聖女ですが、王妃にも貴族にもならず、神殿職員として定時退勤したい
異世界にその身を放り出された者にとって、もっとも残酷なのは「現実の連続性」がないことではない。むしろ前触れもなくそれまでの日常が断ち切られ、まったく脈絡のないフィクションの文脈に叩き込まれるその不条理さにある。
――異世界に聖女として召喚されてしまった。
その一文だけを切り取れば、どこかの書店の棚にあふれるジュブナイルのありふれた導入に見えるだろう。だが、三十分前まで日本の片隅で、近所のコンビニエンスストアの新作スイーツをカゴに入れるべきか真剣に悩んでいた武井佐紀、十七歳にとってはそんなロマンチックな形容詞は微塵も当てはまらない。それは悪夢であり、国家権力による明白な拉致監禁、あるいはテロ行為に等しかった。
「――あなたこそ、この国を救うために天より遣わされた真の聖女様なのです!」
玉座の間にはおめでたいファンファーレの音色など一切響いていなかった。代わりに支配していたのは足元を冷やす深紅の絨毯の重さと、磨き上げられた白亜の大理石が放つ冷徹な気配、そして壁際にずらりと並ぶ、いかにも国政の利権を握っていそうな貴族や高位聖職者たちの値踏みするような沈黙だった。
その中心で絢爛豪華な王冠を戴いた男が、私の足元に深々と片膝をついている。
どうあがいても高校の帰り道に買い食いをしたプリンの記憶の延長線上には存在しない光景だった。
「……あの」
佐紀は乾いた喉を鳴らし、とりあえずその場しのぎの言葉を落とした。
「元の世界に帰れますか?」
室内からわずかに空気が逃げたような微かな音がした。
王の背後に控える白髭の老宰相がぎょっとしたように目を剥き、その老いた心臓を抑えるような仕草を見せる。王は一度だけ酷薄なまでに長いまばたきをし、それから苦渋を押し隠したような完璧に磨き上げられた苦笑を形作った。
「聖女様。もちろん、元の世界へ戻すための研究や秘術については国家の総力を挙げて検討しよう。しかしまずはこの国が置かれた窮状に耳を傾けていただきたい」
――国家の総力を挙げて。
そのひどく曖昧で都合のいい修飾語に佐紀の警戒心は静かにしかし鋭く尖った。
王の語るところによればこの王国は数年前から魔物の活動が異常に活性化し、国土のいたるところで農作物が枯死、地方都市では原因不明の疫病が蔓延しているらしい。王国の軍事力や経済力はすでに底をつきかけており、古文書の黄ばんだページに記された「あらゆる穢れを払い、万物を癒やす聖女の光」だけが、唯一の縋り口なのだという。
佐紀は王の説明を奇妙なほど冷徹に聞いていた。
聞いた上でその脳裏では電卓を叩くようなシビアな損益計算が走っていた。
――もし、帰れなかったら?
スマートフォンの画面は当然の如く真っ暗で、電波など一線も立たない。
母親には「すぐ戻る」と言い残したきりだ。来週提出予定だった現代文のレポートも、録画予約した深夜アニメの最終回も、彼女の築いてきたちっぽけな日常もすべてが泡と消えた。
それどころか、ここでの佐紀は身分証明書も、預金通帳も、寝床すらない無一文の未成年である。おまけにこの国の最高権力者から「聖女」という逃げ場のない看板を公認されてしまった。
詰んでいる、と佐紀は冷静に結論づけた。
だが、ここでメソメソと泣き言を並べても事態が一ミリも好転しないことくらいは理解している。促されるまま佐紀は神官長に言われるがままに手のひらを虚空にかざしてみた。
その瞬間。
何もない空間から、目も眩むような白い光が溢れ出した。水晶のように研ぎ澄まされた光の粒子は床に刻まれた複雑怪奇な魔法陣を瞬く間に満たし、冷え切った玉座の間に温かな奇跡の気配を漂わせた。
「おお……!」
「これほどの魔力が……!」
「間違いない、伝承通りの真なる聖女様だ!」
居並ぶ神官や騎士たちがどよめき、王が歓喜に満ちた表情で立ち上がる。
「聖女様! どうか、この暗雲立ち込める我が国をお救いください!」
佐紀は自分の光の消えた手を見つめながら、ひそやかに息を吐いた。
