17.道を塞ぐ者たち
違和感は、足元からやってきた。
車輪がレールを踏む音が、少しだけ変わる。
重い。いつもよりも鈍く、沈んだ摩擦音がする。
「なんだ……」
招代は計器に視線を落とすが、異常な数値は見当たらない。
マイクを握った。運転席に座る多田津へ、連絡を取ろうとした矢先。
「うおっ!」
金属同士がこすり削られ、鼓膜を痛めそうな甲高い悲鳴が響き渡った。
急なブレーキ操作。限界ギリギリの制動で、凄まじい慣性が車内を襲う。
踏ん張った甲斐もなく。振り回された招代は、内壁に叩きつけられた。
それでも、マイクだけは離さない。
「っつ……。オヤっさん、どうしました?」
ぶつけた場所をいたわるより先に。運転士である多田津に確認を取る。
『……御厨。なんだ、こりゃあ…………』
スピーカー越しに返ってきたのは、戸惑いだった。
『見たこともない何かが……、路線を塞いでいる……』
三十年以上、この現場に立ちつづけてきた男の声が。理解を超えた光景を前に、狼狽を隠せずにいる。
思いがけない報告に、縦長の乗務員窓を解放する。
トンネルの闇の先、前方に目を凝らすと、次駅である八代の地下ホームの明かりがうっすらと見えた。
しかし、そのホームの端が、ゆらゆらと不自然に歪んでいる。
風などない。地下空間だというのに、いくつもの淡い影が音もなく現れ、陽炎のように揺れていた。
「ひぃっ!」
物陰から、地中から。急停車した車両へ押し寄せる、青白く光る亡霊の群れ。
反射的に、招代は喉を潰してしまう。
『おぃっ、御厨っ。こいつは一体……、どうすりゃ……』
パニックになりかけたが、多田津からの切迫した問いかけで我に返る。
恐怖を腹の底へ押し込むと、もう一度、路線上を埋める亡者たちを観察した。
彼らから、攻撃の意思は感じられない。怨霊の気配とも違う。
ただ、自分たちも乗り込みたいかのように。列車の乗降口へ、細く長い腕を伸ばしている。
光を帯びたこの列車を。暗闇から抜け出す、唯一の希望だと信じて。
(救われたいんだ)
招代は息がせき止められる思いで、数え切れない悲哀を見つめた。
(この人たちも……、霊峰に行きたいんだ)
あの夜、深夜のホームで立ち尽くしていた遥と同じ。
何を探しているか、なにも分からないまま。
この路線のどこかで、ずっと、誰にも気づかれないまま。
止まり続けてきた、名もなき人たち。
招代は覚悟を決め、マイクを握る手に力を込めた。
「オヤっさんっ、自分が対応します。そのかわり、次の駅で停車してください」
『分かった』
返信に、逡巡はなかった。
多田津もまた、目前に迫る群衆を轢くわけにはいかない、と理解していたのだ。
『微速で八代へ進入する。ドア扱い、頼むぞ』
通信が切れると同時。流れるように計器を操作し、マイクを口に当てる。
『危ないですから、電車に寄らないでくださいっ』
車外へ強く放たれたアナウンス。闇夜の底で立ち往生する魂へ向けた、容赦ない警告がトンネルに響く。
亡霊たちも列車の意思を理解したのだろう。名残惜しそうにレールから退く。
ガタン、と。
足かせの外れた車両が、重々しい駆動音を立て再び動き出す。
ゆっくりと、歩くよりも遅い速度で。車輪がレールの上をすべり始める。
八代駅まで、慎重に歩みを進めていく。
「謝らなきゃ、な」
ネクタイを緩め、客室に繋がる仕切り扉を開け放つ。
遥は外の光景に少しおびえた素振りで、不安げに招代を見つめた。
「お騒がせして、すいません」
安心させるように。招代は制帽を取り、軽く頭を下げる。
「いえ……、別にいいんですけど……」
彼女は窓の外をちら、と横目で流すと、困ったような戸惑いの色を浮かべた。
「実は。次の駅に停車します」
誰にも相談していない、大幅なダイヤ変更を口にする。
「そこで、他のお客さまを乗車させます。よろしいですか?」
勝手に。自分で決めた。決めてしまった。
組織として許されない、独断専行。職分を大きく逸脱したワンマンプレイ。
だが。暗闇の底で救いを願う彼らも、助けるべき亡者なのだ。
「……大丈夫、なんですか?」
「彼らも、霊峰に行きたいんです」
