2.深夜の叱責
どうやって事務所に戻って来たのか。
招代に残る記憶は、ホームから乗務員通路を抜けるまで。その先が、すっぽりと抜け落ちてる。
気がつけば、トイレの中にいた。
洗面台の鏡に映る蒼白な男の顔。右手に残るしびれ。
握りしめていたはずの、大事な乗務員カバンがないことに、今さらになって気づく。
だが。招代にしてみれば。重大な不始末でも気にしている場合ではなかった。
「ハァ…………ハァ……」
荒い呼吸だけが、静まり返った洗面台に響く。
蛇口から勢い良く流れる水流。白い陶器の上で渦を巻き、激しく暴れる水飛沫。冷たい理性の欠片が、どうにか現世につなぎ止める。
「オェッ…………オェアァッ!……ゲホッ!」
招代は前かがみになり、シンクを両手で掴んだ。
肺の奥から、酸っぱい感触が内側からせり上がる。
音だけが空振りした。
身体が内側から裏返る勢いで嗚咽を繰り返す。
だけど、吐き出すものがない。
不快な痙攣が喉を締め上げ、苦い味だけが食道を通り抜ける。
(早く……早くっ、忘れろっ)
それでも。咳き込むように、何度もえずく。
吐き出せば。見てしまったものを、忘れてしまえると思ったから。
(また……見てしまった……)
人ではないモノを。あんなにもハッキリと。
こんなことなら。運転手と一緒に、さっさと引き上げれば良かった。
いや、終電業務の始めからやり直したい。
だが、こうも思う。
何度、あの瞬間に立ち会おうとも。
乗客らしき人影か困っていたなら、声をかけるだろう、と。
そう教育されたし、実践してきた。習性となった動きを、そう簡単にやめられるワケがない。
「なに……やってんだ……」
恐怖を押し流そうと、どれだけ格闘しただろうか?
不快な圧迫感の残るゲップが、生温かい息を運んだ。震える手で透き通った水をすくい、口をゆすぐ。
眼の前にある鏡が、今にも泣きそうな男の姿を映し出した。
「……ひでぇ顔」
招代は自嘲気味に呟く。
顔は青白く、目の下には隈が出きていた。唇の色も紫色に変色している。
(アレは……きっと、気のせいだ……)
鏡の中でおびえ切った自分の姿へ向け、言い聞かせる。
きっと、彼女は。
探し物が見つからず、道に迷った、一般の利用客。
少し体調が悪かった、存在感の薄い迷い人。
明日になれば、忘れ物センターに問い合わせが来るだろう。あとは、別の部署の仕事。自分は関係がなくなる。
(落ち着け……今までだって、うまくやり過ごしていただろう?)
自分に言い聞かせる招代の瞳は、幼い頃の記憶と、同じ感情を宿していた。
指先に残る、あの冷たさ。質量のない、死の感触。
あれが現実でないと信じるには、あまりにも鮮明すぎて。忘れられない。
「違うっ!」
おもむろに、招代は両手で顔を覆った。引きつった顔を隠し、深呼吸を荒く繰り返す。
何も見ていない。
何も感じていない。
あれは、そう。幻覚だ。疲労が生んだ、ただの錯覚。
祈るように、繰り返す。
招代は落ち着くまで、長い時間がかかった。
深呼吸を繰り返す。心臓の鼓動が、ゆっくりと静まっていく。
そう自分に言い聞かせ、重い足取りでトイレを出る。
「御厨」
急に名前を呼ばれ、硬直した。低く、良く通った重厚な地響き。車掌試験以来、ずっとお世話になっている人の声。
「……オヤっさん?」
声の先には、がっしりとした体格の男性が腕を組み、仁王立ちしていた。
その圧倒的な威容に、招代は思わず一歩後ずさる。霊とは違う意味で、恐ろしい存在。
多田津沖久助役。通称「オヤっさん」。
丸太のような太い腕に、制服がはち切れんばかりの巨躯。三十年以上、この天凰電鉄を勤め上げる、まさに現場の鬼そのもの。
今いる乗務員のほとんどが、彼の手により、骨の髄まで業務を叩き込まれている。招代も例外に漏れず、マンツーマンでしごかれた。
