『静かな令嬢は、すべてを覚えている』 ――婚約破棄のあと、記録官として“結果”を見届ける
※※※
私は、人の言葉をよく覚えている。
正確には、その言葉が発された順序と、沈黙が挟まれた位置を。
レオンハルト殿下が私の屋敷を訪ねてきたのは、昼前のことだった。応接室の窓辺には、翌日の会談に備えて揃えた書類が並んでいる。枢機卿との面会は形式を重んじる。発言の順、席次、食事の内容まで、すでに確認は済んでいた。
「明日の件で?」
私がそう尋ねると、殿下は一瞬だけ視線を伏せた。
私は続けて、要点を簡潔に説明した。枢機卿は穏やかな人物で、交渉は長引きやすいこと。香辛料とナッツ類を口にされないこと。以前、軽い症状が出たと聞いているので、念のために——。
「……聞いている」
殿下はそう言ったが、その声はどこか遠かった。
しばらくして、殿下は話を遮った。
「今日、来たのは別の用件だ」
部屋には、書類をめくる音も、外の風の音もなかった。私は察したが、頷くだけに留めた。
「婚約を、解消したい」
「理由を伺っても?」
「……他に、想う人ができた」
私は一呼吸置いた。
「承知しました。これは正式なご判断ですね。では、手続きの時期を確認させてください」
殿下が去ったあと、私は机に戻り、枢機卿の食事制限について、改めて文書に残した。
覚えていることは、記録しておく。それが、私の役目だった。
※※※
庭園の中央では、レオンハルト殿下と新しい婚約者が、多くの人に囲まれていた。
明るい色のドレスを纏った少女――ドミニカ嬢は、よく笑う。話しかけられるたびに、少し大げさなくらいに表情を変え、そのたびに周囲の空気が軽くなるのが、離れた場所からでも分かった。
私は庭の片隅で、紅茶を飲んでいた。
木陰は涼しく、人の声も柔らかく遠い。ここなら、視線を向けていても気づかれることはない。
ドミニカ嬢は、よく笑う。
それを見て、ふと考える。
思えば私は、ああして笑ったことがあっただろうか。
口を開けば、席次や日程、文言の確認ばかり。殿下と話す時間も、ほとんどが仕事の延長だった気がする。
だからといって、後悔があるわけではない。
ただ、違うのだ、と理解しただけだった。
「失礼」
低く、落ち着いた声がした。
振り向くと、そこに立っていたのはイグレシアス伯爵だった。宰相の位にある人物で、年は三十代半ば。感情を外に出さないことで知られているが、その眼差しはいつも状況を正確に捉えている。
「お邪魔でしたかな」
「いいえ。こちらこそ」
伯爵は一度だけ、庭の中央に視線を向けた。それから私に戻す。
「あなたが整理した外交文書を拝見しました。
非常に分かりやすい」
評価を述べる口調は淡々としていた。
褒め言葉というより、事実確認に近い。
「記憶力がよろしいと聞いています。
もし差し支えなければ、私のもとで秘書官として働いていただけませんか」
一瞬、紅茶の香りが強くなった気がした。
「業務内容を伺っても?」
「記録と整理です。判断は私がします。あなたには、事実を残してほしい」
それなら、できると思った。
私はカップを置き、静かに頷いた。
「承知しました」
※※※
ヴァレンチノ枢機卿との会談は滞りなく終了し、会談は滞りなく終わり、残るは親睦の茶会のみとなった。
茶会のための庭園はよく整えられていた。
白い天幕の下、卓には軽食と茶器が並び、柔らかな香りが風に混じっていた。
宰相イグレシアス伯爵は、途中で席を外していた。
何か確認事項がある、と静かに言い残して。
残された場で、ドミニカ嬢は終始にこやかだった。
人に囲まれることに慣れていない様子はなく、話しかけられるたび、明るく笑う。その声につられて、周囲の空気も軽くなる。
私は少し離れた位置で、席順と料理の配置を確認していた。
今日の日付は、書面でも何度も確かめてある。
——豚肉と、チョコレート菓子は避けること。
それはこの宗教圏では、説明を要しない配慮だった。
「よろしければ、こちらを」
ドミニカ嬢が、そう言って差し出したのは、小さな包みだった。
ほどかれると、艶のあるチョコレートが姿を現す。
一瞬だけ、空気が止まった。
枢機卿は、ほんのわずかに表情を曇らせた。
それでも外交の席である。断る理由を探すより、受け取るほうが早い。
小さく礼を言い、ひとかけらを口に運ぶ。
私は視線を落とした。
「まあ、お口に合いませんでした?」
ドミニカ嬢は悪びれず、首を傾げる。
「あら、小食なのですね。とても美味しいのに」
枢機卿は笑みを崩さなかった。
ただ、チョコレートに触れた指先を、そっとナプキンで拭った。
誰も何も言わない。
