異世界に来たという実感が湧かない
『街』というものは必ずしも人間の世界だけにあるものではない。いかにも小説に多く書かれるようなことだ。
淡い灰色の石畳の上には様々な店や家が立ち並び、通りは行き交う人々で賑わっている。
――もっとも、『人』ではないのだが。
「酒に酔ったネズミみたいに惚けた顔をしているな。尚更間抜けに見えるぞ」
隣を歩くビスマスに憎まれ口を叩かれるが少女の耳には入ってこなかった。
ここにいるほとんどは黒い服をまとって大鎌を背負っており、彼らはまだ人間のようにも見える。だがそれ以外の人々は黒い羽が生えていたり頭部が動物といった姿も見受けられた。
「ここ……死神だけじゃなさそうね」
「悪魔もいる。それよりやっと目が覚めたのか」
正直、まだぼんやりしていた。突然テレビのチャンネルが切り替わるかのように、薄暗い路地裏から一瞬でこの街に来ていたのだから。
「安心した。泥酔したネズミのままじゃ役に立たないからな」
「ロザリアです」
「何か言ったか?」
「私の名前はロザリア」
「え? 何て名だって? 耳が遠いんだ。俺も歳かな」
「ロ・ザ・リ・ア!」
笑いながら言ってるし絶対、わざとだ。
「ああ、ロザリア。悪い、聞こえてた」
「でしょうね!」
何が歳よ。ロザリアはブツブツと呟き、ふとビスマスを見る。
「あなたいくつなの?」
「死神に歳は関係ないぞ」
何なのよ!
ロザリアはそう叫ぶ代わりに盛大に溜息をついた。
「まあ外見的年齢で判断してくれて構わない」
そう言うビスマスの顔は相変わらずフードで隠されてよく見えない。
「そうだな……三十とか四十とか五十とか」
「どれか一つにして!」
「おい、着いたぞ」
その言葉にロザリアは足を止めて正面を向き、息を呑む。目の前には屋根や壁全てが漆黒に染められた城がそびえ建っていた。
「とりあえず、ようこそ“死ノ城”へ」
*
「小ネズミ、これついでに上の部屋に持ってけ」
城へ入ってからビスマスは羽織っていたローブを脱いでロザリアの方へ放った。バサリと頭から被せられた布は彼がかなりの高身長だということもあっていとも簡単にすっぽりと身体を隠してしまい、思わず尻餅をつく。
「ちなみに部屋は……ふっ、あはははは!」
ローブから抜け出そうとじたばたするロザリアを見てビスマスは笑い出す。
「ちょっと、何がおかしいのよ!」
「動き、動きがまるで……あれだ。えっと、何だっけ?」
「何だっけて、知らないわよ!」
悪い悪い、と視界を塞いでいた布を外される。大きい割にさほど重さを感じなかったのは死神のだからだろうか、と割とどうでもいいことを考えながら見上げて固まった。
「え、あなた……」
彼はローブの下も黒い服を着ており、頭部を左半分だけ剃った奇異な髪型で右目はほとんど長い黒髪に隠されている。少し経って気怠げな灰色の瞳がロザリアを見下ろす。
「意外と普通……きゃっ!」
ビスマスが片膝をついたかと思うと唐突に抱きしめられた。
「え、なになになに……どうしたの?」
「あ」
すぐに離し、再び立ち上がる。一方ロザリアは当然ながら状況が飲み込めなかった。
「なんか、座り込んだまま硬直してるのが……前に飼ってた猫に似ててつい」
「えっと……」
「ほら、猫ってよく置物みたいに座る時あるから」
「そ、そう」
気まぐれで人の心臓をおかしくさせるのは今後やめてほしいと切実に願った。
「話戻るが、一番奥の部屋だ」
「はい」とも「ああ」ともつかない気の抜けた返事をしてロザリアは二階に上がる。
そういえば誰かに抱きしめられたのはあれが初めてのような気がした。
「なんか、殺風景……」
黒い扉が七つ並んだ廊下の壁は白い大理石で出来ているようで、ところどころ黒くひび割れた模様がある。対して床の色は血の海を思わせる深い赤色で足を踏み出せば沈んでしまいそうに思えた。現にここは人間の世界ではないのだからそのようなことが起こっても何ら不思議ではない。
おそるおそる片足を前に出したが沈むことはなく、そのまま足早に奥の部屋まで行って扉を開けた。
「……あれ」
その扉を開けたまま隣の部屋の扉も開ける。
「どうなってるの」
ビスマスの部屋が明らかに広すぎる。隣の部屋の壁があるはずの所には前の三部屋分の広さが足されている。まるでこの部屋だけ異空間に繋がっているようだった。
入ってから天井も異様に高いことに気づく。窓ガラスが天井の縁まであり、陽の光が差し込んでいる。窓を除けば壁も天井も全体的に黒かった。
「欲張り……これ、どこに置けばいいの」
呟いて右を向けば離れた場所に仕事机と思わしきものがあり、隣に上着掛け(これも黒い)が立てかけてあった。そこまで走ってローブをかける。
「机も黒……あの人、どれだけ黒が好きなの……よくゲシュタルト崩壊しないわね」
呆れたように呟いてから何となく置かれた本を手に取って開いて見るが、見たことのない言語ばかりで読むことはできなかった。めくっている途中でふと止める。栞の代わりなのか、八重咲きの透き通るような薄桃色の花が挟まれており、白と黒のみの部屋にまるで合成写真のようにその色だけが鮮やかに映えている。
見たことがない。それなのにロザリアは何故かその花を知っていた。
「……“アザレア”?」
呟いた直後、部屋の外で何かが割れるような派手な音が響いた。おそらく一階だろう。ロザリアは本を閉じて部屋を駆け出した。
階段を駆け下りるとちょうどソファの側にいたビスマスが立ち上がったところでその足元にはガラスの破片が散らばっている。彼は特に慌てた様子もなくそれに手を翳したかと思うと逆再生するかのように元の花瓶の形になり、机の上に戻った。
「だ、大丈夫……?」
「あ? ああ、転んだだけだ」
転んだ。
この人も転ぶのか、と実際に躓いたところを想像して思わず吹き出しそうになり、頭を叩いてその考えを追い払う。
「頭なんか叩いてどうした? イカれたか?」
「なんでもない……ねえ」
手を伸ばしてビスマスの腕に触れる。彼は微かに震えていた。心なしか、顔色も悪い。
何を言うべきかどうか迷った。気遣いの言葉なんて滅多に言ったことがない。
「怪我は、してない?」
結局、言えたのはそれだけだった。
「怪我なんてない。心配、してくれたのか……ありがとう」
『ありがとう』と言った。幻聴だろうか。もしかしたら意外と良い人(死神?)なのかもしれない。
「あなたの部屋、随分広いのね」
何か妙に気恥ずかしかったのでロザリアは咄嗟に話題を逸らす。
「部屋……ああ、そうだろう。あれくらい広くないと俺は退屈すぎて死んでしまう」
「死ぬって、死神なのに?」
「条件を満たせばの話だがな。その条件は死神によって様々だ。例えば俺は……『本当の名を知られたら死ぬ』」
「え、それだけで?」
「ああ。正確には『本当の名を知った者だけが俺を殺せる』。つまり、名前さえ知ってしまえば生物関係なく俺を殺せるというわけだ。例えただの人間でも、ただの動物でもな」