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5.深夜の対話

 招代が削り出した秒数を起点に、他の乗務員たちも連携して対応する。

 リレー形式で。安全を最優先しながら、次の車掌へ責任を受け渡していく。

 誰か一人が突出するのではなく、全員が少しずつ。

 もう一度、自分にバトンが回って来た頃には、ダイヤは完全に回復した。

「ふう……」

 招代は乗務員室でひとり、首元にじっとりと張り付いた湿気を払う。

(いよいよ、今日の大詰めだ)

 懐中時計を手に取り、時間を確認する。

 もうすぐ日付が変わる時刻。この、神宿行き最終電車を無事に届ければ、本日の業務も終わりだ。

 視線を動かすと、窓から車内の景色が。誰もが、目に見えて疲れていた。

 それは、まるで生気を失った亡者の群れにも見えて。

(バカなコト、言うなっ!)

 招代は首を振り、自分を戒めた。

 生者を死人にたとえるなんて。乗客を預かる車掌以前に、人間として失礼。

 皆、懸命に今日という一日を生き抜いた立派な生者なのだ。

 ああ、分かってはいる。

 だけど。この時間になると、どうしても思い出してしまう。

 終着駅の、あのホーム。

 招代の脳裏に、初めて彼女に会った、深夜の光景が蘇る。

 ベンチの近く。ベージュのコートを手にした、若い女性。

 そして。生者の体温を根こそぎ奪い去るような、冷たい指先。

「……っ」

 記憶を、強引に追い払う。

(考えるな。また会うわけがない)

 祈るように言い聞かせ、業務に集中する。

 電車はレールのきしむ音を引きずりながら、都心へとひた走った。




『次は終点、神宿、神宿。両側のドアが開きます。どなた様も――』

 電子音声のアナウンスに、乗客がゆっくりと動き出す。誰もが黙ったまま、静かに出口へ群がっていく。

 亡者のように。言葉も交わさず。

(もうすぐ、到着する……)

 心音が大きくなった。冷房をかけているのに、白い手袋が、中からじわりと冷たくなる。

「落ち着け」

 招代は荒くなる呼吸をゆっくりと飲み込んだ。

 他に誰もいない乗務員室で、固くこわばった両頬を叩く。

 逃げ出したい。

 でも、動く密室から飛び降りられるはずもない。

 それに、職務が残っている。途中で放り出せるハズがない。

「大丈夫。なにも起こらないさ」

 呟き続ける中、車両が最後の駅へ。白々しいLED照明の下へと進入する。運転士の技量で、いつも通り停止線ぴったりに車体を止めた。

『神宿、神宿。終点です。お忘れ物のないよう、ご注意ください』

 ドア開閉スイッチを操作する指が、少し震えた。

 空気の抜ける音を合図に、すべてのドアが解放される。

 乗客がホームへ吐き出された。誰もが肩を落とし、重い足取りで改札口の奥へ。すべて溶けるように消えていく。

 すぐに、車内から誰も居なくなった。

 招代は制帽をかぶり直し、車内点検へ向かう。

 忘れ物がないか。危険物が放置されていないか。

 床へ、網棚へと視線を移しながら、機械的に確認していく。

「異常なし」

 声が頼りなく掠れた。確認する指がブレる。

 冷や汗でシャツを肌に張り付かせながら、身に染み付いた動作を繰り返す。

 それでも。最後尾からの点検は、いつもより時間がかかった。どうにか運転席へ到達すると、見慣れた顔が出むかえる。

「ああ、御厨くん」

 佐藤運転士は、自分の腰回りをトントンと叩く。

「悪いんだけど、また腰がね」

(またか……)