――なるほど。この体から溢れる光は紛れもない本物らしい。
つまり「役立たずだから国外追放にする」という気楽なルートは完全に塞がれた。これから先、彼女は国の延命措置のための貴重な労働力として、王宮の管理下に徹底的に囲い込まれるだろう。
しかし佐紀が恐れていたのは肉体的な疲弊や危険だけではない。この世界の構造を少し知るにつれ、彼女は「聖女」という肩書きが孕む、もっと致命的な社会的罠に気づき始めていた。
◆
聖女として王宮の一角にある豪華な客室にあてがわれてから、三日目のことだった。佐紀は担当の専属侍女からこの国の政治構造や身分制度について、懇切丁寧な「講義」を受けていた。
「聖女様には魔物の討伐や浄化の功績に応じ、国家から破格の褒賞が下賜されます」
「はあ、褒賞ですか」
「はい。莫大な金銭はもちろんのこと広大な直轄領、そして『侯爵位』の授与が既定路線として進められておりますわ」
「……こうしゃくい」
佐紀は上品に銀のポットから注がれた紅茶のカップをそっとソーサーに置いた。
ちょっと待ってほしい、と彼女は心の中で叫ぶ。
自分は日本のどこにだにいる赤点スレスレの成績だったただの高校生だ。確かに異世界に召喚され、手から謎の光は出るが、領地経営や貴族社会のドロドロした権力闘争に放り込まれるいわれはない。そもそも自分の部屋の整理整頓すら危うい人間が、一地方の領民の生活を背負うなどテロ行為に近い無責任さではないか。
「それに、殿下も聖女様に大変ご興味をお持ちのようでございます」
「……殿下、ですか」
「王太子殿下ですわ」
侍女は甘い夢を見るような陶酔の表情を浮かべた。
「聖女様のように清らかで気高い方ならば次期国王であられる殿下の妃としてもこれ以上ない組み合わせですもの。すでにお妃教育の課程も作成されております」
佐紀は静かに目を閉じた。
――やはり、そういうことだったのか。
ここで王太子と結ばれれば彼女は「王太子妃」、ゆくゆくは「王妃」になる。
それは佐紀の人生における「個人の自由の完全な死亡宣告」を意味していた。
……冷静に想像してほしい。
朝寝坊は許されない。着る服はすべてTPOと政治的意図で縛られる。行く場所には常に護衛が張り付き、微笑みの角度から些細な失言までが宮廷の噂の種になる。子供を産めば跡継ぎ問題、産まなければ産まないで親族からの冷ややかな視線。
何より精神的に限界を迎えたからといって「明日から仕事を休みます」とは絶対に言えない立場になる。
客室の窓から、佐紀は整然と手入れされた王宮の庭園を眺めた。
幾何学的に刈り込まれた美しい生垣と寸分の狂いもない左右対称の小道。だが、あそこの庭師は自分の意思でそこに雑草をはやしたり、歪んだ木をそのまま放置したりすることは許されないだろう。
あの美しく管理された庭木こそが、未来の彼女の姿そのものだった。
「……私はもっとこう普通に暮らしたいんですけどね」
「まあ……! なんとご謙虚な。自己犠牲の精神に満ち溢れていらっしゃいますわ!」
違う、と佐紀は内心で頭を抱えた。謙虚でも何でもない。ただ過労死したくないし、誰かの政略の駒としてすり潰されたくないだけだ。
この世界の人々は「聖女=無私の奉仕者」という強烈なバイアスを持っているため、彼女の生存戦略すらすべて美談に変換してしまう。
このままでは気づいたときには黄金の鳥かごの中で美しい飾り物にされてしまう。早急に安全な逃げ道を確保しなければならなかった。
◆
翌日、佐紀は王宮の応接室で噂の王太子レオンハルトとの面会に臨んでいた。
金髪碧眼の絵に描いたような美青年だった。立ち居振る舞いは洗練され、憂いを帯びた瞳には確かな知性が宿っている。物語のヒロインであればこの瞬間に胸を高鳴らせるのだろうが、佐紀の頭にあるのは「いかにしてこの高スペックな足枷をスマートに回避するか」という損益計算だけだった。
「聖女様。お初にお目にかかります。私はレオンハルトと申します」
「武井佐紀です。よろしくお願いします、殿下」
