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真実はたとえ事実に覆い隠され虚偽に阻害されようとも 1/2

作者: 宮澤史郎
掲載日:2025/11/10

 真実はたとえ事実に覆い隠され虚偽に阻害されようとも


 ネルソン丸

 パイロット(水先人)が操舵号令を発する。

「ハードスターボード(舵、右一杯に切れ)」

 コーターマスター(甲板手・こうはんしゅ)がパイロットにアンサーバックする。

「ハードスターボード(舵、右一杯に切ります)」

 これは、自分が聞いた号令を、指揮者に確認して貰うためだ。指揮者は、自分が下した号令とアンサーバックが一致していれば無言のままだ。

 コーターマスターはパイロットが無言であることを確認して、直径四〇センチ程のステアリングホイール(舵輪)を右に回した。

 油圧でゆっくりとラダー(舵)が切れて行く。

 コーターマスターは舵角計を注視する。最終的に三五度になった事を確認して、パイロットに報告する。

「ハードスターボード、サー(舵、右一杯に切れました)」

 パイロットが諒解の意を返す。

「サンキュー」

 一九八三年三月一六日、ネルソン丸は二三、〇〇〇トンのウッドチップを積んで、ニュージーランドのネルソンを出港するところだ。いつものことだが、出港時のブリッジは緊迫感に包まれている。もちろん、艏(おもて・船首)と艉(とも・船尾)で出港スタンバイしているチョッサー(一等航海士)、セコンドオッサー(二等航海士)、コーターマスター、セーラー(甲板員・こうはんいん)達も同様、慣れた作業とは言え、航海当直より緊張しているはずだ。

 パイロットが命令する。

「ミッドシップ(舵、中央に戻せ)」

 コーターマスターがアンサーバックする。

「ミジップ(舵、中央に戻します)」

 日本人船員では、ミッドシップがミジップと訛ってしまう。

 コーターマスターのステアリング操作に少し遅れて、ラダーが中央に戻った。

 コーターマスターが報告する。

「ミジップ、サー(舵、中央に戻りました)」

 パイロットが続けて命令する。

「ステディー(針路保持)」

 コーターマスターのアンサーバック。

「ステディー(針路、保持します)」

 そして、パイロットが増速を命令する。

「スローアヘッド(低速前進)」

 サードオッサー(三等航海士)がアンサーバックする。

「スローアヘッド(低速前進にします)」

 サードオッサーがエンジンテレグラフを、デッドスローアヘッド(微速前進)からスローアヘッドに切り替える。まもなくエンジンが所定の回転数まで上がり、船体の振動が大きくなった。

「スローアヘッド、サー(低速前進になりました)」

 パイロットが諒解した。

「オーケー」

 係留されていた岸壁から数百メートル離れたことによって、甲板部こうはんぶが最も緊張する操船作業が終わった。あとは、本船を港外まで持って行くだけだ。しかし、港内は他にも入出港の船があるのでまだ油断は出来ない。

 艏では、チョッサーとボースン(甲板長・こうはんちょう)及び三人のコーターマスターがホーサー(係船索)を片付け始めた。艉では、セコンドオッサーと、セーラー三人が、同様にホーサーを片付けている。

 パイロットの操舵号令。

「ポートテン(舵、左一〇度)」

 アンサーバック。

「ポートテン」

 コーターマスターのステアリング操作により、ラダーが左一〇度まで動いた。

「ポートテン、サー」(舵、左一〇度切れました)

 次の命令があるまで舵はそのまま維持される。従って、艏はポート(左)へ回り続ける。

 パイロットは、望む針路に船首が向く少し前で次の命令を発した。

「ミッドシップ」

 舵を戻しても船体は慣性で曲がり続けるため、またステアリングを操作してから実際にラダーが切れるまで時間差があるため、早めに次の命令が必要だ。

 コーターマスターのアンサーバック。

「ミジップ」

 舵角計を確認したコーターマスターの報告。

「ミジップ、サー」

 パイロットから、船速を上げる命令が続いた。

「ハーフアヘッド(半速前進)」

 サードオッサーのアンサーバック。

「ハーフアヘッド」

 エンジンテレグラフが一段押され、エンジン回転数がハーフアヘッドまで上がる。

 サードオッサーがパイロットに報告する。

「ハーフアヘッド、サー(ハーフアヘッドになりました)」

「グッド」

 一〇分後、パイロットはポートサイド(左舷側)に垂らしたパイロットラダー(縄ばしご)を降下して、迎えのパイロットランチ(ボート)に乗り移った。

 本船はキャプテン(船長)の命令でフルアヘッド(全速前進)、さらにナビゲーショナルフルアヘッド(最大航海速力)へと速度を上げた。

 出港スタンバイが解かれた。

 アイエイチアイ・スルーザー製、V型一八気筒ディーゼルエンジンが一四五回転で一一、五五〇馬力を出力し、本船は一四・五ノットで静岡県、清水港へ向かう。

 操舵もオートパイロット(自動操舵)に切り替えられ、船はジャイロコンパスと連動して自動的に指定された針路を維持する。コーターマスターはステアリングホイールから手を離した。

 アッパーデッキ(上甲板・じょうこうはん)では、艉、艏の作業を終えたコーターマスターとセーラーがハッチカバーを閉鎖している。貨物船は貨物を積むなり揚げたら、揚地または積地に少しでも早く到着するためにまずは出港し、走りながらハッチカバーを閉めたり船体を掃除したりする。


 私は水越哲夫、本船の二等通信士だ。船内では次席さんと呼ばれている。

 入出港時、自分のワッチ(当直時間)ではないときは、キャプテンデッキ(船長甲板)とブリッジデッキ(船橋甲板)の間の階段から、ブリッジ(船橋)の作業を見学するのが好きだ。操船号令、アンサーバック、報告という一連の作業によって、数万トンの船体と貨物が巧妙に動いて離岸したり着岸したりする。緊張感が部外者にも伝わってくる。

 私は船乗りになって五年、本船が五隻目だ。大体一年に一隻乗る。平均すると、年間九ヶ月乗船、残りの三ヶ月が陸上休暇というサイクルだ。

 私は本船に乗る前の休暇中に結婚したばかりだ。妻の名はひとみという。

 結婚して二ヶ月一緒に暮らした頃、会社の配乗担当から乗船確認の電話があり、諒承した後、乗船命令の電報が来た。

『一〇ツキ九ヒシミズニテネルソンマルノラレタシ、ヘンコウ』

 ヘンコウとは返信請う、の略である。

 直ぐに返信した。会社からの乗船命令と船員の受諾は電話で事前確認のあと、電報で記録される。

『一〇ツキ九ヒシミズニテネルソンマルノリマス、二ツウ、ミズコシ』

 二ツウは二等通信士の意味である。電報は二五字まで三〇〇円、以後五字まで増す毎に八〇円の課金となる。料金節約のために字数を減らす略号がいくつもある。

 本船は晴海船舶所属のチップ船であり、紙の原料となる木を砕いたウッドチップをニュージーランドのネルソン港で積み、静岡県清水港へ運んでいる。本船は荷主が決まっており、多くの場合積地ネルソン、揚地清水を往復している。年に数航海はアメリカ・オレゴン州クースベイも積地としている。


 ネルソンを出港して二週間、時化にも遭わずほぼ予定通り本船は清水に入港した。

 入港直後は忙しい。最初は税関とエージェント(現地代理店)社員が乗船してきて、入港手続きだ。次席通信士である私は、入港二日前までにクルーリスト(乗組員名簿)、乗組員携帯品リスト、ボンド(免税)品リスト、武器弾薬リスト、医療用麻薬リスト、ボヤッジメモ(過去数ヶ月の寄港地リスト)などを作成しておいた。それら書類に、船舶国籍証書、満載喫水線証書、安全無線電信証書などの重要書類を加えて、局長(通信長)と二人でキャプテンを補佐して入港手続きを行った。

 入港手続終了後、エージェントから受け取った現金で乗組員に給料を準備する。エージェントには入港前に電報で一万円札、千円札、一〇〇円玉、一〇円玉、一円玉の必要数を連絡してあり、全員の給料分に必要な合計数を船用金からより分け、各乗組員の給料袋の上に分配していき、過不足が無ければ間違いないものとして、給料袋に入れるという手順だ。バンス(前渡し外貨)やボンド品購入の船内立て替え分は差し引いてある。そして、給料の用意が出来たと船内放送した。

 次は、乗組員交代を運輸省海運局に届け出る書類の作成だ。入港前に出来るところまで作成してあるが、乗船してきた乗組員の船員手帳と印鑑を預からないと完成できない。

 エージェントや本社から転送されてきた乗組員宛の手紙を配布したり、本社からの各種書類や社内報を配布したりするのも次席の仕事だ。

 入港翌日、海運局へ出向いて、雇い入れ、雇い止め手続きを行い、帰りに郵便局へ寄って下船した乗組員の船員手帳と印鑑を簡易書留で郵送した。船員は、乗船、下船ごとにその事実が海運局へ届けられ、本船保管書類である海員名簿に記載され、本人が保有する船員手帳にも記録される。船員の乗船履歴は、三カ所で確認することが出来る様になっている。

 無線機修理用部品や、ファックス受信用紙、電報用紙など事務消耗品なども補給される。

 国内電報・電話、国際電報・電話料金の計算書は月ごとに作成して、会社に送る。

 船内文庫の購入も、船にも依るが次席が担当することが多い。

 石けん、歯磨きなどの私物の買い物もしなければならない。

 入港して三日目、私はある女性に会う為に上陸した。彼女に会うのはこれが三度目だ。彼女は清水駅前にあるスーパーマーケット、みどりストアーの店員だ。前航、つまりひとつ前の航海の時、歯ブラシや洗濯用洗剤などの消耗品を買いに行って、彼女を知った。

 みどりストアーはたまたま入った初めての店で、何がどこに置いてあるのかわからなかった。それで、日用品や航海中の酒のつまみなどの売り場を彼女に訊いた。どうせ訊くならかわいい女性の方が良い。彼女は愛想も良く、丁寧に売り場を教えてくれた。

 私は彼女に自分を印象づけようと、翌日もみどりストアーへ行って彼女に売り場を訊いて、必要もない買い物をした。乾き物や缶詰なら多く買っても腐らないし、みんなで食えば余ることもない。

 そして今、ネルソンへ一航海行ってきて、また彼女の店に買い物に来たのだ。

 調味料を棚に陳列している彼女を見つけた。向こうも気づいて会釈した。覚えていたようだ。私は彼女のところへ行って、声をかけた。

「こんにちは」

「こんにちは。いつもありがとうございます」

「五週間ぶりですね。一昨日ニュージーランドから戻ってきたんです」

「えっ?」

 清水・ネルオン航路は往航二週間、積荷に一週間、復航二週間、合計五週間かかる。

「私は船乗りなんですよ」

「えっ、そうなんですか」

「今、乗っている船がニュージーランド航路なんです」

「漁船じゃないんですね?」

 清水は漁港でもある。

「貨物船です。今日もまた、航海中に必要な消耗品を買いに来ました」

「ありがとうございます。売り場とかわからなかったら訊いてくださいね」

 私は次の航海に必要なものを買い物かごふたつに放り込んで、もう一度彼女のところへ行った。

「今日は、何時までですか?よかったら晩飯を一緒にどうですか?」

 ダメもとである。あと三、四日でまた内地ともお別れと思えば、多少図々しいことも言える。

「えっ、でも・・・」

「予定があるんですか?」

「そういうわけじゃないんですけど・・・」

「そんなに遅くなりませんよ。清水はよく知らないから、どこかうまいものが食えるところでも案内してもらえたらと思って」

「それじゃ、少しだけなら」

「何時に、どこで待ち合わせましょう?できれば、どこかわかりやすいところで。」

「そうですねぇー。駅でも大丈夫ですか?」

「わかりました。時間は?」

「八時くらいでいいでしょうか?」

「八時に、清水駅ですね。一旦これを船に置いてきますから。じゃ、あとで」

「はい」

「ところで、私は水越といいます。お名前、訊いてもいいですか?」

「はい、伊藤といいます」

 私はタクシーを拾って船に戻り、荷物を置いて次のサンパンを待った。

 サンパンとは、付けタクシーとも言い、交通の不便な港で会社が最寄りの駅まで一定時間毎に走らせる貸し切りタクシーのことだ。本来は、沖でアンカーを入れているとき上陸するための交通船を言う。略して通船ということもある。乗組員は無料で乗ることができる。