 招代は内心でため息をついた。

「分かりました。お疲れ様でした」

「すまんね。今度こそ、明日には治しておくから」

 佐藤運転士は数日前と同じセリフをこぼし、足早に去っていく。

 徐々に小さくなる背中に向け、招代は大きく肩を落とした。

「ウソだろ…………」

 業務規定違反。

 オヤっさんに大目玉を食らったと聞いたのに、まだ懲りていないらしい。招代と同じく、数日のブランクを強要されたというのに。相変わらずこの調子だ。

 だが、グチを言っても始まらない。

 ひとり車内に残って、パンタグラフを降ろし、車内灯を落とす。

 ガクン、と動力が落ちる音と共に、長い車両が闇に沈んだ。

 ホームへ降り立ち、乗務員室の扉に鍵をかける。

 静まり返った、無機質なコンクリートの箱。

 あの夜と、同じ。招代だけの息遣いしか聞こえない、半地下の静寂。

「ふぅ……」

 蒸し暑い夏の気配が、じっとりと肌をなでた。ネクタイを緩め、こわばった首に手を回す。

「気のせいだって。誰も、いるはずがない」

 もう一度だけ、自分に言い聞かせる。

「よしっ」

 気合を入れ直すと、カバンを手に駅舎へ。足早に、中央のベンチを避けて歩く。

 でも。

 目が、勝手にそちらを見てしまう。

 そして――、いた。

 ベンチの近くで周囲を見回す、二十代前半の女性。

 六月の湿った夜気には到底そぐわない、ベージュのコートを着て。黒髪を所在なさげに揺らしている。

 間違いない。あの夜に見た、亡霊。

「あ……」

 招代の足が、ぴたりと止まってしまう。

 見てしまった。

 見えては、いけないものが。

 背筋に凍てつくような悪寒が駆け上がり、全身に鳥肌が立つ。

 耳元で激しく脈を打つ、血管の音がうるさくわめき散らす。

(逃げろ)

 と、本能が叫んだ。

(ここから、立ち去るんだ)

 今すぐ背を向け、一目散に退避しろ、と命じる。

 だが。

 招代は、立ち止まった。

 笑うヒザを両手で強く押さえつけ、震える足で冷たいコンクリートを踏みしめる。

「…………」

 今日、自分は逃げなかった。

 苛立つ乗客たちの刺さるような視線にも、ダイヤを回復させる重圧にも正面から立ち向かい、やり遂げたじゃないか。

 それに。たとえ今、逃げ切れても、また会う。

 前回のように。過去、出会った恐怖と同じく。後悔と自己嫌悪に塗りつぶされる結末が待っているだけ。

 なら、今度こそ。

 招代は歯を食いしばった。眉間に力を入れ、季節が戻ったような冷気に、正面から立ち向かう。

 それは、車掌としての矜持なのか。

 何度も犯した、過去の過ちを繰り返さないためか。

 彼にも分からない。

 ただ、これだけは確か。

 招代は、一歩を踏み出したのを。




 革靴の音が、静まり返ったホームに響く。

 もう一歩。また一歩。

 亡霊との距離が、少しずつ縮まっていく。

 彼女も、こちらに気づいた。

 困ったように。所在なさげに揺らぐ青白い顔が、招代に固定される。

 温度を感じさせない目が合うと、招代の心臓も早鐘を打つ。

 でも、足を止めない。

 亡霊の数歩手前で、招代は止まった。

「こんばんは」

 声が、震えていた。喉が乾いて、うまく言葉が出てこない。

 亡霊は、少し驚いたように目を見開いた。

「こっ、こんばんは」

 慌てて、小さく頭を下げた。半透明の身体が見せる佇まいは、終電を逃して途方に暮れる迷子のよう。

 予想外に礼儀正しい振る舞い。招代は戸惑い、押し黙ってしまう。

 重苦しい静寂が落ちた。

 生者と死者が向かい合っているというのに。流れてくる重苦しい熱風は、ひどく人間臭くて、気まずい時間。

「あのっ」

 先に口を開いたのは、亡霊だった。

「前に……、ここでお会いしましたよね?」

 少しはにかんだ、彼女からの問いかけ。

 招代は固い表情のまま、うなずく。

「はい。覚えています」

「やっぱり……。私も……覚えています」

 亡霊は、小さく微笑む。

 輪郭は、前回よりもはっきりしていた。

 招代が逃げずに、彼女を「一人の人間」として正面から見据えたからだろうか。陽炎のように頼りなかった不鮮明さは和らぎ、服のシワまで見て取れる。

 彼女が抱える孤独を、少しだけふち取ったように。

「あっ……あの……」

 意を決し、今度は招代が問いを投げかけた。

「探し物は……見つかりましたか?」

 どうにか絞り出した質問に、女性の亡霊はゆっくりと首を横に振る。

「まだ……見つからなくて」

 困ったように、眉を寄せる。

「何を探しているのかも……よく分からないんです」

「忘れ物センターには、問い合わせてみましたか?」

 続けて、静かに尋ねると、やはり今度も困った顔をして視線を落とした。

「ごめんなさい……。電話しようと思ったんですけど……」

 申し訳なさそうに言葉を濁し、所在なく青白い指先を絡ませる。

「公衆電話が……見つからなくて」

 公衆電話?

