19.夏の手前
線路にうずくまっていた迷い人たちを収容した後も、列車は残りの駅に律儀に停車していった。
ホームに溢れていた白い影たちが、音もなく車内へ入っていく。
杖をついた老婆。ランドセルを背負った小学生。首のない女学生。古ぼけたハッピ姿の侍。
招代の横を通り過ぎるたび、湿った土と古い記憶の匂いが鼻腔をくすぐった。
誰も彼もが、違う温度の未練を引きずっている。それは、現世をさ迷った叫びの結晶なのかもしれない。
『ドア、閉まります』
すべてを乗せ終えたことを確かめ、扉を閉じる。
孤独を飲み込んだ十両編成は、夜の底をこじ開け、さらに先の深淵へ滑り出す。
やがて乗車する亡霊の姿は途絶え、レールを踏みしめる音だけが規則正しく続くようになった。
「連れて行きますよ、全員」
背後の客室へ向けて小さく誓うと、招代は自身の首元にそっと触れた。
あるはずのチェーンの感触はない。彼の身を守るため、カンテラの中でまばゆい閃光を放ち、燃え尽きてしまった小さな輝石。
「ありがとう、な」
感謝を込めて、焦げ跡の残るカンテラを、そっと指でなでた。
霊峰八皇子駅を越えると、景色が一気に変わった。
高く天へと伸びるビルの影が消える。街の明かりも、点在していた民家も、遠くなった。
窓の外に広がるのは、山と、生い茂る木々。夜の深さが、むき出しの自然を黒々と塗りつぶす。
人間の気配は、どこか遠くに感じられた。
(もうすぐだ)
招代は緩やかな傾斜を感じながら、少しずつ神の座へと近づいていく手応えを噛み締めていた。
(もうすぐ、終わる)
曲がりくねりながら駆け抜けていく。
左へ、右へ。山の稜線が車窓を流れる。
霊峰八皇子駅から終点までは、観光列車の意味合いが強い区間。日中、霊峰を訪れる登山客しか利用しない。
だが、今は。
「あっ……」
不意に、前方が開けた。
木々の間から、ひときわ高い山が姿を現した。
まだ暗い空の中で、その山だけが黒く、重く、そびえている。
「霊峰だ……」
何度も業務で見上げてきた、見飽きたはずの観光名所。
だけど。今夜ばかりは、底知れぬ威厳をまとって。列車を受け入れるように、すそ野を広げている。
「ついに……、来たんだ……」
あのふもとに、終着駅のホームがある。
長い夜の終わりが、近い。
最後のカーブを曲がると、小さな駅舎が視界に入った。
霊峰のふもとにある終点、高穂山口駅。
まだ始発も動かない時刻。ホームには、始発を待つ生者の気配すらない。
ただ、照明だけが無言で灯っているだけ。
『……着いたぞ』
無線から、多田津の疲労の滲む声が漏れた。独り言にも聞こえる、深い安堵の呟き。
招代もひとつ深呼吸をし、マイクのスイッチを入れた。
『次は終点、高穂山口、高穂山口です。右側のドアが開きます。ご注意ください』
4219号車での、最後のアナウンスを終える。と、客室も少しざわつき始めた。
「さあ。もうひと踏ん張り、だ」
マイクを切り、小さい窓を開ける。山の静寂が車内に流れ込んでくる。
澄んでいた。
怨念の死臭など微塵も混じっていない、清らかな神域の風。
今夜初めて、肺の奥まで息をした気がする。
「うまいな……」
招代のひとり言は、何に対してのものだったのか。
ゆっくりと侵入した列車は、停止線から寸分狂うことなく止まった。
圧縮空気が抜ける、役目を終えた音と共に、車輪が止まる。
招代はスイッチを操作した。
解放されたドアから、亡霊たちが降り始める。
ひとりひとり、ゆっくりと。生前の重荷を車内に置き、どこか軽やかな影となって。
誰も喋らない。物音ひとつたてない。
ただ、ひとりの例外もなく、祈りを捧げるように霊峰を仰ぎ見た。
木々の奥に佇む、はるか先にある鳥居の方角へ。迷いのない足取りで、全員が歩いていく。
老婆も、小学生も、女学生も、侍も。
怖誅の駅で迷い込んだ、かつての悪霊の一団も。列の末尾に混じり、静かに後を追う。
(良かった……)
招代は乗務員室の外に立ち、列車から離れていく背中を見送った。
名前も知らない。何に苦しんでいたかも、知らない。
ただ、送り出す。
それだけが、今の自分の仕事。いつもと同じ、鉄道員としての締めくくり。
「お気を、つけて」
招代は改札口の奥へと消える客の背中に向け、小さく呟く。
と、視界の隅に違和感が引っかかった。
「早瀬……さん?」
