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『静かな令嬢は、すべてを覚えている』 ――婚約破棄のあと、記録官として“結果”を見届ける

作者: 風風風虱
掲載日:2026/01/16

※※※

 私は、人の言葉をよく覚えている。

 正確には、その言葉が発された順序と、沈黙が挟まれた位置を。


 レオンハルト殿下が私の屋敷を訪ねてきたのは、昼前のことだった。応接室の窓辺には、翌日の会談に備えて揃えた書類が並んでいる。枢機卿との面会は形式を重んじる。発言の順、席次、食事の内容まで、すでに確認は済んでいた。


「明日の件で?」

 私がそう尋ねると、殿下は一瞬だけ視線を伏せた。


 私は続けて、要点を簡潔に説明した。枢機卿は穏やかな人物で、交渉は長引きやすいこと。香辛料とナッツ類を口にされないこと。以前、軽い症状が出たと聞いているので、念のために——。


「……聞いている」

 殿下はそう言ったが、その声はどこか遠かった。


 しばらくして、殿下は話を遮った。

「今日、来たのは別の用件だ」


 部屋には、書類をめくる音も、外の風の音もなかった。私は察したが、頷くだけに留めた。


「婚約を、解消したい」

「理由を伺っても?」

「……他に、想う人ができた」


 私は一呼吸置いた。

「承知しました。これは正式なご判断ですね。では、手続きの時期を確認させてください」


 殿下が去ったあと、私は机に戻り、枢機卿の食事制限について、改めて文書に残した。

 覚えていることは、記録しておく。それが、私の役目だった。



※※※

 庭園の中央では、レオンハルト殿下と新しい婚約者が、多くの人に囲まれていた。

 明るい色のドレスを纏った少女――ドミニカ嬢は、よく笑う。話しかけられるたびに、少し大げさなくらいに表情を変え、そのたびに周囲の空気が軽くなるのが、離れた場所からでも分かった。


 私は庭の片隅で、紅茶を飲んでいた。

 木陰は涼しく、人の声も柔らかく遠い。ここなら、視線を向けていても気づかれることはない。


 ドミニカ嬢は、よく笑う。

 それを見て、ふと考える。


 思えば私は、ああして笑ったことがあっただろうか。

 口を開けば、席次や日程、文言の確認ばかり。殿下と話す時間も、ほとんどが仕事の延長だった気がする。


 だからといって、後悔があるわけではない。

 ただ、違うのだ、と理解しただけだった。


「失礼」


 低く、落ち着いた声がした。

 振り向くと、そこに立っていたのはイグレシアス伯爵だった。宰相の位にある人物で、年は三十代半ば。感情を外に出さないことで知られているが、その眼差しはいつも状況を正確に捉えている。