 七時のサンパンで上陸して、一〇分足らずで清水駅に着いた。まだ時間があるので駅の付近を歩いてみた。知らない町を歩くのは良い時間つぶしになる。迷わないように注意しながら周辺を歩くと、すぐに八時前になった。

 誘っておいて遅れては失礼なので、一〇分前に清水駅前まで戻った。

 彼女は遅れずにやってきた。私は片手を振って合図した。彼女が小走りに近づいてくる。

「ごめんなさい」

「時間通りですよ。良く来てくれましたね」

「ちょっと仕事のあとのミーティングが延びちゃって、焦っちゃいました」

「女性は少しくらい遅れてきてもいいんですよ。さぁ、じゃあ、うまいものを食いに行きましょう。どこかいいところありますか?」

「私の知ってるところでも良いですか?」

「はい、私はまだ清水をよく知らないから、お願いします」

 我々は駅から一〇分ほど清水銀座を歩いて、夜の繁華街へ入った。清水は貨物船だけではなく漁船も入る港のせいか、賑やかである。

 清水は昔、キン・キロウ事件があったところだとボースンが言っていた。微かに聞き覚えがある名前で、ライフルを持って立てこもった事件だった思うが、この辺りだったのだろうか。相当古い話だから彼女に訊いても知らないだろう。

 彼女は、目立たないところにある小料理屋に私を連れて行った。君枝というのが店の名前で、きっとママさんの名前でもあるのだろう。四〇過ぎくらいのママさんがひとりでやっている、カウンターが七席、四人がけテーブルが二卓だけのこぢんまりした店だ。

 ちょっと昔はきっといい女だった、と思わせるママさんだ。

 メニューは壁に貼ってある。

「良い店ですね。メニューもいっぱいあるし」

「はい。私、お友達と一緒にたまに来るんです。おいしいんですよ」

「そうですか。さて、何を飲みますか?」

「私は生ビールの中を」

 私はママさんに頼んだ。

「ナマ中ひとつと、水割りありますか?」

「水割りは焼酎ですか?」

 焼酎が流行ってから、水割りと言ってもウィスキーか焼酎かと訊かれることがある。焼酎は甘くてなじめない。どうして焼酎のようなものが流行るのか。酒ならウィスキーだ。

「ウィスキーの水割り」

「ありますよ。シングルですか?それともダブル?」

「シングルで」

 彼女と飲むのはこれが初めてなので、余り酔わないようにシングルにしておく。

「伊藤さん、お腹空きましたね。何か好きなものを頼んでください」

「お魚、大丈夫ですか?」

「生でも、焼いたのでも、煮たのでも、なんでもオーケーですよ」

「なにか嫌いなものとかは?」

「大体何でも食べます。船じゃ、これが嫌いだからと言っても代わりはないので、だんだん好き嫌いが無くなるんです」

「じゃ、適当に頼んでいいですか?」

 彼女は、サラダ、刺身盛り合わせ、天ぷら、それに鳥の唐揚げを注文した。

 彼女、伊藤さんの下の名前は敦子あつこだという。地元の短大を卒業したあと東京か名古屋に出たかったのだが、親が許さなかったのでやむなく地元のスーパーに就職して三年目だという。

 私は高校卒業後二年制の専門学校へ行き、無線通信士の免許を取って船に乗って五年目だと話した。

 彼女は、現在彼氏はいないという。

 私は本船に乗る前の休暇中に結婚したばかりだ。だが、余計なことは話さない。

「今日は良く付き合ってくれましたね。思い切って誘ってよかった」

「早番でしたし、家に帰ってもすることもなくて。それと実は、船員さんって聞いたので、どうせ今日だけかなって軽い気持ちもあったんです。あ、別に嫌々来たんじゃないんですよ」

「よかった。じゃ、また誘っても良いですか?」

「はい」

「あと四日清水にいるんですけど、その間にまた会えますか?」

「明日から一週間遅番になっちゃうので、ちょっと。ごめんなさい」

「仕方ないですね。じゃ、一航海行ってきてからですね」

 直ぐに二時間ほど過ぎた。

「もう一〇時になりますね。私、帰らなくっちゃ」

「あぁ、もうそんな時間ですか。早いですね」

「水越さんも、明日お仕事あるんでしょう?」

「八時から。でも余りやることはないんです。通信士が忙しいのは入港日とその翌日くらいで」

「またニュージーランドへ行くんですか?」

「そう。五週間で戻ってきます。また伊藤さんのスーパーに行きますよ」

「はい。お待ちしています」

 私は彼女と一緒に店を出て、清水駅まで送ることにした。

 歩きながら彼女に訊かれた。

「どうして船員さんになったんですか?」

 よく訊かれる質問で、いつもの通り答えた。

「大工でも良かったし、消防士でも良かったんです。なにか、男の仕事がしたかったんですよ」

「なにか、気取ってませんか?」

「じゃあ、言い直しましょう。船員という職業を選んだのでは無く、船乗りという生き方を選んだんです」

「わっ、もっとキザですよ」

「一度かっこつけてみたかったんですよ。伊藤さんのようなかわいい女性に」

 駅で別れた。彼女の家は駅の反対側で、歩いて一五分だという。

 まだ一〇時半になっていない。私は近くのスナックに入って、閉店の一時過ぎまで飲んだ。一〇時半は船に帰るには早すぎた。それに、彼女との初デートに祝杯もあげたかった。


 結婚していながら、別の女とデートをした。一般的には許されないことである。当然のことであるが、家庭には影響を与えないつもりだ。ただ、彼女に惹かれ始めてはいる。

 男は結婚したばかりでも、かわいい女性は気になる。しかも、何ヶ月も妻と離れているのだ。妻には悪いなと思うが、ばれなければいいだろうとも思う。これから彼女とどこまで親しくなるのか分からないが、たとえ最後まで親しくなることがあっても、妻は彼女の上位に位置する。

 彼女には、結婚していると言っていない。当然独身だと思っているだろう。これはずるいが、仕方がない。わざわざ結婚していると言って、自分から機会を捨てることはない。レストランに弁当を持って行くのは馬鹿のすることだ。

 彼女をだましたくはないが、出来るものなら彼女との恋に進んでみたい。


 清水出港日。

 セコンドオッサーが船内放送をした。

『艉、艏スタンバイ、艉、艏スタンバイ』

 総員入出港配置に付け、という意味である。デッキ(甲板部)はブリッジ、艏、艉に別れて出港配置に就く。

 エンジン(機関部)は二時間前にトライエンジンを済ませて、エンジンルームとコントロールルームで待機している。

 局長と私は無線室に入った。これが無線部の出港スタンバイである。お互いが乗船していることを確認して、受信機のスイッチを入れた。無線局の開局である。

 ネルソン丸は清水を出港した。

 局長は船体が岸壁を離れて直ぐに送信機のスイッチを入れて、銚子無線局JCSと清水無線局JGQにTRを入れた。TRとは船の動静連絡のことである。

『TR一一〇〇シミズハツ二二ヒニュージーランド、ネルソンチヨ』

 動静連絡、一一〇〇時清水発、二二日ニュージーランドのネルソン到着予定、という意味である。到着予定をモールス符号ではチヨと省略する。TRに料金はかからないが、モールスは和文の場合、一分間に七〇字前後しか送受信できないので、効率化のため略号を使って文字数を減らす。

 四月上旬の清水はまだ肌寒かったが、船内は二、三日もすると暖かくなり、四、五日もすると暑くなって冷房が入った。南北航路は時差が少ない代わりに寒暖の差が大きい。内地が真冬でも、数日から一週間程度南下すると真夏の気温になる。体調に気をつけるといってもどうしようも無く、自分の体力を信じるしかない。

 赤道、何度も通過していると何の感慨も無くなる。通過した時間がブリッジから知らされ、それをログブック(無線業務日誌)に記載するだけだ。

 Passed the Equator at 10:25 April 14th.

 もちろん貨物船では、赤道祭のようなことはやらない。赤道だろうが日付変更線だろうが、いつも通過している。

 無線部のワッチは、見た目は暇である。極端に言えば、船は、機関士がエンジンを回し、航海士が舵を取れば動く。何故通信士が必要なのか。遭難通信を行うためだ。つまり、自船のSOSを発信するため、あるいは他船のSOSを受信するため。かといって、遭難がそう頻繁にあるわけでは無い。いや、一生に一度も経験しない。

 遭難、船舶又は航空機が重大かつ急迫の危険に陥った場合。極めてまれだ。無線通信士は保険のようなものだ。

 大洋を航行中に遭難した場合、海上保安庁や各国コーストガードに救助を求めても、救助船が現場に到着するまで数日も一週間もかかる。従って、船は船同士で救助し合う。船は、海のどこでも好きなところに散らばって航海しているのではない。太平洋横断であっても最短距離である航路というものがあり、船は航路に集中している。運が良ければ数時間の範囲に他船がいる。

 SOSを受信したら、最も近い船が無償で救助に向かうのが原則である。救助に要した費用は、遭難船に請求せず、救助した船が負担する。これを相互救助体制という。相互救助体制を可能にするのが無線通信である。

 つまり、通信士は常にSOSが発信されていないかと、国際遭難周波数をワッチ(聴取)するのが仕事である。受信機のスイッチをオンにして国際遭難周波数を聴いている、とは言ってもモールス符号を知らない航海士や機関士が見たら、何もしていないように見えるのだ。

 私は実乗船期間は三年半になるが、まだ一度もSOSを聴いたことがない。それでも通信士は、国際遭難周波数をワッチする。

 遭難通信以外にも次のような通信がある。

 緊急通信、船舶又は航空機が重大かつ急迫の危険に陥る可能性がある場合又はその他緊急の事態が発生した場合に行う、XXXという緊急信号を前置して行う通信。

 安全通信、船舶又は航空機の航行に対する重大な危険を予防するために行う、TTTを前置した通信。

 モールス符号を使用するのが無線電信、言葉をそのまま使用するのが無線電話で、無線電話の遭難信号メーデー(Mayday)よりもモールスのSOSが一般社会で知られているのは不思議だ。

 ちなみに無線電話の緊急信号パンパン(Pan Pan)、安全信号セキュリティ(Securite)は、電信のXXX、TTTと同様に一般には全く知られていない。

 清水・ネルソン間は約四,九〇〇マイル。一四・五ノット平均で航海して一四昼夜かかる。時化に遭わなかったので清水出港時のネルソン到着予定に大して遅れることもなく、本船はネルソンに入港した。

 入港手続きは何の問題もなかった。本船はほとんど毎月ネルソンに入港しており、入港書類の不備や上陸した乗組員の行動などでトラブルを起こしたことはない。それにエージェントのスタッフも税関も親日的だ。

 入港手続きと同時に荷役が始まった。ハッチカバーはコーターマスターとセーラーが入港前に開けてある。すぐに岸壁からチップを積み込むローダーが延びてくる。今から五昼夜かけて約二三,〇〇〇トンのチップが五つのホールド(船倉)に流し込まれる。

 デッキでは、三交代で二四時間の荷役当直が始まる。チョッサー、セコンドオッサー、サードオッサーにコーターマスターがひとりずつ付いて、二人一組で四時間荷役ワッチ、八時間休憩を一日に二回繰り返す。

 エンジンでは、航海中にはできない主機、つまり船のプロペラを回すエンジンなどのメンテナンスを行う。エンジンは全員〇八〇〇から一七〇〇までの作業で、ワッチは組まない。

