『赤星』
驚いたことに、この世界には太陽が無いようだ。今、日本から持ってきた腕時計で数えて三日が経ったが、未だに夜が明けることはない。ただ星は確かに動いているようなので、即席でごく簡単な観測をしてみたところ、星は地球と同じように約二十四時間の周期で一周しているようだ。
この世界の空には他にも不思議な点がいくつかある。その一つは、星々の配置に偏りがあるということだ。時間帯によって、文字通り星が満天に瞬いている時と、ほとんど星が見えない時とがあるのだ。星の多い時間帯は当然光量も多く、ある程度物を識別できる位の明るさがあるのに対し、星の無い時は文字通りの真っ暗闇で、ほとんど何も見えない。どうやらこれが地球でいう昼と夜のようだ。
しかし本当に、どうして私はこんな世界に来てしまったのだろう。日本にいた時からここで目覚めるまでの間の記憶が抜け落ちているのか、どれだけ考えてみても、何がどうなってこの世界に来ることになったのか、まったく検討もつかない。
そろそろ持ち合わせの食料も底をつく。なんとか食料を調達しなければならない。驚いたことに、先ほど人家の物と思われる明かりが見えた。何が起こるか分からないので十分な準備と注意が必要だが、どうせこのままで生き残ることは出来ない。次に空が明るくなったらその明かりのある場所に行って見ようと思う。
稲本楓希『異世界放浪記』より
ベテルが報告書を書くために星見台から降りて行った後も、テラは窓際に留まって空を見上げていた。
昴時の星々は青みがかった暗黒の空に散らばり、勝手気ままに瞬いている。南の矢座の隣には三日月が浮かんでいて、銀灰色の光を放っていた。
テラはふと、自分の首に下がっているペンダントを手にとった。銀色の細い鎖に繋がれたその楕円形のペンダントには、表面に三日月の浮き彫りがなされていた。テラはそっと愛おしむようにその浮き彫りをなぞった。
これは、テラが物心ついた時から持っていた物だ。育ての親に聞いたところによると、捨て子であったテラの唯一の持ち物だったのだという。つまりそれは、名も知らぬ実の親とテラを繋ぐ唯一の手掛かりだった。
しかし、今のところこのペンダントから分かったことは何もなかった。宝石商などに鑑定してもらったりもしてみたのだが、これがどこで作られた物か、誰の手による物かなどはおろか、驚いたことに、何の材質でどうやって作られたのかすらも分からなかったのだ。そういう意味では、何も分からないということが分かった、ということは出来るかもしれない。
テラはしばらくそれを見つめていたが、やがてため息を吐き、それを懐に戻した。そしてふと窓の外に目を向けた時、信じられない光景が視界に入ってきた。
空から何か、光るものが落ちて来ていた。数百メートル先に見えるそれは、青く燃える鳥のようだった。しかし距離感から考えると、そうとうに巨大な鳥だった。そして生れつき人一倍目のいいテラには、その鳥の上に何かが、いや、誰かが乗っている事を見て取った。
テラが状況を把握できない内に、それはスュートの町の南側に広がる、枯れて光を失ったホシノキの森に墜落した。青い光は枯れ木の枝に隠れて見えなくなった。
一瞬、何がどうなっているのか分からなかったテラは呆然と立ちすくんでいたが、もしさっき見えたものが本当に人間ならば、当然すぐに助けに行かなければならないのだと思いつき、急いで螺旋階段へと続く扉に向かった。
ラドは、どこか薄明るい部屋で目覚めた。目を開くと、オレンジ色の光で照らされた梁が見えた。顔を横に向けると、煉瓦作りの暖炉の中で火が燃えていた。そしてその横には、バスケットにクッションを敷いて作られたと思われる小さな即席ベッドの上にロアが寝かされていた。
それを見てラドは、気を失うまでに起こったことを思い出した。突然台風のような強風が吹き荒れて、ラド達は吹き飛ばされてしまったのだった。それは、ラドには信じられないことだった。ステリエルに吹くあらゆる風は、フーシャの支配下にあるはずだ。もちろん、多少の歪みや異常はしばしば起こることであり、ラド達使徒はそのためにいる訳なのだが、今回のような暴風は明らかにただ事ではなかった。まるで風が、殺意をもってラド達に襲い掛かってきたかのようだった。
もしかしたら、今回自分が実技試験として修復するはずだった歪みとも関係があるのかも知れないと、ラドはふと思った。しかし少なくとも、何かフーシャにとっても想定外のことが起こっているらしいことは確かだった。あんな風の乱れようは、今までラドが学んできたステリエルの歴史の中ですら、聞いたことも読んだこともなかった。