幽霊よりも恐ろしく、そして絶対的な存在。
「助役と呼べ。バカ野郎っ」
大きく固められた拳が脳天に直撃する。
「まったく。なかなか点呼に来ねぇと思ったら……」
多田津の太いため息が、深夜の廊下に響く。
「大事なカバンを、トイレの入口にほっぽりやがって。しかも、今日の業務報告も提出されてねぇ」
まったく佐藤といい――。と、助役は招代と組んでいた運転士の名前を上げつつ、太い腕を組んだ。
吐き出す熱い吐息は、蒸気機関車そのもの。
静かに、怒っている。
オヤっさんは声を荒げるタイプではない。
ただ上手に、理路整然と逃げ場を塞ぐ。定刻通りに到着する列車のように、逃れようのない事実だけを突きつけてくる。
「も、申し訳ございません……」
招代は素直に頭を下げた。
怒る意味が分かっているから。事務所に戻ってからの業務が、何ひとつ終わっていない。
本当に、情けない。
全て、あの女性――ホームで見かけた女性が元凶。彼女の冷たい指先に触れてから、身体の変調が止まらない。
「にしても、ひでぇ音だったな……。トイレでナニやってた?」
オヤっさんの追及は続いた。下を向く招代の肩に手を置き、じっと見つめる。
「前にも言ったよな?報告ってのは、業務のことだけじゃない。
体調や精神状態、悩み事も洗いざらい吐き出せ、ってな」
「……ハイ」
招代は顔を上げられない。
ハラスメントとも受け取れる発言。だが、上司が求める理由も、招代には理解できる。
なにしろ、何千、何万の命を預かる職場なのだ。
ひとつのミスが、すぐに大事故につながる。
だから。常に万全に、ちょっとした異変にも心を配らなければならない。現場で責任を背負う助役なら、なおさら。
「それで……。翌朝の業務、いけるか?」
「あ、ハイ……。少し、疲れているだけですから。いけます」
多田津の質問に、招代はとっさに答えた。
業務はこれで終わりではない。数時間の仮眠のあと、始発から昼までのダイヤが待っている。
ここで弱音を吐いて、穴を開けるわけにはいかない。
「……そうか?」
少し思案するように。多田津は招代の肩を掴み、顔を覗き込む。
「オレには、疲れている『だけ』には見えんがな」
おもむろに。多田津は招代の額に手を当てた。大きく、ごつごつとした手のひらは熱かった。圧倒的な生命の脈動で、死人の冷たさを焼き払う。
「熱は……ないみたいだが」
言葉を切ると、真偽を量るような沈黙が落ちた。助役の、招代へ向ける眼差しは変わらない。
「おーいっ田澤ぁっ。体温計をくれぇっ!」
「へっ?あっ、はぁいっ!」
多田津の大声は短い廊下を突き抜け、奥の事務所まで届いた。主任のノッポ――田澤主任が間の抜けた声で応じる。
(マズいっ!)
招代は背筋に冷や汗が伝う。ホームの出来事とは違う、現実的なプレッシャー。
多田津助役は、自分の体調を疑っている。
乗務員が急病に見舞われた時のため、非番が業務を代行するのが決まり。
ムリだと判断されれば、容赦なく乗務から外される。
そんなこと、自分のプライドが許さない。
不始末を他人に押し付ける罪悪感。なにより。体調管理もできない半人前だと、助役に見られるのが一番こたえる。
師匠から弟子に、失格のレッテルを貼られるのが、たまらなくイヤだった。
「オヤっさん。違うんです」
「助役だって言ってんだろっ」
慌てて制止する招代に、多田津の怪訝そうな目が疑念で細められる。
「で?ナニが違うってんだ?」
「そ、それは……」
招代は返答に困った。上司から視線を外し、言葉を濁らせる。
まさか、本当のことなんて言えるワケがない。
ホームで、幽霊を見たなんて。
「本当に……、大丈夫ですから」
