スュートの町
ホシノキは、ステリエル全域に生息する木である。その姿形はおおよそエアラントに生える楓のそれに酷似するが、いくつかの点で大きく異なる。
その中でも最も顕著な違いは、葉が楓のような緑ではなく白であり、しかもそれが絶えず光り輝いている事である。これは、ホシノキが大地から栄養として吸収したエーリアの余剰分を、葉を通じて空気中に放出する時に起こる特殊な反応によるものだと考えられている。
なぜホシノキが大地から余分にエーリアを吸収し、その余りを空気中に放出するのか、その理由については未だ定説がなく謎に包まれてはいる。しかし、このホシノキの起こす作用が、大地に眠っているエーリアを空気中に表出させ、それが風に運ばれてステリエルに行き渡る事が、結果的にステリエルの他の生命にエネルギーを与えていることは確かである。また、副次的効果としてその輝く葉はステリエルに住む生物にとって重要な光源ともなっている。
ホシノキと同じ作用を起こす植物は他にもいくつか例を挙げることは出来るが、それらはどれも希少なものである。そういう意味では、ホシノキがステリエルの生命の根幹を支える重要な要素の一つであることは明白だ。
ハール・ハート『ステリエル生態学入門』より
結局、ラドは自分とロアが回復するまで、ベテルの家に厄介になる事になった。ラドは体のあちこちに打撲による痣が出来ていたが、幸い骨折などはしておらず、打撲もそこまでひどいものはなかった。
しかしロアの方はかなりの重傷であり、とりあえず命に別状はないものの、元のように空を飛べるようになるまでは相当に時間がかかりそうだった。それまでは、エアラントから救援が来ないかぎり、ラドはどうにも動くことが出来なかった。また、その救援も、もしかしたら例の暴風に邪魔されて来れないのかもしれないと、ラドは思っていた。そうでなければ、もうとっくに着いているはずだった。
そういう訳で、ラドは、確かに何か大変な事が起こっていることをひしひしと感じながら、何も出来ないという非常にもどかしい立場に立たされることになったのだが、幸いにもスュートの町にはそんなラドの気を紛らわしてくれるような物がいくつもあった。それらはステリエル国に住む人々にとっては当たり前の物でも、エアラントで育ったラドにとっては物珍しい物ばかりだったのである。
まず第一に、空がいつも暗いという事だけでも、ラドにとっては新鮮だった。エアラントでは、中央の精霊宮に安置されている灯石が島全体を照らしてくれるので、空はいつも明るかったのだが、灯石のないステリエルでは、明かりは星の光と、葉が白く光るホシノキ、そして暖炉や燭台の火ぐらいだった。
このホシノキというものが、またラドには不思議だった。エアラントには灯石の光を受けて多くの植物が育っているが、それらは草から木までどれも葉は緑色だった。もちろん、ホシノキが白く光ることは使徒学院の講義で既に習っていたが、知識として知っていることと実際にその様子を目にすることとは、やはりまったくの別物だった。
ラドがベテルの家で世話になり始めて数日経った頃、ベテルの家の前に生えているホシノキをラドが興味深げに眺めていると、それに気づいたテラが、ガラスの瓶を持ってきた。何をするつもりなのかとラドが見ている前で、テラは紅葉形の葉を何枚か摘み取って、瓶に詰めてラドに手渡してきた。瓶の中の葉は、まだ光を放ち続けている。こうしてみると、楓のような形の葉は、色だけでなく形も星型に似ていた。ホシノキとはよく言ったものだ。
「こうしておけば、三十分くらいは、光りつづける……」
ラドが興味深げに手の上のそれを弄っていると、テラが横から小さな声で説明した。
「へえ~、そんな事も出来るなんて、知らなか……」
言いかけてラドははっと口をつぐんだ。よく考えて見れば、このくらいのことはステリエルの住民にとっては当たり前のことのはずだ。ホシノキはステリエル全域に生えているのだ。その単純な特性も知らないとなれば、出自を疑われるかもしれない。
