風に乗る少年
―太星暦564年43日―
昴時4時頃に『赤星』らしき赤い光を観測。場所はヘルデとヴァヤの間、観測時の座標はS65E46。一瞬で消滅したため確信が得られず、同僚であるテラ・ファストレスにも確認させたところ、同位置に観測したと証言。
これが本当に『赤星』であるのかどうか、引き続き調査の必要あり。
また、同時刻にハトラとケトが空影に入ったらしく、観測不能との報告あり。二つの星が同時に空影に入るのは珍しい事であるので、こちらも要調査。
スュート星見台の観測日誌より
寮にある自分の部屋で、鳥の鳴き声に目を覚ました少年・ラドは、上体を起こしながら眠そうに目をごしごしと擦った。ベッドの脇にある止まり木を見ると、そこには自分の相棒である浅黄色の鳥が苛々したように翼を広げていた。
「やあ、ロア、おはよう」
しかしラドはそんな鳥の様子に気付かないのか、呑気な声で挨拶した。ロアはやれやれという風に翼を畳むと、壁に掛けてある振り子時計を嘴で指し示した。
「?……あっ、もうこんな時間!」
ラドはやっと状況を理解して、ばっと飛び起きた。と思ったら、シーツが足に絡まって床に盛大にたたき付けられた。しかし、痛がっている隙はない。強く打った鼻を手で庇いつつ、すぐに立ち上がったラドは部屋の窓を覆っていたカーテンを開いた。
明るい光が部屋に差し込み、ラドは光に目が慣れるまで目を細めていた。少しすると、窓の外の様子が次第にはっきりと見えるようになった。
外には石畳の広場が広がっていた。広場は寮の建物に三方を囲まれ、残る一方は遠くにある巨大で荘厳な建物・精霊宮に向かって開かれていた。
神殿のような造りのその建物からは一本の高い塔のようなものが伸び、その先端には光り輝く大きな灯石が据え付けられていた。その石が四方に放つ光が、この寮を明るく照らし出しているのだ。
少しの間その光景を眺めていたラドは、ロアが再び怒ったような鳴き声を上げるのを聞いてはっと我に返り、急いで支度に取り掛かった。
「おい、ラド、遅刻だぞ!」
準備を整えて精霊宮の前に飛び込むように駆け付けたラドとロアに、宮の前で待機していた青年が厳しめの声をかける。その隣には鷹のような茶色の鳥がいた。
「今日が何の日か、分かっているのか?」
「ご、ごめんよルート。つい、寝坊しちゃって……」
ラドはハアハアという荒い息の合間に言った。
「俺に謝られても困る。今日はお前の試験なんだからな」
「そ、そうだよね……」
ぶっきらぼうに言うルートの言葉に、ラドは落胆した声で返した。今日はラドが一人前の使徒になるための最終試験の期日だった。この遅刻がその合否にどういう影響を与えるかを考えると、気が重くなった。
「まあいい。とにかく、早く行くぞ」
ルートはそう言うと、さっさと踵を返して精霊宮の正面扉に向き直った。高さ何メートルもある白い大扉には、細やかな金色の装飾が施されていて、いかにも荘厳な雰囲気を醸し出していた。
ルートが扉にある円形の窪みに手を翳すと、その窪みから扉全体へと淡い光の筋が放射状に広がって行った。そしてそれが扉の端まで到達すると、軽く軋むような音を立てて、扉が内側に観音開きに開いた。
ラドとロアは、ルートに続いて精霊宮の中へと入って行った。扉をくぐると、大理石で出来たエントランスの景色が眼前に広がった。正面には二つ目の扉が聳えており、その左右には二階へと続く階段があった。
ルートとその相棒の鳥、そしてラドとロアはエントランスの真ん中に敷かれた絨毯の上を、第二の扉に向かって歩いた。扉の左右には番兵が控えていて、ルートといくつか言葉を交わすと、それぞれ扉の横にある円形の窪みに手を翳した。
先ほど正面扉で現れたのと同じような光の筋が、今度は左右から扉の中心に向かって流れて行った。そしてその光が扉の合わせ目に到達すると、これも先ほどと同じように扉が内側に開いた。
「さあ、ここからはお前一人だ。分かっていると思うが、フーシャ様の前ではくれぐれも粗相のないようにな。あと、まあ……がんばれよ」
