前まで私の絵に自分なりに自信を持っていた。それに、自分の世界を絵で表現するのが好きで好きでしょうがなかった。けれど、今はどうだろう……
下を向いたままでいると、視界の片隅でヤナギさんがテーブルの隅の私の絵を優しくなぞるのが見えた。
「せっかくこんなに君だけの素敵な絵が描けるのに無理するのはもったいない。もうちょっと視野は広く持ったほうがいいよ」
「広くって?」
顔を上げれば、楽しそうに笑っているヤナギさんと視線が合う。私の苦手な絵について語る時、彼がいつも浮かべているキラキラとした笑顔だ。その笑顔のまま、ヤナギさんは爆弾発言をのたまった。
「この国の外に行くとか」