1.終電後の邂逅
午前零時過ぎ。最終電車が停止線ぴったりの位置に止まる。
車掌の御厨招代は、ひと呼吸を置いてから開閉スイッチを操作した。
瞬間、すべてのドアが気の抜けた音を立てて解放される。
「ふぅ……」
手元に握っていた懐中時計に目をやり、時間を確認する。
五分の遅延。減点対象だが、遭遇したトラブルからすれば上出来だろう。
なんせ、今日も列車を止める要因が多すぎた。
乗客同士のトラブルが3件。痴漢が1件、駆け込み乗車は数しれず。
これで、この遅延で済んだのは、逆に幸運だったかもしれない。
だが、すぐに気を引き締める。油断は厳禁だ。
『終点、神宿、神宿。本日も天凰電鉄をご利用いただき、ありがとうございました』
電子制御のアナウンスが、無人となった車内に響き渡る。
すでに乗客はホームへ降り立った後。改札口へ吸い込まれ家路へ、または繁華街へと消えていく。
最後尾の乗務室から、まばらに遠ざかる背中を見守ると、車内の巡回へと向かう。
忘れ物がないか、危険物が放置されていないか。
床へ、網棚へと視線を移しながら、機械的に確認していく。
「よしっ、異常なし」
不審物も、酔っぱらいの粗相も居なかった。素晴らしい。
最前部の運転席へ到達すると、支度を終えた運転士が振り返った。
「ああ、御厨くん」
自分よりひと回り年上のベテラン運転士が、自分の腰回りをトントンと叩く。
「悪いんだけど、どうも腰の調子が悪くてね。あと、頼めるかい?」
「了解です。お疲れ様でした」
「すまんね。明日の始業点呼までには、治しておくから」
重いカバンを下げ、ベテラン運転士が足早に遠ざかる。
「ハァ……」
影も形もなくなってから、招代は長いため息をついた。
規定違反は明らか。店じまい作業をふたりで行うのは、クロスチェックの意味もある。
大先輩の、魔が差す瞬間を、イヤというほど見てきたハズなのに。どうもやるせない。
外も内も、どうもネジがゆるんでいる。
「グチってもしかたない、か……」
肩を落とし、ひとりで残った作業を続ける。
パンタグラフの下降スイッチを扱い、車内灯を落とした。
ガクン、と動力が落ちる音と共に、長い車両が闇に沈む。
乗務員室扉からホームへと降り立ち、鍵をかける頃には、もう誰も居なかった。
「ふぅ……」
ネクタイを緩め、強張っていた首を回す。
この瞬間だけ、半地下のホームは招代だけのもの。誰にも邪魔されない、黄泉路かと思わせる空虚な空間。
駅構内を照らすLEDの照明が、白々と世界を覆った。
六月の湿った夜気はすでに蒸し暑く、空気が肌にまとわりつく。
制服の袖で、額の汗をぬぐう。
静かだった。
帰宅ラッシュ時の喧騒がウソのように、音のひとつも落ちていない。
生命の気配が消え、人界との境界が消え失せる。
まだ幼かったあの日――生家の神社で感じ続けてきた感覚と同じように。
「くぅ……っ」
突然、忌まわしき記憶が次々にフラッシュバックした。
藪の隙間から手招きする、しわくちゃの腕。
境内で連なって歩く、白い影。
大学の構内で見かけた、しゃがみ込んで動かない黒い靄。繁華街の片隅、奥まった暗闇から覗き込む視線。
子供の記憶から、順々に。決して見えぬはずの異形の面影が、招代の脳裏を焦がす。
(ダメだっ!落ち着けっ!)
シャツの内側に隠したペンダントを、上からつかんだ。
目を閉じ、荒くなった呼吸を整える。
逃げるように実家を出てから、もうすぐ十年。大学を卒業し、私鉄の鉄道会社にも就職できた。
昨年には長い下積みを経て、車掌の資格も取得した。
二十七歳という年齢からすれば、少し遅い。
さらに上を目指すなら、ここから巻き返さないといけない、勝負の年。
鞄をホームの床に置いた。ゆっくりと目を開ける。
視界には、見慣れた深夜のホームが広がった。なんの変哲もない、無人となった半地下のホーム。
(しっかりしろっ!)