ルートが最後にぼそっと付け足した言葉に、ラドは苦笑して頷いた。そしてラド達は扉の中に入った。
大精霊の間は円形の中庭のような作りになっていた。入口からの道と中心は石畳の床になっており、その周りには緑の草花が生い茂っていた。そのさらに外側には水路があり、清らかな水が軽やかな音を立てて流れている。
部屋の明かりは天井にある巨大な水晶から差し込んでいた。この大精霊の間の真上には例の灯石があり、水晶はその光を拡散し、部屋全体を照らす役割を担っていた。
そして、部屋の一番奥には、風の大精霊フーシャと、脇に控える付き人リュアとがいた。フーシャは藍色の鱗を持つ竜の姿をしていた。閉じられた口からは鋭い牙が生え、細長い形の四枚の翼は床に投げ出され、さながら青いカーペットのようだった。鼻の後ろから伸びる左右一本ずつの髭は、風もないのにゆらゆらとなびいている。美し過ぎる蛇のような胴体は床でとぐろを巻き、そして、その目は閉じられ喉からはいびきが漏れていた。
「あ、あのっ、僕、使徒見習いのラド・フィルラーです。今日は、最終試験を受けに来ました。よろしくお願いします!」
しかしラドは、初めて正面から相対する大精霊の荘厳な姿に圧倒され、あまりの緊張から細かいことを気にしていられず、昨夜何度も練習した台詞を復唱した。
「フーシャ様、起きてください。受験者が来ましたよ」
リュアがフーシャの耳元で囁いた。しかしフーシャはそれにいびきで返す。するとリュアは深いため息をつき、手を口に添えてさらにフーシャの耳元に近づき、
「起、き、て、ください!!」
大声で叫んだ。フーシャの目がはっと開かれ、ぶわっと勢いよく首をもたげた。ラドは驚いて飛び上がり、肩に乗っていたロアがバサバサと羽ばたいた。
「寝とらん! わしは寝とらん! ずっと起きとったぞ!……時にリュア、今は何時かの?」
「九時二十分です、フーシャ様。そして、最終試験の受験者ラド・フィルラーが来ています」
慌てて場を取り繕おうとするフーシャに、リュアは異様に冷めた声で現状を説明した。
「九時二十分? 予定より二十分遅いではないか。ラドは遅刻したのかの?」
「すみません! あの、実は寝坊をしてしまいまして……」
ラドは慌てて謝る。
「寝坊? それはいかんな。まったくもってけしからん。だいたい、最近の若者と来たら……」
フーシャは自分のことを棚にあげてブツブツ言い出したが、リュアの突き刺すような視線に気づいて口をつぐむ。
「む、まあ、なんだ……たまには、そんな事があってもいいじゃろ」
そしてフーシャはコホンと一つ咳ばらいをした。そしてさすがにそろそろ真面目に振る舞わなければと思ったのか、真剣な表情になってラドに向き直った。
「さてじゃ、ラド・フィルラー、そして相棒の精霊よ。こうして君達がこの最終試験にまでたどり着いたこと、まずはおめでとう。ここまで使徒になるため学んで来た君達にはすでに分かっていることじゃろうが、使徒たることの責任の重大さ故、大精霊であるわしが直接、改めてこの仕事の意味について伝えなければならん」
フーシャはそう言うと、蒼い鱗で覆われた大きな頭をラドとロアに近付け、彼等をしげしげと見つめた。その目は先ほどのおちゃらけた様子は微塵もなく、代わりに長い年月を生きることで得た知識と聡明さの深みだけがあった。ラドは緊張して声が出なかったので、代わりに大きく頷いた。
「よろしい……この世界・ステリエルに生きとし生けるすべての生命は、エーリアと呼ばれるエネルギーによって保たれておる。エーリアは空を覆う星々から光の形で降り注ぎ、大地を形作る土の中へと染み渡る。その大地のエーリアは草木という形で命を得て、エーリアは地表に表出する。そしてそのエーリアを風が運ぶことで、命の生と死の営み、命と命の均衡を保っておるのじゃ」
フーシャの重みのある口調に、ラドはつい引き込まれて聴き入っていた。先ほどフーシャ自身が言った通り、ラドにとってはとっくに知っていることばかりだったが、やはり大精霊の竜の口から直接語られるのを聞くのは特別に重いことのように感じられた。