少し、驚いた声を上げてしまう。
遥はひとり、ホームの端っこで動かなかった。
他の亡霊たちが次々と霊峰へ向かっていく中、あえて逆らうように。霊峰から吹き降ろす清浄な風を拒み、細い肩をぎゅっと縮こまらせている。
「どうしました?」
てっきり、一緒に行ったのかと思っていた。慌てて、近づいて声を掛ける。
遥は、なにも喋らない。
「具合でも、悪いのですか?」
もう一度、問いかける。遥の唇が少し動いた。
「御厨さんが、少し羨ましいです」
それだけ言って、また黙る。
突拍子もない告白に、面食らった招代は瞬きを繰り返した。
「……羨ましい、ですか?」
「だって、そうじゃないですか」
問い返すと、遥は口を尖らす。清浄な山の空気を、愛おしむように見つめながら。
「こんな、穏やかな場所があるなんて。
御厨さんは、生きてるから、ずっと前から知ってたんですよね?」
真正面に向き合った。白く濁った瞳が、驚くほど人間らしい仕草で彼を見上げる。
それは、すねたような。年相応の学生だけが見せる、等身大で愛嬌のある顔。
「なんで、もっと早く。ここに誘ってくれなかったんですか」
二人の間に、しばらく沈黙があった。
「なんで、笑うんです?」
遥が頬を膨らます。
「いや、失礼しました。そんな風に怒られるとは、思っていなかったので」
招代は謝罪をしつつも、もう一度吹き出す。
ホームの照明が、少し揺れた気がした。
「この後、どうするんですか?」
唐突に。沈黙を破ったのは、遥からだった。
「えっ?」
「このまま、ワタシを連れ去って。このままサヨナラじゃ、ないですよね?」
初めて見せる、意地悪そうに覗き込む顔。
「えっ……と……」
招代は返答に窮した。実際、この後についてまで、まったく考えていない。
無責任だと彼女に非難されても、なにも言い返せない場面。
「一緒に、向かわないのですか?」
だから。動揺のあまり、苦しまぎれに言葉を絞り出す。
とっさに出た、情けない逃げ口上。
遥は、そんな招代の態度が気に入らなかったのか。怒るように自分の腰に手を当てた。
「そんなに、行って欲しいんです?」
質問に対し、質問で返す。透き通った輪郭が、いじけるように揺れた。
「ワタシ。まだ探し物が見つかってないのに」
自嘲気味に笑う青白い横顔には、亡霊としての不気味さは欠片も感じられない。
招代は、思わず目を伏せた。
「……すいません」
結局、彼女の探し物が何なのか、分かってもいない。
あの悪意から逃がすことばかり考え、一番大切な心残りを置き去りにしてしまった。
今までやってきたことは、しょせんは独りよがりの自己満足。彼女のために根本的な解決を、何ひとつ用意できていなかったのだ。
「いえっ、そんな!謝る必要なんて、ないですよっ」
ここまで、招代が落ち込むとは思わなかったのだろう。
遥の輪郭がぶれ、うろたえながら否定の言葉を紡ぐ。
「一生懸命、手伝ってくれましたし。御厨さんには感謝しても、したりないくらいです」
「そう、でしょうか?」
自信の持てない招代に、遥はからかうのをやめた。真っ直ぐに彼の目を見つめ、許すように深く頷いた。
「ええ、だから――」
彼女が慰めの言葉を言いかけた瞬間。
ふたりの間を、透明な力が通り抜ける。
「あっ……」
風が、吹いた。
荒々しくはない。どこか懐かしい、古いアルバムをめくる時に感じた、そよ風。
霊峰の方から。改札口の方角から。
霧が晴れるように暗がりが割れ、男女のシルエットが浮かび上がる。
ふたりの、影だった。並んで、歩いている。
「……ママ?」
遥の青白い唇が、震えた。
「……パパ?」
半透明の細い足が一歩、前に踏み出した。だけど、次の一歩が出ない。
「遥」
遠くから、透き通った声が届いた。優しく響く言葉。
遥が、弾け飛ぶように走り出した。
大事そうに持っていたベージュのコートを、その場に放り出した。
手を広げる懐かしいふたつの影に向かって、一心不乱に腕を伸ばす。
「ママッ、パパッ!」
感極まった声を上げ、待ち受ける両親に飛び込んだ。
両親も、しっかりと。でも優しく、娘を抱きしめる。
「会いた、かったっ……、ずっと!会いたかったっ!」
遥は泣きじゃくった。
迷子の子供が、ようやく家を見つけたかのように。
形のない未練が、肉親の確かな輪郭に触れて。ようやく、安らかな終焉を見出したのだ。