 無線は入港手続きが済んだら、エージェントから受け取った外貨を乗組員へ配布し、内地本社からエージェント経由でメールされていた書類や私信を配布するなどの事務作業を行う。

 入港中は無線局を閉局するのでワッチは無く、エンジン同じように昼だけの勤務となる。必要に応じて、レーダーなどの航行援助無線装置のメンテナンスを行うこともある。

 賄いの食料や免税品の発注も手伝う。司厨部は無線部が管掌している。

 それでも無線はデッキやエンジンと比較して、時間が自由になる。局長が許可すれば、私は日中でも上陸することがある。上陸して外地を見て回るのが、入港中の、いや船員人生の一番の楽しみだ。

 ニュージーランドは治安の良い国である。物価は安い。南半球であるから季節は内地と逆だが、熱帯でもなく、砂漠でもなく、寒冷でもなく、気候も過ごしやすい。

 問題は、飲み屋がやたら早い時間に閉まることだ。八時か九時になると開いている飲み屋が見つからない。仕方がないから、船で飲むことになる。

 船には、一〇人の士官用サロン食堂がスターボードサイド(右舷側)にあり、一五人の普通船員用部員食堂がポートサイド(左舷側)にある。食事は分かれて摂るが、飲むときは士官も部員食堂に集まる。

 飲むときの話題と言えば、芸能界のことや猥褻話がほとんどだ。他には、昔、何丸でどこそこへ行ったときはどうした、なにが面白かった、という昔話だ。要するに、当たり障りのない話題が選ばれる。家族から離れ、乗船中は休日もなく、むさ苦しい男だけが狭い船内で顔をつきあわせて生活している環境では、全員多かれ少なかれフラストレーションを抱えている。そういう状況で、意見を述べて、議論することは、避けるようにしている。意見の違いが議論にとどまらず、感情的になったり喧嘩になったりすることは絶対に許されないことをみんな知っている。船乗りの一般常識と言ってもいいし、鉄則と言っても良い。


 本船では二、三航海に一度、ネルソン停泊中にゴルフコンペが行われる。停泊が五、六日と比較的長く、それにグリーンフィーが内地とは比較にならないくらい安いからだ。会社から船に支給されるリクリエーション費と船内文庫費を、コンペ参加者と不参加者で分割して二、三航海分ためるとちょっとしたトロフィーや参加賞を準備できる。

 これまで私はゴルフなどやったことはなかったが、今航はチョッサーにかなり強く誘われて参加した。クラブの握り方もわからない状態で、いきなりコンペ参加である。キャディの付く内地のコースでは断られるだろう。

 クラブはハーフセットをゴルフ場でレンタルする。フルセットなど使い切れず、重いだけだ。キャディは無し、カートも無し、キャディバッグを自分で担いで回るのだ。カートは、シニアにしか貸してくれない。かかとのある靴はグリーンを傷めるのでダメだが、運動靴なら問題無い。そんなパブリックコースだ。

 天気の良い日に、緑のゴルフコースを歩くのは気持ちがいい。

 キウイがコースにいる。ニュージーランドだけにいる、羽が無くて飛べない鳥だ。

 芝生を歩くだけではなく、ついでにボールを打つので退屈しない。ゴルフはその程度の遊びだと思う。プロでは無い。弓道や剣道のような暑苦しいゴルフ道でもない。気晴らしである。

 スコアは一二〇まで数えて、あとはわからなくなった。それが初めてのゴルフだった。

 クラブハウスのショップで、キウイの図柄のハンカチをみつけ、白と赤の二枚を買った。伊藤さんへのお土産だ。高価なものではないので気軽に受け取ってくれるだろう。

 五日後、ネルソン丸に二三,〇〇〇トンのチップが積み込まれた。

 出港手続きを行い、税関からクリアランス(出港許可証)が発行された。

 エンジンは、既にトライエンジンを完了している。出港の直前に、主機が問題なく運転できるかどうか、ほんの一、二回転だけ正転と逆転を試してみるのだ。

 船のエンジンは、車のようなトランスミッションを持たない。船を後進させる、あるいは前進を止めるには、エンジンを逆転させることでプロペラを逆転させるしかない。従って、逆転できることも確認しておかなければならない。

 デッキは出港作業が終わりパイロットが下船してから、ハッチカバー閉鎖やアッパーデッキの清掃を始めた。運行効率を上げるために、まず船を目的地に向けて走らせ、航海当直に必要な最小限の人員で航海しながら、当直以外の甲板部員が荷役の後片付けをやる。

 ネルソンから清水への航海は、途中ニューギニアの北、フィリピンの東の海域で弱い低気圧に遭い、軽いローリング(横揺れ)が二、三日続いたが、あとは平穏な航海だった。


 ネルソンを出港して二週間、本船は清水に入港した。

 私はいつものように入港日は、入港手続きの補佐、給料支給、海運局へ提出する為の交代した船員の雇い入れ、雇い止め手続き書類の準備などを行った。

 翌日、海運局へ行き船員交代報告、郵便局へ寄り下船雇い止めした船員への船員手帳の郵送、本屋で船内文庫購入などを行った。

 船員はパスポートを持たず、代わりに船員手帳が氏名、性別、生年月日、国籍を証明する。船員手帳はパスポート以上の効力を持つ身分証明である。アメリカやフィリピンなど船員の入国にもビザを要求する国もあるが、船員手帳でほとんどの国にビザ無しで上陸できる。

 パスポートでは北朝鮮には行けない。渡航先は『北朝鮮を除く』と書いてある。しかし、船員手帳は北朝鮮に対しても有効だ。観光ではなく船員としてなら、北朝鮮に入港、上陸も出来る。

 逆に、北朝鮮に最近数ヶ月以内に寄港してから韓国へ入港すると、何処の国の何という港から北朝鮮の何という港に何の貨物を何トン運んだ、港に軍艦はいたか、艦番号を覚えているか、などの質問をされたあげく、韓国には上陸を許可されない、という乗組員がいた。軍事情報の入手だ。例えば、鉄鉱石を五〇,〇〇〇トン運んだなどという情報に他船の情報も合わせて総合的に判断すると、製鉄所の鉄鋼製造能力が分かる、ということらしい。

 入港して三日目の午後、局長に上陸許可を貰って消耗品を買いに、というより伊藤敦子に会う為に彼女の働くスーパーへ行った。

 彼女は缶詰を棚に並べていた。レジでないのがラッキーだ。

「伊藤さん、こんにちは」

「あっ、水越さん、こんにちは。帰ってきたんですね」

「はい。おととい入港したんですけど昨日までは忙しくて。今日、やっとここに来れました」

「長い航海、お疲れ様でした」

「伊藤さんこそ毎日大変ですね」

「買い物はこれからですか?」

「はい。ところで、今日は早番ですか?」

「ええ、今週は早番です」

「じゃ、また晩飯に行きましょう」

「あ、はい」

「この前と同じで、八時に駅でいいですか?」

「はい」

「じゃ、あとで」

「はい」

 はい、としか言わない。仕事中だから長話になるのを避けているのだろうか。私としても、ここで仕事のじゃまをして悪い印象を与えたくはない。次航の為の消耗品と酒の肴を買って、船に戻った。

 船内電話でサロン(司厨員)に、今日の夕食は要らないと伝えた。せっかく作ってもらって手も付けないのは失礼だから、要らないときは事前に連絡しておく。

 風呂に入って、七時のサンパンで上陸した。駅のあたりを少し歩いて、彼女を連れて行ける店を探した。適当な店が見つかる前に待ち合わせの八時少し前になり、あわてて駅へ戻った。

 彼女は既に来ていた。

「すいません。待ちましたか?」

「いえ、大丈夫です。私がちょっと早く来ちゃったんです」

「そう。じゃ、行きましょうか」

 話しながら歩いている内に、この前彼女が連れてきてくれた小料理屋君枝の前まで来たので、またそこへ入った。

「いらっしゃい。お久しぶり」

 ママは私を覚えていたようだ。

「あ、覚えてました?」

「いい男は覚えているのよ」

「やっぱり」

「ほほほ・・・」

 ママと一緒に彼女も笑っている。

「伊藤さん、ビールですね?」

「はい」

「ママさん、ナマ中とウィスキーの水割り、ダブルで」

 彼女と飲むのは二度目だ。今日はダブルで行こうと思う。

「はーい」

「今日のおすすめは?」

「全部おすすめよ」

「ははは・・・、そうですか」

 私はオムレツと刺身盛り合わせを選び、彼女はサラダと焼き鳥を選んで、注文した。

「清水も暖かくなりましたね」

「向こうはどうでした?」

「ニュージーランドは季節が逆ですから、秋ですね。それより船で南北航路をやっていると一週間で真冬と真夏を経験できますよ。日本が真冬でも出港して一週間もするとフィリピンより南、赤道に近いところまで行って真夏の気温ですよ」

「へぇー、そうなんだ。すごいですね」

「私は通信士ですから、無線室にいるだけですけど。でも、セーターを着ていたのが、直ぐに半袖Tシャツ一枚ですから変な感じですね」

「あー、そっかー、おもしろーい」

「伊藤さんにお土産があるんです」

「わぁー、何ですか?」

「そんなすごいものじゃないですけど、かわいいですよ」

「あっ、すごーい。かわいいー。これ、キウイですよね?羽の無い鳥でしょ」

「そう。ゴルフクラブのショップでみつけたんですよ。かわいい伊藤さんにぴったりだと思って」

「ありがとうございます。大事に使います」

「いや、ただのハンカチですから普通に使ってください」

 彼女はナマ中を三杯飲んだ。結構いけるようだ。私はウィスキーダブルの水割りを四杯飲んだ。少し頭がしびれるようで、いい気持ちだ。

「何か食べ物、頼みますか?」

「私、もうお腹一杯です。水越さん、どうぞ頼んでくさい」

「いや、私ももう入りません。じゃ、お腹一杯になったところで、もう一件飲みに行きましょう」

「はい」

 一〇時を回っているが、今夜はもう少し遅くなってもいいようだ。

 少し歩いて、看板に書いてある名前から判断して、カクテルを出してくれそうな店を見つけて入った。

「伊藤さん、ビール以外も飲めるでしょう?」

「どうしようかなぁー。もうだいぶ飲んじゃったんですけど、あと一杯くらい飲んじゃおうかな」

「大丈夫ですよ、まだそんなに遅くないし。酔ってるようには見えない」

「じゃー、えーと・・・、ワインにしようかな」

「ワインも結構いろいろ置いてるみたいですよ」

 彼女はメニューからドイツワインの赤を、グラスで頼んだ。私はアーリータイムズを、今度はシングルの水割りで頼んだ。かなり酔いが回っているのが自分でわかるからだ。

「伊藤さん、けっこう強いですね。負けそうです」

「えー、そんなことないです。水越さん、強いでしょう。最初からウィスキーですから」

「ビールは飲めないんですよ。腹一杯になってしまうから」

「夏の暑いときでも?」

「コップで一杯だけなら何とか。ジョッキじゃ無理ですね」

「でも、ウィスキーが飲めるからいいですよね」

「航海中はストレートで飲むんですよ」

「氷がないんですか?」

「冷蔵庫はあるので自分で作ればいいんですけど、めんどくさいし。それに、水だって飲料水を汲んでこないといけないから」

「船は海水しかないとか?」

「それじゃ生きていけないでしょう。水道から出るのは清水せいすいと言って真水ですけど、雑用水なんです。殺菌してないから飲めないんですよ。飲料水は紫外線殺菌機能のある冷水器から汲んで来なきゃいけない。それに、ストレートで飲んで直ぐに酔っても、一分歩いて自分の部屋に帰って寝るだけですから。今日みたいに上陸して飲むときはちゃんと船に帰らないと困るし、なんと言っても伊藤さんみたいにかわいい人と飲んでいて、酔っぱらってしまうのはもったいないから水割りです」

