3.憂鬱な非番
眠れなかった。
正確には、眠れていないわけではない。まどろみと覚醒の境を、ふらふら行き来していた。
深く落ちようとするたびに、冷たい感触が指先に蘇る。
そのたびに、ぐっ、と現実に引き戻される。
気がつくと、カーテンの隙間から白い光が差し込んでいた。
重い。
目を開けた瞬間、その一言が全身に染み渡った。
身体が布団に沈み込む。腕一本動かすにも、いちいち意識しなければならない。
頭の奥には、鈍い痛みが居座り続けた。まるで頭蓋骨の裏側を、誰かが指で押し続けているよう。
ベッドに寝そべりながら、枕元の時計を引き寄せる。
午前七時。ラッシュアワーのピークを迎える時刻。
(……参ったな)
招代は目を閉じた。
今ごろ、あのホームはごったがえしているだろう。
次々に電車がホームに滑り込み、ドアが開いて、朝の乗客を吐き出す。
そして、すぐに出発の合図が鳴る。
自分が最後尾から見守るはずだった車列が、今日は別の人間の手の中にある。
多田津助役の、あの大きな手の中に。
(情けない……)
胸の底に、じわりと重いものが沈む。
申し訳なさ、情けなさ、悔しさ。みっつの負の感情が混じり合って、どろどろと胸の中にしみ込んでいく。
だが。動きたくても、身体は鉛のように重い。
シーツに縫い付けられたまま。どう試しても、ピクリとも動けなかった。
スマホを引き寄せ、時刻を確認する。午前七時を少し過ぎたあたり。ムダに時間を過ごしたことを後悔しつつ、連絡先にある番号を選択する。
コール音が三度鳴ったところで、間の抜けた声が返ってきた。
『はいっ、神宿駅務、田澤です』
「御厨です。体調報告のご連絡を」
『ああ、御厨くんですか。体調の方は回復しましたか?』
今は忙しい時分だと言うのに。田澤主任は、ゆっくりとした口調で応じてくれた。
周りがてんやわんやしている中、どこ吹く風と受話器を握るノッポな姿が、なんとなく目に浮かぶ。
「昨夜より……落ち着いています。眠れてはいませんが、動けます」
『寝ていない……のですね』
電話口の向こうから、主任の声が柔らかくトーンを落とした。
『そうですか。オヤっさんの話は大当たりでしたね』
「どういうことです?」
『いや。御厨くんのコトですから、ひと晩ウジウジ考えるだろう、って』
返ってきた言葉に、招代は絶句してしまう。オヤっさんは、どこまで見透かしているのか。底が知れない。
『ですので。今日は一日、しっかり休んでください。
有給を勝手に使ってしまいますが……構いませんよね?』
スピーカーごしに尋ねてくる田澤主任の声。招代はベッドの上であお向けになったまま、小さくうなずいた。
「……分かりました」
招代の胸の奥に悔しさがこみ上がる。
怖い思いをしただけで、周囲に迷惑をかけた。行き場の感情が、だらしない自分に向かう。
「明日は、必ず業務につきます」
だから。強く言葉を絞り出す。
と、田澤主任から、柔らかい返事が返ってきた。
『そうですか?でしたら、明日の乗務割に組み込んでおきます』
責めるわけでも、慰めるわけでもない。
ただ当たり前に。業務の一環として、流してくれる。
『では、また明日。よろしくお願いします』
「はい。失礼します」
電話を切ると、部屋の静けさが戻った。
音のないリビングに、主任との温かいやり取りが、あっという間に霧散する。
招代は重い吐息を吐いた。
さっきまで気にならなかったのに。張り詰めていた虚勢の代償が、昨夜の忌まわしい記憶と共に、どっと押し寄せてきた。
シャワーを浴び、着替える。
思ったより時間がかかった。腕が、指先が重い。体のどこかが、ひとつひとつの動作を拒んでいるようで。
「気合、入れろって……」
小さく悪態をつきながら、洗いたての服に袖を通す。柔軟剤の仄かな香りを吸い込むと、少しだけ人間に戻れた気がした。
すると、腹の虫がぐう、と鳴った。
昨晩から、何も口にしていないのを思い出す。
「なにか食べないとな」
財布の中身を確認し、近所のコンビニまで歩く。
六月の日差しは、薄曇りの湿気の中に夏の凶暴さを隠し持っていた。
動くたびに汗がしたたり、着たばかりのシャツを湿らせる。
だが、コンビニで感じた冷房の涼風は、かえって招代の心を波立たせる。
