4.亡霊証明と遅延回復
目覚まし時計が鳴る前に、招代は目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。眩しいほどの白さが、部屋の空気を温めていた。
今日もよく晴れたらしい。
わずらわしい思いをしないですむ、と歓迎する一方、梅雨に雨が降らないことに一抹の不安がよぎる。真夏に節水制限となるのは勘弁してほしい。
ベッドから起き上がり、大きく伸びをする。
昨夜よりは深く眠れた。少なくとも、あの冷たい感触で何度も飛び起きることはなかった。
だが。頭がすっきりしたか、と問われれば、答えはノー。
健人の言葉が、頭の中をぐるぐると巡っている。
『明日の朝イチで、全社の遺失物データベースを調べてやるよ』
結果次第で、全てが決まる。
あの女性が、ただの迷い人なのか。
それとも――。
招代は布団から這い出し、洗面所へ向かった。鏡に映る自分の顔を見る。
顔色は、少し戻っていた。目の下の隈も、気持ちばかり薄くなっている。
それでも。目の奥に宿る不安だけは、どうしても消えない。
「まいったな……」
気だるい手足を動かし、白のポロシャツに茶色のチノパンを着こんだ。清潔で、なおかつ堅苦しくないスタイル。
最近は服装規定も緩和された。社会人として恥ずかしい格好でなければ、そうそう文句は言われない。
「さぁ、行くか」
気合を入れ、部屋を出る。途中、招代は何度もスマホを確認した。
健人からの連絡は、まだない。
「慌てすぎだって」
招代は自嘲的に呟く。
時計の針は、ようやく七時に届きそうな頃合い。健人の部署が動き出すには、まだ早い。
分かっているのに、手が勝手にスマホを探してしまう。
神宿駅に到着すると、すでに朝の喧騒が始まっていた。
通勤客でごった返す改札口は、いつもの通り殺伐としていた。せわしないスーツ姿の群れを脇目に、列の並びを外れ従業員口から駅舎へ。
更衣室に割り当てられたロッカーの前で、制服に着替えた。
アイロンがけされた濃紺色の上下を身につけ、ネクタイを締める。帽子を被って姿見の前に立ち、身だしなみを整える。
鏡の中の自分が、どこか他人のように見えた。
「着装、ヨシ」
指差しで問題ないことを確認してから、職員通路を通って駅員室へ向かう。
扉を開けると、田澤主任がデスクで書類を整理していた。
「おはようございます」
「あ、御厨くん。おはよう」
ノッポな主任が顔を上げ、人懐っこい笑顔を向けてくる。
だが、なにか物足りない。
「主任、オヤっさんは?」
違和感にはすぐに気付いた。多田津助役がいないのだ。
「ああ。今日、非番ですよ」
のんびりとした口調で。田澤主任は朗らかに笑ってみせる。
「オヤっさんも、久しぶりの業務はこたえたようでしてね。
上がり際には、珍しく肩をぐるぐる回してボヤいてましたよ」
主任の言葉に、招代の顔に影がさした。
悪気がないのは分かっている。だが、何気なく投げかけられた言葉に、罪悪感が胸を締め付ける。
「あ、そうそう。今日は予備勤務をお願いします。区所内の環境整備と事務補助、頼みましたよ」
気にしない主任の指示に、招代は落ち込んだ顔色を隠した。本心を事務的な仮面で覆い、敬礼する。
「了解しました」
予備勤務。トラブルがない限り、車掌業務を免除される勤務形態。
乗務員区所内で雑務をこなす、地味で退屈な一日。
招代は少しだけ安堵した。
今日は、ホームに立たなくていい。
あのベンチを、見なくて済む。
午前中は区所内の掃除作業から始まった。
仮眠室から昨夜使用したシーツを回収し、従業員用トイレの清掃。風呂場は別の人物がやってくれた。
終われば、次は備品庫の棚卸し。書類の整理。
単調な作業を、黙々とこなしていく。
「ふぅ……」
