6 キャンバス出品3秒前
「それ、君の絵?」
そう聞かれて先ほどまで睨み相手だったキャンバスバッグを勢いよく下げた。そのままヤナギ様の視界から隠すようにバッグを後ろ手に持つ。
この絵は私の手を使って描いた、という意味では私の絵だ。けれど、昨日テーブルの隅の小さな絵だとしても…… 私の“本当の”絵を見ているヤナギ様にはパレットの力によって描かれたこれを私の絵とは言いたくない。タッチも色使いも明らかに違う2つの絵に、きっと彼は疑問を抱くだろうから。
バッグを隠したまま不審者を見るような表情のまま黙っていると、ヤナギ様は頭ガシガシとかきながら困った顔になった。けれど、すぐに手を止め目を見開いて言った。
「あ、もしかして俺が誰か分からない? 昨日から君の働いている宿に泊まってるんだけれど……」
「覚えてます。ヤナギ様ですよね?」
嫌なこと聞かれましたから…… というのは心の中にしまっておく。
私の返事を聞くと、途端に安堵の表情を浮かべ、ヤナギ様はマシンガンのように喋りだした。
「そうそう! 名前まで覚えていてくれたんだ。でも仕事中じゃないんだから様とか付けないでいいよ。それにしても…… 君に昨日教えてもらったから早速ここの展覧会を観に来たけれど、やっぱりこの国の絵は独特で面白いね。前からすごく観に来たかったんだよ」
「お気に召して良かったです」
この人は絵のことになると本当に嬉しそうに話す。ヤナギ様、もといヤナギさんの声はとても楽しそうだ。
ヤナギさんの持っている売店の袋には、この国の代表的な画集がぎっちりと詰められていた。1冊でもかなりの重さがあるのに、まぁよくあれだけ買ったもんだ…… 袋が悲鳴を上げている。
親しげに話しかけてきてくれる彼には悪いけれど、私は今は話す気分ではない。目の前で揺れる2つの選択肢で手一杯だ。この隠している絵を出すべきか、出さないべきか……
キラキラと楽しそうにこの国の絵について語っているヤナギさんの目は、相変わらず今の私には眩しすぎる。その目を正面から受け止めることができず、つい下ばかり見てしまう。目でひたすら彼の長い深緑のコートの裾が風にはためいているのを追う。
すると、急にひらひらと揺れる緑色の布が下に動いた。売店の袋が床に着くドンという音が耳に響く。
「で、それ君の絵なの?」
下を見ていた私の視線に入るように、急にヤナギさんがしゃがんできた。見るのを避けていたアーモンド形の灰色の目が真っすぐに私を見ている。この目はなんだか苦手だ。思わず顔を背ける。
「……服、汚れますよ」
「いや、そんなの気にしないから大丈夫。なんかずっと下向いてるからさ。こうでもしないとちゃんと話せないかなって思って」
なんてヤナギさんはそんなに私と話したがるのだろう? 今の私みたいな人を前にしたら、たいていの人は空気読んで去っていくんですがね…… これだけ素っ気ない態度取り続けているのにめげない人だ。
昨日宿屋でも思ったけれど、ヤナギさんは芸術のことになるとしつこいらしい。なんかもう…… 誤魔化すのもめんどくさい。
「今日はあまり気分が良くなかったので。私の態度がお気に障ったならすみません」
「いや、別にそんなことはないよ。俺がしつこいせいもあるいだろうから」
自覚あるのか…… なんだかヤナギさんの何とも言えない緩い雰囲気に、気を張っている私がバカみたいに思えてきた。
顔を正面に戻しヤナギさんをきちんと見る。私と目が合うとヤナギさんは座ったまま嬉しそうに笑った。その顔に向かって投げやりに答えた。
「それと、これは一応私の絵です」
「一応?」
そう言いながらヤナギさんはやっと立ち上がってくれた。コートを手ではたきながらものすごく怪訝そうな顔でこちらを見てくる。ヤナギさんはそのまま心底不思議そうに尋ねてきた。
「自分の作品に一応なんてある?」
うっ、痛いところを突いてくる。
