13.帰郷
業務が終わった深夜のホームに、招代は立っていた。
制服姿だが、手に持つのはカンテラのみ。大きく重い業務カバンは、どこにもない。
そのはず。今日、彼は予備に回され、業務を行ってない。
ただ、遥と会うために。
自分の役目を果たすため、この場所に足を運んだのだ。
軽く、息を吸う。
静まり返る半地下の構内は、ガラスのように澄んでいた。今夜は、怨霊の気配は遠いらしい。
昨日の出来事が、遠い出来事のようで。
「こんばんは」
少し進めば、いつものベンチ前。
凪いだ夜の底で、遥の輪郭がいつもよりはっきりと世界に定着していた。
近づくにつれ、遥が両手で何かを抱えているのに気づいた。
白い花束。沙織が置いていったものを、遥が手に持っている。
「こんばんは」
招代が声をかける。視線が、自然と花束へ落ちた。
「……沙織さんの、ですか?」
遥は小さくはにかんだ。
「はい。でも……」
照れくさそうに瞳を伏せ、腕の中にある純白の花束へと落ちる。
「持っていても……いいのかな、って。分からないんですけど」
いつも虚ろな瞳が、純白の花びらの上を、心細げにさまよった。
困ったように、でも手放したくないように。
「いい、と思いますよ」
招代は答えた。
「沙織さんが。アナタに渡したくて、持ってきたんですから」
嘘いつわりない、真っすぐな肯定に、遥はホッとしたように青白い口元を緩めた。
「そう、ですね」
花束を、そっと抱き寄せる。
どこか温い、生前の面影を感じさせるような仕草。
けれどもその視線は、どこか遠い。
沙織との再会を思い出しているのか。それとも別の、遠い過去の情景をさまよっているのだろうか。
梅雨の湿った夜気が、半地下のホームに忍び込んでいた。
招代は、己の内に渦巻く葛藤を飲み込む。
言ってしまえば、もう止まらない。彼女の、穏やかな横顔を壊してしまう可能性もある。
だが、彼女に伝えるのは。自分しかできない役目なのだ。
「早瀬さんに、お願いがあります」
意を決して、口を開いた。
「霊峰へ——高穂へ、連れて行きたいんです」
脈絡のない申し出に、遥はきょとん、と瞬きを繰り返した。
「高穂……山の上、ですか?」
「はい。この路線の終点にある、神様のいる場所です」
招代は苦い唾を飲み込み、あえて言葉を濁す。
助役の、『おびき寄せる』という非情の采配。
彼女を囮として使うという思惑は、絶対に伏せておきたい。
「早瀬さんが、ずっと探していたもの。お父さんへ伝えたかった言葉」
鼓動が、いつもより早く打った。罪悪感に濡れた手が、微かに震える。
「その思いを届けられる場所が、高穂にあります」
だから。どろりとした自己嫌悪を、腹の底に隠すしかない。
努めて、穏やかに微笑んでみせる。
「そう……」
遥はしばらくの間、当惑したように細い眉を寄せた。胸に抱いた花束と、自分の手を交互に見つめる。
白く透き通った、小さな手。そして沙織から手向けられた花。
ふたつの白い色が、彼女の曖昧な存在感を、より一層際立たせる。
「……危なく、ないですか?」
ためらいがちに。
死者から発せられた単純な問いに、招代の心臓が大きく跳ね上がった。
彼女は。すでに亡くなっているハズの遥は——何かを本能的に感じ取っている。
それは、招代の不自然な笑顔に張り付いたウソなのか。
それとも。昨夜、彼女を喰らおうとした『黒いモヤ』に対する怯えなのか。
招代には、分からない。
「大丈夫です」
言い切った。それ以上、言葉を足さない。
腹の底に重い氷を抱え込んだままの、薄っぺらな誓い。
最も危険な最前線へ送り込むのだから。守ってみせるなどという言葉は、とうてい信じられるものではない。
「……そうですか」
遥は少し間を置いてから、静かに呟く。
ウソの裏にある、陰惨な意図に気づいていたのか。死者はそれ以上、追及しなかった。
乗務員通路を歩きながら、招代は会議室の光景を思い出す。
『みっつ、問題がある』という、オヤっさんの氷のような分析。
有無を言わさないトップダウンの宣告。
そして、『遥をオトリにする』という結論が下された瞬間。
自分は——何も言えなかった。
(分かっている。オヤっさんが、正しい)
それでも、招代は歯ぎしりしてしまう。
反論の言葉は、確かになかった。路線全体を守るために、もっとも合理的な手段だと、彼も理解できる。
だが。自分の弱さが歯がゆい。
どこかで、合理的な方針に乗っかり、自分の責任を薄めようとした。
決断をオヤっさんに預けることで。姑息にも傷つかない場所へ退避しようとした。
(また、逃げたんだ)
蛍光灯がチラつく廊下の途中、招代は足を止めた。
硬い壁に背中を預け、天井を仰ぐ。
(守らなきゃ、いけない)
シャツの裏に隠したペンダントを握り、誓う。
誰が決めた方針であろうと。どれだけ合理的であろうと。
遥が傷つくことだけは。何があっても防がないといけない。
(でも……)
空いていた片手で、目を覆った。
(どうすれば……、早瀬さんを守りきれる?)