「なんか、すっごい大酒飲みみたい。こわーい」

「そんなことないですよ。船では水や氷を用意するのが面倒だからストレートで飲む、酔ったら自分の部屋に帰って寝る、それだけ。だって、上陸して飲むときはあとのことを考えて、水割りにしてるという小心者ですよ」

「あー、そんな言い方もあるんですね」

「実は、伊藤さんの方が強いかも?伊藤さんは酔うとどうなるんですか?」

「えーと、最後は眠くなっちゃいます」

「暴れたり、記憶無くしたりは?」

「まぁ、失礼ね。そんなことはありません」

「冗談ですよ。好きな子に逆に意地悪する男の子って小学生の時いませんでしたか?どうやら、私はそのタイプかも」

「そんなのダメですよ、もう大人なんですから」

「じゃ、はっきり言いましょう。伊藤さんはめちゃめちゃかわいい!」

「ふふふ。ありがとうございます。水越さんもかっこいいですよ。船乗りさんでも魚の匂いがしないし」

「漁船じゃないから」

「船員さんて、泳ぐのがうまいんでしょう」

「良く言われますけど、船乗りは背中に二〇,〇〇〇トンも貨物を積んで、泳いで太平洋を行ったり来たりしてるんじゃ無いですよ。泳げなくても船乗りにはなれます。空を飛べなくても、パイロットやスチュワーデスになれるように」

「あ、そうなんですか。泳げないとなれないと思ってました」

「多少泳げても海に落ちたら、北の海なら冷たくて心臓麻痺か数分で体温が低下して、終わり。南の海なら、直ぐに鮫が食事にやってくるらしいですよ。余り意味が無い」

「そうなんですか。怖いですね」

「そんなに簡単に沈んだりしませんけどね」

「でも、なんだか、外国航路の船員さんって、ステキかも」

「伊藤さんのような魅力的な女性からそんなことを言われたら、舞い上がってしまう」

「水越さんこそお世辞が上手よ」

「単純な事実ですよ。船であっちこっち行ったけど、伊藤さんほどの女性は世界のどこにもいなかった」

「ふふふ・・・、またそんなこと言って」

「嘘じゃないって証明してもいい」

「え、どうやって?」

「心を込めて」

「わかんない」

「じゃ、もう一軒付き合って」

「まだ飲むんですか?」

「そうじゃなくて、伊藤さんがどれだけ魅力的か証明できるところ」

「え?」

「あんまりかわいいから、まだ帰せない」

「でも・・・」

「大丈夫。伊藤さんに嫌われるようなことは絶対しないし、あとでちゃんと送っていくから」

 一一時過ぎ、我々は二軒目の店を出てタクシーに乗った。私はタクシーの中でずっと彼女の手を握っていた。一〇分も経たないうちにホテルに着いた。

 部屋に入って直ぐに、彼女を抱きしめてキスをした。舌で彼女の口を割って、彼女の舌を吸った。

 彼女の体から力が抜けていく。支えてやらないとしゃがみ込みそうだ。ゆっくりと彼女をベッドに横たえて、キスの続きをする。

「本当にかわいいね。すごくかわいいよ」

 服の上から彼女の胸に手を当てる。

「あっ・・・」

「最初に見たときにびっくりした。こんなかわいい女の子がいるのかって思った」

 胸を揉んだ。

「うっ・・・」

「一目惚れだった。そしていまは大好きだ」

 乳房は手のひらに余る大きさだ。

「待って。シャワー使いたいの」

 ささやくような声で言う。

「いいよ。行ってきて」

 コクンとうなずいて、彼女はバスルームへ消えた。

 私は冷蔵庫から缶ビールを出して飲んだ。普段はビールなど飲まないのだが、間を持たせるのにオレンジジュースよりはましだ。

 テレビをつけるが、内容は頭に入らない。ただ、音を聞いて画面の動く絵を見ているだけだ。酔っているからだろうか。それとも、これから起こる事への期待からだろうか。

 彼女は胸から下にバスタオルを巻いて、バスルームから出てきた。わずかに笑っているような表情だ。本当は照れているのだろう。かわいい。

「水越さんもどうぞ」

「うん。じゃ、ちょっと待ってて」

 私はシャワーでざっと全身を流した。素早くタオルで体を拭って、そのタオルを腰に巻いてバスルームを出た。

 彼女はベッドに入っていた。タオルはイスにかけてある。私もベッドに入って、湿っぽいタオルをはずした。

 彼女を両手で抱きしめる。彼女の肌は柔らかい。女性の最も魅力的なもののひとつは、この柔らかい肌だろう。私の体に彼女の肌が溶けてくっついて、ひとつになるような感覚だ。

「大好きだよ。かわいい」

「あん・・・」

 私は彼女に覆い被さって、キスをする。彼女の舌を捕まえる。舌を舌でなで回す。舌を軽く咬む。舌を吸い込む。

 彼女は思いの外大きな声を上げた。終わったあともしばらく動かない。胸だけが、荒い息に同期して上下している。

 左腕で彼女に腕枕をした。

 彼女が愛おしい。

「敦子って呼んでいいかな?とってもかわいいよ」

「・・・」

「敦子、好きだよ。朝まで一緒にいたい」

「ダメよ。外泊は出来ないわ」

「そう、わかった。でも、もう少しこうしていたい」

「わたしも」

「俺が船乗りじゃなければいつでも会えるんだけど、船に乗って清水に来なければ敦子には逢えなかったね」

「いつまで清水に来るの?」

「今度の停泊中に休暇申請をする。まだわからないけど、一航海行って戻ってきたら休暇になると思う」

「休暇になったらどこへ帰るの?」

「四国の徳島」

「誰か待っているの?」

「うん。多分、妻が、少しは待っていると思う」

「えっ、結婚していたの?」

「年に二、三ヶ月だけの結婚生活だ」

「ひどい!それでも奥さんがいるんじゃない。どうして今まで黙っていたの?」

「訊かれなかった。それに、敦子を好きなこととは関係ない」

「ずるい!結婚してるって知ってたら、こんなとこ来なかった」

「それでも、俺は誘ったよ。敦子がかわいくて、好きだから」

「私、帰る」

「送っていくよ」

「ひとりで帰る」

「一緒に出るよ。シャワー浴びてきたら?」

 彼女は返事をせずにバスルームへ消え、数分で戻ってきた。彼女が服を着ている間に私もシャワーを浴びて、一緒にホテルを出た。

 数分歩いたところで、やっと彼女が口を開いた。

「もう、ここでいい」

「わかった。また、スーパーに行くよ」

「本当?」

「もう怒ってないね?」

「怒ってるけど・・・」

「明日会おう。遅くならないように、飯だけ食おう」

「わかんない」

 タクシーを拾って、彼女を駅まで送ってから船に戻った。

 妻を裏切ってしまった。大したこととは思わないが、ばれたらただでは済まないだろう。もっとも、決してばれる心配はない。妻は徳島に住んでおり、ここは静岡だ。

 大したことではないが、それほど楽しいことでもない。敦子はかわいかったし、ベッドは楽しかった。しかしその後で、妻の事を考えると悪い事をしたと思う。

 敦子を傷つけたくないが、かといって離したくはない。清水に入港する間は会いたい。これから、どうなるのだろうか。

 妻以外の女性と性関係を持ったからといって、それだけでは致命的な裏切りではないだろう。家族送金もしているし、離婚するつもりもない。外地から土産も買って送るし、内地に帰れば電話もする。全て彼女を愛しているからだ。

 ただ、ちょっと、かわいい女性とたまたま仲良くなる機会があっただけなのだ。比較の問題ではないかもしれないが、妻に暴力を振るったり、生活費を渡さずギャンブルにつぎ込むのに比べればどれだけましだろう。

 かといって、敦子とのことは全くの遊びというのでもない。彼女にはまた、妻とは違う魅力がある。最終的には妻を選ぶことにはなるが、彼女は彼女で愛おしい。私は彼女に恋をしている。


 翌日はいつもの小料理屋ではなくレストランで晩飯を食い、早めに別れて帰ってきた。飲み屋のようなところではどうしても長居してしまうからだ。私は上陸する前に一時間ほど寝てきたが、敦子は昨夜の睡眠時間も少なく今日もずっと働いていたから疲れているはずで、早く帰したのだ。別れる前に、明日も八時に駅前で待ち合わせる約束をした。

 その夜も、私は飲んでから船に帰った。もう、今夜と明日しかないのだ。陸で飲む機会があれば飲みに出掛けるのが、船乗りだ。

 翌日八時、無船室に入った。今日は特にやることはない。会社から送られてきた社内報や新聞の縮刷版を読んで時間をつぶした。

 夕方、七時のサンパンで上陸し、本屋で航海中に読む本を数冊買った。八時前に駅前に出て敦子に会った。

「お疲れさん。腹減ってるだろう?」

「うん」

「焼き肉でも行く?」

「うん」

「明日出港だよ。今日は遅くなっても大丈夫?」

「・・・」

「いやならしょうがないけど」

「いやって言ってない」

「なにか怒ってる?それとも拗ねてる?でも、かわいいよ」

「ばか」

「敦子が好きなんだよ」

 敦子の態度は微妙だった。やはり俺が結婚していることを気にしているようだ。当然だろう。

 不機嫌な態度を示しながら、こちらがあきらめるような、突き放すようなそぶりを見せると直ぐに絡んだり、逆に妥協したりする。彼女自身、理性と感情がかみ合っておらず、どうしていいのか分からないのかもしれない。

 焼き肉屋を出て、私は彼女の手を引いてホテルに入った。

 敦子は最初感じないように我慢しているようだったが、途中から腕を私の背中に回して力を込め、声も高くなってきた。

 敦子の荒い息が収まってから、私はまた彼女にキスをした。

「敦子、ずっとキスしていたい」

「明日、行っちゃうんでしょう」

「五週間、長いな」

「帰ってきてもし休暇になったら、もう会えないの?」

「会えるさ」

「いつ?」

「休暇のあと、また同じ船になるかもしれない」

「そんなことわからないでしょう」

「清水に、敦子に会いに来るよ」

「ほんとう?」

「うん」

 彼女が望むなら二、三ヶ月の休暇中に一度は来てもいいと本気で思った。

 彼女を駅まで送り、私はひとりで少し飲んでから船に戻った。明日からは飲みたくても陸では飲めない。


 翌朝、七時半に起きてサロン食堂へ行った。私が朝食を摂るのは入港中だけだ。航海中は一二〇〇時からワッチなので一一三〇時に昼食を摂って、一二〇〇時少し前に無線室へ入る。午前中は寝ているので朝食は摂らない。

 昨夜はかなり飲んで、また睡眠時間も少ないので食欲はなかったが、賄いにあらかじめ朝食は要らないと伝えておかなかったので、無理して起きてきたのだ。

 朝食のあと〇八〇〇時に無線室に入って、クルーリストなどの出港書類の準備をした。そのあと局長が、一〇三〇時出港手続きなのでそれまで休んで良い、と言ってくれた。出港手続き、出港スタンバイのあと、わたしは一二〇〇時から一六〇〇時まで、二〇〇〇時から二四〇〇時まで計八時間のワッチがあるからだ。一時間でも眠れるのはありがたい。

 入港中、毎晩遅くまで飲んで睡眠不足が続くと、出港することによって今晩は飲みに行かなくてもいい、たっぷり眠れる、と思いホッとする。何も毎晩飲みに行かなくても良さそうなものだが、入港しているときはつい上陸してしまうのだ。

 出港手続き完了、パイロットが乗船した。

 パイロットのレッコ・オールショアラインの号令で、係船索を岸壁から外してネルソン丸は離岸した。

 レッコとはLet Goが日本式に訛ったもので、解放するという意味だ。錨を入れるときは、レッコ・アンカーという。転じて、船員はゴミを捨てることをレッコすると言う。船ではゴミは海に捨てるからだ。

 ショアラインは陸上との係船索、艉、艏それぞれ数本ある。

 エージェントが、岸壁で手を振って本船を見送っている。貨物船が出港するとき見送るのは、現地エージェントの職員ひとりだけだ。寒い日や雨の日などは大変だが、いつも見送ってくれる。

 一一三〇時昼食、一一四五時無船室に入って局長と引き継ぎ、ワッチを交代する。

 引き継ぎとは、前のワッチで送信や受信を完了出来なかった電報があるので処理すること、天気図に雑音が多くて見づらかったので再放送を受信するか文章による気象情報を受信すること、などの指示を貰うことだ。

 引き継ぎは一、二分で終わり、局長は昼食を摂るためにサロン食堂へ降りていった。

 正午位置を記載したノートをコーターマスターが持って来た。ログブックに正午位置を転載する。さらに、天気図用紙に正午位置をマーキングした。図上にマーキングすると、一日の航海距離と正午位置が一目で分かる。

 二台のオートアラームの作動テストを行い、結果をログブックに記載する。

 Tested 500 KHz & 2,182 KHz Auto Alarms, good condition.

