5 キャンバスを手に
止まった……
パレットを手に取った瞬間から私の意思に関係なく動いていた手がやっと止まる。その途端ドッと疲れが襲ってきた。目の前のキャンバスから目を背けるようにしながら、パレットと筆をテーブルに置く。そして、そのままベッドへとダイブした。
あの不思議な館で手に入れたパレット。宿屋から帰って来て、どうしようもない気持ちをどうにかしたくてつい使ってしまった。
恐る恐るベッドからキャンバスの方をちらりと見る。そこには鮮やかな色遣いのこの国らしい絵が描かれていた。ほとんど物が無い私の部屋でそこだけが異様なほどカラフルだ。見れば見るほど、新人公募展のために急ピッチでこの国の規則を勉強し直していた私には痛いほど分かる。あの絵はきっと今までの私の絵とは違い評価されるだろうということが…… オーナーが見たらものすごく喜ぶだろう。
確かにあの絵なら新人公募展で入賞できるかもしれない。そして、画家協会の一員としてこの国で絵を描き続けることもできそう。私の言った願い通りだ。あの不思議な部屋の住人たちが本当に私の願いを叶えてくれたらしい。
けれど、飾られたキャンバスをじっと見ていると、本当は描きたいものがあるのに先生や師匠に言われて必死に周りに合わせて描いていた日々が蘇ってくる。パレットパワーのおかげで、目の前の絵の方が当時より格段に上手なのが悔しいけど……
これで本当にいいのかな……
あの絵を描くために外してしまったモノクロのキャンバスを見て思う。
パレットの力で描いた絵を使うこと。心の奥ではそのことをまだきちんと納得できていないのは充分に分かっている。それは芸術学院から今まで、ずっと守り続けてきた誇りを捨てることに等しいのだから。そんなにすぐに切り替えができていたら苦労なんてしてこなかった。
けれど現実を見ないと…… 今まで貯金が順調に貯まったのはこの格安アパートに住めていたからだ。追い出されたら、教会育ちの私には帰る所がない。貯金なんてすぐに底をついてしまうだろう。そうなったら今までのように絵を描けない。それは何よりも辛い。それならいっそ今回だけでもこのパレットの力を借りても…… そんな考えがどうよ? と顔を出してくる。
いや、自分の絵へのプライドはどうした! それにその後はどうなる? ずっとあのパレットを使い続けるのか? いや、でも残り1週間しかないし……
使っちゃえよ、いや、それはいけません! と2つの意見が頭の中で飛び交い始める。結局、その日はそのまま頭の中で天使と悪魔の大乱闘だった。
※※※
爽やかな鐘の音が寝不足の頭に響き渡る。小鳥たちのかわいらしいさえずりも、今朝は鼓膜への攻撃に思える。朝になってしまった……
ベッドからむくりと起き上がればカラフルなキャンバスが嫌でも目に入った。その後ろには外されてしまったモノクロのキャンバスが。
……とりあえず起き上がらないと! 考えるのはそれからだ。しぶしぶ起き上がり、いつもよりゆっくりと着替えを始める。やっと朝の支度を全て終えようという時、大きなノックの音が部屋に響き渡った。とてつもなく嫌な予感がする……
「……はい」
「ピエリスちゃん、朝からごめんなさいねー」
ああ、やっぱりか…… 朝からは聞きたくない声が扉の向こうから聞こえた。しかし、相手はオーナーだ。このアパートの絶対君主だ。行かねばならぬ、と覚悟を決め扉を開ける。
扉の前には、オーナーがいつものようにどこかわざとらしい笑顔全開で立っていた。
「おはよう! さすがのピエリスちゃんも焦ってくれてるかなって思って様子を見に来たんだけど、どう?」
「どうも何も…… いくらオーナーでも乙女の部屋に朝っぱらから来ることのほうがどうかと思いますけど」
「またまたそんな水臭いことをー。で、構想ぐらいは描いた?」
朝っぱらから何という直球を。最近痛みっぱなしの頭が更に痛くなってきた。
「いえ、まだ全然……」
「あらー、あと1週間しかないのに大丈夫? 心配だよ、君が出ていかないようになってほしいな」
「が、がんばります」
今きちんと私は笑って答えられているだろうか? 何が心配だこのギンギラめ! ようは描けなさそうなら出て行く準備よろしくね、ということでしょ。この非常識な朝の訪問は。
遠回りな退去勧告を何とか作り笑顔で受け流す。すると、オーナーの目が部屋の中の一点を捉えるように動いた。その瞬間にその瞳が輝く。気のせいか、中にお金のマークが見えるような……
「あら、あらあらあらー」
オーナーは乙女のように両手を合わせると、部屋の中にずかずかと入ってきた。私にあの巨体を防ぐ方法などない。ガードしきれずその侵入を許してしまった。いくらオーナーでも、一応女性の部屋だぞ。何してんだ! 心の中で抗議のしつつ、急いでその後ろを追いかける。
「ちょっとオーナー!!」
私の非難などまるで聞いていない。オーナーはまぁ、ほー、あらーと口元はにやけつつも真剣な眼差しある一点に向けている。その視線の先にあるのは、もちろん例のカラフルなキャンバスだった。
