4 キャンバスに色をのせて
私の暮らすこの国はどの国とも隣接していない。四方を巨大な森に囲まれ、森を抜けた先にあるのは切り立った崖という孤立っぷり。
けれど、観光や芸術品の取引で多くの国と交流しているため豊かな方だ。観光も芸術品もそれふぞれの協会ががっちりと国の伝統に則り、取り仕切っている。私にとって窮屈に感じる様々な規則も、この国にとっては独自性を守るために必要なのだろう……
なぜなら、この国は他国の旅人、芸術家の評判が抜群にいい。外部と交流しつつも、その影響を全てはねのけ独自の文化を守っている! 素晴らしい! とのことだ。時代が移ろっても決して変わらぬ芸術作品の数々。それらを一目見ようと連日多くの旅人がやって来るのだ。
私の住んでいる城下町にも旅人のための宿屋が多数存在している。そんな宿屋の1つ、アパートのすぐ隣にあるカタバミ亭。そこが私のアルバイト先だ。
カタバミ亭には学院にいた時からお世話になっている。一人前の画家にはなりたいけれど、夢だけではお腹も懐も膨れない…… どこか働く所を、と思っていたらたまたまこの宿の求人が目に留まったのだ。
幸いなことに、カタバミ亭の主人も女将さんもとても良い人だ。ひたすら芽の出ない私のことをいつも応援してくれている。ずっとここで働いてくれていいのよ、なんて女将さんは言ってくれる。けれど、やっぱりいつの日かは画家として生計を立てたい。住むところ今にも無くなりそうだけど……
でも、まぁそんな風に言ってくれるぐらい宿屋での私を認めてくれるのは素直に嬉しい。この優しさに何度救われたか……
優しい主人たちの人柄を反映し、カタバミ亭は客室こそは少ないものの、1人ひとりに行き届いたサービスを提供するのでなかなかの人気店だ。そのため、給料もかなりよろしい。おかげで私の貯金はかなり貯まってきた。
「今日もよろしくお願いします」
従業員入口を抜け、空いている部屋で制服を着て受付へ向かう。今日も予約でいっぱいだ。この国に来るためには飛行船、蒸気機関車と乗り継がなければならない。長い旅路に疲れているだろうお客様たちを今日も受付で私は出迎えた。
「この国の画家の絵は見るためにはどこへ行くのが1番いい?」
今聞かれた質問は受付でほぼ毎回聞かれる質問だ。この国に来る旅行者の目的の多くは絵なのだから当然と言える。仕事モードの笑顔でさらっと答えた。
「それでしたら、国立美術館に多くの歴史的な名作が所蔵されているのでおすすめです。街の地図もご入用でしたらございます」
「地図? ぜひもらいたいな」
「少々お待ちくださいませ」
これで地図を渡して終了かと思いきや、目の前のお客様はそれでは納得してくれなかった。地図を受け取り部屋へ向かう途中で、あ、と何かを思い出したかのような声を出したのだ。そして、また受付に戻って来た。
「すみません、もう1つ聞きたいんだった。もっと現代の作品も見たいんだ。新人画家のとか。その場合は?」
長旅のせいか、すこしぼさぼさになった赤い髪に片手をあてながらお客様は聞いてきた。申し訳なさそうな声色とは反対に、オレンジ色の瞳は好奇心でキラキラと輝いている。褐色の肌から察するに、隣の大陸からの旅行者だろう。
明らかに自分より年上の人に失礼かもしれないけど…… なんだか子供みたいな表情をするお客様だ。本当に絵が好きなのが伝わってくる。なんか眩しい。
ご希望は現代と新人画家の絵か…… 新たな提案をする前に宿泊帳を見て、赤毛の彼の滞在日数を確認する。見れば2週間と長い。それなら……
「現代の作品ですと、画家協会の横に併設されている画廊で定期的に展覧会がありますね。今も開催されています。あとは、新人画家の絵ということですが…… ヤナギ様の滞在最終日にはなってしまいますが、その日から新人公募展が開催されます」
そう、新人公募展が…… その単語を口にすると仕事中にも関わらず、遠い目をしてしまいそうになる。今の私の頭の中は、我が部屋に眠る下地だけのキャンバスでいっぱいだ。新人公募展は、申し込みが遅くなればなるほど展示場所は悪くなる。けれど、開催の1週間前まで申し込みは受け付けている。つまり、私に残された猶予期間は残り1週間ということだ。
しかし、私の個人的な悩みなどお客様、えっとヤナギ様には関係ない。瞬きをして気持ちを切り替える。そして、画家協会の展覧会・新人公募展のお知らせをテキパキと渡した。ヤナギ様はその紙を受け取るとすぐにじっくりと内容を読み始めた。
「ん、これいいね。新人公募展はまだ開催されていないから…… この展覧会の方から早速行ってみるよ。ありがとう!」
お知らせから目を離すと、ヤナギ様はワクワクしてたまらない、そんな顔でお礼を言った。そのまま大きな荷物を持ち上げ、今度こそ自分の客室に向かって去って行った。
彼も芸術関係の人なのかな? なんとなくそう思う。相手が芸術に携わる人かどうか少し話せば分かるようなってきた。話す内容、ではなく話している時の目で。受付を長年続けているうちに身に付いたカンだ。特に役に立ったことはない。
その後も続々と訪れる旅行者の受付をしていると、この国に来る最後の蒸気機関車の到着時刻を過ぎていた。この時間になると受付は一気に暇になる。後はご主人とベテランさんだけで大丈夫だろう。2人に一声かけ、今度は大忙しとなっているであろう食堂の手伝いへと向かった。
※※※
