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2 キャンバスと怪しい契約

落ちっ…!


そう思った時には階段から滑り落ちていた。不幸中の幸いとでも言うべきなのか…… 私が足を滑らせたのは踊り場まで残り数段、と言う場所だった。これなら少しの全身打撲で済むかもしれない。一瞬の内にそんなことを冷静に思う。そして、とっさに手を庇うように胸の前で握り、目を閉じた。

  次の瞬間、滑ってゆく足の先にはただの踊り場しかないはずなのに、何故か私の足は何かを吹き飛ばしていた。ものすごく痛い…… 激しい痛みが足元から広がって行く。

 私の足と障害物からゴンッという大きな鈍い音が放たれた後…… 今度はさっきよりは小さなどんっという音と共に全身が床に着地する。不思議なことに、私の身体が着地したのは冷たい踊り場の床ではなかった。何かふかふかと柔らかい物が落下の衝撃を緩和してくれている。そう、まるで高級な絨毯の上にでもいるような…… って、いやいや! 

 勢いよくかっと目を見開けば、両目の端に本だらけの壁が見える。そのままゆっくりと横を見れば、予想通りのお高そうな赤い絨毯が敷き詰められていた。


 ……ん? ここどこ? 頭を打ちすぎて、夢でも見ているのだろうか?


 本ばかりで絵の一つも飾られていない部屋に私はいた。こんな部屋、アパートにはない。でも、今一番に気にすべきはそんなことじゃない! 急いで両手を目の前に持ってくると、何度も見て目立った外傷が無いこと確認した。そして、握ったり開いたりと軽く動かしてみる。


 良かった…… いつも通り。


 両手がどちらも無事なことが分かり心からほっとする。安堵のあまり目を閉じてしまう。そして、大きなため息をしてから目を開いた。すると、私のことを金色に近い薄い茶色の髪と目の青年が覗き込んでいた。肩に軽くかかるぐらいの長さの髪を後ろで1つに括っている。私の視線を受けると、青年はにこりと笑った。あ、私と同じで左目の目元に泣きぼくろがある。


「すごい勢いやったなー。大丈夫なん?」


 人懐っこい笑顔につい警戒心が緩んでしまう。そのまま差し伸べられた手を掴んで起き上がった。

 目の前に立つ青年は鮮やかな黄色の上着と紺色のズボン、どちらも見たことのない生地の服だ。一方私は、薄ピンクのシャツと色の褪せた青いズボン。スカートじゃなくて良かった……

 絵を描いている途中だったので、どちらにもちらほらと石炭の黒い汚れがくっついている。あまり初対面の人にお見せするような恰好ではない。少しでもきちんとしていると見せたくて、落下のせいでぐちゃぐちゃになっていた髪を急いで手で整えた。曇り空のようなくすんだ私の灰色の髪。この前ばっさりと肩まで切ったから整えるのも簡単だ。


「ありがとうございます。残念ながらあまり大丈夫じゃないです、色々痛いです。」

「やろねー。もっのすごい勢いやったから」


 ちょっと失礼なんじゃないかと思うぐらい笑いながら、青年はそのまま部屋の中央にある丸テーブルの向こうのソファーに座った。そして、私に目と手でその向かい側のソファーにどうぞと促してきた。足も痛むのでありがたく座らせてもらおう…… そこまで思った所で、ふと私の手元が空っぽなことに気がついた。


「あ……」


 首を後ろに急回転し、さっきまで私がのびていた床の辺りを見る。え、無い! さっきとは違う意味で頭が痛くなってきた…… どこだ、どこで落としちゃったんだ。アパートの階段? 命の次に、いや、命と同じくらい大切な物なのに…… 

 その時、パニックを起こし固まった私の耳に綺麗な少女の声が響いた。


「素敵な絵ですね」

「え?」


 どなた? 首を前に戻すと、部屋の奥にある暖炉の方から黒髪の少女がこちらに歩いて来ていた。シンプルな白のワンピースの上にえんじ色のストールを羽織っている。腰の少し上まである髪は羨ましいぐらいさらっさらだ。人形のように整った顔の少女は歩きながら、大きな真っ黒い瞳を手元に向けていた。

 彼女の手の中には私がまさに今無くしたと思っていたスケッチブックがある。彼女はそれをパラパラとめくっていた。どうやらこの部屋にいたのは茶髪の青年だけじゃなかったみたいだ。

 少女の来た方を見れば、暖炉の横にやけに目つきの悪い黒髪の少年もいた。どうやらこの部屋には私を含めて4人いるらしい。全然気がつかなかった。この部屋の住人は皆気配を消す術でも持っているか…… 

 ここにきてやっと得体の知れないこの部屋と人物たちに不信感が湧いてくる。もしや、これが今隣国で話題のいたずら精霊ってやつか……? 先ずはスケッチブックを奪還しないと…… 私は取り戻すタイミングを見測ろうと黒髪の少女を見つめた。

 しかし、私の警戒心に満ち満ちた視線は少女にすぐに気がつかれてしまった。黒髪の少女に申し訳なさそうに微笑まれる。うっかりその儚げな微笑みほだされかけた。彼女はスケッチブックを丁寧に閉じると、もう一度微笑んでこちらに差し出してきた。

 

「こちらに開いた状態で飛んできたので、つい見てしまいました。あなたの絵ですよね?」

「そうです……」


 さっきオーナーに酷評されたばかりのせいか、絵を見られたことが何故か後ろめたい。さっきまであんなにも探し求めていたスケッチブックを受け取ろうと伸ばした手がピタリと止まってしまった。

