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8.追悼の痕跡と見えざる手

 更衣室のロッカーの前で、招代は制服を脱ぐ手を止めた。

 脳裏から、どうしても拭い去れない。過去の犠牲者名簿にあった、あの一行。


 早瀬 遥・女性・二十三歳・大学生。


 活字の羅列にすぎない、たった数十文字のプロフィール。

 だけど、探し出してしまった瞬間から、死者の名前は勝手に言葉を紡ぎ出す。

 困ったように眉を寄せた、あの表情と重なる。

 あの、薄い唇と。所在なく絡まる、白い指先と。

 ページの上の文字が、招代の知っている輪郭を纏う。

 そして。暗いホームの底で響いた、寂しげな問いかけ。

 ロッカーの扉を閉じながら、胸の奥でざわめく嫌な予感を振り払った。




 ここ最近。泊まり勤務のたびに、最終業務後のホームへ向かうのが習慣となっている。

 でも。

 数日、遥の輪郭の薄い夜が続いていた。いつもより形が曖昧で、声もどこか遠い。

 呼びかけると、反応はある。

 だが。聞こえてくる言葉は、とても不明瞭で。次元の違う場所で、待ち合わせているかにも思える。

 満足に会話ができない、招代にとってモヤモヤとした日が続く。

 そして、ついに昨夜。

 ベンチの前に彼女はいなかった。

 薄い、陽炎のような立ち姿も。夜風に揺れる黒髪も。

「早瀬さん?」

 口から出た弱い声が、ホームの虚空に吸い込まれてゆく。

 残ったのは、無機質な静寂。

 招代は、小さく肩を落とした。

 彼女も、なにか思うところがあるのだろう。

 そんな日もあるさ。

 むしろ。未練がましく立ち止まっていたら、ジャマになるかもしれない。

 招代はカバンを持ち直し、ベンチの前を通り過ぎる。

 瞬間。

 こめかみに、ざらつくような違和感。

(なんだ?)

 気になって振り向く。ベンチに、薄暗い影法師のようなものが居座っていた。

「早瀬、さん?」

 足を止め、もう一度だけ呼び掛ける。まさか、と思ったが、念のための措置。

 返事はない。

 不快にも感じる、実体のない影は何も言わぬまま。存在しないハズの目で、招代を睨んでくる。

(……早瀬さんじゃ、ない)

 反抗的な威圧感で、ハッキリした。

 以前、暴れる乗客から感じたものと同じ。どす黒い、不浄の沈殿物。

 そして、もうひとつ思い立つ。この招かれざる何かが、彼女を遠ざけているのでは?と。

 招代は奥歯を噛み締め、震えそうになる足を踏ん張った。

「ココは、あなたの居場所じゃない」

 恐怖を怒りで塗りつぶし、鋭く睨みつける。

 実体のない影は最初、反発するように揺らめく。

 だが、招代が一歩踏み出すと観念した。煙が風に巻き取られるかのように、こつぜんと姿を消す。

 少し、怨めしそうな。重苦しい雑音を残して。

「ふぅ……」

 招代は深く息を吐き出した。淡い期待を抱きながら、周囲を見回す。

 結局。昨夜は最後まで、遥の輪郭を見かける事はなかった。




 私服に着替え、家路をたどる。

 日が暮れるにはまだ早い、六月の昼下がり。最近は梅雨らしく、湿度の高い厚い雲が、空いっぱいに垂れこめる。

 雨に降られる前には自宅アパートへと戻れた。

 冷蔵庫をあさって、出てきた缶コーヒーを一本開ける。

(報告書を読んだからといって、何かが変わるハズもないのに……)