「このわしフーシャは、風を司る大精霊じゃ。この天空に浮かぶ島・エアラントに住んで、地上に吹くエーリアを運ぶ風を見守っておる。ステリエルに生きる命のバランスが崩れていないか、故意に風を乱そうとする者はいないか、というようにな」
ラドは再び頷いた。それを見たフーシャは、一呼吸置いてから言葉を続ける。
「エーリアの風に異常が生じた時、それを正す者が必要になる。それがどうしてか、分かるかの?」
藪から棒に質問されてラドは動揺したが、なんとか自分を落ち着かせ、声を励まして答えた。
「それは……エーリアの均衡が一度崩れると、この世界に大きな歪みが生まれてしまう。たとえ始めは小さいものであったとしても、瞬く間に広がっていき、結果として甚大な被害を及ぼす結果になりうる。それほどにその均衡は絶妙であり、また危険な物であるから……ですか?」
ラドは教わったことをなんとか復唱し終わった。いくつか言葉遣いを間違えたかもしれないが、たぶん意味としてはあっているはずだ。
「その通りじゃ。そしてそれこそが、君が今なろうとしている使徒なのじゃよ。使徒は大精霊に仕え、エーリアが意志をもって具現化した存在である精霊を相棒とし、精霊の力を借りて乱れたエーリアを修復する。それが仕事じゃ。分かったかの?」
ラドは三度頷いた。
「よろしい。それならば、この仕事の重みも自然と分かるはずじゃな。使徒がエーリアの扱いを一つ間違えただけでも、ステリエルの生態系が崩壊し、計り知れぬ犠牲を伴う結果を招きかねんのじゃ。それゆえ、使徒となる者にはそれ相応の責任を負う覚悟が必要なのじゃよ。君には、その覚悟があるのかの?」
ラドは今まで以上に緊張したが、ゆっくりと頷いた。物心ついてからずっと使徒になることだけを教えられてきたラドには、それだけの覚悟があるという自負があった。
「よろしい。ならば、本題に移るとしよう。使徒になるための最終試験は実技によるものとなる。実際にステリエルに降り、風の歪みを修復して来るのじゃ。仮に失敗しても被害が最小限に収まるよう、影響の少ない小さなものを指定するが、模擬などではなく本物であるから、そのつもりで真剣に取り組んでくれ。場所はステリエル国ロンドール地方、レーキ山にあるプランヌという村の近くじゃ。細かい場所はロアが教えてくれるじゃろう。それも使徒としての実力の一環じゃ」
フーシャは首をもたげてラドから離れ、やや事務的な口調になって試験内容を告げた。
「刻限はないが、わしが危険だと判断した場合、使徒を遣わして中断させる事はありえる……と言ってもこれはまあ、もしもの場合じゃ。最終試験に来るほどの実力を持っていれば、そういう重大な失敗をすることはまずあるまい」
ラドがごくっと生唾をのんだので、フーシャは安心させるように言葉を継ぎ足した。
「さて、それでは向かってもらうとしよう。今エアラントはロンドール地方上空に浮かんでおる。目的地までそう遠くはないじゃろう。成功を祈っておるよ」
ラドは深く頭を下げると、回れ右をして退室した。そして精霊宮から出て後ろの扉が閉まると、緊張から解放されてふうっと息をついた。
しかし、すぐに本番はこれからだと思い直し、再び気を引き締めた。とりあえず、遅刻の件が都合よくうやむやになったようなので幸先がよかった。この調子でいけば案外簡単に試験にも合格できるかもしれない。
「ロア、行こう。発着場はこっちだ」
ラドはそう言うと、左に向かって歩き出した。その先にはエアラントの白い建造物越しに、星の瞬く暗い大空が広がっていた。
発着場は、エアラントの中心部にある精霊宮から最も近い岸にあった。岸といっても、海に面した海岸ではなく、空に面した空岸とでも呼ぶべき物である。そこは、ラドの一番のお気に入りの場所だった。そこに立つと群青色の広大な空と、その下に横たわるステリエルの大地とが一度に見えるからだ。空を彩る星々と、大地に散らばる人の住む町やホシノキの森の光が、まるで宇宙にほうり出されたようなゾクゾクする感覚を与えてくれるのだ。