昨夜の、ホームの光景が蘇る。
黒い手の群れに弾き飛ばされ、床に叩きつけられた自分。
何もできないまま、輝石の光に助けられた自分。
あの怨霊が本気で来た時、自分ひとりでは抗えない。
(奇跡を待つだけでは、ダメなんだ)
胸の奥に押し当てた、ペンダントから返ってくる小さい脈動。布越しに伝わる、わずかな温もり。
この石には力がある。
けれど。あの強大な悪意を祓うには、絶対的に足りない。
(足りないなら……)
脳裏に浮かぶのは、古い石段。杉の匂い。鳥居の影。
子供の頃から何度も上り下りしながら、逃げるように飛び出してきた場所。
(分かってる……。頭を下げるしかない。って)
十年間、ずっと背を向けてきた。
見えるものを否定するように、あの場所との縁を断ち切ってきた。
だが。
今は、意地を張っている場合じゃない。
(だって。守ると、決めたから)
だから、どこへでも行く。
何にでも頭を下げる。
招代は壁から背中を離した。足を、前に向ける。
スマホを手にり、健人にメッセージを打つ。
「実家に行く」とだけ。
送信する寸前、指を止める。
ひとりで行くべきか。
いや。今の自分に、その強がりは必要ない。
返事は、すぐに来た。
OK。車、出すよ。
招代は小さく息を吐き出す。それだけで、少し楽になった。
翌朝。
アパート前の路肩に、一台の軽自動車が停まっていた。年季の入った、シルバーの軽ワゴン。
ドアを開けると、助手席に古い駐車券と空のペットボトルが転がっていた。
「どかしといて」
当然のように、事もなげに持ち主は言い放つ。
邪魔者をどかして乗り込むと、膝がダッシュボードに当たった。
かなり狭い。だけど、悪くない狭さだ。
「じゃ、行こっか」
健人の短い合図で、小さな車は走り出す。
軽快に、エンジンを唸らせ。早朝の幹線道路を駆け抜ける。
招代の実家、彼らの故郷は、ここから車で3時間ばかり。青々と生い茂る山林に囲まれた、静かな門前町にある。
景色が都会の灰色から、のどかな田園風景へ変わるまで。ふたりは言葉少なに、過ぎゆく時間を共有した。
車内に流れるのは、単調なロードノイズとエンジン音だけ。
故郷の気配が濃くなるたび、招代の胸の奥でざわめきが強くなる。
赤になった信号で、灰色の車体は止められた。
健人が、ハンドルの上で指を組む。
「沙織さんに、さ。霊峰の件、話したよ」
招代は息を呑みこんだ。
助手席で身を固くし、黙って健人の話しに耳を傾ける。
「遥さんを連れ出す話。決まったって、伝えたら、さ」
健人は、ハンドルを握る手にぐっと力を込めた。
「『御厨さんと、助役さんを信じます』って」
「……それだけ?」
「それだけ」
「オヤっさんの、彼女をオトリにするって計画は?」
「それも、言った」
フロントガラスを見つめたまま、健人は静かに長い息を吐き出した。
「その上で、オレたちを信じます。だってさ」
狭い車内に、短い沈黙が落ちた。
普通の覚悟ではない。親友を二度も失うかもしれない恐怖を、自らの意志でねじ伏せている。
「……すごいな、あの人」
招代がこぼすと、健人は同調した。
「怖いよ、あの人の方が。断然」
と、苦笑を返す。
「だから……ちゃんとしないといけないな、って思ったよ」
信号が青に変わった。
健人はシフトレバーを操作し、力強く車を発進させる。