「二百円になります」
ぶっきらぼうなレジ係から受け取り、すぐに出た。買ったのは、缶コーヒーひとつ。
他には寄らず、アパートに戻って、窓際に腰を下ろした。
少し震える指でプルタブを押し開け、ひと口だけ飲む。
外では普通に時間が流れる。
向かいのアパートの洗濯物が風に揺れた。
自転車が、のんびりと坂を下っていく。
非番の日に見かける、ありふれた朝。
ふと部屋の中に視線を移せば、時計の針は9時を過ぎていた。
(……開いてる)
忘れ物センターが業務を開始する時刻。
冷たい手をした女性に、メモを手渡した瞬間がフラッシュバックする。
(もし……。もしも、だ)
自分がメモに書いた番号に、問い合わせが来たなら。
探し物の見当がついて、自分で足を運べたなら。
ベージュのコートを手にした女性は、ただの乗車だった、ということになる。
(来てる、はず)
知らないうちに携帯を探していた。ほどなくして、乱れたベッドのシーツの中から、端末を引っ張り出す。
(問い合わせくらい、来てる。そうじゃなければ……)
少し迷った末に、電話番号をメモリから呼び出した。昨日、彼女に教えた番号。
(来てるに決まってる)
三コールも待たせず、応答が。
『はい。天凰電鉄、お客様お忘れ物センター。佐々木が承ります』
「あっ、健人?」
『招代?』
営業用の声が、急に戸惑った素のトーンへ切り替わった。
『珍しいな。どうした?業務時間だろ』
「……ああ。今日は……休みなんだ」
『ああ。そうだったんだ。珍しいな』
馴染みのある友人からの、気がねない言葉。
何でもない、普段のやり取りが、ふっ、と心を軽くさせる。
『じゃあさ、夜にでも一緒にメシ食わねぇ?』
「そうだね。そうしようか」
健人の誘いに、招代も自然と口元を緩ませた。
『オッケー。じゃあ、いつものトコロで』
「あっ!ちょ、ちょっと待って」
切られる寸前、招代が慌てて呼び止める。
『ん?どうした?』
「あ……あのさ」
言葉が喉の奥でつっかえた。昨夜見た虚ろな瞳を思い出し、胸の奥が冷たく締め付けられる。
「今日。忘れ物センターに若い女性客、来なかった?」
『へ?』
不思議そうな佐々木の声が、スピーカーから響いた。
『まだ窓口を開けたばっかだぞ。こんな朝っぱらから、ダレも来ないって』
「……そう、か」
招代の語尾が沈むと、健人の口調がニヤケたものに変わった。意味を勝手にはき違え、下世話な好奇心を丸出しにして。
『招代っ。さてはオマエ、通勤中に可愛い子でもナンパしたかっ?』
「えっ?ち、違うって!」
勘違いした友人の冷やかしに、招代は食い気味に否定する。
だが。声の裏返り具合が、かえって友人の勘違いを深める結果になったようだ。
『ほほう?まぁ、そういうコトにしといて――って、ヤベッ!』
茶化した声が、急に慌てた調子へと変わった。急に健人の声が遠くなり、しばらく反応が消える。
戻ったのは、少し間を置いてから。
「悪いっ。上司が後ろで睨んできたから。またな』
小声となった焦りが、相手の状況をていねいに説明してくれた。
「ああ。また夜に」
これ以上は、相手にも迷惑になる。
短く返し、招代は通話を切った。黒い画面に変わった携帯を持ったまま、窓辺でたそがれる。
「そう……だよな」
誰に言うでもなく、呟いた。力のない言葉の端が、ひとりだけの部屋へポツン、と落ちる。
寂しくなって、テレビをつけた。
ワイドショーで司会を務める芸人が、関西弁まる出しで喋り続ける。
何も、頭に入らなかった。
時間が、ゆっくりと流れる。信じられないほどに。
待ち合わせは、いつも駅前のファミレスだと決まっている。
業務の関係で、招代はアルコールを控えなければいけない。夜の盛り場は、彼にとって誘惑が強すぎた。
自然、ふたりで行ける店は限られてしまう。
健人には申し訳ないと思う。ヤツだって日頃の憂さをアルコールで流したいだろう。
なのに、こちらのワガママに文句ひとつ言わず付き合ってくれるのだ。感謝しかない。
「おっ、招代」
ファミレスに入ると、健人が窓際の席から手を振った。
同じ二十八歳にしては童顔で、いつも声が大きい。同期入社だが部署が違う。