食堂に辿り着けば、そこは予想通り戦場と化していた。女将さんの振る舞う食事もこの宿の自慢の1つ。そのため宿泊者だけではなく、近くの住民も数多く訪れる。今日も嵐のようにふってくる注文を厨房に伝え、出てきたものをせっせと運ぶ。ようやく落ち着いた頃には、食堂の従業員たちは皆今日も疲労困憊としていた。
落ち着いた食堂に夜の静けさが広がる。さっきまでの喧騒が嘘のよう。まだカーテンを閉めていない窓からは街灯の柔らかい灯りが漏れている。いくらこの国の治安が良くても、この時間にもなると、食堂にいるのは宿泊者だけだ。食堂を見渡せばお客さん立は食事を済ませゆったりとしていた。この時間のかもし出す雰囲気、それが私は好きだ。
今日もそろそろ上がりかな。家に帰ったら絵の続きを描かないと……
絵の構想を考えながら、まだ片付けていないテーブルを順番に片付ける。すると、誰かに声をかけられた。低めの落ち着いた声が私を呼んでいる。
「ねえ」
「はい」
接客用の笑顔で振り向くと、そこにいたのはさっき新人公募展について聞いてきた客だった。確か…… 名前はヤナギ。新人公募展について教えたのは彼だけだったので、印象に残っている。見えば、ぼさぼさだった短い赤毛がきちんと整えられていた。それに長ったるい上着も脱いでいるせいか、受付で会った時よりシュッとして見える。
私が返事をすると、ヤナギ様はテーブルの隅を指差して尋ねてきた。
「これって誰が描いたの?」
彼が指差しているのはテーブルの隅に描かれている花に囲まれた数字だった。それに気が付いた瞬間、私は手に持っていた皿を落としそうになる。
そこに注目する人がいるとは……
この食堂のテーブルはつい先日、全て新しい物になった。彼が指し示しているのは、注文を取る時や運ぶ時にどのテーブルの注文かを分かりやすくしようと私が描いたものだ。ただ数字を描くだけでは味気ないし、と思いちょっと手を加えてみた。各数字の周りを様々な絵で囲ったのだ。もちろん描かれた絵はこの国の規則には一切従っていない! ……胸を張ることじゃないか。
けれど問題は無い。ご主人と女将さんは芸術に興味があまりないので何も言わなかったし、食堂の利用客にも指摘されたことはなかった。そもそもそんなテーブルの隅っこの絵と数字に注目する人なんていなかったのだ。これまでは……
「……それ…… ですか?」
「そう。これ最近描かれたものでしょ? インクの乾き具合を見ると」
大正解。やっぱりヤナギ様は芸術関係の人のようだ。別に隠していることじゃないので、素直に答えよう。それにこの国の人じゃないから規則がどうこう言ってこないだろうし。
「私が描きました 」
「君が?」
「はい」
「さっき受付にいた子だよね? 画家を目指してるの?」
その質問に思わず嫌な顔をしてしまう。私のそんな変化を気にすることなくヤナギ様は続けた。
「あ、じゃあ新人公募展にも出品するのかい? この国では新人公募展で賞をとらないと画家協会に入会できず、画家にもなれないってもらった紙に書いてあったからさ」
随分ずけずけと聞いてくる客だ。たぶん悪気は無いのだろう…… と思う。こちらを興味深そうに見るその表情は相変わらず少年みたいだ。好奇心しかない。
でも、今の私はこの質問に答えたくない。その話題から逃げた所で、私の退去と夢終了の期限が迫ってくることに変わりはない。けれど、だからと言って積極的に話す気分じゃない。受付では仕事の範囲内だからいい。が、この質問は完全に範囲外だ。だからと言って無言で立ち去る訳にはいかない。一応、相手はこの宿のお客様なのだから……
あ、プライベートな質問はお答えしかねます、そう言えばいいのか! よし! そう思った時、厨房の方から女将さんが私の名を呼ぶのが聞こえた。
「ピエリス! ごめんね、ちょっと手伝ってくれる?」
突然かけられた厨房からの声が天の声に思える。顔だけは申し訳なさそうにして仕事中なので、とヤナギ様に言うとすぐにその場を離れた。何か言いたげだったが知ったこっちゃない。
しばらくして、厨房の用事を済ませた後、ちらりと食堂の方を覗き見る。赤毛はもう見えない。やつはもう部屋に戻ったようだ。よかった…… って、何だろう“よかった”って……
こんなことにホッとしている自分が嫌になる。何だかモヤモヤとした気持ちのままその日は部屋に戻った。
※※※
部屋に着くと、荷物を乱暴に放り投げイーゼルへと向かった。イーゼルの上には、あの不思議な部屋で黒髪の少女に渡したのと同じ絵が描かれている。初めて人に好きだと言ってもらった私の絵。けれど…… 新人公募展の受付終了まで残り1週間…… ここ以外に行く所なんてない。
震える手でイーゼルから下絵だけのキャンバスを取り外す。何も置かれなくなったそこに新しい真っ白なキャンバスを置き、下絵も何もしていないのにパレットを手に取った。宿屋に行く前までは不気味な物に見えていたそれを、今は躊躇なく掴む。何が起きるかなんて気にしてられない。
「じゃあ私今度の新人公募展で賞を取って、何の心配もせずに絵を描き続けたい」
私はあの本に覆われた部屋で確かにそう言った。何が起こったとしてもその願いが叶うのなら…… どんな物にもしがみつくしかない。
パレットを手に取った瞬間、私の両手は私の意思から外れ動き出した。まるで私の腕じゃないみたいだ。
どこか他人事のように、私はどんどん色づいてゆくキャンバスを見つめていた。
花言葉
カタバミ…喜び・輝く心・母のやさしさ