「……あ、いや、その……」
慌ててごまかそうとしたが、元来そういうことが苦手なラドは、とっさに言い訳を思い付くことができず、結果として余計に傷口を広げてしまった。
「あの……!」
するとテラは、ふいにラドの目をじっと見つめてきた。そのあまりに唐突な不意打ちに、ラドは目を逸らす間もなかった。テラの透き通るような桔梗色の瞳がまっすぐに見てくるので、ラドは妙にどきどきして、結局言い訳を紡ぐことすらできなかった。
「え……っと、何?」
そうして気圧されたまま、ラドは何の考えもなく反射的に尋ねた。
「あの、あなた………どこから来たの……?」
「え? いや、だから……」
テラのか細いのにやたらと鋭い質問に、ラドは為す術もなく攻め込まれるがままになっていた。
「もしかして……空?」
もはやラドの陣営は総崩れだった。敵軍に隙をつかれて突入され、隊列が崩され守備隊が散り散りになるのを、本陣から何も出来ないまま眺めているような、そんな状態だった。
「まさか、見たの?」
ラドはもはやお手上げというように尋ねた。テラはこっくりと頷いた。
「でも……誰にも、言ってない」
テラはその後にぼそっと付け足した。
「え? それは、ありがたいけど……でも、どうして?」
「それは……」
ラドが驚いて尋ねると、テラは今度は急に伏し目がちになって、何かを迷っているようだった。しかししばらくすると、何か思い定めたように再び顔を上げた。しかしその目には、先程のような鋭さはなかった。
「見たときは、びっくりしたけど……でも、あなたは、悪い人には見えないし……なにか、事情があるなら、下手に言わない方が……って」
テラは言葉を選ぶように、いつも以上にとぎれとぎれ答えた。その慎重な物言いは、まるで何かを隠しているかのようだった。
「でも……それじゃ、やっぱり、本当に……?」
テラはラドを見て再び尋ねた。その真剣な様子に、ラドはもう隠してもしかたがないと覚った。
「うん……詳しいことは、話せないけど。そういう決まりなんだ」
ラドは言った。テラは、もっと知りたいという気持ちが表情にありありと出ていたが、仕方ないというふうに頷いた。
「それと、僕が空から来たっていうことも、今まで通り誰にも言わないでいてくれると、すごく助かるんだけど……」
ラドは遠慮がちに頼んだが、テラはやはり頷いてくれた。
「うん、分かってる……知られたくない秘密は、誰にもあるから……」
テラは付け足すように意味深な言葉を言った。とはいえ、さすがにラドはこの状況でそれを問いただす気にはならなかった。
「それにしても、びっくりしたよ。テラってもっと内気な子だと思ってたけど、意外と積極的なところもあるんだね」
テラが迷わず約束してくれたので大分ほっとした気持ちになって、ラドは言った。
「そんなことは……ただ、これだけは、どうしても聞いておきたかったから……」
テラはちょっと顔を赤らめ、俯きがちに答えた。その口調に嘘は感じられなかった。となると、内気なテラをここまで駆り立てる理由が何かあったのではないかと、ラドはふと思った。もしかしたらそれは、テラの「知られたくない秘密」にも関係があるかもしれない。
しかしやはり、根が実直なラドは、テラの気持ちを察してそれ以上追及しようとは思わなかった。
「それじゃ、わたし……星見台の仕事があるから……」
テラはそう言うと、星見台の方へ去って行った。ラドは色々な思いを巡らしながらそれを見送った。
それから数日が経ったが、テラはその時のラドとの会話については、それ以降まったく触れることなく、何もなかったかのように元のような無口な性格に戻っていた。それがあまりにも自然だったので、ラドには時々あの会話がただの夢だったのではないかとさえ思えた。