その場は、何事もなかったように進んでいく。
私は手元の記録に、一行だけ書き足した。
——供された菓子。
——枢機卿、少量のみ口にする。
事実だけを、正確に。
宰相が戻ってきたときには、すでに話題は変わっていた。
風は穏やかで、庭園には笑い声が残っている。
それでも私は覚えている。
今日が、そういう日だったことを。
※※※
帰路の馬車の中で、枢機卿は一人、目を閉じた。
今日の会談は、形式上は滞りなく終わっている。
笑顔もあり、言葉も整っていた。
それでも、ひとつだけ、引っかかる。
供された菓子。
あの一口。
——あれは、悪意だったのだろうか。
いや、と彼は思う。
そういう種類の敵意ではなかった。
だが、もし。
もしあれが、
「あなたは、枢機卿にふさわしくない」
という、遠回しな意思表示だったとしたら。
枢機卿は、深く息を吐いた。
外交とは、言葉だけで行われるものではない。
理解されていないと感じた瞬間、人は距離を取る。
——次は、慎重に。
それだけを、心に留めた。
※※※
数日後、宰相イグレシアス伯爵のもとに、公文書が届いた。
法皇の来訪を、当面見送ってほしい。
理由は、体調と日程の都合。
文面は丁寧で、非礼はない。
だが、時期が早すぎた。
「……妙だな」
伯爵は書状を机に置き、指先で軽く叩いた。
会談は滞りなく終わっている。少なくとも、そう報告は受けていた。
念のために調べさせると、返ってきたのは曖昧な答えだった。
ヴァレンチノ枢機卿が、来訪に難色を示しているらしい。
「理由は?」
「はっきりとは……」
伯爵は眉を寄せた。
そのとき、控えていたレーテリアが一歩前に出た。
「当日の記録がございます」
そう言って、彼女は一枚の文書を差し出す。
伯爵は目を落とした。
——供された菓子。
——ヴァレンチノ枢機卿、少量のみ摂取。
短い。
解釈も、感想もない。
伯爵はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……なるほど」
それ以上は、何も言わなかった。
※※※
宰相イグレシアス伯爵は、早々に判断を下した。
誤解が生じたのなら、解くべきだ。
意図せぬ無礼であったと伝え、謝罪を示す。
それが、国として取るべき最善だった。
書簡は丁重に整えられ、言葉は慎重に選ばれた。
あわせて、季節の贈り物も用意されることになった。
過度ではなく、しかし誠意が伝わるものを。
伯爵自身が、そう指示している。
問題は、その準備の最中に起きた。
「こちらもご一緒にいかがでしょう?」
明るい声とともに、ドミニカ嬢が籠を差し出した。
中には、色とりどりの焼き菓子が詰められている。
「わたくし、甘いものが大好きで。
きっと、枢機卿様にも喜んでいただけると思いますの」
彼女の善意を疑う理由はなかった。
その場にいた誰も、籠の中身を細かく確認しなかった。
焼き菓子の香ばしい匂いに、
砕いたナッツの気配が混じっていることに、気づく者はいなかった。
私は、別の書類の確認に追われていた。
宰相もまた、文言の最終調整に意識を向けていた。
そうして、籠はそのまま、贈り物に加えられた。
※※※
そして、数日後。
ヴァレンチノ枢機卿の返書は、極めて簡潔だった。
謝罪への感謝と、理解を示す言葉。
ただし、来訪については、
当面、見送らせてほしい、と。
理由は記されていない。
宰相は、しばらく書簡を見つめてから、私に視線を向けた。
「……当日の記録と、贈答品の一覧をもう一度見せてもらえまいか」
「はい」
私は、静かに書類を差し出した。
——供された菓子。
——ヴァレンチノ枢機卿、少量のみ摂取。
——謝意として贈られた焼き菓子。
——ナッツ類を含む。
伯爵は、そこで初めて、長く息を吐いた。
「……重ねてしまった、か」
私は何も言わなかった。
ただ、事実はそこにあった。
※※※
王の執務室は、ひどく静かだった。
呼び出されたのは、レオンハルト殿下とドミニカ嬢の二人だった。
机の上には、いくつかの書簡が並べられている。
「確認したいことがある」
王は感情を滲ませない声で言った。
「ヴァレンチノ枢機卿に、チョコレート菓子を供したのは、誰の判断だ」
一瞬、ドミニカ嬢が目を輝かせた。
「わたくしですわ。
とても評判の良いお菓子でしたし、実際、とても美味しいのですもの」
王は、すぐには何も言わなかった。
「その後、謝意として贈られた焼き菓子に、
ナッツ類が含まれていた件についても、同様か」
「はい。甘いものと、少し塩気のあるものは、よく合いますでしょう?」
悪気は、微塵もなかった。
「殿下は、この一連の件について、どう考えている」