 オートアラームは、警急自動受信機とも言い、国際遭難周波数を自動で聴取するものだ。二人の通信士で一六時間をカバーしているが、残りの八時間はオートアラームがカバーする。オートアラームのテストは毎日実施して、結果をログブックに記載しなければならない。国際遭難周波数は、無線電信用五〇〇キロヘルツと無線電話用二,一八二キロヘルツの二つがあり、二台のオートアラームが設備されている。

 次に、携帯無線電信のテストを行い、結果を業務日誌に記載した。

 Tested Portable Radio, good condition by dummy antenna.

 英語ではポータブルラジオと呼び、船体を放棄してライフボート(救命艇)やライフラフト(救命筏)に乗り移るときに持って行く無線機だ。これは航海中一週間に一度テストする。手回し発電機が電源で、実際に遭難したときは、発電機を回す者から体力を無くして死んでいく、と冗談とも本当ともわからない話を聞いたことがある。実際には電波を発射せず、ダミーアンテナでテストを行う。

 ラジオ、Radioは本来送信機、受信機、アンテナを合わせた無線通信シムテムを意味する。その後、放送用受信機や各種無線設備をも含むようになった。

 無線設備としての時計を、標準電波の時報で校正した。毎日確認して、一秒ずれたら合わせる。

 ブリッジから要求があるときは、受信機のスピーカーをブリッジに切り替えて時報を供給する。航海士の天測にも正確な時間が必要だ。

 あとは二時間に一回海岸局の一括呼び出しの受信、気象図、新聞の受信、気象電報の送信などのルーチンワークだ。

 陸上から船宛てに電報があるときは、電電公社所属の海岸局が船舶局のコールサインを二回ずつ決まった時間に送信する。これを一括呼び出しという。自局のコールサインを聞いた船舶局は、海岸局を呼び出して電報を受信する。

 数日後には、ニュージーランドの局の一括呼び出しも聴取し始める。

 時にはミサイル発射訓練などによる航行制限区域を知らせる航行警報受信、台風や強力な低気圧が発生したときの臨時気象情報の受信などもある。

 一六〇〇時に一回目のワッチが終わり、夕食を摂り、一時間ほど眠った。

 二〇〇〇時から二回目のワッチ。

 二三五五時、二台のオートアラームをオン、Set on 500KHz & 2,182KHz Auto Alarms at 15:00UTC.とログブックに記載した。

 二四〇〇時、受信機をオフ、今日のワッチが終わった。

 パーゼロ・ワッチのサードオッサーとコーターマスターが部員食堂に降りてきた。パーゼロとは、八時から一二時、つまり〇時までのことである。彼らは朝の八時から一二時(〇時)まで、夜の八時から一二時(〇時)までの四時間、二回、合計八時間が当直時間なのだ。

 出港した日でも寝る前の一杯は欠かせないらしい。もちろん付き合うことにした。航海中は毎日このメンバーで飲む。


 二週間後、ネルソンに入港した。

 いつものように二三,〇〇〇トンのチップを積み、内地に向け出港した。


 内地まであと三日というところで、会社からの船員交代に関する電報を受信した。

 会社からの、船の運航に関連する電報は全てキャプテン宛である。電電公社が扱う商業通信、公衆電報であり、私信だ。キャプテンが発表するまで、通信士は決してその内容を漏らさない。たとえ休暇下船を切望している乗組員に訊かれても、答えることはない。これが通信の秘密保持ということだ。交代に関する電報が来たのでキャプテンに訊いてください、とも言わない。通信はその内容だけでなく、存在そのものも秘密だから。法が通信士に要求している。同じ電波を利用するが、通信は放送では無い。

 通信と放送、似ているようで全く違う。通信は、秘密、一対一、双方向。放送は公開、一対多数、一方向。電話は、自分と相手だけで、話すことも聞くことも出来る。ラジオは、ひとつの放送を多くの人、が聞くだけだ。

 私は自分の休暇が決まったことを知った。下船はうれしくもあり、この船に乗るのが最後かもしれず、ネルソンに行くのも最後かもしれないという感傷も感じる。

 もちろん本船では、敦子の存在が大きい。これで終わりにはしたくないが、どうなるかわからない。


 清水港。ネルソン丸はタグボートに押されて着岸した。船から岸壁にサンドレットが投げられた。おもりの付いた細いロープである。このロープに直径七センチほどのホーサーが繋がれている。岸壁の作業員がホーサーをビット(係船柱)に掛ける。ホーサーを引っかけるために岸壁に埋め込まれた鉄柱をビットという。

 艉と艏でウィンチがゆっくりとホーサーを巻き取り、船体が岸壁に固定された。

 そして入港手続きが完了した。

 私と交代する吉川二等通信士が無線室に現れた。彼は本船に乗ったことがあるので、引き継ぎは楽だ。通信士が扱う無線機や航海士が扱うレーダーなどの航行援助無線装置については、ほとんど説明しなくてもよい。彼は操作を直ぐに思い出すだろうし、特に不調な装置もないからだ。また、航路はネルソン・清水がほとんどだから、入港書類や手続きについても知っているはずである。

 給料を配り終えたところで昼食の時間になった。

 入港日の昼食はカレーになることが多い。交代船員や本社から陸員が訪船することもあるので、人数に関係なく供食できるカレーが便利だ。カレーにはいつも生卵が付く。デザートはオレンジだ。

 昼食のあと後任の吉川さんに、今回入港中に受け取ることになっている無線機器修理用予備部品を説明し、ナンバーワン・レーダーのマグネトロンは交換したばかり、ナンバー・ツーは二,〇〇〇時間を超えていることなどを伝えた。

 午後三時、引き継ぎが終わり下船した。まずは、八ヶ月生活するために必要だったものが詰まった段ボール箱二個を自宅宛て発送した。乗船するときは段ボール箱一つだったが、八ヶ月の間に少しずつ荷物が増えてしまったのだ。これで荷物はバッグひとつである。

 いつもなら入港日に引き継ぎ交代を終え直ぐに帰路に就くのだが、今回は一泊することにした。敦子に会うためである。


 清水駅前のホテルにチェックインして、敦子に会いに出掛けた。

 私たちは、敦子が最初に連れてきてくれた小料理屋に入った。

「下船になったよ」

「下船?」

「陸上休暇」

「うちに帰るの?」

「うん」

「いつ?」

「明日」

「明日のいつ?」

「決めてない」

「今日はどうするの?」

「まず、飲もう。腹も減ってるだろう」

「お腹なんかすいてないわ」

「少しは食った方がいい」

「カクテルが飲みたい」

「大丈夫か?」

「なにがよ?」

「困らせないでくれよ」

「あなたが私を困らせているんじゃない」

「仕方がなかった」

「ずるいわ」

「あのスーパーで買い物をしたのも、何かの売り場を訊いたのも偶然だった」

「・・・」

「本当は偶然じゃなくて、君が一番かわいかったから君に訊いた」

「結婚してるって言わなかったわ」

「言いそびれた」

「船乗りさんってどこでも同じことしてるんでしょ」

「そんなことはない」

「うそよ」

「男と女がそう簡単に恋人になれるとは思えない。少なくても俺の経験ではそんなことは無かった」

「今日が最後なのね」

「敦子さえよければ休暇中に会いに来たい」

「そんなのわからないわ」

「時々電話するから」

「私の方から電話してもいい?」

「・・・」

「無理よね。奥さんがいるんだから」

「敦子を好きだというのは本当だ」

「私、もう帰る」

「駅まで送るよ」

 我々は駅まで何も言わず、ゆっくりと歩いた。

「敦子のことは忘れないよ」

「ねぇー、帰っちゃうの?」

「もっと一緒にいよう。敦子がいられるだけ一緒にいよう」

 君枝で飲んだあと、私は彼女の手を取って歩き出した。ホテルは取ってあるが、今からフロントで宿泊をふたりに変更するのは彼女に気まずい思いをさせるだろう。

 誰にも見られずに入れるホテルに入った。

 二度目とは言っても五週間も間があいていたから、とても新鮮な感じがした。敦子も前回ほどぎこちなさはなかったが、かといって奔放にもなりきれない。ただ、これが最後かもしれないというひたむきさを感じた。一所懸命だった。

「今日は帰らなくてもいいのかい?」

「いい」

 わざと拗ねたように言う。

「じゃあ、一緒に眠ろう」


 休暇中に、本当に敦子に会いに来られるだろうか。今は大切な敦子だが、家に帰ったら、留守の間ひとりでがんばって私を待っていたひとみが愛おしくなるだろう。

 敦子を好きなのは本当だ。ひとみを好きなのも本当だ。ただ、ネルソン丸では敦子が近くにいた。だから、敦子と知り合ってから清水入港中はひとみより敦子のことを想った。

 航海中はふたりの事を交互に想った。

 しかし、休暇が決まって家に帰れるとなると、やはりひとみが心を占める。早くひとみに会いたい。

 敦子をスーパーで見かけて、商品の場所を訊いて、自然に親しくなった。私が家に帰ったら、きっと自然に敦子との仲は無くなるのだろう。敦子を嫌いになることはなくても、会えなくなって、電話もしなくなって、いつの間にか終わってしまうのだろう。

 敦子を大好きだが、妻のひとみも大好きだ。どっちがより好きだ、とは言えないが、ひとみの方が先にいたし、妻にした責任もある。

 敦子を忘れることはないだろうし、何か困ったことがあったら出来ることはしてあげたいとは思う。しかし連絡先は教えないだろう。万が一にも、ひとみとの間に問題を起こしたくはない。

 またいつかネルソン丸に乗ることがあって、そのときも敦子が同じスーパーで働いていたら会うことがあるかもしれない。そのとき、何か困っていたら、少しでも助けることが出来たら助けてあげたい。結局、私に出来るのはそれくらいだ。

 私は明日、妻のところへ帰る。


 ひとみのドライブ

 あ、この人ちょっとかっこいいわね。

「いらっしゃい」

「うん」

「なににしましょう?」

「とりあえず、ビール」

 ビールの小瓶と細めのビールグラスをカウンターに置いて。

「はい、どうぞ。ここは何軒目ですか?」

「二軒目だよ」

 突き出しの、キスチョコが少し入ったガラスの小皿を置いて。

「お客さん、何してる人ですか?」

「サラリーマンだよ」

「私も一杯戴いていいかしら?」

「いいよ」

 グラスを両手に持って差し出して。

「注いで貰ってもいいですか?」

「どうぞ」

「すいませーん。いただきまーす。かんぱーい」

「うん」

「おいしー。今日最初の一杯なんです」

「そう」

「もしかして、無口な人?」

「特に今日は」

「どうして?」

「目の前の女の子がかわいいから、緊張してる」

「あははは・・・上手ね」


 私の名前は水越ひとみ。

 スナック、銀の扉で週に二、三回アルバイトをしてます。友達の幸恵ゆきえの店なので気楽に、気が向いたときだけ出て来るんです。でも逆に、どうしても女の子が少ないので今日来て欲しい、と頼まれることもあるけど。まぁ、お互い様なので仕方ないよね。