その時、部屋のドアがガチャリと音を立てて開いた。ラドがその方向を見ると、壮齢の男が入ってくるところだった。男はラドが目覚めているのを見て取ると、ホッとしたような顔になった。
「よかった、目覚めたんだね。調子はどうだい?」
「……とりあえずは、大丈夫です。あなたが助けて下さったんですか?」
ラドは上半身を起こそうとしたが、予想外の痛みに襲われて再びベッドに倒れ込んだ。
「まだ無理をしない方がいい。それと、手当をしたのは私だが、君を見つけてきたのはこの子だよ」
そう言うと男性は、自分の後ろに隠れてラドの視界から外れていた人影に、前に出るように促した。
そうして怖ず怖ずと出てきたのは、流れるような銀灰色の髪を持つ少女だった。背格好からすれば歳はラドとそう変わらないようではあったが、丸顔のせいか人見知りがちな仕種のせいか、実年齢より幼く見えるようだった。少女は何も言わず、桔梗色の眼でじっとラドを見ていた。それを感じたラドは、何となく気恥ずかしくなった。
「済まないね、この子は恥ずかしがり屋なんだ。この子はテラ、私はベテルだ。君の名前は?」
テラが無言のままなので、ベテルは苦笑して自己紹介をした。
「僕はラドって言います。ベテルさん、テラ、助けてくださってありがとうございました」
ラドは起き上がれないながらも丁寧に礼を言った。ラドはそういうことに関してはかなりマメな方だった。
「いや、いいんだよ。……それにしても何でまた、枯れ木の森なんかで行き倒れていたんだい?」
ベテルはふと思い出したように質問を継ぎ足した。
「枯れ木の森……それって確か、レーキ山の北東にある森じゃ……?」
「ああ、そうだよ。ついでに言うとここは、その枯れ木の森のさらに北にあるスュートの町だ。もしかして、倒れた時の記憶がないのかい?」
ベテルは親切そうな声で尋ねてきた。
「あ、いや、そういう訳では……ただ、まだちょっと混乱してて」
ラドは少しごまかしを混ぜて答えた。乗っていた鳥ごと嵐に吹き飛ばされ、気を失って空から落ちたなどと言う訳にはいかない。それはステリエル国ではどう考えても普通のことではないだろうし、使徒にはステリエル国の人に自分の正体を明かしてはいけないという掟があったからだ。
「そうか。それじゃあ、落ち着けるまでゆっくり休むといい。ここは私の家だが、普段余り使わないから、好きなだけいて構わないよ。何か食事を用意しようか?」
「あ、はい……それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきます……ところで、お二人は親子なんですか?」
ラドはふと気になって尋ねた。歳から見れば二人はちょうど親子のようだが、茶髪で面長のベテルと、銀灰色の髪で丸顔のテラは容姿ではまったく似ていなかった。
「いや、こう見えても同僚なんだよ。二人とも星見師で、この町の星見台で観測を行っているんだ」
ベテルは隣のキッチンに入って、料理の準備を始めながら答えた。テラは部屋の端の方にある椅子に座って二人の会話を聞いていた。
「星見師……?」
しかしラドには、それが何なのか分からなかった。エアラントでも一応ステリエル国について一通り勉強はしたが、ラドはもともと勉強が得意でなかったし、こういうことは実際に見てみないと実感が沸かず、覚えづらいものである。
「なんだ、君、星見師を知らないのかい?」
するとベテルはひどく驚いた声で聞いてきた。どうやらステリエルではごく常識的な知識だったらしい。ラドはしまったと思ったが、時すでに遅しである。
「えっと、あの、はい……」
しかし結局、ラドは自分の無知を認めた。根が素直なラドには、この優しそうなベテルにあからさまに嘘をつくのは気が引けたし、下手にごまかそうとして逆にボロを出してしまうよりはマシだと思ったからだ。
「星見師は、まあ文字通り星を観察して、研究する学者の事だよ。ステリエル国の気候や生態系に、星の運行が大きな影響を及ぼしているというのは昔から言われていることだが、そのメカニズムを体系的に解明するための研究をしているんだよ」
ベテルは、しかしラドの事を疑うそぶりもなく教えてくれた。
「今はだいたいどの町にも星見台くらいはあると思ったんだが……ラドはどこか田舎の出身なのかな?」
「ええ、まあ……」
ラドはまた曖昧に答えた。エアラントは空の彼方にあるのだし、田舎と言ってもあながち嘘ではないだろう。