招代が現場一本なのに対し、健人は様々な業種を経験している。
ホーム、改札業務、旅券窓口。
そして現在は、お客様センター。日々持ち込まれる、遺失物やクレームと格闘していた。
「ひっでぇ顔だな」
向かいの席に招代が腰を下ろした瞬間、健人は開口一番。感想と言うより、遠慮のない直球のダメ出し。
「言うほどヒドいか?」
「ああ、かなりな。なに飲む?」
「コーヒーでいいよ」
招代のリクエストに、健人がタッチパネルを操作する。素早い手つき。手慣れたものだ。
ほどなくして、配膳ロボットが注文の品を運んできた。コーヒーとコーラ。片方は健人が頼んだものだろう。
「ほらよ。熱いぞ」
「ありがとう」
礼を言いながら、招代はカップを受け取る。健人は早速、コーラをあおった。
「で?」
軽く喉を潤したあと、友人の目がいやらしい視線へと変わる。
「その分だと、アレか?カノジョにでもフラれたか?」
「違うよ。彼女いないの知ってんだろ?」
招代は苦笑で応じた。ひとりやもめが長いことは、眼の前の友人だって知っている。
なにしろ、鉄道の世界は男社会。
近年、女性も増えつつあるが、圧倒的に少ない。自然、職場での出会いは極端に少なくなる。
ならば、出会いを社外へ求めたとしても、不規則な勤務形態がジャマをする。
カレンダー通りの休みなど望むべくもない。異性とデートの約束を取り付けることすら、至難のワザだ。
「なんだ、残念」
「待て。なにが残念なんだよ」
「いや、ね。招代をからかうネタが増えるかと期待したんだけど」
「カンベンしてくれよ」
招代が口を尖らすと、健人は声を上げて笑う。
からかいをやり過ごし、招代は受け取ったカップを両手で包み直した。立ちのぼる湯気が消えないうちに、ゆっくりと口をつける。
温かいものが喉を通ると、身体の芯が少しだけ緩む気がした。
しばらく、他愛のない話が続く。
共通の知人が異動になった。
構内にあるキオスクの店員がまた変わった。
先月から導入された、新しい業務システム。使いにくいったらありゃしない。
健人から次々と投げかけられる話題に、招代はひとつひとつに相槌を打つ。
心地よかった。
ファミレスの空気に慣れていくにつれ、肌の裏側までこびりついた不安が、じんわりとほぐれていく。
頭に居座っていた鈍痛が、少し引いた気がした。
(ありがとな、健人)
招代は眼の前で話を続ける友人に向け、心の中で感謝した。
言葉にするのは気恥かしい。だから、口にはしない。
「で、さ」
会話がひと段落した時を見計らって。おもむろに健人は切り出す。
「オレになんの用?」
不意打ちだった。
招代は虚を突かれ、口に運ぼうとしたコーヒカップを持ったまま固まる。
胸の奥で、心臓がドクンと嫌な音を立てた。
「なにって……平日の夜に会えるヤツなんて、健人しか思い浮かばないから」
「いいや、違うね」
苦笑いを浮かべながら。健人は使ってないストローの先で招代を差す。
「オマエから電話かけてくるってのは、決まって困った時だけだからな」
小さく息を吐くと、悪ガキっぽい笑みは消えた。真剣な眼差しが青白い顔をした青年を射抜く。
「どうせ、また『厄介事』を見つけたんだろ?」
核心をつかれ、招代は動けずに押し黙ってしまう。
が、やがて観念して、持っていたカップをソーサーの上へ戻した。
健人とは、中学生からの腐れ縁だ。
高校、大学、社会人でも、つかず離れず。一緒にバカをやったり、互いに罪をなすりつけあったり。
青春の半分は、この悪友と共有している。
「……うん」
だからこそ、頷けた。誰にも信じてもらえない話を、彼だけは笑わずに聞いてくれた。
「昨日、見たんだ……」
だからこそ、言える。
あの晩。ホームで出くわした、この世の住人ではない女性の話を。
「やっぱり。だと思ったよ」
今度は、健人が大きく肩をすくめた。
招代の耳から、テーブルの周りから音が消えたように感じる。
ファミレスの喧騒から切り離されたような、奇妙な静寂がふたりのまわりを取り囲む。
「で。今度はどんな幽霊?」
「ああ……」
促されるままに、憶えている限りの特徴を伝える。
終電後のホームに残っていた、女性のこと。