事態が飲み込めずに固まる遥の両肩を、招代はガッチリとつかんだ。
「アナタのように、彼らも誰かに見つけて欲しいんです。だから、手を差し伸べないと」
理屈ではない。
孤独と霊を見続けてきた者として、同じ痛みを知る者として。切実なエゴを吐き出す。
「…………分かりました」
熱意が通じたのか。
遥は少し目を迷わせながら、最後には確かな重みを持って首を縦に振った。
「御厨さんが、そうおっしゃるなら……私は信じます」
「……っ!」
たった一人の乗客からの了承を貰えると、招代は破顔した。
「ありがとうございますっ!」
喜び勇んで乗務員室へ戻る。微速を続ける列車は、まさに八代のホームへと滑り込もうとしていた。
急がねばならない。
招代の手が、扉開閉スイッチにかかった。マイクのスイッチは車外のスピーカーにつないだまま。
何千回と繰り返してきた動作。いつもと同じ構え。
でも今夜は、意味が違う。
『ドア、開きます。ご注意ください』
重々しい車体が停車すると、扉を開いた。
夜の埃っぽく湿った空気が、どっと車内へ流れ込む。
そして——淡い影たちが、車内へ入ってくる。
生者ではない者たちが、列をなして。誰もいない客室を埋めていく。
『ドア、閉まりますっ』
ホームで待ちわびた魂の列が乗り込み終えると、開かれたドアを閉める。
空気の漏れる音が収まるより早く、列車は動き出した。
(さすがは、オヤっさん)
招代は感嘆する。
申し合わせもしてないのに、確認の合図もなく自然と地下ホームを出発させた。
あ、うんの呼吸。長年培ってきた鉄道員としての、研ぎ澄まされた直感が。
と。
無線が鳴った。短音で、何回も。
招代は上司からの呼び出しに応答した。
『……御厨、オマエ』
多田津の声がスピーカーから流れた。
低い声だった。
責めているのではなく、怒っているのでもない。
『……いつも、こんなのを見ていたのか?』
オヤっさんも、背負った乗客の正体を見たのだろう。いや。見えなくても、肌で感じ取ったに違いない。
「助役」
答える代わりに、新たな要求を口にする。
「この先の駅も全部、停車してください。待っている方を全員、連れていきます」
しばらく、返答がなかった。
「……はぁ?」
わずかな空白の後、困惑した声が戻ってくる。
『簡単に、予定を変更できると思うか?指令への説明だって――』
「彼らを、見捨てることはできません!」
招代は、強い語気をマイクにぶつけた。
「この路線で迷っている魂を、霊峰へ送りたいんです。オヤっさん、お願いします!」
『しかし……だな……』
それでも、相手の反応は鈍い。
長年の経験と反する、前代未聞の要求。多田津が渋るのも仕方ない。
「お願いしますっ。責任は自分が取りますのでっ!」
『……っ!バカ野郎っ!』
途端。乗務員室を壊すような、激しい大音声。
『くちばしの黄色いヒヨッコがっ、いっぱしの口をきいてんじゃねぇ!』
突然、降って湧いたカミナリに、窓ガラスがビリビリと震える。
「す……、すいません……」
「謝る必要はねぇ」
怒号の余韻がスッと引いた。代わってスピーカーから聞こえるのは、静かな凄みを帯びた重厚な響き。
『御厨、オマエの言い分は分かった。あの群衆を見捨てるわけには、いかねぇってことだろ』
「あっ……、ありがとう……ございます」
『だがな。最終的な決定は、オレが下す』
みぞおちに響く宣言には、一切の反論を許さなかった。
『オレの責任で、4219号車を各停に変更する。いいな?』
上司が放った言葉の意図に、すぐに気づいた招代の顔面が硬直する。
部下の暴走を、あえて自分の指示に塗り替えようとしている。
勝手に運行計画を書き換えるのは、重大な規律違反。降格はおろか、鉄道員としての未来だって失う可能性がある。
その決断を、一瞬にして呑み込んだ。
「すいません……」
言いかけて、招代は途中で止めた。
謝罪は求めていない。頭を下げれば、助役の決断を無下にしてしまいそうで。
「了解、しました……」
それだけしか、言えなかった。
トンネルを抜け、列車は再び地上を走る。
本来なら通過するはずの、小さな無人のホーム。昼間なら、生者であふれるホーム。