書類の束に囲まれた招代から、重い呼気がこぼれた。両腕を上げ、軽く背を伸ばす。
自然に、視線が窓の外へ向く。
窓枠の向こうには、ホーム。副都心のざわめきが、透明なガラス越しに響いてくる。
屋根の隙間から、あのベンチが見えた。
ベージュのコートを持った女性の姿はない。
あの、少し古くさいリクルートスーツを着た、自分より少し若い女性。
(ナニ考えてるんだ)
招代は書類へと視線を戻した。
日中の、まばゆい陽光が降り注ぐ時間帯。それも往来の激しい場所で、幽霊なんて出るワケがない。
いや、だけど――
目が、勝手にあの場所を探してしまう。
「御厨くん」
「はいっ!」
不意に。背後から田澤主任の声に、招代は慌てて振り返った。
「手が止まってますよ。大丈夫ですか?」
「す、すみません。大丈夫です」
主任は少し心配そうに招代を見たが、それ以上は何も言わなかった。
(集中しろ、仕事中だぞ)
離れていく主任の背中に会釈した後、自分の作業に戻る。
邪念を払うように。目の前の伝票へ、意識を強制的に没頭させる。
窓からのぞく景色を、見ないように。
あのベンチを、見ないように。
昼休み。
招代はひとり、持参した弁当を広げた。
休憩室には、他の職員はいない。作業に支障がないよう、交代で休憩に入るのがきまり。
静かな部屋にチクタクと。壁時計の音だけが響く。
「いただきます」
小さい声で手を合わすと、スマホが震えた。
箸に手を伸ばした招代の手が止まる。慌てて画面を見ると、健人の名前が光っていた。
心臓が、早鐘を打ち始める。
招代は呼吸を整え、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あ、招代?』
健人の第一声は、いつもの調子だった。
うらはらに、招代は緊張で全身をこわばらせていた。喉仏がゴクリ、と音を立てる。
「……どうだった」
『まぁ、落ち着けって。一昨日の夜から今朝まで、全営業所の記録を当たったけど――』
スピーカーが一瞬、沈黙した。壁時計の、無機質に回る秒針の音が、やけに大きく響く。
『あの時間帯で、若い女性から忘れ物の問い合わせはない。ってさ』
世界が、暗転した。
『念のため、過去一週間分も調べたけど。該当ナシ』
「そっか……」
最悪の予想が裏付けられた以上、招代は言葉を出せなかった。
口を結んだまま、パイプ椅子に背中を預ける。
『ま、まぁ。気を落とすなよ』
健人の声が、遠くに聞こえた。
『探し物が見つかったのしれないし。まだ来てない可能性だってあるしさ』
慰めの言葉も、今の招代には単なる空音にしか聞こえない。
手が、震えた。深呼吸を繰り返すたび、胸の奥に残った、あの夜の冷たさを思い出す。
やはり。間違いない。
あの女性は、亡霊なんだ。
『あ、あのさ』
電話口の先にいる健人も、招代の異変に気付いたのだろう。遠慮がちに、言葉を続ける。
『こういうのって、専門家に聞いたほうがいいんじゃねぇか?』
電話の向こうから、ためらう息継ぎが聞こえた。招代にイヤな予感がよぎる。
『確か、オマエの実家――』
「やめろっ!」
反射的に、招代は叫んだ。
窓ガラスが震えるほどの、強い拒絶。自分で発した荒らげた声に、我に返る。
「わ、悪い……」
マイクに口元を当て、招代は謝った。
「……でも、実家の話はしないでくれ」
『お、おう……』
健人が返してくるのは、しばらく掛かった。
『ま、まぁ。ムリだけはすんなよ。また連絡するわ』
「……ああ」
通話が切れる。
招代は、しばらく動けなかった。
午後も、淡々と予備業務をこなした。
書類の山と格闘し、仮眠室のベッドメイキングをすます。期限の過ぎた掲示物を、新しい安全啓発のポスターへ張り替えた。