「こちらの世界はまだ勝手がわからないことも多いでしょう。衣食住の不自由や心細いことがあればどんな小さなことでも私を頼ってください」
声のトーンまで心地よい、絵に描いたような善人だった。
だからこそ期待を持たせるような中途半端な態度は毒になる。佐紀は背筋を伸ばし、明確に線を引くことにした。
「あの、殿下」
「何でしょう?」
「私、将来的に王宮で働く予定はありませんので……」
レオンハルトの端正な顔が、わずかに硬直した。
「……王宮で、働く予定がない?」
「はい」
「しかし、聖女様にはこの国の危機を救っていただく必要が――」
「国を救うこと自体は人道的な範囲で協力します。ただそれが終わり次第、私は王宮を出て別の場所で暮らしたいんです」
レオンハルトは言葉を呑み込んだように目を細めた。佐紀は極めて事務的かつ淡々とした口調で自身の希望を並べ立てた。
王宮に仕える気はない。爵位も要らない。王太子妃の座も辞退する。一般国民と駆け落ちするつもりもないし、反社会的な組織に身を寄せる気もない。
彼女が求めているのはただそれだけの当たり前の日常だった。
「雨風のしのげる屋根の下で眠り、三食の温かい食事をとり、休日には街で買い物をし、夕方には仕事が終わって自分の時間を過ごす。そういう極めて普通の生活がしたいんです」
「……ずいぶん、具体的かつ現実的なご希望ですね」
「人生設計ですので」
「聖女という圧倒的な地位や名誉に魅力を感じないのですか?」
「肩書きが重すぎて、慢性的な肩こりになりそうです」
「…………」
レオンハルトは小さく息を吐き、苦笑を漏らした。
「あなたは私がこれまで出会ってきたどの女性とも違う。……しかし聖女様。あなたが王宮を離れたとしてもあなたの持つ『神力』を政治的・軍事的に利用しようとする者はこの国の内外に数多く現れます。あなたを守るためにも王宮の強固な保護下に入っていただくのが一番安全なはずですが」
「王宮の保護下ということはすなわち王宮の管理下ですよね?」
「それは少し言葉の選び方が……」
「自分の身の安全と引き換えに個人の自由を全没収されるのは現代の労働基準法に反します」
レオンハルトは、ついに完全に言葉を失った。
佐紀は心の中で深く頭を下げる。
――申し訳ない、殿下。あなたはきっと誠実な人だ。
だが、あなたの善意のパッケージには「王宮所属の聖女・未来の王妃コース」という絶対に避けたい毒が含まれているのだ。
◆
王太子との面会を早々に切り上げた先はその足で城の広大な図書室に籠っていた。
もちろん元の世界へ帰る方法を探すためだったが、古い年代記をいくらめくっても「異世界からの召喚者が元の世界へ帰還した記録」は見当たらない。
代わりに記されていたのは過去の聖女たちの数奇で、しかしどこか窮屈な人生の軌跡だった。
ある聖女は伯爵位を授けられ、ある聖女は王妃になり、またある聖女は王宮の政治顧問として過労死寸前まで働かされた。
どうしてこう、全員もれなく「偉い人」になってしまうんだ……!
聖女だからといって誰もが権力や名誉を望んでいるわけではないはずだ。もっとこう目立たず、定時で上がれて、理不尽な責任を負わされない生き方はできないものか。
そのとき佐紀の指先が、本棚の隅に挟まれていた一冊の分厚い古文書をとらえた。
『王権と神殿の相互不可侵に関する特例法典』
……神殿。
佐紀はページをめくった。
この世界の「神殿」は単なる王立の礼拝施設ではない。王国が成立する遥か以前から存在し、王家とは完全に独立した独自の法体系・財産・裁判権を保持している。神殿に正式に所属する神職者を王家が勝手に罷免することはできない。王が神殿の人事に介入するには厳格な神殿評議会の承認が必要不可欠だった。
そして何より、神殿の職員は「王国の家臣」ではなく「神殿の雇われ職員」という身分になる。
さらにページをめくると佐紀の目を引く一文があった。
『――なお、聖女が世俗の栄誉を辞し、神殿に帰依して神職に就くことを希望する場合、本人の自由意思および神殿長の許可を最優先し、王家といえどもこれを妨げることはできない』
……ここだ!