窓の外を、架線が勢いよく流れた。天凰電鉄ではない、ローカル鉄道の単線。
招代は黙って、後ろへ消えていく光景を見つめた。
(信じてもらっている。だから——絶対に、守り抜く)
沙織の「信じます」という一言。
思い覚悟の言葉を、もう一段だけ深いところへ押し込んだ。
「あと、さ」
山間へ向かう道中。景色が杉林の織りなす、故郷の記憶と重なる頃。
「やっぱり、謝らせてくれ」
健人が、声のトーンを落とした。
「会議のこと、悪い」
「……もう、過ぎたこと、だよ」
「いや、俺が霊峰の名前を出したせいだ。
オヤっさんが、遥さんをオトリに使う、って決めちまった」
「そんなコト――」
「オレは。怖かったんだ、と思う」
ぽつり、と。
助手席の悪友にだけ聞こえた、小さな懺悔。
「本当の意味で、関わることが。だから、話をそっちに流しちまった」
珍しく正直な健人の言葉。逃げ場のない後悔が、狭い車内に落ちる。
招代は窓の外を見たまま、唇の先を噛んだ。
自身の不甲斐なさを、唇の痛みで誤魔化す。
「止めなかったのは、オレだって同じだよ」
静かに。だが、確かに。
「どこかで正論に乗っかって、決断をオヤっさんに預けた。……健人だけじゃない」
だから、と招代は続ける。
「実家に、頭を下げに行く。早瀬さんを守るために、神頼みだってする」
健人は憑き物が落ちた顔を見せ、アクセルを少し強く踏んだ。
エンジン音が、一段高くなる。
しばらくして、招代が口を開いた。
「メシ、おごるよ。帰ったら」
「……そんな安いので、許してもらえると思うなよ」
健人の口端が、少しだけほぐれていた。
山あいの小さな駅で、ふたりは軽自動車を降りる。
ここから参道へと続く、細い道あい。土と古い木の匂いが、肺の奥まで入ってくる。
何年ぶりか、数えたくない。数えても仕方がない。
「懐かしいな」
健人は石段を見上げ、素直な感想を口にする。
「子供の頃は、そう思えなかった」
招代も苦笑交じりに呟き、歩幅を合わせた。
石段をひとつ、またひとつ。
踏みしめるたびに、過去が足の裏から上がってくるような気がした。
あの、忌まわしい記憶。虐げられた、幼き頃の日々。
「どうした?」
足の遅れた招代を、健人が心配そうに振り返る。
「何でもない」
曖昧な相槌で胸に渦巻くためらいを振り払うと、鳥居をくぐる。
出迎えたのは、白い玉砂利の境内と、石畳の長い参道。
逃げ出したあの日から何も変わらない。重く、厳格な静寂。
「えっ、兄……さん?」
社殿の横にある母屋の玄関先で、掃除していた人物が動きを止めた。
細面の、招代より少し線の細い青年。御厨家の末弟——澄生だった。
「澄生」
弟だった。招代より、いくつか年下の。
「なんで……今ごろ……」
十年ぶりにあった末弟の顔には驚き、というより困惑が浮かぶ。
無防備にさらけ出した、一瞬だけ見せた素の顔。目の奥で、歓迎されざる客への戸惑いが垣間見える。
だが、澄生はすぐに隠した。表情を取り繕うように、深く頭を下げる。
「招代兄さん、お久しぶりです。ご健勝でしたか?」
丁寧な再会の挨拶も、どこかぎこちない。家族に向けるとは思えない、よそよそしい態度。
「そっちも。元気そうでなりより」
招代は、当たり障りのない返事を返すのが精一杯。
(どうしたんだ?)