「ところで、ラド。そこに寝かせている鳥は、君のペットなのかい?」
ふと思い出したように、ベテルが尋ねてきた。
「君を森で見つけた時、隣に倒れていたんだが、見たこともない種類の鳥だったから、もしかしたら君が連れていたのかと思って一緒に連れて来たんだが」
「ええ……僕の、大事な相棒なんです」
ラドは眠っているロアに眼をやり、暖かい気持ちになりながらながら答えた。ラド自身は覚えていないが、上空で気を失ってしまったラドがこうして無事でいるということは、ロアがうまく機転を働かせて不時着してくれたからに相違ない。今やロアはラドにとって相棒であると同時に、命の恩人でもあった。
しかし、その時ふとラドの頭にある懸念が過ぎった。もしロアが自分を乗せて不時着したのなら、その瞬間を誰かに見られた可能性がある。もし見られていれば、正体がばれる危険がある。そうでなくても、怪しまれることは必定だ。
「あの、テラ、ちょっと聞きたいんだけど、君、どうやって僕を見つけてくれたの?」
ラドは、部屋の隅でまるで存在感を消そうとしているかのように縮こまっているテラに、なるべく優しい声で尋ねた。
「えと、その……」
テラは不意に質問されて戸惑ったようだった。すこし眼を泳がせていたが、やがて何かを思い定めたように口を開いた。
「『赤星』のことがあって、気分が晴れなかったから……ちょっと、星見台をでて涼んでたら、聞き慣れない鳥の声が、森の方から聞こえて……それで鳴き声のした方向に行ったら、あなたが……」
それを聞いてラドはほっとした。どうやら、不時着するところは見られていなかったようだ。鳥の鳴き声というのは、きっとロアが助けを呼んでくれたのだろう。
しかし、その事とはべつに、ラドの気を引いたものがあった。
「あの、今言った『赤星』って、一体何なの?」
「数百年に一度空に現れるといわれる、謎の真っ赤な星のことだよ」
テラの代わりに答えたのはベテルだった。
「どうして現れたり消えたりするのかは未だに謎なんだが、ステリエルの歴史を見てみると、『赤星』が現れると決まって何か恐ろしいことが起こるという記録が残っている。だから、星見師達の間では有名な凶兆として知られているんだが、実は今日私たちが、おそらく今回の出現に関しては最初に、その『赤星』を観測したんだ」
「へえ……その恐ろしい事って、具体的に今までどんな事が起こったんですか?」
ラドは興味を惹かれてさらに聞いた。もしかしたら、自分達をはねつけた謎の風にも関係があるかもしれないと思ったからだ。
「ふうむ。実は、数百年に一度しか出ないということもあって信頼できる史料が少ない上に、この手の伝説はとかく尾ひれがつくものだから、確かなことは言えないんだが……語り継がれているところに依れば、前回『赤星』が出た時には、国が一つ滅びたといわれている。直接的な理由は分からないがね」
ベテルはそう言って小さくため息をついた。
「国一つ滅びたって……それが本当なら大変な事じゃないですか!?」
ラドは事のあまりの大きさに唖然とした。するとそれを見たベテルが慌てて補足をする。
「まあ、これはあくまで伝説だから、信憑性は薄いが……少なくとも、そんな伝説が残るくらいには恐ろしいことが、前回『赤星』が出た時に起こったということは確かだ」
ベテルが言い終わると、ちょっと嫌な沈黙が訪れた。
「まあ……どっちにしろ現状ではそれ以上のことは分からないんだから、悩んでもしょうがないけれどね。さて、そろそろスープが出来るぞ。テラ、運ぶのを手伝ってくれないか?」
ベテルはそんな空気を打ち破ろうとするかのように声を明るくして言った。テラはちょっと面倒臭そうだったが、椅子から立ち上がってキッチンに向かった。
ラドはそんな様子を眺めながら、今聞いたことについて考えていた。もしその『赤星』の伝説が本当なら、あのレーキ山での突風と関係があるのだろうか。だとしたら、なにか大変な事が、ステリエルに起ころうとしているのだろうか。もしかしたらエアラントにある図書館になら、『赤星』に関する文献もあるかもしれないが、ロアが回復するか、エアラントから救援が来るまでは、エアラントに戻ることは出来ない。
それに、最終試験の合否はどうなるのだろう。こういう想定外の事が起こったことを、エアラントはちゃんと考慮してくれるだろうか。
頭を悩ませる疑問は後を絶たなかったが、それに対する答えは一つも与えられなかった。どうしようもないもどかしい気持ちがして、ラドはふてくされたように寝返りをうった。