佐紀の胸の内でパズルのピースが音を立てて噛み合った。
王宮に就職する必要はない。貴族にもならなくていい。王子と結婚もしなくていい。一般社会からドロップアウトするわけでもなく由緒正しくかつ王権の及ばない「神殿の職員」というステータスを手に入れられる。
衣食住は保証され、給料が出て、面倒な権力闘争からは神殿の法律が守ってくれる。
「……就職先、決定」
佐紀は静かに本を閉じ、王宮を脱出するための具体的な段取りを頭の中で組み立て始めた。
◆
王都の中心部。白亜の石壁と青銅色の美しい屋根を持つ巨大な建物が、その神殿だった。
門をくぐると広々とした中庭では子どもたちが駆け回り、回廊では神官たちが淡々と荷物を運び、礼拝堂の前では老夫人が静かに花を生けている。王宮の張り詰めた空気とは異なり、そこには確かな「生活の匂い」があった。
受付で事情を告げると初老の神官は驚愕のあまり持っていた羽ペンを取り落とした。
「せ、聖女様が、神職への志願を……?」
「はい。できれば事務や雑務の末端から覚えて一般の職員として働きたいのですが」
「お、王宮にはすでにご相談を?」
「すべて辞退してきました」
神官は天井を仰ぎ、絶句した。
その後、佐紀は神殿の最高責任者である「神殿長」との面会に通された。
現れたのは銀髪を綺麗にまとめた穏やかだが底知れない知性を湛えた老女だった。彼女の鋭い紫色の瞳が、佐紀の全身を値踏みするようにじっと見つめる。
「つまりあなたは聖女としての役目を放棄したいわけではない。しかしその対価として世俗の地位や婚姻を押し付けられ、人生を拘束されることを拒絶する。……そういうことですか?」
「はい、おっしゃる通りです」
「……神殿に入れば王宮の政治的圧力から完全に自由になれるとでもお思いですか?」
「完全に、とは思いません。でも王宮の言いなりになるよりはよっぽど自分の人生を自分でコントロールできると考えました」
神殿長はしばらく沈黙した後、静かに問いかけた。
「あなたは神を心から信仰していますか?」
意地悪な問いだったが、佐紀は取り繕うことをしなかった。
「正直に言えばこの世界の神様がどんな方なのか、まだよくわかっていません」
「では、神職を志すのは信仰心からではないのですね」
「はい。安定した労働環境と適度なルーティンワークに惹かれました」
一瞬の静寂のあと、神殿長はふっと表情を和らげ、それから上品に笑った。
「よろしい。下手に『神の導きにより』などと取り繕う者よりもその打算の混じった返答のほうがよほど信用できます」
「……いいんですか?」
「ただし、神殿は“避難所”ではありません。厳格な規律もあり、労働もあります。あなたが聖女であろうとなかろうとここでは一人の職員として働いていただきますよ」
「喜んで」
こうして佐紀は見習い神職として神殿の採用試験(試用期間付き)をクリアしたのだった。
◆
神殿での日常は想像以上に忙しかったが、同時に極めて衛生的で規則正しかった。
朝は鐘の音とともに起き、食堂で温かいスープとパンを食べる。午前中は神殿の法規や歴史を学び、午後は実際の業務を手伝う。
掃除、洗濯、書類の整理、薬草の仕分け、孤児たちの学習補助。
もちろん聖女としての力を使う場面もあるが、毎日世界を救うような大魔法を撃つわけではない。定時になれば基本的に仕事は終わり、夜は自分のベッドで静かに眠れる。
そして現代日本の事務職に通じる記憶を持つ佐紀にとって、神殿のバックオフィス業務は「改善の宝庫」だった。
ある日、薬草庫の在庫管理があまりにも杜撰であることに気づいた彼女は手近な羊皮紙と木炭を使って「物品出納台帳」と「ファイリングシステム」を独自に構築した。どこにどの薬草が何束あり、誰がいつ持ち出したのかが一目でわかるようにしたのだ。