しどろもどろに、取り繕うように返すのがやっと。
だが、多田津は口元を波打つようにしかめた。
「それに判断するのはオマエじゃない。上役のオレだ」
「でもっ――」
「いいから測れっ!」
なんとか弁明しようにも、多田津は一喝。田澤主任が横から差し出した体温計をひったくると、有無を言わさず招代に突き出す。
反論のしようもない。しぶしぶと体温計を受け取り、脇に挟んだ。
その間も。上司は矢継ぎ早に質問を浴びせかける。
「どこか痛む場所は?」
「吐き気は?めまいするか?」
「今日の夜、何食った?」
「ちゃんと寝てるか?」
曖昧に答えていると、ピピピ、と電子音が鳴った。
招代が確認する間もなく、強引に横から奪い取られる。
「36.8度」
多田津は難しい顔で読み上げた。
「高いが、平熱の範囲内か……」
招代の口から安堵の息が漏れる。この分なら、乗務を外されずに済みそうだ。
だが、それでも。
多田津の顔色は晴れない。太く短い指が、白くなった髪をガシガシと搔き乱す。
長い沈黙の後、口を開いた。
「……田澤。始発の代走、手配できるか?」
「オヤっさんっ!」
招代は慌てて声を荒げた。顔から血の気が引く。
代走。つまり、自分の代わりを立てるということ。
それは、仕事に穴を空けるということに他ならない。
「大丈夫ですっ!明日もいけますっ!」
「バカ言え」
必死の抗議も、多田津は鼻で笑い飛ばす。
「死人みたいな白い顔で言われても、はいそうですか、って思うか?」
招代の顔色が一気に青ざめた。死刑宣告にも似た、非常な通告。
多田津の方が正しいと、自分でも分かっている。
そうだとしても。眼の前にいる恩人が意地悪している、と錯覚してしまう。
「代走……ですか?ちょっと難しいですね……」
ふたりの会話を割り込むように。田澤主任が手にした端末を操作して答えた。
多田津は目を大きく開き、ノッポの部下に向き直る。
「なんで用意できねぇんだ?」
「今日の夕方、中根と和田が急病になって、使い切っちゃいました。
ここまでバタバタ倒れるのは、さすがに想定外です」
「そうか……」
多田津は思案するように、顎に手を当てた。
助役の押し黙る姿に、招代の内心に小さな望みが芽生える。
(助かった……)
予備がいないなら、自分が乗るしかない。業務を続けられる。
あの、ベージュのコートを手にした女性と出会わないなら。招代は正気を保てる自信がある。
(今までだって。ずっと、こなしてきたんだ)
招代の目に生気が宿る。
職務を手放したくない意地と、朝日への希望。このふたつが、弱気な背中を強く押した。
「しゃあない。オレが代わる」
無常にも。期待を裏切る言葉が多田津の口から放たれる。
「オヤッさんが、ですか?」
ノッポ主任も意外だったのだろう。あんぐり口を開け、まじまじと上司を見る。
「助役だって。何度、言わせるんだ?」
「そんなコトより。業務、出来るんです?」
「バカ野郎っ。何年、この仕事でメシ食ってると思ってんだっ」
多田津はネクタイを緩めながら首に手を当てる。ゴキリ、と気持ち良い音を鳴らした。
「オレは、これから仮眠を取る。朝が早いからな。後の駅舎業務は田澤、オマエに――」
「オヤっさんっ!」
我慢できず、招代は叫んだ。直立不動のまま、拳を強く握る。
「大丈夫ですっ!ボクがっ!」
「助役って呼べ」
吐き出された熱い呼気が、強情な部下の言葉を遮断した。
「御厨。その前向きな気持ちだけは、買ってやる」
仮眠室へ向かおうとした足を止め、師匠はかつての弟子に向き直る。
「だがな。何かあった時の責任、今のオマエに背負えるか?」
プロとしての資質を探る、鋭利な指摘。低い響きが招代の胸をえぐる。
「遅延が発生して、怒鳴りこむ乗客に冷静に対応できるか?