「お邪魔でしたかな」

「いいえ。こちらこそ」


 伯爵は一度だけ、庭の中央に視線を向けた。それから私に戻す。


「あなたが整理した外交文書を拝見しました。

 非常に分かりやすい」


 評価を述べる口調は淡々としていた。

 褒め言葉というより、事実確認に近い。


「記憶力がよろしいと聞いています。

 もし差し支えなければ、私のもとで秘書官として働いていただけませんか」


 一瞬、紅茶の香りが強くなった気がした。


「業務内容を伺っても?」

「記録と整理です。判断は私がします。あなたには、事実を残してほしい」


 それなら、できると思った。


 私はカップを置き、静かに頷いた。


「承知しました」



※※※

 ヴァレンチノ枢機卿との会談は滞りなく終了し、会談は滞りなく終わり、残るは親睦の茶会のみとなった。

 茶会のための庭園はよく整えられていた。

 白い天幕の下、卓には軽食と茶器が並び、柔らかな香りが風に混じっていた。


 宰相イグレシアス伯爵は、途中で席を外していた。

 何か確認事項がある、と静かに言い残して。


 残された場で、ドミニカ嬢は終始にこやかだった。

 人に囲まれることに慣れていない様子はなく、話しかけられるたび、明るく笑う。その声につられて、周囲の空気も軽くなる。


 私は少し離れた位置で、席順と料理の配置を確認していた。

 今日の日付は、書面でも何度も確かめてある。


 ——豚肉と、チョコレート菓子は避けること。


 それはこの宗教圏では、説明を要しない配慮だった。


「よろしければ、こちらを」


 ドミニカ嬢が、そう言って差し出したのは、小さな包みだった。

 ほどかれると、艶のあるチョコレートが姿を現す。


 一瞬だけ、空気が止まった。


 枢機卿は、ほんのわずかに表情を曇らせた。

 それでも外交の席である。断る理由を探すより、受け取るほうが早い。


 小さく礼を言い、ひとかけらを口に運ぶ。


 私は視線を落とした。


「まあ、お口に合いませんでした?」

 ドミニカ嬢は悪びれず、首を傾げる。

「あら、小食なのですね。とても美味しいのに」


 枢機卿は笑みを崩さなかった。

 ただ、チョコレートに触れた指先を、そっとナプキンで拭った。


 誰も何も言わない。

 その場は、何事もなかったように進んでいく。


 私は手元の記録に、一行だけ書き足した。


 ——供された菓子。

 ——枢機卿、少量のみ口にする。


 事実だけを、正確に。


 宰相が戻ってきたときには、すでに話題は変わっていた。

 風は穏やかで、庭園には笑い声が残っている。


 それでも私は覚えている。

 今日が、そういう日だったことを。



※※※

 帰路の馬車の中で、枢機卿は一人、目を閉じた。


 今日の会談は、形式上は滞りなく終わっている。

 笑顔もあり、言葉も整っていた。


 それでも、ひとつだけ、引っかかる。


 供された菓子。

 あの一口。


 ——あれは、悪意だったのだろうか。


 いや、と彼は思う。

 そういう種類の敵意ではなかった。


 だが、もし。

 もしあれが、


 「あなたは、枢機卿にふさわしくない」

 という、遠回しな意思表示だったとしたら。


 枢機卿は、深く息を吐いた。


 外交とは、言葉だけで行われるものではない。

 理解されていないと感じた瞬間、人は距離を取る。


 ——次は、慎重に。


 それだけを、心に留めた。



※※※

 数日後、宰相イグレシアス伯爵のもとに、公文書が届いた。


 法皇の来訪を、当面見送ってほしい。

 理由は、体調と日程の都合。


 文面は丁寧で、非礼はない。

 だが、時期が早すぎた。


「……妙だな」


 伯爵は書状を机に置き、指先で軽く叩いた。

 会談は滞りなく終わっている。少なくとも、そう報告は受けていた。


 念のために調べさせると、返ってきたのは曖昧な答えだった。

 ヴァレンチノ枢機卿が、来訪に難色を示しているらしい。


「理由は?」

「はっきりとは……」


 伯爵は眉を寄せた。


 そのとき、控えていたレーテリアが一歩前に出た。


「当日の記録がございます」

 そう言って、彼女は一枚の文書を差し出す。


 伯爵は目を落とした。


 ——供された菓子チョコレート

 ——ヴァレンチノ枢機卿、少量のみ摂取。


 短い。

 解釈も、感想もない。


 伯爵はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……なるほど」


 それ以上は、何も言わなかった。



※※※

 宰相イグレシアス伯爵は、早々に判断を下した。


 誤解が生じたのなら、解くべきだ。

 意図せぬ無礼であったと伝え、謝罪を示す。

 それが、国として取るべき最善だった。


 書簡は丁重に整えられ、言葉は慎重に選ばれた。

 あわせて、季節の贈り物も用意されることになった。


 過度ではなく、しかし誠意が伝わるものを。

 伯爵自身が、そう指示している。


 問題は、その準備の最中に起きた。


「こちらもご一緒にいかがでしょう?」


 明るい声とともに、ドミニカ嬢が籠を差し出した。

 中には、色とりどりの焼き菓子が詰められている。


「わたくし、甘いものが大好きで。

 きっと、枢機卿様にも喜んでいただけると思いますの」


 彼女の善意を疑う理由はなかった。

 その場にいた誰も、籠の中身を細かく確認しなかった。


 焼き菓子の香ばしい匂いに、

 砕いたナッツの気配が混じっていることに、気づく者はいなかった。

 私は、別の書類の確認に追われていた。

 宰相もまた、文言の最終調整に意識を向けていた。

 そうして、籠はそのまま、贈り物に加えられた。



※※※

 そして、数日後。


 ヴァレンチノ枢機卿の返書は、極めて簡潔だった。

 謝罪への感謝と、理解を示す言葉。


 ただし、来訪については、

 当面、見送らせてほしい、と。


 理由は記されていない。


 宰相は、しばらく書簡を見つめてから、私に視線を向けた。


「……当日の記録と、贈答品の一覧をもう一度見せてもらえまいか」


「はい」


 私は、静かに書類を差し出した。


 ——供された菓子チョコレート

 ——ヴァレンチノ枢機卿、少量のみ摂取。


 ——謝意として贈られた焼き菓子。

 ——ナッツ類を含む。