不審に感じるも、深追いはしなかった。
なにしろ、十年も離れていたのだ。
家族の関係を変質させるには、十分すぎる歳月である。
「久しぶり。オレのこと、覚えてるか?」
横から健人が能天気を装い、兄弟の会話に踏み込んできた。彼も、ふたりの間に流れる、奇妙な空気を感じ取ったのだろう。
だから、わざと踏み込んだ。
お陰で、石のように固まりかけた緊張がほぐれる。
「ええ。佐々木さん、ですよね?」
澄生は健人にも笑顔を向けた。
招代に向けたものより、少しだけ自然な顔だった。
ぎこちない近況報告を交わした後、ここではなんだから、と、客間に通された。
古い母屋に場違いな、応接用の広い洋室。見覚えのある染みや柱の傷が、そのままの位置に残っている。
「で、さ。招代兄さん」
お茶を出しながら、澄生は表情をスッと消した。
口元に笑みを残しているものの、目だけは油断なく招代を観察している。
「急にどうしたの?連絡もなしに」
「用があって、来た」
「用、ねぇ……」
繰り返す弟の言葉には、別の意味が含まれるようだった。
「十年ぶりに顔出して……。まさか、跡を継ぎたくなった、とか?」
「まさか」
澄生の発言を笑い飛ばそうとして、失敗してしまう。
声が不自然に裏返ったのは、彼の笑顔の裏に、不気味さを感じたから。
警戒している。
何かは分からない。でも、招代の帰還を心底警戒しているのは分かる。
「実は……。力を貸してほしいんだ」
だけど、疑ったところで話は進まない。招代は茶碗を受け皿に戻し、本題を切り出した。
「……力を貸す、だって?」
澄生の表情が、一瞬だけ固まった。
「実は今、厄介な悪霊の怨念に巻き込まれている」
弟の探るような視線を無視し、言い切る。
「でも。追い払うのは、オレの力だけじゃ足りない」
「ふうん」
相槌を打ちながら、弟も湯呑みを受け皿に置いた。
「確かに、招代兄さんらしいけど。何に巻き込まれたの?」
「巻き込まれた。というより、自分から首を突っ込んだ」
「それは……。らしくないね」
澄生は小さく笑った。苦いような、困ったような笑い。
「そう、かもしれない」
昔に見せた弟の表情に、招代も釣られて苦笑した。
「とにかく。最初に会ったのが、澄生で助かった」
張り詰めていた肩の力を抜き、招代は弟に頭を下げる。
「助けてもらいたい。と、父さんに話を通して欲しい。できれば、兄さんにも」
「それは……良いけど」
歯切れ悪く、澄生は眉をしかめた。
「父さんのこと、聞いてる……よね?」
話の接点が見えず、招代は無言で瞬きを繰り返した。それが、彼の出した答え。
「……そうなんだ。実は――」
澄生は力なく肩を落とすと、耳を疑う言葉を口にした。
父は、取り返しのつかない病に侵されている。
「もう、長くはないって。お医者様が言ってた」
病名は伏せたまま。ただ静かに、事実だけを告げる。
「そんな……」
言葉を失う招代に、澄生は淡々と。避けられない現実を突き付ける。
今は床につく日が増えた。神社の仕事を、日常的にこなせなくなっている。
「厄払いの仕事は、今は宗一兄さんがやってる」
「……兄さんが?」
「うん。でも」
弟は少し言いよどむ。
「正直、評判はあまり良くない。父さんと比べると、腕が——その」
「……及ばない」
「うん。近隣からの依頼も、少しずつ減ってきてる」
言葉の奥に隠しきれない疲弊がにじんでいた。
毎日、現実を見続けてきた者の重さ。
招代は胸元をつかみ、視線を落とした。逃げ出した自身の無責任さに、押し潰される。
「あの……」
うなだれる招代に、澄生は何かを言いかけ、そして閉じた。
「ん?」
「いや……、何でもない……」
不自然な弟の態度も、一瞬だけ。再び視線を鋭く細め、見えない壁を作り出す。
「とにかく。招代兄さんの話は分かった」
澄生は小さく息を吐き出し、立ち上がった。
「聞いてくれるか分からないけど。今から、父さんと宗一兄さんに掛け合ってみるよ」
そこで待ってて。と、澄生は言い残して応接室を出ていく。
扉が閉まった。
沈黙が落ちる。招代は澄生の消えた扉を見つめたまま、動かない。
「オレ、外に出ようか?」
居心地が悪いのか、健人が小声で聞いてくる。
「いい。いてくれ」
招代は首を横に振った。
ひとりにしてくれるな、という本音が、声の端に透けていた。
この小説は、執筆にAIを利用しています。




