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6.牙を剥く日常、氷河期の亡霊

 指令所と各車両を繋ぐ無線が、この日ばかりは混乱した。

『コチラ、多摩霊園駅で待機中の第2042列車っ!ホーム上でお客様同士の殴り合いの喧嘩が発生!至急、応援をっ!』

『指令から第2042列車。駅係員は現着しているか?』

『来てますが、数が多くて対応しきれませんっ!お願いですから、もっと人をよこしてくださいっ!』

 切羽つまった現場からの報告。いら立ちを隠せない指令の怒号。やりとりの間に入り込むノイズ。

 ひっきりなしに飛び交う怒号と悲鳴が、無線からあふれ出す。

「御厨。オマエはツイてないな」

 隣で車掌業務をこなす中根の言葉に、招代は首を縦に振った。

 確かに、ツイてない。

 ちょうど、別駅での業務に就くため便乗し、事故に巻き込まれた。

 まだ、自分の乗務すら始まっていないというのに。完全に出鼻を挫かれた格好だ。

「人身事故に線路内立ち入り。その上、ケンカもおっぱじめやがった。こんなんで、どうやって回復できんだ、ってな」

 中根がニヒルに口元をひねり、軽い舌打ちを鳴らす。

「仕方ないですよ」

 招代はなだめるように、苦笑いを返すしかない。

 事故発生から、かれこれ三十分。

 事態は収まるどころか、ドミノ倒しに悪くなっていた。

 当初は戸惑いと嘆息で包まれていた客室も、次第に刺々しい、不満の色に染まっていく。

「ま。救いなのが、すし詰めの車内じゃない、ってくらいか」

「先輩。乗客に悪いですよ」

 デリカシーのない失言に、招代は小さく眉をひそめた。

 彼のことが、少し苦手だった。

 招代より、よっつほど先輩である。普通なら運転士として活躍する年齢。

 なのに車掌として先輩風を吹かす向上心のなさに、どうしても尊敬できなかったからだ。

「フンっ」

 気に入らなそうに、中根は鼻を鳴らしてそっぽを向く。

 招代もあえてそれ以上は口を出さなかった。

 狭い乗務員室で、先輩とふたりきり。

 殺伐とした無線の声だけが、耳の中をざらざらと撫でていく。

「なぁ、御厨」

 沈黙を破ったのは、中根のほうからだった。

「最近、ヘンじゃないか?」

 先ほどとは打って変わった、低いトーン。表情も、真剣なものへと変わる。

「変、ですか?」

 招代がオウム返しに聞き返すと、相手は大きく頷いた。

「ここ数年だぜ?客のマナーが、目に見えて落ちてんの」

 中根は大きく肩を落とし、窓の向こうで苛立つ乗客たちを一瞥する。

「ちょっと遅れただけで文句を言い、肩が触れただけで怒鳴り合う」

 先輩は、頭の横で指を回す。

「昔からあったけど、最近はヒドすぎだぜ?どいつもこいつも、自分のワガママを押し通そうとしやがる」

 吐き捨てる相手の横で、招代は複雑な思いで視線を伏せた。

 口は悪いものの、先輩の言い分は分かる。

 現場に立っていても、乗客たちの(すさ)みようは目に余る。理不尽なトラブルが原因の事故も増えた。

 ただ、それだけなのか?

 単純に、利用客の要求がエスカレートしているだけなのだろうか。

 招代は、判断つきかねた。

 重苦しい沈黙が、乗務員室を満たす――

 と。

 コンコン、と。乗務員室の内窓を叩く音が、ふたりの会話に割って入る。

「ほっとけ」

 中根は面倒くさそうに顔を背けた。

 だが、音は止まない。いや、次第に殴打は激しくなる。

 客室から伝わる、ざわめきの温度が変わった。

 硬質な音が、にわかに張り詰めた空間に響く。かぼそい悲鳴が、壁の向こうから聞こえた。

 ガンッ!ガンッ!