声をかけると、何を探しているのかも思い出せない、と言っていたこと。
忘れ物センターのメモを渡したこと。
その時、指先に触れた感触のこと。
あの、ぞっとする肌の冷たさについて、恐怖を押し殺して言葉を紡ぐ。
「氷みたいに、冷たかった。……それ以上だ。手袋ごしに、骨まで来るような」
言い終えると、健人は腕を組んで思案し始めた。目からふざけた色が消え、口の形を器用にひん曲げる。
「やけに、生々しいな」
健人が吐き出した言葉は感想ではなく、鋭い指摘。
「まるで、生きてるみたいじゃないか」
「……うん」
招代は否定しなかった。
思い返すと、確かに女性は生者らしい迷いや戸惑いを見せた。探し物が見付からず、途方に暮れた若い乗客そのもの。
「でも、アレは……違うんだ……」
そう、根本が違う。
生気のない瞳。薄く透き通る、青白い肌。思い出すだけでも、背筋が凍る。
この世のものではない、別の世界に住まう亡者だと断言できた。
「そっか……」
健人はコーラの消えたグラスを転がした。少し溶けた氷が位置を変え、カラン、と無機質な音を立てる。
「分かったよ。ダチ公」
意を決したように。テーブルの下で、勢いよくヒザを叩いた。
「今日、オレのいた窓口に、それっぽい女は来なかった」
いったん言葉を切り、ニヤリと笑った。なにか企んだ顔を、目の前の友人に寄せてくる。
「だがな。他の営業所に問い合わせがいってるかも。明日の朝イチで全社の遺失物データベースを調べてやるよ」
「えっ」
招代は耳を疑った。一瞬、眼の前の友人が放った言葉の内容を汲み取れず、言葉を失う。
「いや、いくらなんでも社内システムを勝手に覗くのは……」
「そんなん。招代が幽霊におびえてるより、優先度は低いじゃんか」
遠慮の言葉を口にするも、健人はニカッと笑ってみせる。
その迷いのない言葉は、招代が抱え込んだ孤独な暗闇へ、一筋の光明を射しこませた。
確かに、彼の手を借りられたなら。決定的な証拠を得られるかもしれない。
でも、まさか彼にリスクを背負わせる気など、毛頭ない。単に健人の記憶を頼りたかっただけ。
「……いや、悪いよ…………」
だから、素直にうなずけない。
これから健人が行おうとする行為は、明らかに業務から逸脱している。バレたら始末書だけでは済まされない。
何より、怖かった。自分の直感が、正解だと決まってしまうことに。
確かめたい。
でも、確かめたくない。
問い合わせが来ていれば、ただの迷い人で片づけられる。
それで、終わる。もう、考えなくていい。
だが、来ていなかったら。
「怖いのか?」
迷いを見せる招代に、健人はまっすぐ相手を見つめて問いかけた。
静かで、それでいて力強い声。
「ん……」
招代は答えず、目を伏せる。
頭の中では、正解のない問題が堂々巡りを続けていた。逃げ道を探す臆病な自分と、白黒つけたい衝動。ふたつの矛盾した願いが、シーソーのように揺れ動く。
再び口を開けるまで、どれだけの秒針が時を刻んだか分からない。
店の外で短く鳴ったクラクションが、ようやっと開いた口の動きと重なる。
「……分かったよ」
健人は目尻を下げ、大きく頷いた。
「明日、調べてみるわ。結果は連絡するから」
それ以上は何も言わなかった。
ファミレスを出ると、日はすでに落ちていた。どっぷりと垂れ込めた黒い天幕をバックに、街の灯りが踊り狂う。
「じゃ、ゆっくり休めよ」
と。去りぎわに健人が気取ったように片手を上げる。
「車掌なんて仕事、大変なんだから。ムリすんな」
「ああ」と招代は返した。
遠ざかる健人の背中を見送る。すぐに、人ごみにまぎれて見えなくなった。
「時々、オマエが羨ましく思えるよ……」
「えっ?」
ふと。質量のないささやきが耳元を通り抜ける。声と言うよりも、音。耳の奥で夜風が渦を巻いたような、空虚な響き。
「なんだっ?」
慌てて周囲を見回したが、声のヌシらしき者の姿はどこにもない。行き交う人々はみな、距離を保ちながら無関心に通り過ぎていく。
(いや……。これは、気のせい、さ……)
幻聴をうまく咀嚼できないまま、アパートへの道を歩き始める。
背後を振り返ることは、どうしても出来なかった。
この小説は、執筆にAIを利用しています。