車内の小さな異常に、すぐ反応できるか?」
「そ……それは…………」
招代は口ごもる。
いけます。という返事が、瞬時に出せなかった。
事細かに最悪の事態を想定されてしまうと、言い切る自信がどんどん消え失せていく。
「できねぇだろ?体調を整える、ってのはな。客と自分を守る、最低限の義務だ」
ぐうの音も出ない。
「今日は、もう帰れ」
多田津の目は、真剣そのもの。重い掌が、肩に置かれた。
「これは、オマエのためじゃない。上司として、安全を最優先した命令だ」
最後には、憎まれ役も買ってくれた。招代が自責の念に押し潰されしないよう、強引に重荷まで奪い取る。
「…………ハイ」
ここまでされては、招代も小さく頷くしかなかった。
深夜。自宅までの移動手段は残されてない。
だから、タクシーチケットを手渡された。
力なく紙切れを握りながら、多田津から言い渡された命令を思い出す。
「帰ったらスグに寝ろ。起きたら、体調報告を忘れるな。
そして明日は一日、ゆっくり休め」
「ハイ…………」
翌日だけでなく、明けの仕業からも外された。
招代にとって、追い打ちをかけられた気分になる。
(そんなに、悪そうに見えたんだ……)
他人から下された判断に、改めて自分の異常さを自覚した。
「…………失礼します」
どこか重い身体を引きずり、駅舎を出る。
タクシー乗り場から伸びる待ち人の列が、招代を待ち構えた。誰も彼もが無言で、疲れ切った顔。
それはどこか、通夜に並ぶ弔問客にも似て。
(ダメだっ!)
招代は思いっきり頭を振った。不吉な連想を、物理的に脳から追い出すように。
それでも。頭の中からあの女性の姿が離れない。
虚ろな瞳。曖昧な輪郭。そして、死んだように冷たい手。
あの感触が、今でも簡単に思い出せる。
(だからっ、考えるなっ!)
両手で頭を抱え、もう一度。脳裏に焼き付いた残像を無理やり振りほどく。
いい加減、忘れないと。
今回だって、思いがけず構ったせいで、仕事を外された。深入りした代償が痛いのは、身にしみている。
いや、今回だけじゃない。
昔だって。見てはいけないものを見ても、誰も信じてもらえなかった。
ただの妄想だ、と片付けられ。簡単に断じられない時は、汚いものを見るような目を向けられ。
あげく、両親には――。
「くそっ!」
短く悪態を夜風に吐き捨てる。
気付けば、ロータリーにたったひとり。
黒塗りのステップワゴンが、目の前でドアを開けていた。思ったより早く、順番が回ってきたらしい。
「万世鳩山へ」
ゆっくりと息を整えてから、タクシーに乗り込んだ。
運転手は、一言も喋らない。
行き先を告げても、短く了解と返しただけ。車内には、不気味な沈黙が満ちる。
時折、バックミラー越しに運転手の視線を感じた。
どことなく怯えと警戒が入り混じった、引きつった目つき。
招代は逃げるように視線を逸らした。流れる夜景に、意識を集中する。
車体は制限速度ギリギリで夜の街を疾走した。
逃げるように。見えない何かを振り切るかのように。
アパートの前に着くなり、運転手は勢いよくドアを開いた。せかすように伸ばした手にチケットを渡す。
降りるやいなや、赤いテールランプはせわしく遠ざかっていった。
「ただいま」
玄関のスイッチを入れ、部屋に灯りをともす。
就職を機に引っ越してから、この1DKの部屋に、ひとりで暮らしてきた。
彼女はいた時期もあったが、連れ込んだことはない。
シャワーも浴びずに、買い置きしていたコンビニ弁当を取り出す。
空腹ではない。だが、日常にそって動かないと、自分が消えてしまう気がして。
震える指で電子レンジのボタンを押す。回転する皿をぼんやりと見つめる数分間が過ぎ、電子音が部屋に虚しく響いた。
ラップを引き剥がすと、熱い湯気が顔にかかる。
瞬間。立ちのぼる湿った匂いに襲われ、胃が裏返りそうになった。
腐臭だ。
ただのハンバーグ弁当のはずなのに。日も放置された肉塊のような、油の匂いを放つ。
「……うぷっ」
招代は一口もつけることなく、弁当をゴミ箱に放り込んだ。
かろうじて服を脱ぎ、下着姿で布団に潜り込む。
眠れない。
ホームにいるはずの女性が、部屋まで追いかけてくる気がして。
あの、今にも消えそうな顔が、まぶたの裏から離れない。
(いや。もう関わるなっ。見るなっ)
もう、あの世界には戻らない。
昔、そう決めたじゃないか。
招代は電気をつけたまま、頭から毛布をかぶる。
それでも。胸の奥に引っかかる小さな棘は、寝息を立てるまで消えなかった。
この小説は、執筆にAIを利用しています。