問われて、レオンハルト殿下は言葉を探した。
「……失礼があったとは思っておりません。
むしろ、親しみを示したつもりで……」
王は、そこで初めて視線を上げた。
「結果として、法皇の来訪は見送られ、
宗教側との公式な往来は縮小された」
机の上の書簡を、指先で示す。
「これを、どう受け止めている」
沈黙が落ちる。
ドミニカ嬢が、はっとしたように口を開いた。
「……それほど、問題だったのでしょうか」
王は、ため息をついた。
「お前たちの“つもり”と、相手の“受け取り方”は違う。
その違いが、すでに外交関係を損ねている」
そして、静かに言った。
「責任を取れ」
重い言葉だった。
ドミニカ嬢は、一瞬だけ考え込み、それから顔を上げた。
「でしたら……
わたくしたちが、改めて誠意をお見せしますわ」
王は、その言葉を否定しなかった。
「よかろう。
ならば、正式に場を設けよ」
それが、王命だった。
※※※
王の命を受け、ドミニカ嬢が主催する形で、改めての場が設けられた。
格式ばった会食ではなく、立食形式だった。
人が自由に行き交い、声を掛け合い、距離の近さが親しみを生む――そういう意図だと、説明はされた。
音楽は控えめで、酒も軽い。
だが、宗教的儀礼を重んじる側にとっては、いささか雑然とした印象を与える構成だった。
ヴァレンチノ枢機卿は、変わらず穏やかな表情で会場に入った。
だが、その歩みは必要以上に奥へ進むことはなく、壁際に近い位置で留まっている。
「枢機卿様」
ドミニカ嬢が、迷いなく声をかけた。
にこやかに、距離を詰める。
「本日は、ぜひ楽しんでいただきたくて」
そう言って、彼女は腕に軽く触れた。
励ますような、親しみを込めた仕草だった。
一瞬。
枢機卿の足が止まった。
表情は変わらない。
声も荒げない。
ただ、彼は一歩、静かに距離を取った。
「お気遣い、感謝いたします」
それだけを告げると、深く一礼し、その場を離れた。
誰も止めなかった。
止める理由が、見当たらなかったからだ。
会は、そのまま続いた。
音楽も、人の声も、途切れない。
※※※
だが数日後、王城に届いた文書は簡潔だった。
――今後、公式訪問は見送る。
――連絡は、書面に限る。
理由の説明はない。
非難の言葉もない。
宰相は静かに書状を閉じ、私に視線を向けた。
「……記録を」
「はい」
私は頷き、事実を書き留めた。
――立食形式の催し。
――枢機卿、途中退出。
――以後、公式対応の縮小。
それだけだった。
※※※
王城の庭園で開かれたそのお茶会は、以前とよく似ていた。
規模は小さく、招かれた顔ぶれも限られている。
派手な装飾はなく、卓に並ぶ菓子も控えめだった。
それでも、会話は途切れず、空気は穏やかだ。
私は、宰相イグレシアス伯爵の傍らに立っていた。
手には、いつものように記録用の書類を持っている。
ふと視線を巡らせると、庭の少し離れた場所に、レオンハルト殿下とドミニカ嬢の姿があった。
二人きりではない。だが、二人の周囲には、人がいない。
話しかける者も、輪に加わろうとする者もいなかった。
まるで、そこだけが庭園から切り離されているように見える。
「……殿下は、今回の件の責任を取る形になります」
宰相が、私にだけ聞こえる声で言った。
「皇太子の地位は解かれ、地方へ移ることになるでしょう」
「そうですか」
私は、それだけ答えた。
驚きも、動揺もなかった。
結果としては、自然な流れだった。
そのとき、足音が近づいてくるのに気づいた。
レオンハルト殿下だった。
「……レーテリア」
呼ばれて、私は顔を上げる。
「話がある」
殿下は、少し言葉を選ぶように間を置いてから、続けた。
「君と……もう一度、やり直したい」
一瞬、庭園の音が遠のいた気がした。
私は、殿下を見つめ、静かに口を開く。
「いまさら、婚約者をひとりにするおつもりですか」
責める調子ではなかった。
問いかけというより、確認に近い。
殿下は言葉を失った。
何か言おうとして、結局、何も言えないまま視線を落とす。
「……そういうつもりでは」
「でしたら」
私は、それ以上言わなかった。
殿下は、短く頭を下げると、踵を返した。
その背中を、誰も追わない。
私は、視線を戻し、書類に目を落とした。
覚えている。
あのときも、私は庭の片隅で紅茶を飲んでいた。
違うのは、立つ場所と、役目だけだ。
私は、ペンを取り、一行を書き加えた。
——本日の茶会、滞りなく終了。
それで、十分だった。
段落分けがわかりにくかったのでタグを追加して、文書も調整しました。(2026/1/11)