 夫は船員。結婚して二ヶ月でネルソン丸という船に乗っちゃった。もう二ヶ月くらい経つけど、あと半年かもう少し乗っているみたい。大体一年の内九ヶ月乗船で三ヶ月が陸上休暇だって。

 銀の扉では夫の居ない間の暇つぶしをさせて貰っているようなもので、ついでにお小遣いも少し稼げるというわけ。もちろんこのアルバイトは夫には内緒よ。きっと許さないと思うから。だって、自分はずっと家にいないのに妻がスナックで夜のバイトなんかしてたら、心配でたまらないと思うもの。

 夫からは家族送金があるので、普通の生活は出来てる。小遣いだって別に不自由してるわけでもないの。もちろんお金はいくらあっても困ることはないけど。

 本当は退屈しのぎと小遣い稼ぎの他に、もう一つ理由があるの。それは、出逢い。だって、何ヶ月もほっておかれるんだから、たまには遊びたくなるときだってあるもの。

 そりゃ初めからあの人は船員だって知っていたし、家にいるよりいない方が多いっていうのも聞いていたわ。だけど、きっとあの人だって遊んでいるはずだし、私だってちょっとくらいはいいと思うの。あの人が休暇で家にいるときはうんと尽くすし、絶対家庭を壊すつもりはないんだから。

 夫のことは大好きだし、いつも一緒にいたいと思う。夫が船員を辞めたら、私もこんなアルバイトは卒業するつもり。

 夫が遊んでるから、だから私も遊んでやるってことではないの。セックスって別にそんな深刻に考えなくていいと思ってるだけ。もちろん私だって、愛してる人とのセックスが一番だって思う。一番楽しいし、一番気持ちいいし、一番落ち着くし。だから、やっぱり夫に抱きしめられるのが一番うれしい。

 ただ、たまには女だって寂しいって思うときもあるの。女だから、かな。それだけ。でも、愛してるのは夫だけ。

 夫だって、外で遊んでも私のところに戻ってきてくれればそれでいいの。私に分からないようにしてくれれば、遊ぶのは仕方ないわ。お互い様ってことで、お互いに知らないことは無かったことと同じ、でしょっ。

 そうは思っても、私、本当は浮気する勇気なんか無くて、ただ家に閉じこもっているのがイヤなだけかもしれない。


 今日はちょっとかっこいい人が来た。通ってくれるかな。ずっと付いていたいけど、スナックはそうもいかない。キャバレーみたいに指名制なんか無いから、他のお客さんの相手もしないといけないし、カラオケのデュエットを頼まれることもある。

 ふたり以上で来てカウンターに座ってるお客さんは、お客さん同士で話が出来るからいいけど、ひとりのお客さんはお酒も作らないといけないし、お話もしてあげないといけない。だから、ひとりのお客さんには付きやすい。今夜はこの人に出来るだけ付こうっと。

「私、恵子です。お名前訊いてもいい?」

 お店では恵子という名前にしてる。

「野村」

「野村さん、お酒強いんですか?」

「そうでもない。まぁ、好きだけど」

「私はあんまり好きじゃないの。だけど、仕事だから」

「ふっ。正直だね」

「あ、初めて笑いましたね」

「そう?」

 ビールが空いちゃった。

「ビール、もう一本出します?」

「いや、ウィスキーにしよう」

「それじゃボトル入れます?その方がお得よ」

「カティーサークがあるみたいだね」

「はい。それでいいですか?」

「うん」

「ありがとうございまーす。じゃ、これにお名前書いてください」

 ボトルにぶら下げる小さなタグとボールペンを差し出すと、野村さんは何のひねりもなくただ野村と書いた。そのあと私が、今日の日付をタグの隅っこに書き足した。

 アイスペールとミネラルウォーターのボトルを二本用意して。

「水割りでいいですか?」

「うん。少し濃くして」

「あ、強いんだ。はーい」

「よかったら飲んで」

「すいません。ありがとうございます」

 その夜、野村さんは二時間くらい居て水割りを五、六杯飲んで帰っていった。ボトルはたっぷり残っているので、あと四、五回は来るはず。フィーリングが合えば仲良くなってしまうかも。

 その夜は野村さんのおかげで、少しうきうき気分でカンバンの一時まで店にいた。ママに頼まれないときは一一時とか一二時で上がるんだけど、その夜は気が付いたらカンバンだったの。


 幸恵に夜食のラーメンをおごって貰ってから、車で家まで送って貰った。

 もう三時になるけど明日もどうせひとりだから何時に起きてもいいし、ゆっくりとお風呂に入ってから寝るの。こういうときは、夫が居なくて寂しいんだけど逆に気楽でいい、って思うことにしてる。そうじゃなきゃ、やってられないもん。

 哲夫はもう眠っているのかしら。今頃どこにいるのかな。海が穏やかだといいけど。哲夫に会いたい。哲夫も私に会いたいって思ってるかなぁー。

 家に帰ると野村さんのことなんか思い出しもせずに、夫である哲夫のことだけを考えながら眠ってしまった。やっぱり私は哲夫が大好き。

 翌日、私は一一時に起きて、コーヒーを飲んだりシャワーを浴びたりして一時間くらいかけてやっと頭をはっきりさせた。ちょっと昨日は飲み過ぎた感じ。

 あ、そうだ。野村さんが今度いつ来るか、訊いておけばよかった。昨日来て、今日もって事はないと思うけど・・・。どうしよう、今日も銀の扉に出ようか、止めようか。うーん、今日はお休みに決定。きっと続けては来ないだろうし、昨日飲み過ぎたから。

 だけど、思いっきり退屈。仕事もしてないし、子供も居ないし、親と同居もしてないし。この退屈って幸せなのかな?夫が居ないこと以外は全部そろっているのは事実ね。

 普通の仕事をしたい、夫と一緒に暮らしたい、という望みはあるけど贅沢かな。仕事もやればやったで大変なことはもちろん知ってる。結婚するまでOLを七年もやったから。

 夫は仕事に反対じゃ無いけど、休暇で家にいるときは一日中一緒にいて欲しいってことで、辞めちゃった。実質無理だもんね。そんな都合の良い仕事なんかあるわけ無い。

 夫とも毎日一緒に居ればけんかになったり、ご飯作るのが面倒になったりするかもしれないって思う。そうすると、今がやっぱり一番幸せかな。

 哲夫が今度休暇で帰ってきたら、二ヶ月か三ヶ月しか一緒にいられないから仲良しで過ごそう。帰ってきたら、きっと最初はすっごく新鮮に感じると思う。ご飯だって哲夫の好きなものばっかり作ってあげたい。それが幸せだと思う。

 だけど、もう少し長く一緒にいたい。一年の半分船に乗って半分家にいればいいのに。でも、きっとそれが叶うと、もっと家にいて欲しいって思い始めるだろうな。そして三年とか五年とか経つとやっぱり倦怠期になるのかな。

 離れていれば一緒にいたいと思うし、一緒にいれば飽きてしまう。きっと結婚てそんなものだと思う。冷めてるかなぁ?でも、私より先に結婚した友達は、みんなそんなこと言ってたし。


 野村さんに初めて会った日の翌日はごろごろ過ごして、その次の日にまた.銀の扉に出た。

 九時過ぎに野村さんが来た。ラッキー!

「いらっしゃい、野村さん」

「良く覚えてたね」

「だって、一昨日来たばかりでしょう。それに、野村さん、ちょっとかっこいいから」

「そう言われて、みんな通うことになるんだろうね」

「ホントよ。私は女の子が少ないときのアルバイトだから、そんなに売り上げに貢献しなくてもいいの」

「はい、はい」

「もう、いじわる」

 軽口をたたきながら、野村さんのボトルとアイスとミネラルを用意して。

「ちょっとだけ濃いめにね」

「あ、そうだったわ」

「はい、どうぞ。何かおつまみは?」

「いや、いい。恵子ちゃんも飲んだら」

「はい。すいません、戴きます」

「ウィスキーでいいの?」

「はい。野村さんと同じものがいい」

「アルバイトって言った?」

「そう、週に二、三回だけ」

「名前、何だっけ?」

「忘れたの?冷たいのね。恵子よ」

「そうだった。かわいいね」

「なによ、名前も忘れていたくせに」

「だけど、かわいいってのは覚えていた。だからまた来た」

「うまいんだから」

「何か食いたいものある?」

「頼んでいいの?」

「うん」

「じゃ、唐揚げ、いい?」

「いいよ」

「ごめんね、ありがとう」

 けちではないみたい。ますます気になるなぁー。危ないかも。

「野村さん、サラリーマンってこの前言ってたわよね。どんなサラリーマンなの?」

「えーとね、車の営業」

「営業って大変でしょう?」

「今時あてもなく一件ずつ家を回るなんて事はなくて、車を欲しいお客さんがショールームに見に来るんだよ」


 今日も一一時過ぎに帰って行ったけど、二回目になると結構うちとけていっぱい話が出来た感じ。そこそこまじめな人みたい。少なくても悪い人ではなさそう。

 結婚していて、お子さんは二歳の男の子がひとりだということもわかった。結婚して四年、家庭もよく言えば安定、悪く言えば退屈、それとも倦怠期の始まりというところかしら。彼にとってはやっぱり家庭はとても大切だけど、またちょっと遊んでみたいという気持ちが出てきたみたい。

 結構いいかも。ルックスも、妻子持ちってところも。もう少しドキドキさせてくれたら考えちゃおうかな。野村さんは私をどう思っているのかな?

 今日はもうひとり、奈保子ちゃんという子も出ていて、彼女も少しの間野村さんのお相手をしていた。野村さんと奈保子ちゃんは初めてだからか、そんなにお話が盛り上がっているようには見えなかったな。

 奈保子ちゃんは私より二歳年下の二五歳。若さでは負けるけど私の方がかわいいし、それにきっと人妻のセクシーさもあると思う。あと一、二回来て貰って、私がずっと付いていれば私のお客さんと言うことになる。そうすればママの幸恵も奈保子ちゃんも野村さんには手が出せなくなる。そうしよう。

 一二時。お客さんは二組、四人だけ。私は、今日はこれで上がりにする。


 電話、してくれるかな?野村さんに、私は銀の扉ではアルバイトなので、気が向いたとき週に二、三回出るだけ、良かったら私がいるかどうか店に電話してから飲みに来て、と言っておいた。自宅の電話は絶対教える気はない。夫がいるんだから当然よね。

 私がいなくてもお店に来るか、それとも来ないか、あとで幸恵に訊けば直ぐわかる。野村さん、私に興味あるのかどうかわかる。楽しみ。

 それに、私がいないときは来ない、いるときに来るなら、そのことを何気なく奈保子ちゃんにも知らせれば、野村さんは私のお客さんと言うことになる。そんなことを考えながら二、三日過ごした。

 お店に出ない日は時間を持て余す。ショッピングばっかりってわけにもいかない。女ひとりで映画っていうのも詰まらないし、お稽古事もしていないので、出掛けない日もある。スーパーに行くのだって私ひとりの分だから、二日に一回とか三日に一回でも充分。

 退屈で暇。だから野村さんのことを考えるのかな。

 だけど、一番考えるのはやっぱり夫である哲夫の事。大好きだし、いなくてとっても寂しいから。デートしたこととか、けんかしたこととか過去だけじゃなくて、今度帰ってきたら何を食べさせてあげようとか、どこへ行こうとか、未来のこともよく考える。早く帰ってきて欲しい。抱きしめて欲しい。


 幸恵から電話があって、銀の扉へ遊びに行った。今夜は奈保子ちゃんがお休みだから来て欲しいって。

 私は遊びみたいな感覚で手伝うだけだから気楽。水割りを作ったり、ビールの栓を抜いたり、タバコに火をつけてあげて、灰皿を交換するくらい。おつまみは幸恵が作るし、洗い物も私はほとんどしなくていいから。

 一〇時少し前に野村さんからお店に電話が来た。

「もしもし、今日、恵子さんはいますか?」

「野村さんでしょう?私、恵子です」

「あ、うん、野村です」

「今から来るの?」

「うん、行くよ」

「じゃ、お待ちしてまーす」

 野村さんは二〇分くらいで来た。

「近くで飲んでいたの?」

「うん。会社の連中と」

「一緒に連れてくれば良かったのに」

「恵子ちゃんを取られたくないから」

 ホントかなぁー?