そんな中、大分体の回復したラドはリハビリのために、足を延ばしてスュートの町を散歩することにした。それまでは、ベテルの家とその近辺より外には出たことがなかった。それは体力がまだ戻っていなかったからでもあるが、同時にステリエルの人々に会うのが億劫だったからでもあった。テラやベテルと出会ったことで、自分がいかにステリエルに関して無知であるかを思い知ったラドは、この調子で無知をばら撒き続ければ、自分がステリエル出身ではないということを感づかれてしまうと思ったのだ。
しかししばらく考えた揚句、ステリエルに関する知識を得て出身を怪しまれないようにするためには、実際にステリエルでの経験を重ねるしかないと気付き、こうして散歩することにしたのだ。
スュートは大きいとは言えないまでも、中々に活気のある町だった。街中には街路樹としてホシノキが植えられており、明るいとは言えないまでも、生活に困らないだけの光源があった。それでも常に明るいエアラントで育ったラドには暗く、慣れるまでかなりの時間がかかった。
ラドがスュートを散歩してまず分かったことは、ここが旅人の通る宿場町であるということだ。ロンドール地方の北西部に位置するこの町は、ここより東に広がる鉱山地帯と、ロンドール地方の西にある、ステリエルで最も発展しているウィルギア地方との、ちょうど中間に位置し、両者間のパイプ的な役割を担っているのである。
そのためスュートにはいくつもの宿屋を始め、通り掛かった人々を楽しませるための施設などが多くあった。それは旅の間に手慰みに弄るための玩具の店からちょっとした賭博場まで幅広くあり、通りを歩いて左右を眺めるだけでも十分に面白かった。
しばらく町中を歩き回った後、ラドはベテルから貰ったお金で食事をしようと、偶然通り掛かった喫茶店「アリア・ワーセ」に入った。
喫茶店の店内はこじんまりとしてはいるが、暖炉の火が煌々と燃えているせいか、どこか独特な温かみがあった。また、店内には客たちの雑談に紛れて、静かだが存在感のある竪琴の音色が流れていた。奏でられているのは悲しみに満ちたような、それでいて落ち着いた親しみを感じさせるような、不思議と人を引き付ける曲だった。
ラドがその音色のする方を辿ってみると、奥の方にあるテーブル席にひっそりと座る少年の姿が目に入った。白塗りの竪琴を優雅に持つその姿は、驚いたことにラドと同じくらいの年格好だった。
「いらっしゃいませ、何になさいますか?」
ラドが音色に惹かれるように少年の隣のテーブルに座ると、ウェイトレスがやって来て尋ねてきた。ラドはまずその丁寧さにびっくりした。もともと使徒のためだけに整備されているエアラントの都市には、そもそも店というものがなく、使徒たちの食事は寮の食堂で賄われていた。そのため、ラドの中には食事所というと威勢のいい食堂のおばちゃんのイメージしかなかったのだ。
「え、えーと……」
ラドはしどろもどろになりながらメニューを開いた。しかし緊張のせいで食べたい物を選ぶ余裕などなく、読んだメニューはそのまま頭の中を通り抜けて行った。しかしその一方で、大人しく佇んでいるウェイトレスを待たせる訳にはいかないという義務感もふつふつと沸いてきた。それで結局、メニューの一番上の料理を頼むことにした。
「こ、この、アマリモノ魚のムニエルを下さいっ」
ラドはちょっと上擦った声で言った。その声音にウェイトレスは一瞬戸惑ったような顔をしたが、さすがはプロ、すぐに表情を取り繕って「かしこまりました」と厨房に戻って行った。
ラドはその後ろ姿をほっとした気持ちで眺めつつ、これからはこういうことにも慣れて行かなきゃならないなとため息をついた。
そしてやっと気持ちに余裕が戻ると、先程までの竪琴の音色がいつの間にか止んでいる事に気がついた。どうしたのだろうと隣のテーブルに目をやると、竪琴を持った少年がしげしげと自分の方を見ていることに気がついた。先程のウェイトレスとのやり取りが、傍から見てよっぽど滑稽だったのだろうと思い、ラドはばつが悪くなった。