 返ってきた聞き慣れない単語に、招代の思考が止まる。

「ケータイも、PHS(ピッチ)も持っていないので。ポケベルは持っているんですけど……」

 亡霊の口から次々と飛び出す、レトロな名詞。白々とホームを照らすLED下では、ひどく不釣り合いで。

 ピッチ、ポケベル。

 駅長とオヤっさんの昔話で出てくる、かつての通信手段。

 たぶん。ケータイも、招代が知るものと違うのだろう。

 彼女の言う「ケータイ」は、きっと招代がポケットに入れている薄い板状の端末のことではない。

 もっと厚みがあり、アンテナを伸ばして使う、過去の遺物。

 だとしたら。

 彼女は一体、いつから居るのだろう?

 携帯電話が世に出て、街角から緑色の公衆電話が次々と姿を消して。

 さらに時代が進み、スマートフォンが当たり前になって。

 どれだけの時が流れた?

「それで……どうしたらいいのか分からなくて」

 亡霊の、途方に暮れた弱々しい声。透き通ってなければ、生身の人間とまったく区別がつかない。

 それだけ、生死が入り混じった、ちぐはぐな存在感。

 現実離れした世界に迷い込み、招代はどうすれば良いのか分からなくなる。

「そう、ですか」

 そう、返すので精一杯。言葉が鉛のかたまりとなって、喉をふさぐ。

 彼女が十何年、もしくは何十年もの間、この半地下で待ち続けたのだろう。

 どんな強烈な未練が、彼女をここに縛り付けているというのか。

 招代には見当もつかない、長すぎる年月。

「あっ、あのっ」

 少し古いスーツ姿の女性が、また口を開く。

「私、ずっとここにいる気がするんです」

 招代の呼吸が一瞬、止まる。心臓が、強く跳ねた。

「でも、いつからなのか……思い出せないんです」

 亡霊の語尾が徐々に小さくなる。

 すがるように目じりを下げた視線が、見えない鎖に縛られた彼女の悲哀を物語った。

 だから、招代は黙って聞いた。

 恐怖はまだ残っている。でも、彼女の言葉に耳を傾けることは、できた。

「なんで、ここにいるのかも……よく分からない……」

 亡霊は、自分の手を見つめた。

 白く透き通った、小さい手。

「ここに来る前のことも……ぼんやりしていて」

 自身の拠り所すら見失いかけている。静かで、悲痛なSOS。

 まるで。指の隙間から自分自身がこぼれ落ちていくのを、何もできずに見ているかのように。

「名前は……覚えていますか」

 せめて、それだけは手放さないでほしい。

 その思いが、招代から言葉を引き出した。

「名前、ですか?」

 女性の亡霊は、困った顔で首を傾げた。

 すり切れた記憶の底を、必死に探り当てるように。

 霧の彼方にかすんだ自己の断片が、声の形になるまで。息の詰まる時間。

「早瀬……遥」

 自分で確認するように。ゆっくりと、自分の名前を口にする。

「たぶん、私の名前です」

 自信がなさそうに。彼女は薄い唇を震わせた。

「早瀬さん」

 だとしても。招代は亡霊の名前を呼ぶ。

「あっ……はいっ」

 遥は小さく微笑んだ。名前を呼ばれたことが、嬉しいのだろうか。

「他に、覚えていることは?」

 招代が問うと、遥の表情が陰った。残念そうに、虚ろな瞳をさらに沈ませる。

「なにも、覚えてないです…………家族の顔も……最後に誰と話したのかだって、すっぽりと抜け落ちていて」

 消え入りそうなほどに儚く、遥はうつむいた。

「私……おかしいですよね?他の人は声かけても、反応してくれないし」

 焦点の合わない瞳が、虚空をさまよう。

 招代は何も言わない。言えない。

 ただ、哀しき迷い人の前で。直立不動のまま、かけるべき言葉を見失っていた。

 遥の生気のない目が、そんな彼を捉える。

「あなたは、私を見てくれますよね?」

「……はい」

「なぜですか?」

 問われても、招代は答えられない。

 なぜ、自分には見える?