 招代は天井を見上げた。

 名前が分かった。死んだ日が分かった。死んだ理由も。

 でも、それだけ。

 彼女をどうすればいいのか。何ができるのか。答えは、まだ何もない。

 だからと言って、立ち止まる理由にはならない。

 招代はスマホを取り出した。

 昨晩、健人から送られてきたメッセージを開き直す。

 粗くて不鮮明な画像だが、誰かが花を供えるのが、かろうじて分かる。

 それは十年前、地方紙の片隅にひっそりと掲載された、事件の追憶だった。

 犠牲者への追悼式典のひと幕だ、と添えて。

 招代は、思わず画面を指でなぞった。

 遥のことを、今も覚えている人間が、いる。

 無言で、缶コーヒーの空き缶を持ったまま。十年前の、誰かの祈りが頭から離れない。

「よし」

 おもむろに、招代はスマホの連絡先を開いた。

 さ行のアタマ、「佐々木健人」を選択する。コールが三度鳴り、間の抜けた声が返ってきた。

『はい、佐々木です』

「オレだけど。今、少しいい?」

『なんだ、招代か。驚かすなよ』

 うわべのよそよそしさが崩れ、遠慮のない口調へ変わる。

 だから。招代は前置き抜きで本題を切り出した。

「この前、送ってくれた記事の写真だけど。写っていた人物を、もう少し調べてもらえないか」

『ああ、あれか』

 健人の声に、少し思案するような間が入った。

『実は送った後、オレもちょっと気になって、別のアーカイブも覗いてみたんだ』

 もったいぶった沈黙に、招代は息を呑んで続きを待つ。

『それでさ、名前まで載ってる記事も見つけて……』

「名前?」

『木下沙織、って女性らしい。遥と同い年くらいだから、友達だったんじゃないか、と思う』

 友達。

 招代と健人と同じ、かけがえのない関係。

「健人。その人に、連絡を取れる?」

『へ?』

 遠慮なく追加依頼をぶつけると、息を呑む気配がした。

『それってさ。オレが調べて、直接会いに行けってこと?』

「頼む。オレが動くより、健人の方が自然に話を切り出せると思うんだ」

「お客さまセンターの仕事もあるし、調査の名目も立てやすいだろ」

『いや、待て。お客さまセンター関係ない』

 スピーカー越しにも伝わる、明らかに動揺した健人の声。

『遺族でも知人でもない俺が、いきなり連絡しろ、だって?どう見ても不審者だろ』

 ぐうの音も出ない正論が、容赦なく突きつけられた。

「分かってる。でも――」

『でも、じゃない』

 少し強めの、軽口を越えた荒い語気。

『招代。お前さ、俺にムチャ振りするの、これで何回目だと思ってんの』

「……数えてない」

『俺は数えてるからな。ちゃんと』

 律儀なヤツ、と部屋に大きな嘆息の音が流れる。

 そして。招代は黙って待ってみた。

 健人がこういう間を置くとき、大抵は次に「分かったよ」が来ることを、中学の頃から知っている。

『……分かったよ。やるだけ、やってみるわ』

 やはり、そうだった。

『あと、接触できるかどうかは保証しないからな。相手が嫌がったら引くし、無理やり押しつけるようなマネはしない。それでいいだろ?』

「ああ。それで十分だ。ありがとう」

『礼はいいから、メシをオゴれ。破産させてやる』

 冗談とも本気とも取れる、健人の脅し文句。

 本当に食べてしまいそうな憎まれ口の後に、一拍の間が空く。

『……あと、お前が変なことに巻き込まれたら、ちゃんと俺に言えよ。隠すなよ』

 声のトーンが、少しだけ低くなっていた。笑いの混じらない、素のひと言。

「……ああ」

 短く答えてから、通話を切った。

 黒く変色した画面を見ながら、少し後悔する。

 昨日、ホームで体験した得体の知れない気配。

 あの違和感を、健人と共有したほうが良かったのでは?