 遂に、扉全体が激しく揺れる。邪魔な仕切りを破壊したいのか、狂気じみた連打が降りそそぐ。

 マズい。

 招代が身構えるより早く、事態の異変に気づいた中根が先に動く。

 乱暴な手つきで車掌用のマイクをつかむと、指令所へ連絡を入れた。

「2104車両より指令。高畑富堂駅での停車中、錯乱した乗客が扉を叩き割ろうとしている。大至急、マルタイを呼んでくれっ」

『了解。指令より2104車両へ。少し待てっ』

 指令からの返信を受け取る間、中根は招代に向かって顎をしゃくった。

 行け、という無言の指示。

「えっ!」

 招代が目を見開く。

「2104車両より指令。早くしろっ!」

 交信を続ける間も、中根は目で合図を送り続けた。誰よりも険しい視線で、体よく居合わせた後輩を急き立てる。

 そこに、さっきまで軽口を叩いた先輩の姿はない。

 誰よりも乗客の安全を守る、鉄道員の顔。

「っ!」

 先輩の真剣な顔を目の当たりにし、招代も覚悟を決めた。

 歯を食いしばり、乗務員室を飛び出す。




 退避した利用客であふれかえるホーム。招代は人の波をかき分け、騒ぎの中心へ。開きっぱなしのドアから客室へと踏み込む。

「ひっ!」

 招代が小さい悲鳴を上げた。

 眼の前で荒れ狂う光景に、足が震えた。身体の血流が引き、芯から凍りつく。

(なんだ、これ……)

 無言で壁を殴る、スーツ姿の男性。血走った目を扉の一点にそそぎ、鮮血を撒き散らす拳で叩くのを止めない。

 正気とは思えなかった。

 仕事柄、トラブルには何度も遭遇してきた。泥酔して暴れる客も相手にしたこともある。

 でも、今回はどれも参考にならない。経験したことのない異常な光景。

 まるで、何かに取り憑かれたような。

(そんなコトっ!)

 招代は必死に頭を振り、なんとか現世に踏みとどまった。

 すくむ足を必死に動かし、殴打を止めない男性にしがみつく。

 今は考えるな。業務の遂行が先だ。

「お客さんっ!乱暴はやめて下さいっ!」

 暴れる胴体に両腕を回し、説得を試みた。どうにか大人しくさせようと、両腕に力を込める。

「ふざけるなぁっ!」

 車内を揺らすほどの大絶叫を上げ、スーツの男は身をよじらせた。

 いや。化け物じみた邪気をまき散らし、全身を使って暴れ始める。

 人間が出したとは思えない、想像を超えた力で。

「うわぁっ!」

 大きく振り回され、招代は間の抜けた声を上げてしまった。

 乱暴にもがく男の肘が肩に当たり、大きく弾き飛ばされる。

 どうしようもなく、手を離してしまった。車内の手すりに身体を激しく打ちつける。

「お客様っ!落ち着いてください!」

 それでも。姿勢を立て直し、暴れまわる男性に立ち向かう。

 その時。

 相手はピタリ、と動きを止めた。

 ぐるり、と首を回し、招代の目を見据える。

 ぞっ、とした。

 瞳孔が点となった、白い眼球。深いシワを刻む顔。大きく開いた口には、歯ではなく牙が並ぶ。

 そして。なによりも、オーラが昏い。

 どす黒く、生者の体温を根こそぎ奪う毒々しい気配。絶対的な不浄の冷気。

 過去にも感じたことのない、純粋な悪意そのもの。

「ああああぁぁっ!」

 腹の底から響く奇声を上げ、人の形をした者は招代へつかみかかった。

 抵抗する間もなく、招代は着ていた白シャツが引き裂かれた。何もできず、床へ組み伏せられる。

(殺されるっ!)