 幼い頃から、ずっとそうだった。見えてはいけないものが、見えてしまう。

「分かりません」

 招代は、正直に答えた。

 遥は、少し寂しそうに笑った。

「そうですよね。ヘンな質問でした」

 生気のない声で淡々と紡ぐ。

「私、昔っからヘンなんです」

 亡霊は、生気のない声で淡々と紡ぐ。

「友達からも、よく言われました。どんくさい、って」

 ふと、亡霊は招代と真っ直ぐに向き直った。

 感情の抜け落ちた顔で。深海のように冷え切った瞳で、彼をじっと見つめ返す。

「私、どうしたらいいんでしょう?」

 突然の質問に、招代は答えに窮した。

 そんなことを言われても、答えようがない。

「……分かりません」

 結局、同じ答えを返してしまう。

「そう……ですよね」

 遥も、寂しそうに薄く笑った。

 諦めきったように、青白い輪郭を夜の闇へ溶け込ませる。

 生者と死者の会話が途切れた。

 静寂がふたりを包み込み、吐息すら聞こえないほど深く沈み込む。

 永遠が引き延ばされた、空虚な時間。

 と。

 背後の乗務員通路から、重い足音が響いた。招代の名前を呼ぶ、誰かの声。

 その声が、オヤっさん――多田津助役のだと気づいた。

 おそらく、帰ってこない招代を心配して様子を見に来たのだろう。

「すいません。もう、行かないと」

 招代は逃げるように、しかし確かな申し訳なさを込めて頭を下げた。

 自分自身で発した声音が、思いのほか大きかったのを内心、驚く。

「そう……ですか」

 少し残念そうに、遥は顔を伏せた。独りぼっちの迷子を見捨てるような、救いのない情景。

 招代は、罪悪感で胸を鋭く締め付けられる。

 恐怖は消えていない。

 証拠に、制服のシャツは冷や汗でべったりと肌に張り付く。

 だが、それよりも。

 誰にも存在を信じてもらえない、彼女の孤独。

 それが、自分自身と重なり、じっとしていられなかった。

 幼い頃から周囲に理解されなかった、過去と。

「また……来ます」

 だから、だろうか。

 思わず招代が口走ると、遥は目を見開いた。

「本当、ですか?」

「……はい」

 少しためらったものの、今度は意思で。自分でも驚くほど、はっきりと答えていた。

「ありがとうございますっ」

 お礼を言う遥の声が、少しだけ明るくなった。

 深々と頭を下げる亡霊の横を、招代は歩き出す。

 数歩、前に進んでから、振り返る。

 遥が、小さく手を振っていた。

 招代も、小さく手を上げた。




「なにボーッとしてるっ」

 招代の前に立つや否や。多田津助役のゲンコツが、招代の脳天にクリーンヒットした。

「スイマセン。少し考え事を」

「こんなトコロでか?」

 少し涙目になりながら、招代がウソをつく。と、多田津は鋭い視線を青白い顔の部下に向けた。

「そんなの、駅舎でもできんだろ?だから、佐藤に、いいように使われるんだ」

 太い腕で背中を叩かれた。思ったよりも強い衝撃に、招代は危うく革靴を滑らせて転びそうになる。

「まあいい。今日は、もう上がれ。朝から働き詰めだろう?」

「いいんですか?」

 むせ返りながら顔を上げた招代へ、多田津は現場を取り仕切るボスの顔で頷く。

「変則シフトになるが、仕方あんめえ」

 もう一度。今度は軽く背中をポンと叩かれた。

 そのまま、ふたりそろって駅舎へと足並みを揃える。

「で。実際、なにしてた?」

 道すがら。多田津の訝しげな視線が招代を射抜いた。

「なんか。誰もいないトコロで、ブツブツ言ってたように見えたが」

「気のせいですよ」

 招代言葉を濁す。

 幽霊を見て、会話していた。

 本当の事を、オヤっさんに言って、どうにかなるとは思えない。

 心象を悪くするか、また心身が弱ったと見られてしまうか。

 後者なら、車掌の資格も奪われる可能性だってある。

 だとしたら。秘密にしておいたほうが、何かと都合が良い。

「そうか?まぁ、そういうコトにしてしてやる」

 多田津はそれ以上踏み込まなかった。

 ただ、夜の闇に沈むホームを一度だけ振り返る。

 そこに居るはずのない何かの気配を、長年の勘で探るかのように。




「失礼します」

 最終点呼を終えた後、そそくさと更衣室へ向かう。

 ロッカーの前で私服に着替える頃には、少し冷静に立ち返れた。

 背筋に遅めの悪寒が走る。

(なんで……)

 あんな約束をしてしまったのか。

 また来る、と。

 また、あの女性――遥という名の亡霊に、会いに行く、と。

 怖いはずなのに。

 逃げたいはずなのに。

 でも。

 遥の、あの寂しそうな表情が。

 不安そうな声が。

 頭から、離れなかった。

「……何やってんだ、俺は」

 鏡に映る自分の顔は、疲れ切っていた。

 だが。

 目の奥に宿る光が。

 ただ怯えて震えていた昨日までとは、少しだけ違っている気がした。

この小説は、執筆にAIを利用しています。

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