 いや、と、すぐにアタマを横に振った。

 今は言わないほうがいい。

 言葉にした瞬間。イヤな予感が、現実となる気がして。

 窓の外、遠くで踏切の音が鳴った。いつもと同じ、日常の音。

 なのに。どこか遠い場所のように、聞こえた。




 健人の言葉通り、自分が「変なこと」に巻き込まれつつある自覚はあった。

 最近、路線全体が静かな狂気に当てられている。

 招代が車掌になる前から、天凰電鉄はたび重なる事故や事件に頭を悩ませてきた。

 その頻度が、とみに増えている。笑って見過ごせる、誤差の範囲に入らないほどに。

 さらに輪をかけて奇妙なのは。発生した事故の原因が、ほとんどが不明なこと。

 当事者の証言は、どれもあやふやなものばかり。

 誰もが、見ていない第三者に無理やり体を動かされた、という信じがたい証言を繰り返した。

 招代も、他人事ではいられない。

 なにしろ、彼も遭遇しているのだから。


 上り列車に乗務していた、ある日の夕暮れ時。ちょうど、駅間にある直線区間に差し掛かった時の出来事。

 なんの前触れもなく、車両が急ブレーキをかけた。

「えっ?!」

 車輪とレールが激しく噛み合い、キキーッ、という甲高い摩擦音を立てる。

 慣性の法則に従い、不意に前方へと投げ出される身体。

「うっ!」

 反射的に両足で踏んばり、急制動に耐えた。右手は、無意識にマイクを握る。

「急停車します。ご注意ください」

 努めて冷静に。心情を表に出さないようアナウンスを始めた。

 車内から上がる悲鳴と混乱を、少しでも相殺する。車掌が見せる、最後の抵抗。

 その間も、電車は急制動をかけ続けた。きしむような悲鳴を上げ、瞬く間に減速する。

 完全に停止する寸前、ガクンッ、と重心が後ろへ振り回された。

「そのまま、しばらくお待ち下さい」

 冷や汗をかきつつ、招代は次の対応へと頭をフル回転させる。

 不満に満たされた不満の喧騒へ耳を傾けつつ、窓から身を乗り出した。線路の先へ目をこらし、状況を確認する。

 車列から煙が出た兆候はなし。脱線したような様子も見当たらない。

 状況が飲み込めたのは、無線の通信からだった。

『指令っ、コチラ2221車。北乃〜霊峰八皇子間、5号信号機が急に停止現示に変わったっ。非常停車っ』

 車両を運転士が指令へ、現状を伝える報告が入る。

 素早く、招代はマイクを操る。

「ただいま、前方の信号が赤に変わったため、非常ブレーキが動作し停車しました。

 現在、原因を確認中です。お急ぎのところ恐れ入りますが、そのままお待ちください」

 車内への放送を終えると、運転士とのインターホンにつなぎ変えた。

「御厨です。なにがありました?」

『前の閉塞が赤に落ちた。先行列車で何かあったかのかも』

 同じ年頃である運転士からの報告に、招代は訝しげに表情を曇らせる。

「踏切ボタンが押された可能性は?」

『かもしれない。指令で確認してもらってる』

 現状を把握し、手元のスイッチを切り替える。

「現在、前方の安全確認を行っております。発車まで、しばらくお待ち下さい」

 ともすれば、すぐに暴発しかねない乗客をなだめる。

 それでも、不満の種は枯れない。

 乗務員室を隔てる壁の向こうから、苛立ちの混じった舌打ちと、ヒソヒソ声がじわじわと充満し始める。

「もう、何も起こらないでくれよ」

 マイクのスイッチを切り、招代は祈った。

 ここでパニックが起これば。また、出発が遅れてしまう。

 気をもむ時間が、じりじりと神経を削っていく。永遠とも思える、わずかな待機時間。

『指令より、2221号車。前方に障害物および先行列車はないか?』

 唐突に響いた指令からの呼び出しに、招代も反応する。

『2221号車。前方に障害物および先行列車の姿はなし』

『了解。中央モニターには異常は見当たらない。これより、閉塞指示運転の手配をとる。停止現示を越えて進行せよ』

 通常から逸脱した、緊張を伴う命令。

 赤信号を越えて、車両を走らせる。

 安全のマージンを切り取って、数百人の乗客を駅まで運ぶ。

 この先には、セーフティーネットなど、ない。

『2221号車、了解。次の信号機まで、15キロ毎時の速度で徐行運転を開始する』

 先ほどと打って変わった、運転士の緊迫した息遣い。

 同時に、こわばった手でATSを解放しているだろう。

 ほどなくして、ガタンッ、と車両が揺れた。

 恐る恐る、電車が走り出す。

『お待たせいたしました。当列車は安全が確認できる、非常にゆっくりとした速度で運転を再開いたします』

 一呼吸置いて、招代は鎮痛剤となる謝罪の言葉を紡いた。

『通常より、大幅に時間を要しますことを、お詫び申し上げます』

 そう。歩くのと同じスピードで、鉄路を踏みしめる。景色の流れも、じれったいほどに遅い。

 だとしても。まずは電車を動かす方が大事。

 客室で膨れ上がった不満は、目的地へと進むことで徐々に薄らいでいく。

 そして。

 問題を起こした、信号機の横へと差しかかる。

「ん?」

 窓から前方を注視していた招代は、信号機に目のピントを合わせた。

 根元に、黒いモヤがわだかまる。

 霧のように揺らめき、信号機を内側から包むように。

 招代の背筋に悪寒が走る。

(なんだ?)