次の駅。また次の駅。
止まるたびに、招代は扉を開けた。ホームで列をなす亡霊たちが、鎮魂の列車に吸い込まれる。
亡霊たちは誰も喋らなかった。ただ静かに乗り込んで、車内に居場所を見つけていく。
招代は遮光幕の隙間から客室の様子を見る。
いつの間にか、遥は立っていた。客室の隅っこ、仕切り扉の脇に。
自分の居場所は、ここなのだ、と言いたげに。
招代は少しだけ微笑むと、業務に意識を戻した。
いつもより静かな車体が、夜のしじまを縫っていく。
レールを踏みしめる音を立て、深夜の線路を走り続ける。
だが、それも長くは続かない。
『招代、オヤっさん』
突然、無線から健人の弱りきった声が聞こえた。
『助役、だ。なんだ?』
『いや、ですね……。さっきから、指令からの呼び出しが止まらなくて……』
悲痛な響きに、健人の役目を思い出す。
本来、必要のない連絡係。不慮の事態に備えての配置が、今、役に立っている。
『第4219号車、聞こえるか』
無線から、別の音声が割り込んできた。
どうやら健人が抑えきれなかったようだ。指令員が直接、通信を繋いでくる。
『こちら、第4219号車。指令か?』
『そうだ。途中停車は許可していない。直通運転を再開せよ』
事務的な指令員の、しごく真っ当な業務命令。招代は申し訳なさに唇を噛む。
直通運転の予定が各駅に停車し、あまつさえ乗降作業を繰り返しているのだ。
予定外すぎる行動に、指令所がパニックに陥るのも無理はない。
『現場の判断だ』
『現場の判断って……、勝手に計画を変更するのは――』
『うるせぇっ!』
多田津の怒声が、スピーカーを揺らした。
続いて、声のトーンが変わる。
『御託はいい。当直に浜田がいるだろ?ソッチに代わってくれ』
『は?指令長、ですか?』
『早くっ!』
現場を震え上がらせる一喝。無線がパツンと途切れ、そのまま沈黙する。
再び指令所との通信が回復するまで、少しだけ間が空いた。
『多田津。ウチの若い衆を脅さないでくれ』
『浜田か。久しぶりだな』
呆れ半分といった様子で。
多田津の迫力にも引けを取らない、腹の座った声が応答する。
『予想外な事態で、計画が狂った。現在、オレの判断で軌道修正している』
『それで、各停か。まったく、若い頃となんも変わってねぇ』
無線のノイズに混じって、懐かしそうな苦笑が漏れてきた。
『悪いが立場上、計画通りに動け。としか言えねぇよ』
『分かってる』
返信まで、再び間が空いた。言葉を交わさぬが、無言の圧力が伝わってくる。
『……仕方ねぇな。目はつぶってやる』
沈黙の間に、何千もの会話を重ねたのだろうか。
やがて、大きなため息がスピーカー越しに漏れた。
『ただし、共倒れはゴメンだ。
指令は何度も計画に戻すよう命令した。現場の勝手な暴走、と報告する』
『それで構わねぇ』
『じゃあな。後は勝手にしな』
暗黙の了解だけを残し、無線は切れた。
「……オヤッさん」
招代は息を詰めたまま、マイクを持ち直す。
「今の、って……」
『知らなくていい。さぁ、もうすく次の駅だぞ』
トラブルを抱えつつ、深夜便の旅は続く。
都会の澄ました喧騒は置き去りにした。
窓の外には背の低い家並みや、暗い田園風景が続く。
どこで聞き知ったのだろうか。亡霊たちはどの駅でも、整然とホームに並んでいた。
招代は停車するたび、いつもと同じ動作で扉を開ける。
行き先を得た魂は足音ひとつ立てず、滑るように乗り込んだ。
(こんなに、たくさん……)
いつの間にか。車内は不気味な静寂と、青白い光に満たされていた。
満員電車ほどの密度で、声なき乗客たちが隙間なく立ち並んでいる。
物理的な質量は、ないはずなのに。亡者が増えるたび、発車時のモーターの唸りがわずかに重くなっている気がした。
(絶対に。全員を霊峰に……)
胸の前で手を握ると、列車は再び地中へ。怖誅駅の構内へ進入する。
この駅は接続駅。ホームを挟んだ向こう側に、伝承ヶ原線につながるトンネルが存在する。
反対側から伸びるレールの先。ぽっかりと口を開ける不気味な漆黒の空洞。
乗降作業中、ホームの亡霊たちは暗い通路の奥へと顔を向け、足を止めた。
(なに……?)