「ははは・・・、私、野村さんのものじゃないわよ」

「そうだけどさ」

 がっかりしたかな?

「はい、どうぞ。濃い目にしておいたわ」

「恵子ちゃんも飲みなよ」

「はい、戴きます」

「恵子ちゃんは、ここは週に二、三回だよね。別に仕事をしてるって事?」

 そういうことにしておこうっと。

「そう、昼間の仕事があるの」

「ふーん、どんな仕事?」

「普通のOLよ」

「昼も夜も仕事して眠くない?」

「毎日じゃないし、一一時くらいに帰ることが多いから大丈夫よ」

「なんで二つも仕事してるの?」

「今日は質問ばっかりね」

「悪かった。。お詫びにドライブでもどう?」

「どこに?」

「ご希望次第だよ。山の方でも海の方でも」

「今度の日曜日?」

「うん」

「家の方はいいの?」

「たまにはひとりで週末を過ごしたいよ。向こうだってきっとそう思ってるさ」

「悪い人ね」

「いや、だからたまには解放してあげようと思ってね」

「じゃあ、私はその為のダシってこと?」

「いや、そうじゃないよ。本当はかわいい恵子ちゃんとデートしたいんだ」

「あんまり遅くならなければいいわ」

「やったー!」

 こちらこそ、やったー!だわ。

 私は家の電話を教えるつもりはないし、彼も結婚してるから、私から彼の家には電話なんかしたくない。だから、今日の内にしっかりと時間と場所を確認した。今度の日曜日、一〇時、徳島駅前にある喫茶店フィレンツェで待ち合わせ、遅れそうなら喫茶店に電話する約束をした。


 日曜日、五分だけ遅れてフィレンツェに着いた。野村さんはもう来てた。右手を挙げて私を呼んでる。私も右手を振って、彼のテーブルへ行った。

「ごめんなさいね。待った?」

「いや、時間通りだよ」

「私、飲み物はいいから出ましょう」

「そう。じゃ行こう」

 車はきれいで洗車したばっかりみたい。さすが車の営業マンだわ。

「どこへ行きたい?」

「そうねぇ、静かな山の方へ行ってみたい」

「眉山に登ってもドライブにならないし。じゃ、吉野川を遡って行ってみよう」

「はーい、では、よろしゅーお願いしまーす」

「おまかせください。」

 夕方、余り遅くならないように適当なところで帰って貰うことにして、特に目的地もない気楽なドライブに出発した。天気は晴れ、というより快晴というのかしら。雲はほとんど無くてきれいな青空。

 野村さんは余りスピードを出すタイプではなく、流れに乗って吉野川沿いの道を上流に向かって走っている。緑がきれい。時々左側に線路が見える。きっと徳島線ね。

 途中何度か、景色が良くて車を停められるところで休憩した。吉野川の水、涼しそうできれい。ところどころ、流れの急なところではすごい音がして恐いくらい。

 二時間くらいで池田町まで来た。

 おそば屋さんを見つけてランチにした。

「お昼、ごちそうさまでした」

「恵子ちゃん、もう少し行ってみる?」

「そうねー、今日はここまでにしましょう。野村さん、帰りもあるから疲れるでしょう」

「俺は大丈夫だけど。じゃ、ゆっくりと帰ろうか。帰りは川の反対側を走ろう」

 帰りは何故か野村さん、口数が少ない。もしかして、なにか良からぬたくらみがあるのかもしれない。男だから、当然ある程度は期待しているのね。

 私も、どうしていいかわからない。キスくらいしちゃおうか、もっと行っちゃおうか?だけど、私は結婚している。哲夫という大好きな夫がいる。でも、哲夫は船乗りでもう三ヶ月も家にいない。

 だけど、野村さんが何もしなければそれで今日はおしまい。成り行きに任せようか?でも、やっぱり成り行きなんてダメ。ちゃんと自分の気持ちを決めておかないと。どっちにしても、後悔したくないから。

 野村さんは悪い人じゃない。優しいし。だけど、つきまとわれるのは絶対困る。ずっと付き合うことは出来ない。哲夫がいない間の冒険、それだけにしたい。

 こんなこと、考えるだけでもいけないというのはわかっている。夫がいるのに、他の男性とドライブするなんてとんでもないこと。だけど、どうしていけないの?そりゃ哲夫に悪いと思うし、罪の意識みたいなものも感じるけど。結婚したら、こんなことはしちゃいけないの?全部捨てないとダメなの?それが結婚?

 結婚を続けるなら、哲夫とずっと一緒に暮らしたいなら、やっぱり浮気はダメよね。ばれたらきっと哲夫は許さないと思う。じゃ、ばれなきゃいいの?

 私って浮気性なのかな?変なのかな?普通の女の子と違うのかな?夫が長いこといなくて、もし私を好きだって言ってくれる人が現れて、少しだけ仲良くするのはそんなにいけないこと?

 なんだか私もいろいろ考えて、ますます野村さんとの会話が少なくなってしまった。

 ちょっと景色のいいところの道路脇に設置されている駐車場に、車が停まった。他にも四、五台停まっていたが、野村さんはそれらの車から離れて隅っこに停めた。吉野川がごうごう音を立てて流れている。

 野村さんが左手を伸ばしてきた。私の手を取った。どうしよう。手を引っ込めようか、このままにしようか。

 頭で決めるより先に手を引っ込めていた。後悔したくないから、自分で決められないときは何もしないことにする。しなかったことは、あとやり直せる。だけど、してしまったことは取り返しがつかない。

 野村さんが困ったような顔をしている。

「野村さん、びっくりさせないで」

「あ、いや、ごめん」

「ごめんね。野村さん、奥さんいるんでしょう。やっぱりいけないわ」

「うん・・・。」

「ドライブに来た私も悪いんだけど・・・。きっと野村さんも胸を張って家に帰れて良かった思うはずよ」

「オーケー。そうだね、きっと。残念だけど、今日はドライブだけにしよう」

「野村さん、本当にいい人ね」

「いいだけの人?」

「そんな意味じゃなくて。分かるでしょう?」

「うん、悪いヤツじゃないって事だ」

「それだけじゃなくて・・・」

「何となく分かるよ。恵子ちゃんもいいヤツだよ」

 私が自分の気持ちを分かる前に、何となくふたりで分かり合ってしまったみたい。きっとこれで良かったんだわ。野村さんは奥様を、私は哲夫を裏切らなかった。なんだか誇れるような感じ。してしまったら取り返しがつかない。本当に何もなくて良かった。後悔しなくてもいい。

「ねぇ、徳島に帰ったらお茶を飲みましょう。私におごらせて」

「そう。悪いね」

「いいえ。今日のお礼よ。いろんな意味のお礼」

「いろんな意味のお礼か。それも何となく分かるよ」


 野村さんとの楽しいドライブが終わった。とっても楽しかった。ドキドキもした。けど、それ以上のことは無かった。だから良かった。

 哲夫はどうしてるかな?そうだ、哲夫に手紙を書こう。最初の手紙だわ。船乗りは家族からの手紙が一番の楽しみだから頼むよって言ってた。会社宛に出せば、会社が入港先の代理店に転送してくれるらしい。哲夫も書くって言ってたし、私も書こう。

『こんにちは、哲夫。

 お元気にしていますか?船は揺れませんでしたか?航海お疲れ様。

 この手紙はニュージーランドに転送されるのかな?ちゃんと間に合うといいけど。

 私は元気にしています。本当は哲夫がいないからとっても寂しいけど。だけど、落ち込んではいないので心配しないでください。

 哲夫は寂しい?それとも仕事で忙しくて私のことは忘れてる?でも、お土産は忘れないでね・・・なんちゃって。

 そうだ、写真もいっぱい撮ってきて、帰ってきたら見せてね。

 何か必要なものがあれば送るので、知らせてください。きっと会社宛に送れば転送してくれるんでしょう?

 風邪なんかひいてませんか?

 ご飯はおいしいですか?

 毎日何も変わったことはないので、あんまり書くことがありません。

 早く会いたい、それだけです。

 これからも元気でがんばってね。

 哲夫、大好き!

 ひとみより。』


 富山丸

 警急信号が聞こえる。遭難信号に前置される信号だ。二一四五時からの第一沈黙時間になって直ぐだ。信号の強さからしてかなり遠いと思われるが、念のためテープレコーダーの録音スイッチを入れる。

 最初に四秒長音、そして一秒休止、このセットを一二回繰り返すのが警急信号だ。これによってオートアラームが鳴動し、通信士が当直時間外となっている海域にいる船舶でも通信士は遭難呼び出しを受信できる。実際には、四秒長音、一秒休止を四セット受信するとアラームは動作するが、確実を持たせるために信号は一二回繰り返すことになっている。

 警急信号に続いて、SOS(遭難信号)を三回、DE(こちらは、の意)、A8YN(発信局のコールサイン)を三回受信した。

 遭難呼び出しにNRV局が応答した。グアム島にあるアメリカ合衆国コーストガード所属の無線局だ。内地から南下する航路では気象電報を送信するので、コールサインは頭に入っている。

 A8YNとNRVの遭難通信が始まった。船名アトランティックエース、船籍リベリア、積み荷は材木、遭難の種類は荒天による荷崩れで船体がポートサイドに傾いており転覆の危険があるとのこと。位置は受信した緯度経度を元に天気図で確認するとグアム島の沿岸である。

 本船は昨夜、一月一七日二〇〇〇時横浜を出港して、カリフォルニア州ロサンジェルスへ向けて針路四五度、北東へ航行している。本船の位置からしてグアムまで救助に行くことはあまりに非現実的であり、グアムのコーストガードか付近を航行中の船舶が対応できるはずであるから、この遭難通信はキャプテンには報告しない。しかし、ログブックには遭難呼び出しを傍受した事実を記録しておく。

 もちろん、今回のように本船が救助に向かう可能性が全く無い場合以外は、キャプテンに報告して指示を仰ぐ。遭難呼び出しに対して、通信士は独断で応答できない。救助に向かうにしろ、他船にまかせるにしろ、遭難呼び出しに対する応答にはキャプテンの命令が必要だ。

 沈黙時間というものがある。第一沈黙時間は、無線電信による遭難信号SOSを受信するために特に厳重に国際遭難周波数を聴取するために設けられている、毎時の一五分過ぎから一八分過ぎまでと四五分過ぎから四八分過ぎまでの六分間をいう。沈黙時間中は、なにも通信が無くてもログブックには『Clear & Nil』などと記載し、遭難通信、緊急通信、安全通信などを受信したときはその概要を記載する事になっている。もちろん本船の航路に関連があるものはキャプテンに報告する。

 第二沈黙時間は、無線電話による遭難信号Maydayを聴取するための、毎時の〇〇分と三〇分からの各三分間、これも専用受信機で聴取している。

 つまり、遭難信号は二種類あり、無線電信の場合はモールスで・・・― ― ―・・・(SOS)と発信し、無線電話の場合は言葉でMaydayメイデイと発信するのだ。

 SOSの他、XXX、TTTがあり、全て船舶の安全航行に関わる重要な無線通信である。XXXは台風などの重大な気象情報、ミサイル発射訓練のための航行制限海域の指定、船舶乗組員の海中転落による行方不明者の捜索依頼、などがある。TTTは軽微な気象情報、数日が経過した船舶乗組員の海中転落による行方不明者の捜索依頼などである。

 船舶通信士となって六年目、初めてのSOS傍受だった。犠牲者が発生しないことを願う。

 本船は富山丸ふざんまる、自動車船である。といっても専用船ではなく、材木船を自動車船に改造した兼用船だ。中古車を六五〇台積んでいる。揚地はパナマのクリストバルをはじめ、カリブ海の七カ国七港にわたる。自動車専用船の積み残しを運んで、各港で少量ずつ揚げるのだ。