「遥」
「おかえりなさい」
ふたりから紡ぎ出される言葉に、遥は何度も頷いた。
「ただいま……。パパ、ママっ」
招代はなにも言えず、視線も外せなかった。
二人の影は慈しむような手つきが、娘の背中に積もった二十余年分の孤独を払い落としていく。
鉄路の終端で、なにかが終わる音を聞いている。
どのくらい経ったのか。
招代にとっては、無限とも思える時間だった。
「…………」
両親は、遥の頭を撫でながら、何か囁く。
何かを言い聞かせるように。暖かな陽光にも似た言葉を、丁寧に重ねていく。
「そんな……」
彼女は最初、目を見開いて眉をしかめた。だけど、両親の強い意思に押され、最後には頷いた。
「御厨さん」
両親から少し離れると、遥は振り返る。
招代と目が合う。
「ありがとうございました」
遥は深く、頭を下げた。
腰を深く折り曲げ、直角の形に。丁寧な所作で、頭を固定する。
今まで背負っていた重荷を、すべてホームへ預けるように。
なにも持っていない、軽やかな影へ戻るための儀式のように。
「いえ……」
招代は小さく、消え入るような祈りを口にした。
この後、何が待っているか。気づかないわけない。
だけど、止められない。止める資格なんてない。
だって、これが自然だから。
彼女は、ずっと昔に亡くなっているのだから。
「…………」
遥が口を開く。何も聞こえはなしない。
やがて、両親と並んで背を向けた。
遥を真ん中に。左右の両親に肩を抱かれて。最後に父親らしき影が会釈する。
もう、振り返らない。
招代は三人の背中が見えなくなるまで、ホームに立ち続けた。
車両に戻ると、赤いランプが点滅していた。上に書かれた文字は、指令からを意味している。
震えの止まらない指先で、スイッチを操った。
すぐに、スピーカーがつながる。
『おう、招代』
緊張感もない、聞き慣れた軽口。
意外な相手に、招代は声が裏返る。
「健人っ。オマエ、どうして……」
『そりゃ。オヤっさんの命令で、ずっと指令所で待機してたからな』
スピーカーから漏れる、親友の気安い返答。ぽっかりと空いた意識を、強引に現世へ引き戻される。
『で、どうだった?無事に、送り届けられたのか?』
「ああ、……終わったよ」
すべて吐き出すように。招代は声を漏らした。
「ぜんぶ、キレイに片付いた」
『そっか……』
安堵と、何かが欠落してしまったような寂寥感。
親友の思いを感じ取った相づちが、短い肯定に滲んでいる。
『……なあ、招代』
しばらく言葉にならない余韻を味わった後、健人は珍しく、慎重に話し始めた。
『これから言うコト、もし正解でも、決して怒らないでくれ』
「なんだよ?」
ためらいがちに、言葉を選びながら。親友に探りを入れる。
『もしかして、さ。オマエ、早瀬さんに惚れてたりしたか?』
「……まさか」
招代の返答には、少しの間があった。
「……ただ」
『ただ?』
「彼女を放っておけなかった。……ただ、それだけだよ」
返した言葉に嘘はない。
だけど、それ以上に。彼女が残していった透明な温もりが、指先にいつまでも離れない。
『そっか……。そう、だよな…………』
健人の声は、土足で敷居を踏み込んでしまったことを詫びるようだった。
『悪いな。ヘンなこと、聞いて』
「……別に、いいよ。このくらい」
悪友の謝罪を、おだやかに受け入れる。
と、遠くの山並みの輪郭が、鋭く鮮明に浮かび上がった。
東の空が、霊峰の向こう側が。重い闇を押し退けるように、力強い光の帯を走らせ始めている。
「ああ」
招代は感嘆の声を上げた。
もうすぐ、夜が明けるようだ。
あれから、1ヶ月。
あの鎮魂列車を、霊峰へと送り届けて以降。重大インシデントは、ウソのように影を潜めた。
裏打ちする証拠として、事故件数のグラフが滝のように落ちている。
誰もが頭を抱えていた異常な値だったというのに。例年通りの数値まで、一気に下降したのだ。
「こんなに、変わるもんですねぇ」
他人事のように。田澤主任がのんきな声を上げた。
「まぁ、な」
仏頂面を崩すことなく、多田津は手元の湯呑みを置いた。
「乗客の安全が守れりゃ、それで十分だ」
己が払った代償の大きさなど、微塵も気にしていない。清々しい横顔だ。
「まぁ。オヤっさん本人が、そうおっしゃるのなら」