確かに昨日までは、時間と精神と他にも色々…… 時には命すらを注げていると言えるくらいの気持ちで作品を書き上げてきた。人にどう言われようと、真っ白なキャンバスに自分の全てを捧げてきた。けれど、今私の手の中にあるこの色鮮やかなキャンバスは……
「……色々あるんです」
「色々?」
そう呟くとヤナギさんは眉間にしわを寄せたまま黙ってしまった。下を向き、何かを考えている。
今がチャンスだ。隙だらけである。よし、今のうちにさっさと別館の中に入ってしまおう。
静かに、そしてさりげなく足を前に進めた。しかし、何故か彼は勢いよく顔を上げ私に近寄って来た。
「ここって新人公募展の受付だよね? 持っている絵は提出するために持って来たの? 良かったら君の絵を見……」
「嫌です。お断りいたします。初対面の方にお見せできるような絵じゃありませんから」
間髪入れずに答える。絶対にお断りだ。何を言い出すんだこの人は……
かなり鋭く断ったのにヤナギさんはしぶとかった。その後、階段の前でひたすら「いいじゃないか」、「嫌です」と必死なやり取りが続いた。
※※※
ヤナギさんから絵を守るのに必死だった私は、近くに忍び寄るもう1つの足音に全く気がつかなかった。
「ピエリス! オーナーから連絡があってから随分経つのに来ないなと思ってたら…… こんな所で何やってるんだ!」
この声は……
怒気を含んだ声の方を見れば、いつも私を手厳しく追い返してくる新人公募展の受付係が階段を登って来ていた。あまりの手厳しさに、その姿を見るだけで顔から血の気が引くようになってしまっている。
「オ、オーナーから?」
「そう! 彼が君が逃げないようにきちんと道で待ってろって言ってきたんだよ。君、アパートで隙あらば脱走しようとしたんだって? 相変わらずの変人っぷりだな。他にも仕事があったから迎えに来るのが遅くなったけれど…… 間に合ってよかったよ」
さすがオーナー。私がきちんと出品するように受付係までわざわざ巻き込むなんて。それにしても酷い言いぐさである。名誉棄損もんだ。横にいるヤナギさんが「逃げないようにって……」と呟いているのが聞こえる。
耳ざとくそれを聞きつけた受付係はオーナーに対する鬱憤が溜まっていたのだろうか。ぺらぺらと人のことを話だした。
「そうなんだよ! この子、筋はいいのに何年も変な絵ばっかり持ち込んできて。今回やっと出品できる絵ができたってこの子のアパートのオーナーから連絡があったんだよ。しかも受付するかどうかちゃんと最後まで見届けろっとね。私も忙しいというのに…… それにこの子ときたら…」
「オーナーのことはすみません! もうやめてください。出します、大人しく出しますから!」
ちょっと、初対面の人に何を言ってくれているのだ。オーナーもこの人も私のことを何だと思っているんだ。
ヤナギさんの横をさっとすり抜け、怒りと共に階段を駆け下る。そして扉をマッハで開けた、今回は足ではなく手で。そして、誰もいない受付にキャンバスバッグを置き、呼吸を整えた。呼吸と共に気持ちも落ち着いてくる。
これでいいのかな……
流されてついにここまで来てしまった。何度も何度も考える、この絵を出すべきなのか……
しばらくして扉を開く音がした。受付係が戻って来たのだろう。キャンバスをバッグから取り出しきちんと置きなおす。バッグから解き放たれたキャンバスをしみじみと眺める。見れば見るほど思う。
やっぱりこれは私の絵なんかじゃない。
でも……
オーナーに見られてしまった以上、どんな言い訳をしてもこれを出品しないのは許されないだろう。オーナーはこの絵の先にトロフィーを見ている。
このまま出品すればきっと私はあのアパートで今まで通り絵をもっと描ける。いや、画家協会の一員になれたのなら補助金が出る。宿屋での仕事減らすことができるので、きっと今まで以上に描けるに違いない。でもそれは私の描きたい絵なのだろうか? そもそも、なんで描き続けてきたんだろう?