 オーナーの言葉が頭の中で繰り返される。まだ癒えていない傷口を開いてしまったせいか、オーナーの部屋で堪えていた不満が噴出してくる。やばい、これまで色々な人に言われた罵詈雑言の数々まで一気に蘇り泣きそう。悪かったな黒しか使ってなくて。建物が建築学的にありえない? そりゃそうだ、実際の建物を描いたんじゃないんだから。他にも色々とこき下ろされたが、これ以上心の中で反復したら深みにはまる気がする……

 いつまでも差し出したスケッチブックを受け取らない私に微笑みかけたまま、黒髪の少女はまた話しかけてきた。


「この絵はあなたの心の中にあるイメージを描いたのですか?」


 私が動く気配がないからだろう。黒髪の少女は再びスケッチブックを開いて見ていた。

 彼女が今見ているのは階段だらけの建物の周囲を白い鳥と黒い鳥が飛んでいる絵だ。この絵には今の私の思いが込められている。上に行ったと思ったら下に着き、別の道に行こうとしたのに元の場所に戻っている。ゴールも見えず、ひたすらどこに続くのか分からない絡み合った階段を登り続けている今の私を…… そして、このまま自分の絵を描き続けるか、それとも信念をくだらない拘りだと切り捨てるか、どちらにも吹っ切れきれない今の私を……

 新人公募展にどんな絵を出すか? そう考えた時、いくつものスケッチの中でこれだっと思えたのはこの絵だけだった。私の部屋のキャンバス上にはこの絵が描かれている。まだまだ製作途中だけれど。

 黒髪の少女は描かれた白い鳥の上をなでるような仕草をすると、そのページを開いたまま真っすぐに私の目を見つめてきた。


「私は好きです、この絵」

「そんなこと…… 初めて言われた」

「芸術の評価なんてそれを受け取る人によりますからね」


 そう言って黒髪の少女はスケッチブックを閉じた。その動きを目で追いながら思う、そうとは限らない、と。私の国では全て定められてるのだから…… 型から外れた作品なんて、そこら辺の石以下…… いや、それ以上に目に入っていないかもしれない、そう思いながらスケッチブックを受け取る。

 自分の絵に対する初めての誉め言葉に対する嬉しさ。それと、いやそんなことない…… という卑屈な感情が私の中で混じり合って気まずいという感情に落ち着いてしまった。そのせいで黒髪の少女にお礼を言うことができない。そのまま、全てを見透かすような彼女の瞳から逃げるように先ほど促されたソファーに座った。


「どうぞ、これで打った所を冷やしてください」


 ソファーに座るとすぐに、いつの間にか移動していた黒髪の少年が冷えたタオルを渡してくれた。


「あ、ありがとうございます」


 今度はきちんとお礼が言うことができた。少年はぶっきらぼうに「いえ」と言うと、そのまま部屋の端にある椅子に向かって行った。せっかくなのでタオルで痛む頭を冷やす。おお、この肌触り。かなりの高級品に違いない。痛みを抑えるため、というよりは頭を冷やすために思いっきりタオルを目元に当てる。すると、気持ちが少し落ち着いてきた。

 タオルで塞がれた視界の後ろで、ドアを開ける音と足音が聞こえる。それと同時に、ふわりと香る紅茶の良い香りが鼻をくすぐった。香りにつられてタオルを外すと、顔の上半分を狐のお面で隠した長身の男性がテーブルの上に紅茶を置いているところだった。きちっとした執事服に身を包んだその青年の振る舞いはベテランの執事そのものだ。付けているお面を除けば……

 サ、サーカスの方? それともやっぱり精霊? あまりにも突飛なその風貌にあっけにとられていると、目の前に座っている茶髪の青年がからかうような声色で話しかけてきた。


「狐の淹れる紅茶は美味しいから冷めへんうちにどうぞ」

「あ、は…… いただきます」


 茶髪の青年に言われるがままにカップへと手を伸ばす。伸ばしながらも狐面の男性を目で追いかける。彼はそのまま暖炉の方へと進み、黒髪の少女に一声かけると戸棚の本を整理し始めた。少女は相変わらず私の方を見ている。うっかりがっつりと目が合ってしまったので、誤魔化すように急いでカップを口元に運んだ。そして、紅茶を一口飲む。

 あ、本当に美味しい。そう言えば随分と長い間オーナーの部屋に拘束されていたもんな…… そりゃ喉も乾くわ。

 味わいつつもどんどん飲んでいると、あっという間にカップの底が見えてしまった。私が飲み終えるの見届けると、茶髪の青年は胸元で手をパンと勢いよく合わせて言った。


「ほな、契約の話しようか」

「契約?」


 ここまでタオルに紅茶にといたせり尽くせりだ。それもこれも、この明らかに怪しい契約とやらのためか。何か押し売りでもされるのか…… いや、相手が精霊ならもっと恐ろしいもん要求されるかも……

 身構える私を見もせず、茶髪の青年は丸テーブルの下から何かを取り出していた。それをばっと私の目の前に見せるように差し出してくる。そして、その物体の横から顔を出しニヤリと笑った。


「そや。この本に挟んである栞と交換に、君の望みが叶うんや」


 そう言って笑う青年の手の中には…… 今朝私がベッドに吹っ飛ばしたはずの物があった。

 そう、憎きバイブル『色彩でつづる感情』』がこちらにその表紙を向けていたのだ。

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