 本気で最期を予感した。恐怖で喉が引きつり、悲鳴すら声にならない。

「いい加減に離れろっ、この野郎!」

 目を閉じた瞬間。のしかかっていた重みが、不意に軽くなった。

 遅れて駆けつけた中根の、野太い怒声が車内に響き渡る。力まかせに、暴れる男を背後から羽交い締めにした。

 いや。

 中根だけでなく駅係員も次々と加勢を始めた。

 数人がかりで、怨念じみた男から招代を引きはがす。

「御厨ぁっ、大丈夫か!」

 なおも抵抗を続ける暴漢を、中根は払い腰で床に転がした。すぐさま、別の制服が上から伸しかかる。

 三人ほど折り重なるようにして押さえつけ、ようやく乗客の動きが止まった。

「離せぇ……離せよぉ……」

 顔だけ出した男の、内側からあふれ出た狂気が引いていく。

 怨霊めいた鬼気も、徐々に弱くなる。

 そして。

 乱暴客の目から、あの昏い光が消えた。

 糸が切れた人形のように。力なく、うなだれる。

「すみません……すみません……」

 ついに、最後には泣き始めた。




 後からやって来た警察官に引きずられ、憑き物が落ちた男は駅舎へと連行された。

 小さく身体を丸めて立ち去る男の背中は、あまりにも惨めで。渦巻いていた暴力の余韻すら、嘘のように霧散していた。

「大丈夫だったか?」

 中根が、招代の肩に手を置く。

「はい……」

 招代は頷く。

 被害は破かれたシャツだけ。おもてに出た肌には傷ひとつない。

 だが、心臓の鼓動は痛いほどに脈打っていた。手も、まだ震えている。

(あれは……)

 乗客の背後から感じた、濃密な死臭に似た感触。

 忘れようのない、忌まわしき過去。

 幼い頃。生家で味わった記憶と重なる。

(いや、まさか……そんな…………)

 招代は引き裂かれたシャツの胸元へ、無意識のうちに手をやった。

 破れた布の向こう、ペンダントの輝石が指先に触れる。

 奇妙なことに、温かかった。

 荒れ狂っていた恐怖が、ほんのわずかだけ遠のく。

 ——なぜかは、分からない。

 浮かび上がる最悪の直感を、必死に打ち消そうと荒い息を吐く。

「御厨、どこか痛むのか?」

 心配そうに。顔を覗き込んだ中根の声で我に返る。

「い、いえ。大丈夫です」

 とっさに答えると、中根はそうか、と返した。

「じゃあ、シャツだけ着替えてこい。そんなカッコじゃ、業務できねぇだろ?」

 招代は黙ってうなずいた。忌まわしい記憶を無理やり心の奥底へ押し込め、破れた胸元を隠しながら駅務室へと駆け出す。

 結局。運転再開は、さらに二十分遅れた。




 数日後。

 疲れを残した重い身体を引きずり、招代は日勤を終えた。

 窓の外はまだ明るい。六月の長い陽射しが事務室をオレンジ色に染め上げる。

 生者の活動する昼と、亡者の棲まう夜が溶け合う境界線。逢魔が時。

「こんなの……おかしいよな…………」

 招代はため息を漏らした。

 人身事故が起こった日から、あの亡霊――早瀬遥と会っていない。

 会う機会に、恵まれなかった。

 都合よく、希望通りの電車に割り当てられるなど、ほとんどない。どのダイヤを任されるかは、助役と主任のさじ加減で決まる。

 現場の鬼と恐れられる多田津助役。その右腕である田澤主任。

 正当な権利である有給の申請すら、ためらってしまうふたり。

 むしろ、向こうから催促されるのが常。

 だけど。それでも。

(また来る、って言ったし……)