「助役だって、言ってんだろ」
主任の悪びれない言葉に、助役は噛み付く。
もちろん、すべてが良い方向に変わったわけではない。
あの日の独断専行に、誰かが人柱になる必要があった。
招代はもちろん、多田津も。今となって思えば、必要な対応だと理解している。
だが。上層部には、理解するのが難しかったらしい。
だから、役員たちは会議を開いた。助役の独断によるダイヤ無視について、組織の規律を乱したという名目で。
結果、下された判決は懲戒と減給。そして、敷屋駅への異動。
「正直、拍子抜けだな」
処分内容を聞いた多田津は、大いに落胆したものだ。
本人は懲戒免職。軽くても降格だと考えていたらしい。
「そうですかね?」
横で薄くなった書類の束を抱えながら、田澤主任が首を傾げる。
「敷屋だって、天凰電鉄を含めた9路線の接続駅ですよ。
複雑に絡み合う連絡と、絶え間ない客扱い。神経をすり減らす、超のつく激戦区です。ひと息つく暇すらないかと」
「神宿の方が、もっと多いぞ?」
「ココは、助役の鍛えた精鋭が揃ってますから。負担がまったく違います」
「ケッ!」
主任が肩を大きくすくめると、多田津は照れ隠しのようにそっぽを向いた。
「上は最後の最後まで、オレに楽させねぇつもりだな」
「オヤっさんの手腕あっての、天凰鉄道ですから。
左遷のフリをして、厄介な現場を押し付けただけですよ」
わざとらしく持ち上げる田澤主任。言葉の裏に、確かな敬意をにじませる。
「ささ、グチを言ってないで。
次くる助役のために、早く席を整理して下さいね」
「……分かってるよ」
容赦ない主任の催促に、現場の鬼はしぶしぶ、空の段ボールを組み立て始めた。
(そっか……。居なくなるんだ…………)
ふたりを見て、招代はこみ上げる寂しさを、ぐっと飲み込んだ。
少しづつ、変わっていく。
神宿駅も、中で働く自分たちの顔ぶれも。
昨日と同じように見えるレールの上にも、絶えず新しい風が吹き込んでいる。
立ち止まっている人間など、ひとりもいない。
だから。
「報告したいことがあります」
と、沙織にメッセージを送る。
すぐに返信が来た。
短いやり取りを繰り返し、初めて会った喫茶店で、再び会う約束を取り付けた。
「お久しぶりです」
先に来ていた沙織は、立ち上がって小さく会釈する。
テーブルの上にコーヒーのカップ。ほのかに上がる湯気が、彼女も到着して間もないことを教えてくれた。
招代も席に座り、運ばれてきた水で喉を潤すと、ゆっくりと話し始めた。
「実は。沙織さんに伝えなければならいことが――」
話題は深夜の臨時列車がたどった、誰にも知られていない旅路について。
遥は無事、霊峰へ送り届けたこと。
亡霊たちと一緒に、高穂山口駅で降りたこと。
途中の悪霊については、はぐらかす。
「え、と……」
言葉を選んでいるうちに、うまく続かなくなった。
どこまで話したらいいのか。どう終えたらいいのか。
「大丈夫です。大体、内容は理解できました」
ずっと耳を傾けてくれた沙織は、迷う言葉の先を引き取ってくれた。
「それで……遥は、まだ。高穂の駅に居るんですか?」
友の孤独を案じる質問に、招代は首を振る。
「両親が、いらっしゃって……。一緒に、霊峰へと」
「そう、ですか…………」
すべて言い終えると、沙織はほうっと細い息を吐き出した。
目尻に浮かんだ涙を指先でそっと拭う。
「よかった」
しばらく、時間が止まる。
口をつける頃には、コーヒーは冷めていた。
仕舞い業務を終えた招代は、ホームへ出た。
ニュースの気象予報だと、昨日、梅雨が明けたらしい。
これから、陽射しが強くなる。じめじめした雨の季節は終わり、どこまでも突き抜けるような青空の季節が幕を開ける。
「ふう」
ハンカチで汗をぬぐいながら。重いカバンを手に、駅舎への道をたどる。
制服もクールビズへ衣替えしたが、半地下にこもる熱気には到底、勝てない。
少しでも涼しい場所を求め、ホームの中央を歩く。
ふと、目がベンチの横を追いかけた。
もちろん、誰もいない。
だけど。
招代は少しだけ口元を緩めた。
夏が、もうすぐ始まる。
六月の湿気は、容赦のない真夏の気配へと姿を変えた。
そうすれば、また。
「さぁ」
もうしばらくすれば、8月がやって来る。
彼女が帰って来るだろう、初めてのお盆が。