ひと通り済ませれば、ここからが本当の待機。いつ呼ばれるか分からない、出動要請に備える。
かと言って、なにもしないで待つわけではない。
招代は、机の上に運転士試験用の教科書を広げた。
彼だって、車掌で終える気など、さらさら無い。現在の車掌から運転士。そして助役、駅長と。敷かれたレールの上を、人一倍の努力で駆け上がる決意を胸に秘めている。
だが。自分の気持ちとかけ離れ、テキストの内容が頭の中に入ってこない。
(集中しろって)
自分をしかり飛ばした。無理やり没頭しようと、ペンを握り直す。
なのに。意識が別の場所へ吸い寄せられていく。
窓の外へ。ホームにある、ベンチへ。
(もう関わらなければいい。忘れるんだ)
招代は自分に言い聞かせる。
だが、胸の奥に刺さったトゲは消えない。
生気を欠いた女性の、困惑した表情。
「私……なぜここに……」と震えた、おぼろげな唇。
冷たい指先の感触。
全てが、鮮明に残っている。
「御厨くん」
不意に。背後から投げかけられた、のんびりした声。
勝手に亡霊の声と錯覚した、招代の肩が飛び跳ねる。
「どうしました?元気がない感じですが」
「主任……」
振り返ると死者でなく、ノッポの田澤主任が肩越しに覗き込んでいた。心配そうに。いつになく真剣な眼差しで。
「す、すみません。大丈夫です」
あまりの急接近に、招代は椅子ごと後ろへのけぞる。
だが、主任はさして気にしてないようだ。
「ふむ……」
ただ、後ろ手に組んだ腕を解き、小さく頭をかく。じっ、と招代の顔色をしばらく伺い、やがて口を開く。
「これは……しばらく予備勤務がイイですかね」
「そんなっ!」
突然の通達に、招代が声を荒げた。弾かれたように椅子から立ち上がり、上司に詰め寄る。
「通常乗務でも問題ありませんっ!絶対に迷惑をかけませんから!」
「そうですか。でもね――」
主任は諭すように、ゆっくりと首を横に振った。
「助役にも、キツく言われてるんだよ。御厨くんの体調がすぐれないと判断したら、予備勤務に回せって」
「そんな……」
招代は言葉を失った。
恩人に、そして主任に。未熟さを見透かされた事実に。
顔から血の気がさぁ、と一気に引く。
上司たちの期待を、自分の手で裏切ってしまった後悔の念。それが、招代の肩に重くのしかかる。
「御厨くん」
静かに名前を呼ぶ。落ち着いた声での、切り出し方だった。
「現場に必要なのはチームワークです」
だが。言葉に込められた意味はどこまでも冷徹で、反論を許さない。
「スタンドプレーは、この仕事では絶対の禁忌です。分かりますよね?」
「…………はい」
招代は、悔しさに唇を噛んだ。
予備業務が続いた数日後。
挽回の機会は、唐突にやって来た。
「御厨っ!」
午後5時。そろそろ夜のラッシュが始まる頃。オヤっさん――多田津助役が大声で名前を呼ぶ。
平和な事務所の空気を一刀両断する、切羽つまった響きで。
「どうしました?」
「代行だっ、5秒で準備しろっ!」
唐突な交代劇。
招代は戸惑いながらも、身体に染み付いた習性で勢いよく立ち上がる。
「何があったんです?」
「和田が客に殴られたっ!」
憎々しげに。眉間にシワを寄せた多田津の口元から、歯ぎしりする音が聞こえる。
「現在の遅延は15分。行けるな?」
鋭い視線が注がれる。プロとしての覚悟を問う、無言のプレッシャー。
遅延がある。ということは、代行は回復運転を強いられる。
安全に、確実に。乗客から不満の声を受け取りながら、早急に通常ダイヤへ戻す必要がある。
難しいが、信頼を取り戻すチャンスでもある。尻込みしている場合ではない。
「はいっ!」
招代は大声で返事を返した。
「よしっ!カバン持って二番に行けっ!指令からの指示を聞き逃すなっ!」
多田津助役の命令を受け、すぐに動いた。