言葉にする間もなく、体が反応した。
胃の底が裏返りそうな、圧倒的な邪気。
腐った水が、ゆっくりと満ちてくるような。死の匂い。
「あぁ……」
ついに、来たんだ。
乗り込んでくる亡霊たちの、静かな重さとは異なる何か。
比べること自体がおかしい。
遥と、初めて会った時に感じた恐怖と違う。
緑川の怨念とも思ったが、根本的に悪意の質が違う。
もっと古い。もっと根深い。
ずっと、ずっと長い時間をかけて、路線の底に積み重なってきた——恨みの塊。
「マズい…………」
思い至った瞬間、全身の血が引いた。
招代の胸元に、危険信号がともる。
「オヤっさんっ!」
招代は無線に飛びついた。
「ドアを閉めますっ。今すぐ出発してください!」
『どうした?急に』
「きますっ!急いでっ!」
主語を飛ばしたが、通じた。
返答より先に、扉を閉じる。
乗降を待つ亡霊たちは、まだホームに残っていた。だが、待っている余裕はない。
心を鬼にすると、モーターの音が変わった。
車体が揺れる。列車が、動き出す。
『電車に触れないでくださいっ!』
乗り遅れた亡者たちを振り切って、逃げるように加速する。
思ったより、伸びなかった。
多数の亡霊たちを乗せたせいなのか。それとも、背後で渦巻く質量に、車体ごと引きずり込まれそうになっているのか。
車輪は高速で回転し、モーターが必死に唸ってた。それでも、速度が上がらない。
あれだけの乗客を運んできた十両編成が、ぬかるみの中を進むように、もたついている。
一方で。
背後から近づいてくる気配は、止まらない。
じりじりと。確実に。
どうやってホームを乗り越えてきたのか。背後の闇が、意思を持って膨張している。
それだけで分かった。このままでは、追いつかれる。
「どうするっ?!」
招代は車両に迫る圧力から逃れようと、身をよじる。
乗務員室の壁に指を食い込ませ、足を踏ん張った。足が痛くなるまで姿勢を低くし、闇の質量に抗い続ける。
(速くっ、もっと速くっ!)
悪夢に似ていた。
全速力で疾走しているはずなのに、まったく足りない。足はあるのに、ちっとも前に進まない。
逸る気持ちを抑え切れない。強張った首をねじ曲げ、視線を後ろへ投げる。
背面のガラス越しに映る景色が、ふいに歪んだ。
「ウソだろ……」
テールライトを遮る底なしの闇から、無数の手が伸びた。
形はない。形など、ない。
網の目のように広がって、逃走を図る車体へ絡みつこうとしている。
フゥオオォォッ!
車内の亡霊たちがざわめいた。車内が一斉に波打ち、前方へと圧縮されていくのが乗務員室まで伝わる。
「マズいっ!」
落ち着かせようと、マイクのスイッチを押し込もうとした。動作が完了するより早く、乗務員室が揺さぶられる。
「くぅっ!」
殴られたと錯覚する衝撃に、どうにか耐えた。壁にしがみつき、後方を注視する。
まさに今。悪霊の手が、最後尾の窓ガラスに手がかかる。
だが。人の手とは違う、漆黒の指先が鋼鉄に触れるより早く。
シャツの内側で——ペンダントが、光った。
招代の胸が、熱くなる。
遅れて、操作盤の中央に鎮座した桐箱からも、爆発的な閃光が吹き荒れる。
枯れたと見下されていた石が、招代の強い願いに呼応した。
瞬間、バチンッ!と。
「うわっ!」
弾け飛んだ強烈な赤い光が、乗務員室を真昼のように染め上げる。眼の前で稲妻のようなスパークが飛び散り、迫り来る悪霊の手を容赦なく打ち据えた。
見えない防壁に弾き返されたように、気配がわずかに遠ざかる。
(効いた……)
招代は、拳を握り締めた。
しかし。それは——ほんの、一瞬のことだった。
この小説は、執筆にAIを利用しています。