「あー……君、竪琴うまいね」
何も言わずに自分を見つめつづける少年に居心地が悪くなり、ラドはどこかはぐらかすような調子で適当に思い付いたことを言った。
「え? ああ、ありがとう」
少年はラドの声を聞いてやっと正気に戻ったように、一瞬驚いた顔をしてから答えた。
「なあ、君ってさ――」
少年はラドに何かを尋ねかけたが、すぐに何か思い直したように口をつぐんだ。さっきのおどおどの直後だったので「変わってる」とでも言うつもりだったのだろうと、ラドは予想した。
「いや、何でもない。俺はルト。君は?」
そこから少年が唐突に自己紹介に移ったので、ラドは面食らった。
「……僕は、ラド」
「ラド……古い言葉で“乗り手”という意味か。注文の仕方も変だが、名前も変なやつだな」
そのずいぶんとあっけらかんな話しぶりに、ラドはまた面食らった。ステリエルの人々は皆こういう感じなのだろうか。いや、少なくともテラやベテルさんは違った。
「……僕、自分の名前の由来なんて考えたこともなかった。君って博学なんだね」
しかし彼の話し方には閉口しつつも、話の内容自体はラドの興味を引くものだった。自分の名前に“乗り手”などという意味があったとは。確かに使徒として精霊のロアに“乗って”いるが、ひょっとしてこの事には何か特別な意味があるのだろうか。
「ん、まあ、いろんなところを旅して回っているからね。多少の知識は嫌でも身につくさ。くだらない取り柄だよ」
ルトはラドのさりげない褒め言葉に、あながち満更でもない様子で謙遜を返してきた。
「へえ、君の歳で旅暮らしなんてすごいなあ」
「いやいや、そういう言い方をすると格好よく聞こえるけど、実を言うと家を飛び出してきたのさ。親に縛られるのが嫌でね」
素直に感嘆したラドに、ルトは肩を竦めて応じた。
「ふうん」
ルトの言葉にラドはふと考え込んだ。ラドには物心つく前から両親がいなかったのだ。気がついた頃にはすでにエアラントに住んでいて、それを至極当然のように成長して来た。さすがに親という言葉の意味は知っていたが、それが一体どういう物なのかは、いまだによく分からなかった。
「……さてと、俺はそろそろ行かなきゃな」
少しして、ふいにルトが言った。
「あれ、もう行っちゃうの」
ラドはちょっと残念そうに聞いた。歯に衣着せぬ物言いにはびっくりしたが、なんとなく仲良くなれそうな気がしていたのだ。
「ああ、この町にいると、ちょっと……嫌な予感がしてな。まあ、旅烏なりの勘というか……杞憂であればそれに越したことはないんだが」
ルトがらしくない言葉の濁し方をしたように、ラドには感じられた。もっとも、出会ったばかりなのにらしさを語るのも変なのだが、言い換えればそれくらいあからさまにお茶を濁していたということだ。
「見たとこ君もよそ者みたいだが、特別な事情があるんでなければ、早く出たほうがいいぜ。じゃあな」
ルトは意味深な言葉を残すと、竪琴を抱えて席を立ち、食事代を払いにカウンターへ向かった。一瞬、ラドは呼び止めて真意を問いただしたい欲求に駆られたが、ちょうどその時注文していた料理が運ばれて来た。
「こちら、アマリモノ魚のムニエルでございます」
「は、はいっ、ありがとうございます!」
ラドは緊張して大声を出してしまい、周囲から白い目で見られているのを感じて赤くなった。ふと見ると、ルトが出て行きがけにニヤっと笑っているのが見えて、いっそう恥ずかしくなった。
しばらくたって、やっと心の平静が戻ってくると、ラドはムニエルをつまみつつ改めてルトの言ったことに思いを巡らしていた。
嫌な予感とは、具体的にどういう事だろう。今自分の身の回りで起こっている一連の出来事と関連があると思うのは考えすぎだろうか。自分のすぐ傍で、自分には見えない巨大な何かが動くのを感じ取るような、そんな不安を感じつつラドは黙々と料理を口に運んでいた。