乗務員カバンを引ったくるように掴むと、階段を大きく飛ばして駆け下り、2番ホームへ。
最後尾の乗務員室に飛び乗ると、手早く準備を終え、すべてのドアを閉めた。
『本日も天凰電鉄をご利用いただき、ありがとうございます』
動き出すのと同時に、肉声でアナウンスを車内に流し始める。
『駅構内で発生しましたトラブルの影響で、現在、18分の遅れで神宿駅を出発しております』
すし詰め状態となった客室に放送が流れると、いら立ちの密度が増した。
曇り始めた小窓から伝わる、生々しい怒り。乗客からの、いら立ちに満ちた熱気が伝わってくる。
(ここは、ガマンだ)
息苦しいほどに膨らんだ不穏な空気と共に、招代を乗せた車両はスピードを上げた。
運転士も状況を理解している。緊迫したノッチさばきで、制限速度のギリギリを攻めた。
招代は呼吸を飲み込み、師匠の言葉を思い出す。
(ダイヤを戻す作業は、指令所がやってくれる)
乗務窓から見える、無数の非難に満ちた視線。あえて無視し、作業に集中する。
電車をコントロールできても、乗客の感情まではコントロールできない。
(今は、決められたダイヤ通りに動かす。その上で、秒単位のマージンを削り出すんだ)
車両は普段より早いスピードで、次駅のホームに滑り込んだ。
停止線のはるか手前で乗務員室の窓を開け、半身を乗り出す。
片手は開閉スイッチに置いたまま、乗り降りする流れに目を凝らす。
『ドア、閉まります!』
マイクに向かって吠えた。即座にスイッチを押し、ドアを閉める。
最後に乗り込む客の背中を、扉がかすめた。衣服の挟まりを瞬時に目視し、車両側面に並んだ赤い車側灯がすべて消えたのを確認する。
即座に発車合図のブザーを二回鳴らし、運転士にオーケーのサインを送る。
『電車が発車しますっ!次の電車をご利用ください!』
ホームに大音量が流れるのと同時に、電車は出発していた。
(ふう……)
安定したレール音に変わると、招代は肺の底から息を吐き出した。
苛立つ客を乗せ、秒単位で扉扱いを強行するのは、格段に難しい。
それに。普段なら乗れた滑り込みセーフも、今回は置き去りにした。
今頃、何もいないホームで悪態をついているだろう。
駅員にくってかかるかも知れない。
だが、遅れを取り戻すためには。無作為に乗客を選別するのも必要。
(しっかり、優先順位をつけろ。情に流されちゃ、ダメなんだ)
招代は拳を握った。車両を預かる車掌のプライドで、怨嗟の濃度を跳ね返す。
『次は、命台前、命台前。畏乃が白線は、お乗り換えです――』
無機質な自動音声の案内に、招代は深く息を吸い、現実の業務へと意識を戻した。
次駅から次駅へ。
息つく暇もない、電車によるタッチ・アンド・ゴーを繰り返す。
繊細かつ、大胆に。失われた秒数を、運転士と息を合わせて削り出していく。
停車駅をひとつ、またひとつと背後へと追いやるうちに、招代に無駄のない確かなリズムが生まれていく。車内の張り詰めた空気も、少しずつ弱まる。
終着駅に着く頃には、遅延は十三分まで縮めることができた。
「よしっ」
確かな手応えに、右手で小さくガッツポーズする。
だが。上司の言葉を思い返し、気を引き締めた。
(この仕事は、ひとつのミスで簡単にひっくり返る)
車掌業務は、命を預かる仕事。それも、何千人もの人生を、いっぺんに。
だから。業務に慣れても、命を預かる重圧に慣れてはいけない。
位置のズレた帽子を被り直す。
まだ折り返し。次の乗務員に、無事故で引き継ぐまでが招代の職分。その瞬間まで、油断してはいけない。
額ににじむ汗は、心地よい熱を帯びていた。
今は、眼の前にある業務だけに集中する。
少なくとも。この時だけは、亡霊を忘れられた。
この小説は、執筆にAIを利用しています。