開いた自分の両手を見つめる。私は……
「これなんか違くない?」
「え?」
なんでヤナギさんが来てんの……? この人、本当にフリーダム。
ありえないことに、部屋に入って来たのは受付係ではなくヤナギさんだった。彼は私の横に立ち、頬に手をあて唸っている。
「やっぱり違う。昨日食堂で見た君の絵とは。少し似ている部分もあるけれど、違う」
「それ…… は……」
「確かにこの絵はこの国らしいよ。伝統的で美しい。けれど、昨日の絵の方が良かった」
「良かった?」
そんな風に言われるのは2度目だ。本当だろうか? ヤナギさんは本当にそう思って言っているのだろうか?
少しでも彼の考えていることを知りたくて、その目を見つめてみた。見上げた私の目を、灰色の目が受け止める。ヤナギさんはゆっくりと噛みしめるように言った。
「うん、俺は好きだ」
その目、あの不思議な館の少女と同じだ。きっとヤナギさんは心からそう言ってくれている。今までそんな風に評価してもらったことないのに、何でこんなタイミングで認めてくれる人が次々に現れるんだろう。
ヤナギさんがまた口を開く。その声色に、さっきまでの穏やかさはない。あるのは恐いぐらいの真剣さだ。
「本当にこの絵を出品していいの?」
ヤナギさんが絵を指差し、問いかけてきた。
いいの? なんて好き勝手に言ってくれる。良くなかったら丁寧にくるんで持ってきてなんていない。いや、直前までかなり悩んでいたけれど。そう、ずっと悩んでいた。それも知らずにこの人は…… この国のことも、私のこともよく知りもしないのに昨日からズケズケと……
そう思ったら、私の口からは叫ぶような声出ていた。
「いいとか、悪いとかじゃないんです。そんな単純な問題じゃないんです。今回、この新人公募展で賞を取れなかったら、私はオーナーに住んでいるアパートを追い出されてしまうんです。そうなったらもう絵を描き続けられない。そんなの絶対嫌なんです。食堂の絵を褒めてくれるのはありがたいですけれど、それじゃあこの国ではダメなんです。型から外れちゃダメなんです」
呼吸も忘れ一気に言う。言い終わると、酸素を求めてぜーぜと激しい呼吸を繰り返した。
私の絵を認めてくれたのは嬉しい。けれど、だからって根掘り葉掘り聞かれたくない。もう、どうして初対面の人にここまで自分のこと晒しちゃってるんだろう、私。
この苛立ちの原因、本当は分かっている。自分の優柔不断さだ。パレットの力を借りるか、借りないかをきちんと決めないまま流されている、そんな自分が嫌になる。だから、目の前でかつての私のように楽しそうに絵について語るヤナギさんを見ていると心がざわめいてしまうのだ。
肩を上下に揺らして呼吸する私に対して、ヤナギさんは何かを言いかけた。
「それなら……」
その言葉を制するようにぶんぶんと首を振った。
ヤナギさんの後ろに、いつの間にか入って来た受付係がこの険悪な雰囲気に驚いているのが見える。しかし、受付係は受付に置かれた絵を見てすぐに笑顔になった。
「あれ、これなら受け付けできるな。3年越しの悲願達成だ。じゃ、早速受け付けるよ」
そのまま受付係は絵に手を伸ばす。それを見て思わず口から「あ……」と小さな声が漏れる。私の手が小さく絵の方に差し伸べかかる。
その時だった。受付係の人の手が絵に触れる前にさっと横から出た手が絵を持ち上げたのは。
「悪いんだけれど、この絵の受付ちょっと待ってくれます?」
絵を持ち上げる手の先を見上げると、ヤナギさんが絵を持ち上げたまま受付に向かって申し訳なさそうに笑っていた。