 そう、それは。

 幼い頃から幾度となく直面してきた、この世のものならぬ不浄と似ていた。

 だが、それも一瞬。

 通り過ぎる頃に、モヤはすうっ、と消えた。


 結局、5号信号機が赤になった原因は分からなかった、という。

 保安要員が急行して点検したものの、どこにも異常は見当たらなかった。

(もしかしたら……)

 根本に集まっていた、黒いモヤ。

(あれが、原因?)

 根拠のない、直感。だけど、一番しっくりくる推論。

 でも。確証なんてドコにもない。




 ヒヤリハットの事案から数日後。

 次に業務する電車を待ちながら、招代は無意識に左右を警戒していた。

 端元(はしもと)から神宿へと下る、普通電車の車掌業務。朝の通勤ラッシュもひと段落した、終業までの穏やかな時間。

 本来なら、過度に周囲を疑う必要のない、白日の下に転がる安全地帯。

(やっぱり、ヘン、だよな……)

 気がつくと、制服の胸元を強く握りしめている。

 それだけ、緊張を強いる業務が続いている、ということ。

『1番ホーム、電車が参ります。白線の内側までお下がりください』

 空を走る送電線が震え出し、機械仕掛けのアナウンスが流れる。

 招代は思考を中断し、次に乗り込む車両へと視線を飛ばした。

 と――。

「えっ」

 思わず、目を見開いた。

 視界の隅に捉えた、線路上に立ち尽くす人の影。

 ゆっくりと、駅へ侵入する電車に向かい、踏み込んでいく。

「危ないっ!」

 身体が、本能で動いた。

 脇にあった非常停止ボタンを叩くと、急いで白線の外側へと駆け出す。

 すばやく周囲の安全を確認し、身を乗り出した直前。

「おまえもだ」

 誰かに、耳元でささやかれた。

 氷のように冷たい感触に、背中を強く押される。

「うわっ!」

 不意の出来事に、何もできず身体が宙を舞った。

 踏み止まろうとする両足は虚しく空を掻き、ホームから線路上へ突き落とされる。

「痛ててっ……」

 何とか受け身を取ったものの、背中から砕石(バラスト)に叩きつけられた。

 肺から空気が弾き出され、制服を突き抜けた激痛が走る。

 だが、痛みにうずくまっている時間などなかった。

 (轢かれるっ!)

 死の恐怖に急き立てられるように跳ね起き、前方を――助けるべき人影へと目を向けた。

 同時に。人影も、こちらを振り返る。

「えっ?」

 思わず、招代は息を呑む。

 救助者の顔が、なかった。

 顔の形をした、黒い空白。そこだけが世界から切り取られたような、昏い虚無。

 そして。

 人影は線路の上で、するりと、霧のように消えた。

 続けて目に飛び込んだのは、迫りくる電車の正面。

「うわあぁっ!」

 巨大な鉄の塊は火花を散らし、招代を飲み込もうと突進を続ける。速度は落ちているとはいえ、止まっていない。

 招代は、とっさに身をひるがえした。

 なりふり構わず砂利を蹴り立て、ホーム下の隙間へ、泥臭く暗がりへと身を投じる。

 間一髪。

 潜り込んだのと同時に、電車が身体の脇を通り過ぎた。

 ブレーキが限界まで踏み込まれた、鼓膜を切り裂く金属音。

 容赦なく、全身を芯から揺さぶる重低音。

 頭上から聞こえる、女性の悲鳴。

 しばらく、生きた心地がしなかった。

(助かった……んだ…………)

 すべてが通り過ぎてから。招代は肺の底から生命の息吹を吐き出した。

 全身から吹き出した冷や汗に、生きている事実を噛み締める。

 それでも、見逃せないことがある。

(今のは……。オレを……殺す気でいた?)

 招代は制服の胸元を、内側からぎゅっ、と握りしめた。

 指の奥に、ペンダントの輝石が当たる。

 ——生きている。

 その事実だけが、今のすべて。

 休憩室での会話や報告で聞いた、気味の悪い証言と同じ。

 目に見えない、第三者の悪意が、ついに自分へも明確な牙を剥いたのだ。

「おーいっ、生きてるかーっ!」

 事態の異常性など知る由もない駅の係員が、頭上のホームから大声で呼び掛けてくる。

 日常の延長にある呑気な響き。

 狂気の世界に片足を突っ込んでしまった今の招代には、ひどく遠い世界の出来事のように感じられた。

この小説は、執筆にAIを利用しています。

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