両手で自分の頬を叩いた。ひんやりとした頬に熱いしびれが伝わる。
終電から降りても、業務が終わったわけではない。
数時間後には始発便が待っている。それまで、少しでも仮眠を取らなければ。
もう、ひと踏ん張りだ。と、短く息を吐き出した矢先だった。
「ん?」
妙な気配。
冷たい何かが、背中の中心を撫でた。
肌にへばりついた湿気が一瞬にして凍りつき、全身に鳥肌が立つ。
招代は無意識に足を止めた。息を潜め、周囲を探る。
誰もいない。当然だ。
本日の運転業務はすべて終了し、改札も閉ざされた。
車内に誰も居ないのを確認したし、改札口のシャッターも下りているハズだ。
だというのに。季節が舞い戻ったかのような、寒気のする気配は消えなかった。
いや、だんだん濃くなっている。
過去にも味わったイヤな感覚に、招代の首筋に冷たい汗が伝った。
幼い頃に何度も体験した、よどんだ穢れ。
墓地や古い家を訪れたとき、いつも感じた冷気。
(そんなハズ、あるものかっ)
招代は首を横に振った。
ここは駅。人の往来が激しく、霊が留まるような場所ではない。
きっと、疲れているのだろう。
このところの激務で、睡眠時間が足りていないだけ。
そう自分に言い聞かせ、革靴の音を静かなホームに響かせる。
途中で足が止まった。
ちょうど、ホームの真ん中ほど。ベンチの近くにたたずむ人影。
招代が視線を移すと、二十代前半と思わしき若い女性が、きょろきょろと辺りを見回していた。
少し年季の入ったリクルートスーツに、手にはベージュのコート。黒髪は肩まで伸び、顔立ちは整っているが、どこか焦点が定まらない。
ため息が、深い夜闇に吸い込まれた。
(どこから入った?)
真っ先に浮かんだのは、職務上の疑問。
車内に残っていた客ではない。座席の下まで見たのだから間違いない。
なら、改札から?
いやいや、シャッターは自動的に降りる仕組みになっている。
残った可能性は、このホームに隠れていた。
(……よせ。考えるな)
論理的でない答えが脳裏をよぎる。事実に気づいてしまいそうで、招代は無理やり思考を遮断した。
あまりにも、彼女から感じる異質感が強かったから。
どこかぼんやりしている輪郭、不鮮明な存在感。
なにか曖昧で、すりガラス越しに見るような――
いや、考えすぎだ。
招代は職務に従い、彼女に近づく。相手は気づかない様子で、不安そうに視線を左右に動かしていた。
ずっと、何かを探すかのように。
「すみません」
声をかけると、女性は驚いたように顔を向けた。大きな瞳が招代を捉える。
その目を見た瞬間、招代の胸に冷たいものが流れ込んだ。
この女性の瞳には、生気がない。
いや、違う。
生気がないのではない。何かが――欠けている。
「どうしました?もう、本日の運行は終了しましたよ」
努めて冷静に。招代は話を続ける。
「あの……」
女性客の薄い唇が開いた。か細い声で、少し震えている。
「探しているものが、あるんですが……」
彼女のひと言で、あっという間に口内が乾いた。まさか、という疑念が喉元まで出掛かる。
だが。激しく高鳴る動悸を押し殺して事務的に。招代は仕事用の仮面を顔に貼り付ける。
「忘れ物ですか?」
「いえ、その……」
女性は困ったように、細い眉を寄せた。
「何を探していたのか……思い出せなくて」
話を聞くたびに。背筋に走る悪寒が強くなる。
思い出せない。彼らは皆、そう言うのだ。
自分が何者か、どこから来たのか、何を探しているのか。
すべてが曖昧で、ぼんやり。夢と現実の間、濃い霧の中でさ迷うかのように。
(駄目だっ、考えるなっ!)