そしてラドは今その発着場に、これまでとは違う気持ちで立っていた。今まではその宇宙を見るだけだったのが、今度はその中に飛び立とうとしているのだった。本当に、自分をその宇宙の中へ、見知らぬ世界の中へほうり出すのだ。緊張で、心臓がバクバクしていた。
ラドは大きく深呼吸をすると、肩に止まる相棒の鳥に向かって言った。
「ロア……行くよ」
そして、ラドは地面を蹴って空中に飛び出した。
一瞬、宙に浮いたような感覚があったが、次の瞬間にはもう、ラドは落下を始めていた。それまで周囲を照らしていた灯石はエアラントの陸に隠れてすぐに見えなくなった。そうしてラドは、ビュウビュウという風の唸りを聞きながら、星々の光に照らされるだけの常夜の世界、その数千メートル上空を落ちていた。
しかしラドに恐怖はなかった。脇を落下するロアに目配せをすると、ロアは急に青い炎のような光に包まれた。その青い光はどんどんと膨らんでいき、ついには直径数メートルほどの大きさにまでなった。そしてそれが弾けるように消えると、その中から巨大化したロアが姿を現した。
ロアは落下を続けるラドの下に回り込むと、翼を少し広げて速度を落とし、ラドを受け止めた。ラドは強い衝撃を受けたが、なんとかロアの背中につかまった。そしてロアは今度は翼をいっぱいに広げ、その風切羽に風を受けて舞い上がった。
滑空状態に入り、ロアの飛行が安定すると、ラドはロアの背中の上に腰を落ち着けて、周囲を見渡した。
ラドの左右には、数メートルもの長さのあるロアの翼が広がっていた。巨大化したロアは淡いエーリアの光を放つので、翼は暗闇の中でも浮かび上がるように見ることが出来た。
上に目をやると、エアラントは早くも夜空に紛れて、ほとんど見えなくなっていた。ただエアラントがある部分は星の光が遮られているので、そこに確かにあることだけは分かる。
冷たい風が、ラドの着ている外套の裾をはためかせていた。その風は、不思議とラドを落ち着かせた。まるで風が、ラドの体に纏わり付いていた緊張や不安を押し流してくれたようだった。
ラドは眼下に広がるステリエルの大地を見渡した。そこここに、村や町が発する明かりや、ホシノキのしげみの光などが散在していた。夜に包まれたステリエルでは、光は目印として何よりも貴重だった。
「ロア、目的地はたぶんあっちの方だ」
ラドは、頭で記憶した地図と、地上で光る光とを照らし合わせ、レーキ山のある方角を導き出した。そしてロアに見えるように手を突き出して、指差しでその方向を示した。ロアはすぐにその指示に従い、翼を動かして方向転換した。
それからしばらくすると、前方に高い山がそそり立っているのが視界に入った。その表面にホシノキは生えておらず、山影は夜空の中に真っ黒に浮かんでいた。まるで巨大な怪物がうずくまっているかのようなその不気味な影は、何となくラドを不安にさせた。
ラド達がその山の中腹に降りようと接近した時だった。突然突風が吹き荒れた。まるで闘牛の牛が暴れるように乱れはじめた気流に、面食らったロアは姿勢を崩して一気に高度を落とした。ラドは吹き付ける風のあまりの強さにに目を開いていることも出来ず、ただ訳も分からないままロアにしがみついていた。
「これは、一体……!?」
ラドは言いかけたが、すぐにその言葉は途切れた。再び、しかもさっきよりも狂暴な突風が二人を襲ったのだ。風はラドとロアに容赦なく打ち付け、まるで二人をたたき落とそうとしているかのようだった。
ロアは突風に吹き飛ばされ、グルグルと回転しながら空を飛ばされていた。なんとか風を掴もうともがいているのが背中を通して伝わってくるが、どうやらそれは今のところ徒労に終わっているようだ。
ラドは目が回って吐き気を催しながら、ロアの上で体重を移動させることでロアが体勢を立て直すのを手伝おうとした。しかしそう思った矢先、三度目の突風が襲い掛かってきた。そしてラドは何かに頭を強く打ち付け、そのまま気を失った。