それまで行方不明になっていた高価な薬草のロスが激減し、必要なときに関係者が迷わず取り出せるようになった。
「聖女様……! これはなんという神業ですか!?」
「いえ、単なる業務の標準化です」
「整理整頓とはかくも美しいものだったのですね……!」
なぜか神殿の古参の神官たちが、彼女を崇めるような目で讃えてくれた。
この世界の事務文化の底力を思い知った瞬間だった。
◆
平穏な神殿ライフが軌道に乗ってきた頃、最初の本格的なトラブルが発生した。
王都の北側一帯の井戸水が突然濁り、それを口にした住民たちが腹痛や発熱を訴えて治療院に殺到したのだ。
原因は地下水脈の奥深くに巣食った「水質の魔物」だった。魔物が水脈の源流を汚染し、広範囲の水源を腐らせていたのである。
「聖女様、あなたの聖なる力でこの水脈全体を浄化していただけないでしょうか!」
神殿長に急ぎ呼び出された佐紀は現場の状況を聞きながら頭をフル回転させた。
ここで「はい、私一人で全部やります」と英雄ぶれば王宮の連中に再び目をつけられるだけでなく自分個人の負荷が跳ね上がり、ブラック労働の温床になる。
「やり方はあります。ただ、私一人ですべての水を浄化する必要はありません」
「……というと?」
「まず調査班が汚染源の魔物の位置を特定します。その魔物のコアだけを私がピンポイントで浄化し、毒素の元を断つ。そしてすでに汚染された水は治療師の皆さんや魔道具を使って順次ろ過していくんです。役割分担をしましょう」
佐紀の提案に神殿長は深く頷いた。
「なるほど。組織全体の連携で解決するのですね」
現地に向かった佐紀は地下水脈の薄暗い洞窟の中で、指先から最小限の純白の光を放った。
かつて王宮の魔法陣を全開で光らせたときとは違い、今回はまるで外科手術のように精密に魔物の根幹だけに光を注ぎ込む。周囲では熟練の神官たちが防護壁を張り、治療師たちが補助の祈りを捧げている。
一人で何もかもを背負わない。組織として動く。それがたまらなく心地よかった。
一時間の作業の末、地下水脈の水は見事に透明な輝きを取り戻した。
「成功しました――!」
歓声が上がる中、佐紀はその場にしゃがみ込み、小さく息を吐いた。
「ふう……疲れた。これ、今日の残業はなしでお願いしますね」
「聖女様、本当にお疲れ様でした!」
◆
事件の翌日。
予想通りというか何というか、神殿の門の前に王宮の使者が再び姿を現した。
「聖女様! 昨日の地下水脈の浄化、王宮でも大変な話題となっております! ついに国王陛下より伯爵位の授与と、王太子殿下との正式な婚約の打診が――」
「お断りします」
使者が言い切るよりも早く、佐紀は窓口から涼やかな顔で即答した。
「私は神殿の職員ですので王宮の爵位は辞退します。婚約の予定も一切ありません。今後のご用件はすべて神殿長を通してください。あ、もう定時ですので失礼します」
使者が硬直している間に、佐紀はパタンと受付の窓口を閉めた。
完璧な対応だった。
窓の外では夕日が沈みかけ、神殿の鐘が落ち着いた音色を響かせている。
自分の意思で選んだ場所で自分のペースで働き、夕方になればきちんと仕事が終わる。誰も彼女を無理やりお姫様に仕立て上げたりはしない。
「聖女様、今日の夕食、食堂で温かいシチューが出るそうですよ!」
「本当ですか! 急ぎましょう!」
同僚の神官に声をかけられ、佐紀は軽やかな足取りで廊下を歩いた。
異世界に聖女として召喚された十七歳の元・一般人は、今日も今日とて、神殿で平穏に働いている。
なお、彼女の目下の最重要目標は勤続六か月を迎えたら確実に取得できる「有給休暇」を使って、隣国の温泉地へ二泊三日の旅行を計画することである。
神殿の就業規則のページを彼女はすでに五回も読み直していた。