招代は逃げるように自分を叱咤する。肌寒く感じるのは、単に疲れているだけ。
「めまい、ですか?」
利用客に気づかうように、招代はできるだけ穏やかに尋ねた。
「はい……いえ……」
女性は自分の頭を軽く押さえた。ひどく不安定で、現世とのピントがあやふやに感じる仕草。今にも倒れそうな陽炎の女性。
「お加減が悪いようでしたら、駅員室で休まれますか?」
「いえ、大丈夫です」
女性は首を横に振った。その動きはスローモーションで。古い映像を、コマ送りで見ているかように。
「ただ……ここは……」
女性は辺りを見回した後、戸惑いを深めた目で招代を見た。
「ここは、どこでしょうか?」
どこか透き通った、温度のない声。招代の心臓が一拍、強く跳ねる。
「神宿の、駅です。天凰線の……」
短く答えた。それ以上、言葉を続けられなかった。
「駅……」
女性は小さく呟く。自分で発した言葉の意味を、ゆっくりと噛み締めるように。
「私……なぜここに……」
女性の声に深い困惑と、わずかな恐怖が混じる。
招代は唇を噛み、拳を握った。
分かっている。本当は、分かっている。
この女性は――いや、認めるな。
「……あの、もしかして」
招代は強引に、会話の舵を変えた。最悪の直感から目を背けたい。その一心で。
「お忘れ物をされたのではないですか? 財布とか、鞄とか」
「忘れ物……」
女性は首を傾げる。
「そうかもしれません。でも、何を忘れたのか……」
「でしたら、忘れ物センターに問い合わせていただければ」
招代は素早く、ポケットからペンとメモ用紙を取り出す。
親切心なんて、これっぽっちもない。
とにかく、この会話を終わらせたかった。
解決策を提示し、納得させ、一刻も早くこの場から立ち去りたい。その一心で、連絡先をなぐり書きする。
「こちらが忘れ物センターの電話番号です。明日の朝九時から営業していますので」
なんとか読めるメモを差し出すと、女性は戸惑いながらも受け取った。
瞬間、互いの指先が触れる。
ビクリ、と招代の肩が跳ねた。
冷たい、などという次元を越えていた。
深海に沈む名もなき白骨に撫でられる、ねっとりと肌に吸い付く死の温度。
手袋の繊維などでは防ぎようもない。絶対的な不浄の感触が、骨の髄まで侵食する。
「ひっ!」
つい、反射的に手を引いてしまった。
駅員として、あるまじき態度。だが、社会的立場よりも生存本能が、脊髄へ直に命令を下した。
「明日……朝九時……」
幸いにして、女性は気づかなかったようだ。異国の文字に出会ったかの様子で、じっ、とメモを見つめる。
「はい。それまでに思い出されるかもしれませんし」
この場から離れたい。自分の役目も忘れ、招代は一歩後ずさる。
すでに我慢の許容量を越えていた。これ以上、この女性と関わりたくない。
「ええ。そう……だとイイです」
女性は力なく笑った。どこか諦めに似た、影を差した微笑。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ」
深々と頭を下げる彼女に、軽い会釈で返す。
「出口は……あちらの階段になります」
招代は震える指で、出口の方角を指差した。
とっさに出てしまった、身勝手な誘導。今から彼女が階段を上がっても、閉ざされたシャッターが行く手を遮るだろう。
本来なら。駅員である招代が同行し、解錠せねばならない。
だが、足が動かなかった。
彼女と肩を並べ、暗く狭い階段を歩く?想像しただけでも、精神が崩壊してしまう。
一刻も早く、一秒でも早く。この場から消え失せたい。
だから、職務を放棄した。
結果、客を閉じ込めることになっても。
今の招代にとって、自身の正気を守り抜くことだけが、天秤にかけるまでもない絶対の正義だった。
「……それでは、お気をつけて」
一方的に話を打ち切り、踵を返す。
逃げるように。いや、完全に逃げていた。
走れば、何かが決壊する気がした。背中を追って、亡霊が飛びかかってくるかもしれない。
ギリギリの理性を保ちながら。今にもくじけそうな膝を叱咤し、早歩きで乗務員専用通路へ向かう。
逃げこむ間、背中に視線を感じたが、振り返らなかった。振り返ってはいけない気がした。振り返れば、何かを認めてしまう気がした。
全身の毛穴が泡立った。
心臓が激しく脈打つ。
指先に残る、質量のない死の感触。
間違いない。
あの冷たさ。あの虚ろな瞳。そして、あの曖昧な輪郭。
全てが、招代の知っている『それ』と一致していた。
この小説は、執筆にAIを利用しています。