なんでこう…… なってほしくないなっということに限って起きてしまうのか……
この絵はまだ誰にも見せたくなんてなかった。私自身の気持ちが定まってない内は…… もう、昨日すぐにキャンバスを仕舞わなかった自分を殴りたい。でも、オーナーが来るなんて誰が予想できただろう。恐るべし、オーナーの金への嗅覚。さすが1代で財を成しただけある。
いや感心してる場合じゃない! とりあえず出て行ってほしい。ほーほー言っているオーナーに後ろからそろりと声をかけた。
「あの、オーナー? 私そろそろ出かけようかなっと思ってるので……」
「ピエリスちゃん! 僕君のことずっと信じてたよ!」
ものすごい素早さでオーナーが振り返る。さっきまで思いっきり追い出そうとしていたのはどこの誰だったのか? 都合の悪い記憶はもう消去されてしまっているらしい。
オーナーは力強く私の肩を掴むと叫んだ。その距離の近さにセクハラだ、と思いっきり嫌な顔してしまった。今の私の顔は誰が見たって嫌そうな表情を浮かべている、間違いなく。それなのにオーナーには全く通じない。今度は両手を叩いて喜びを表現している。
「そんな照れなくていいんだよ。やっぱり描けるんじゃない! 昨日の今日で完成したんじゃないでしょ、これ? 僕に隠れてきちんと描いてたんだねー」
「いや、隠……」
「これすごい、すごく良いよ! 早速、画家協会にいる友人に連絡しておくね。ちゃんと今日中に受付に持って行くんだよ! 」
「だから聞いてください! あの、これは…… その…… アクシデントで生まれたみたいなもんで」
「芸術の女神は気まぐれだからね。分かるよー」
「そういう意味じゃないんです! ともかくこの絵は……」
「いやー、安心したよ。よかった、よかった。じゃ、僕は急いで連絡してくるね!」
「オーナー!」
そのまま上機嫌でオーナーは去ってしまった。私の話なんて全く聞くつもりが無いようだ…… いつものことか。
オーナーがいなくなり、嵐が去った後のように静けさを取り戻した私の部屋。その中央であまりの展開に間抜けな顔をしていた私に、さあ持って行けと言わんばかりにキャンバスがその存在をアピールしていた。
※※※
しつこすぎる……
あの後、30分おきに来るオーナの「出しに行った?」攻撃に負けた私は、トボトボと例のキャンバスを持って画家協会への道のりを歩いている。
何も持たないで出ようとすれば、「忘れ物があるよ?」と言われ、別の物でごまかそうとすれば「ちゃんと包んであるか見てあげるよ」と中身を確認される。その監視体制の厳重さたるや…… オーナーのことを見くびっていた…… と彼に対する認識を改めさせられた。
このままこの絵を私の物として出品していいのか? いや、もうこうなっちゃったらしょうがない。そう、しょうがない。
そんな風に自分をごまかしごまかしここまでやって来てしまった。もう画家協会が目の前に建っている。オーナーからの連絡がきっともう届いているから、受付に出した瞬間あっという間に手続きが済んでしまうだろう。画家協会におけるオーナーの権力は莫大なのだから。
目の前にそびえたつ画家協会の本部はその威光を示すかのようにとてつもなく大きく高い。そして、ここまでしなくても良いのじゃないかというぐらい金ぴかだ。その建物の横にひっそりと建つ別館の地下に新人公募展の受付場所はある。そこまで残り数メートル。
「あれ?」
別館の前に到着した時、どこからか声が聞こえた。大方迷子になった旅行者だろう。申し訳ないが私は今、己との戦いに忙しい。他の親切な人に助けてもらってくれ。
この場所に来てもなお、このカラフルな絵を出品していいのか決断できない。ひたすたキャンバスを入れたバッグとにらみ合いを続ける。
すると、誰かに右肩をトントンと叩かれた。そちらを向こうとすれば、視界の隅に真っ赤な髪が入る。そこにいたのは昨日のお客様だった。長い灰色のコートが風に吹かれて揺れている。
……そうか、展覧会観に行くって言ってたもんな…… ヤナギ様。けれど時間がかち合うとは…… この場所おすすめしなきゃよかった……
目の前にいるヤナギ様は展覧会帰りなのだろう。片手に持っている袋は展覧会の売店の物だ。一体どれだけ買ったらその量になるのか…… ものすごく袋の中身は重そうだ。その袋を持ち直しながら、ヤナギ様はものすごく嬉しそうに笑った。
「あ、やっぱり宿屋の人だ。こんにちは」
「……こんにちは」
元気一杯な彼の声とは対照的に、私の答える声はものすごく小さい。食堂での会話のせいでヤナギ様に対し苦手意識があるのだ。オーナーの次はヤナギ様か…… 今日は会いたくない人に会う日なのかもしれない…… 余計なこと言われる前にさっさと階段を降りよう。あ、でも階段はヤナギ様の後ろか。
そんな私の考えなんて知るはずもなく、今日もヤナギ様はずけずけと踏み込んできた。彼は空いている方の手で私のキャンバスバッグを真っすぐに指差し…… 聞いてきたのだ。
「それ、君の絵?」