 伯爵は、そこで初めて、長く息を吐いた。


「……重ねてしまった、か」


 私は何も言わなかった。

 ただ、事実はそこにあった。



※※※

 王の執務室は、ひどく静かだった。


 呼び出されたのは、レオンハルト殿下とドミニカ嬢の二人だった。

 机の上には、いくつかの書簡が並べられている。


「確認したいことがある」


 王は感情を滲ませない声で言った。


「ヴァレンチノ枢機卿に、チョコレート菓子を供したのは、誰の判断だ」


 一瞬、ドミニカ嬢が目を輝かせた。


「わたくしですわ。

 とても評判の良いお菓子でしたし、実際、とても美味しいのですもの」


 王は、すぐには何も言わなかった。


「その後、謝意として贈られた焼き菓子に、

 ナッツ類が含まれていた件についても、同様か」


「はい。甘いものと、少し塩気のあるものは、よく合いますでしょう?」


 悪気は、微塵もなかった。


「殿下は、この一連の件について、どう考えている」


 問われて、レオンハルト殿下は言葉を探した。


「……失礼があったとは思っておりません。

 むしろ、親しみを示したつもりで……」


 王は、そこで初めて視線を上げた。


「結果として、法皇の来訪は見送られ、

 宗教側との公式な往来は縮小された」


 机の上の書簡を、指先で示す。


「これを、どう受け止めている」


 沈黙が落ちる。


 ドミニカ嬢が、はっとしたように口を開いた。


「……それほど、問題だったのでしょうか」


 王は、ため息をついた。


「お前たちの“つもり”と、相手の“受け取り方”は違う。

 その違いが、すでに外交関係を損ねている」


 そして、静かに言った。


「責任を取れ」


 重い言葉だった。


 ドミニカ嬢は、一瞬だけ考え込み、それから顔を上げた。


「でしたら……

 わたくしたちが、改めて誠意をお見せしますわ」


 王は、その言葉を否定しなかった。


「よかろう。

 ならば、正式に場を設けよ」


 それが、王命だった。


※※※

 王の命を受け、ドミニカ嬢が主催する形で、改めての場が設けられた。


 格式ばった会食ではなく、立食形式だった。

 人が自由に行き交い、声を掛け合い、距離の近さが親しみを生む――そういう意図だと、説明はされた。


 音楽は控えめで、酒も軽い。

 だが、宗教的儀礼を重んじる側にとっては、いささか雑然とした印象を与える構成だった。


 ヴァレンチノ枢機卿は、変わらず穏やかな表情で会場に入った。

 だが、その歩みは必要以上に奥へ進むことはなく、壁際に近い位置で留まっている。


「枢機卿様」


 ドミニカ嬢が、迷いなく声をかけた。

 にこやかに、距離を詰める。


「本日は、ぜひ楽しんでいただきたくて」


 そう言って、彼女は腕に軽く触れた。

 励ますような、親しみを込めた仕草だった。


 一瞬。


 枢機卿の足が止まった。


 表情は変わらない。

 声も荒げない。


 ただ、彼は一歩、静かに距離を取った。


「お気遣い、感謝いたします」


 それだけを告げると、深く一礼し、その場を離れた。


 誰も止めなかった。

 止める理由が、見当たらなかったからだ。


 会は、そのまま続いた。

 音楽も、人の声も、途切れない。


※※※

 だが数日後、王城に届いた文書は簡潔だった。


 ――今後、公式訪問は見送る。

 ――連絡は、書面に限る。


 理由の説明はない。

 非難の言葉もない。


 宰相は静かに書状を閉じ、私に視線を向けた。


「……記録を」


「はい」


 私は頷き、事実を書き留めた。


 ――立食形式の催し。

 ――枢機卿、途中退出。

 ――以後、公式対応の縮小。


 それだけだった。


※※※

 王城の庭園で開かれたそのお茶会は、以前とよく似ていた。


 規模は小さく、招かれた顔ぶれも限られている。

 派手な装飾はなく、卓に並ぶ菓子も控えめだった。

 それでも、会話は途切れず、空気は穏やかだ。


 私は、宰相イグレシアス伯爵の傍らに立っていた。

 手には、いつものように記録用の書類を持っている。


 ふと視線を巡らせると、庭の少し離れた場所に、レオンハルト殿下とドミニカ嬢の姿があった。

 二人きりではない。だが、二人の周囲には、人がいない。


 話しかける者も、輪に加わろうとする者もいなかった。

 まるで、そこだけが庭園から切り離されているように見える。


「……殿下は、今回の件の責任を取る形になります」


 宰相が、私にだけ聞こえる声で言った。


「皇太子の地位は解かれ、地方へ移ることになるでしょう」


「そうですか」


 私は、それだけ答えた。

 驚きも、動揺もなかった。


 結果としては、自然な流れだった。


 そのとき、足音が近づいてくるのに気づいた。

 レオンハルト殿下だった。


「……レーテリア」


 呼ばれて、私は顔を上げる。


「話がある」


 殿下は、少し言葉を選ぶように間を置いてから、続けた。


「君と……もう一度、やり直したい」


 一瞬、庭園の音が遠のいた気がした。

 私は、殿下を見つめ、静かに口を開く。


「いまさら、婚約者をひとりにするおつもりですか」


 責める調子ではなかった。

 問いかけというより、確認に近い。


 殿下は言葉を失った。

 何か言おうとして、結局、何も言えないまま視線を落とす。


「……そういうつもりでは」


「でしたら」


 私は、それ以上言わなかった。


 殿下は、短く頭を下げると、踵を返した。

 その背中を、誰も追わない。


 私は、視線を戻し、書類に目を落とした。


 覚えている。

 あのときも、私は庭の片隅で紅茶を飲んでいた。


 違うのは、立つ場所と、役目だけだ。


 私は、ペンを取り、一行を書き加えた。


 ——本日の茶会、滞りなく終了。


 それで、十分だった。


段落分けがわかりにくかったのでタグを追加して、文書も調整しました。(2026/1/11)


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― 新着の感想 ―
結局、王子が無能であったと言う事ですね。 無能と婚約破棄出来て良かった。
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