 招代の顔に陰が差す。約束を果たせないもどかしさ。

 一人で待たせているであろう彼女への罪悪感が、胸の奥で渦を巻く。

 考えても仕方のないことだと分かっていても、どうしても意識が神宿駅の地下へと向かってしまう。

「ふぅ」

 重いため息と一緒に夕方の事務室に戻る。と、田澤主任が一人、デスクで目薬をさしていた。

「お疲れ様です」

 声を掛けると、田澤は目尻の滴を指で拭い、ゆっくりと振り返った。

「ああ、御厨くん。お疲れ様でした」

 いつもの通りの、のんびりした挨拶が返ってくる。

 だけど。いつもと違い、声に張りがない。

「どうかしましたか?」

 招代が尋ねると、田澤は目薬を置き、深いため息をついた。

「すぐに広まるので、御厨くんにも伝えておきます」

 窓の外から忍び寄る夜の闇を見つめ、ひどく掠れた声で続ける。

「和田くんがね……退職したい、と。助役に辞表を提出したんです」

「えっ?」

「彼自身が殴られた後、今度は御厨くんまで客に襲われたでしょう? 」

 主任から発せられる沈痛な告白。数日前に自分が巻き込まれた、あの事件が鮮明に蘇る。

 焦点の合わないふたつの眼。牙をむき、襲い掛かってきた影。

「それで、現場の空気がおかしくなっている、と。すっかり怯えてしまってね」

「そんな……」

 自分も遭遇した、骨の髄まで凍りついた恐怖に唇を噛む。和田だって、同じ思いをしたのだろう。

「和田さんの気持ち、分かります」

「…………そうです、ね」

 招代が重い口調で同情を寄せると、田澤主任はデスクの引き出しを開ける。

「実際、事故件数は去年の同時期より5割ほど増しています」

 机の上に広げられた書類のグラフには、恐ろしいほどの急勾配が刻まれていた。

 人身事故。線路内立ち入り。痴漢。車内トラブル。

 全てが、目を疑うような増加を示している。

「ヒドい……」

 招代は呻いてしまう。

 増えているとは、肌で感じ取っていた。が、こうして数字に出されると、改めて悪寒を感じてしまう。

 まるで、得体の知れない悪意が。路線全体で増殖しているような。

「オヤっさん……。この数字、知ってますよね?」

 招代が尋ねると、田澤は天井を指さした。

「今、上と掛け合ってくれています。警備の強化とか、対策会議とか」

「駅長と、ですか?」

 主任は首を横に振る。

「と、いうと?」

「さらに上……駅長や管区長すら飛び越えた、本社運輸部のお歴々たち、です」

 田澤から出された答えに、招代の目が大きく開かれた。

「オヤっさんが、背広組と?」

 招代は絶句してしまう。

 現場ひと筋の多田津助役。彼が本来の指揮系統をすっ飛ばして、本社の幹部たちに頭を下げる。

 いくら部長たちが雲の上の存在とはいえ、ちょっと想像できない。

「大丈夫なんですか?いくらオヤっさんでも、本社の連中が相手じゃ立場が……」

 心配する招代に、田澤主任は上司を誇るような乾いた笑いを漏らした。

「オヤっさんも、勤務歴は長いですしねぇ。同期もいるハズですし、アテのひとつやふたつは持っているのでしょう」

 招代は何も言えず、ただ、立ち尽くした。

 恐ろしいスピードで事態が悪化し、和田が辞めた。

 現場を守るため、オヤっさんも動いている。

 でも、自分は何もしていない。

 招代の胸に、拭い去れない嫌な予感が広がる。脳裏をよぎる、冷たい感触。

 深夜。ベンチで見た女性の影。

 暴力事件を起こした生者の、体温を奪ったオーラ。

 バラバラだった点と点は、どこかひとつに繋がっているような気がして。

 だから。招代は口を開いた。

「主任。実はお願いが――」




 帰り道。アパートへと続く坂道を上りながら、招代はスマホで検索をする。

 検索窓に入力した文字は『早瀬 遥』。

 少しばかりの祈りと共に、検索ボタンを押す。

 思ったより、数多くの結果が返ってきた。

「こんなに……」

 手始めに、画面の先頭にあったSNSのアカウントを開く。

 似ても似つかない、派手なメイクを施したインフルエンサーの写真が乱暴に飛び込んできた。

(まったく、違うや)

 検索結果に戻り、次の結果を確認する。

 また、違う女性だった。戻って、次の結果を指でつつく。

 繰り返し、上から順に。表示されたリンクを追いかけた。

「ハァ……」

 画面の中ほどまでスクロールしたところで、画面から目を離す。

 結局、あの亡霊につながるかつての事件や訃報などの痕跡は見つからない。

(なんで……いや、当たり前か)

 徒労感と共に、招代は役に立たなかったスマホをしまい込む。

『PHSも持っていないので。ポケベルは持っているんですけど……』

 彼女の、時代錯誤な言葉を思い出す。

 携帯電話すら普及しきっていない、九十年代後半。そういえば、彼女が着ていたのは少し古めかしいデザインのリクルートスーツだった。

 あの時代は、就職氷河期だった、と聞いたことがある。

 学生たちは企業からのわずかな採用通知を逃さぬよう、ポケベルを握りしめていた。

 連絡が入るたびに、公衆電話へ走ったという。

 もし、彼女が。あの時代から、ずっとホームに囚われているのだとしたら。

 現代のネット空間に、アカウントがあるはずもない。

 だとしたら。探すべきは、当時の事故記録や過去の新聞記事だ。

(なんで。あんなコト、言っちゃったんだろう)

 再びため息が、湿った夜風にさらわれた。

 遥との取り返しのつかない口約束。主任へ願い出た、夜勤中心への偏ったシフトの希望。

 越えてはいけない境目を、自ら踏み越えてしまった恐怖が足元にまとわりつく。

 それでも。

 招代は空を見上げる。

 星はなく、重苦しい雨雲が夜空に立ち込めていた。


この小説は、執筆にAIを利用しています。

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