 まずはロサンジェルスでバンカー(燃料補給)、次にカリフォルニア半島、メキシコ沖を南東へ下りていき、パナマ運河の太平洋側入り口バルボアで運河通峡手続きを行う。運河を通過して、大西洋側のクリストバル、そしてカリブ海へ抜ける。

 一航海三ヶ月近くかかる予定だ。

 ワッチは二四〇〇時までで、あと二時間ほど残っている。ワッチ中にやらなければならないことは、内地時間二二三〇時からの長崎無線JOSの一括呼び出し聴取、二三〇〇時からの銚子無線JCSの一括呼び出し聴取がある。

 明日から時刻改正が始まる。内地出港後二週間で北米西岸に到着するが、この間に毎日三〇分、または一時間船内時計を進めて、入港の二日ほど前には目的地の時間に船内時間を合わせる。もちろん日付変更線を超えた翌日は、日付を一日戻す。つまり、一〇日間ほどの間に、時計を毎日三〇分から一時間進めて、合計八時間または九時間進めるが、日付は一日戻す。これが船の時刻改正だ。

 このため、明日からは当直中の作業は全てUTC(Coordinated Universal Time、協定世界時)で考えなければならない。数年前までGMT(グリニッジ標準時)と呼ばれていたものだ。厳密な意味的には相違があるが、運用上はUTCとGMTは同じと考えて差し支えない。

 二四〇〇時、オートアラームのスイッチを入れて受信機のスイッチを切り、部員食堂へ下りる。寝る前の一杯だ。直ぐに同じパーゼロ・ワッチのサードオッサーとコーターマスターも来るはずだ。

 本船はMゼロ船なので、エンジンは航海中の夜間ワッチは無い。〇八〇〇時から一七〇〇時までの昼間だけ作業を行う。

 Mゼロとはマシーナリー・スペース・ゼロ・ピープル、つまり機関室無人と言う意味で、それだけ自動化されている船ということだ。

 Mゼロ船ではない在来船の場合は、サードエンジャーと操機手も加わり五人で飲むので賑やかだ。

 オッサー、正しくはオフィサーであるがオッサーと訛って発音される。一等航海士はチーフオフィサーが訛ってチョッサー、二等航海士はセコンドオッサーと呼ばれる。

 コーターマスターのコーターはクォーター、つまり四分の一、マスターはキャプテンと同じ意味である。給料がキャプテンの四分の一だったとか、ワッチ中の権限がキャプテンの四分の一あったとか、一度の四分の一の角度まで正確に舵の操作ができるなどの説がある。

 甲板部は、こうはんぶ、またはデッキという。甲板は、こうはんであり、かんぱんではない。

 コーターマスターの下にセーラー(甲板員)という職種もある。語源は帆船時代の『セイル(帆)を張る人』だろう。

 エンジニアはエンジャーと訛る。チェンジャーまたはチーフエンジャーが機関長、ファーストエンジャーまたはファーセンジャーが一等機関士、セコンドエンジャーが二等機関士である。

 操機手、英語ではオイラーといい、『オイル(油)を差す人』である。漁船では操機手ではなく油差しという。

 操機手の下の職位に操機員がある。英語でワイパー、こぼれた油を『ワイプ(拭く)する人』である。

 デッキのコーターマスターとセーラーという呼び方は使われるが、オイラー、ワイパーという呼び方は使われない。

 また、甲板部員を束ねるのがボースン(甲板長)である。

 機関部員を束ねるのはナンバン(操機長)という。これはナンバーワンオイラーが短縮された呼び方だ。

 ボースンもナンバンもひとりしか居ないので、職種で呼ばれる。

 船長、航海士三人、機関長、機関士三人、通信長、通信士の一〇人を士官、あるいは職員と呼ぶ。

 デッキのボースン、コーターマスター三人、セーラー三人、エンジンのナンバン、操機手二人、操機員一人、司厨部(賄い)の司厨長ちゅうしちょう司厨手おやじさん二人、司厨員サロンの一五人を部員と呼ぶ。普通船員だ。

 英語では、士官はオフィサー、普通船員はクルーと言う。

 司厨長はどういう訳か、しちゅうちょうではなく、ちゅうしちょうと呼ばれる。誰に訊いても理由は分からない。しちょうじと呼ばれることもある。どうやら司長児と書くようだ。

 おやじさんと呼ばれる司厨手はコックのことであり、サロンと呼ばれる司厨員はボーイである。

 ひとりしかいない職種は職名で呼ばれる。キャプテン、チョッサーなどだ。コーターマスターのように複数がいる職種では名前で呼ばれる。コーターマスターの佐藤さんというように。

 士官と部員の合計二五人が本船の乗員数である。

 前航バンクーバーで買った免税のアーリータイムズを、時化で船が揺れてもボトルが飛ばないようになっている保管場所から取り出し、ストレートグラスに注ぐ。ボトルはテーブルに寝かせておく。アーリータイムズは四角いボトルで、寝かせておいても転がらない。海が時化たときは持ってこいだ。

 サードオッサー、コーターマスターと一時間ほど飲んで寝る。彼らは明朝〇七三〇時から朝食を摂って、〇八〇〇時から一二〇〇時まで四時間のワッチがある。私は一一三〇時から昼食を摂って、一二〇〇時から一六〇〇時まで四時間のワッチだ。


 航海一〇日目、一一〇〇時に目覚ましで起きる。眠い。四時間ほどしか眠っていない。昨夜は、いや、今朝は〇六〇〇時前まで飲んでいたのだ。時刻改正で船内時間は内地の時間より六時間進んでいる。つまり、船内時間は二四〇〇時でも内地は一八〇〇時。眠れないので朝まで飲んでいたのだ。

 〇六〇〇時になると司厨部が朝食の用意を始めるので、その少し前に部屋に引き上げた。ポールド(丸窓)の外も白み始めていた。

 ウィスキーとタバコと睡眠不足のせいで食欲は余り無い。一〇分ほどで昼食を済ませ、一旦自室に戻りタバコに火をつける。一一四五時、自室を出て無線室へはいる。通勤時間五秒ほどである。無線室と自室の間には局長の部屋があるだけだ。

「お疲れ様です」

「うん。昼飯何だった?」

 乗組員の航海中の最大の楽しみは食事なのだ。

「焼き魚と煮物でした」

「そうか。引き継ぎは特にないけど、今日はウッドペッカーノイズがちょっとひどいね」

「はい、わかりました」

「じゃ、お願いします」

「はい、お疲れ様でした」

 局長は昼食を摂りにサロン食堂へ下りていった。これから四時間は自分のワッチである。

 ウッドペッカーノイズとは、ドッドッドッドッドッというモールス符号の短点を連続したような雑音をいう。ソ連のOTH(Over the Horizon、超地平線)レーダーの実験波だといわれている。

 舶用レーダーの電波は九、〇〇〇メガヘルツ帯のマイクロ波であるが、この電波は直進するために地平線の向こうには届かない。このため、海上移動業務でも使用している短波帯の電波を利用したレーダーを開発しようとしているらしい。短波は電離層反射によって地球の裏側までも届くからだ。だが軍用だとしたら、真実は我々には知らされることはないだろう。とにかくこのノイズは広い周波数帯域に妨害を与えるため、世界中の通信士は困っている。

 一括呼び出しは銚子無線JCS、長崎無線JOSに加えて、ロスアンジェルスKOK局、サンフランシスコKPH局、同じくサンフランシスコKFS局も聴取する。念のために、シアトルKLB局もワッチ中に一回は聴取する。

 この海域では、気象図はアメリカコーストガード局が放送するものを受信する。船で観測した気象情報も、コーストガード局へ送信する。

 時差のため、船内時間は日本時間でもなくアメリカ西海岸時間でもなく、その経度の時間という中途半端なものとなる。このため、一定時間に送信される情報の受信を逃さないように常にUTCに注意を払っておかなければならない。ワッチの交代、食事時間などは船内時間で行われるが、気象図受信、一括呼び出しなどの無線局の業務はUTCで行われる。

 さらに、内地の無線局は日本時間で運用されているから、日本時間にも注意を払っている。

 無線設備としての時計は、短針が二本ある。一本はUTCを表し、もう一本はJST(Japanese Standard Time、日本標準時)を表している。時差は九時間であるが、船内時間によっては内地が昼なのか、夜なのか、当日なのか、翌日なのかに注意しなければならない。まったく紛らわしい。

 無線部はよくブリッジ(航海船橋)へ肩ふりに行く。肩ふりとは雑談をすることである。ワッチ中でも三〇分ほどの空き時間があるときは、ブリッジへ行ってコーヒーをご馳走になったりするのだ。

 ワッチは見張りとも言い、何もないときは見張りだけだ。ブリッジでは前を見て船がいないか確認する。無線は国際遭難周波数を聴いて、遭難信号がないか確認する。目と耳は使っているが、雑談は出来る。

 〇〇〇〇時~〇四〇〇ゼロヨンワッチにはセコンドオッサーとコーターマスターがいて、彼らと雑談をする。但しこの時も、国際遭難周波数五〇〇キロヘルツはブリッジにあるスピーカーで聴取する。受信機のスピーカーはブリッジにもあるのだ。これはブリッジの時計を、時報によって正確に修正するためである。この正確な時刻は、六分儀による天測で船の実測位置を求めるのに使われる。

 一六〇〇時、一回目のワッチが終わり自室へ戻る。

 一六三〇時から夕食を摂って、少し眠る。一九三〇時、目覚ましで起きて一九四五時、無線室へ入る。本日二回目の、二〇〇〇時~二四〇〇パーゼロワッチだ。

 時には無線室に、キャプテンやサロンなどワッチ以外の乗組員が肩ふりに来ることがある。コーヒーを淹れて歓迎する。但し、一括呼び出しの時は話を中断して、自船の呼び出し符号があるかどうか聴く。このタイミングで帰っていく人もいる。

 二回目のワッチが終わって、部員食堂でウィスキーを飲んでその日が終わる。これを繰り返す。土曜も日曜もない。だから曜日の感覚は無い。必要も無い。あるのは、その日の正午位置と入港予定日だ。海が時化るとそれに応じて船の速度が落ち、昨日の正午位置から今日の正午位置までの距離が短くなり、がっかりする。入港予定が遅れるからだ。


 冬の北太平洋は時化る。当初の予定より一日半遅れてロサンジェルスに到着した。直ぐにバンカー開始、プロペラを回す主機用C重油六〇〇トンと発電機を回す補機用A重油三〇トンを補給した。

 食料、免税品も積み込む。

 船員は、船内で消費する酒とタバコは免税で購入できる。

 沖でアンカーを入れているので、上陸は出来ない。


 ロサンジェルスからバルボアまで一〇日ほどかかる。

 太平洋横断が二週間で、カリフォルニアからパナマまでが一〇日とすると意外に長距離であると感じる。

 パナマ共和国。但しパナマ運河の両岸数マイルは運河地帯キャナルゾーンといってアメリカ合衆国の主権範囲である。運河通峡収入もアメリカのものだ。入港手続きも全くアメリカと変わりない。在日アメリカ大使館で発行されたビザを提出する。運河は二〇世紀末にはパナマに返還される予定だ。

 運河の通峡料金は本船の場合、往復で一,二〇〇万円ほどだ。それでも南米の南端を回る時間と燃料費からすれば格安となる。本船は燃料費が一日約三〇万円かかる。その他に給料、清水、食料・・・。なにより、船の運航時間が無駄になることが大きい。八時間から九時間で行けるところを南米大陸の南端を回るのだから気が遠くなる。

 バルボアでパイロットと、艉、艏の作業員が乗船した。

 パイロット、日本語では水先人といい、自分の所属する港や海峡、運河を熟知しており、入出港や通峡の時だけ操船の命令を発するのだ。但し、パイロットが指揮を執っている間でも、その船の最終的な全責任はキャプテンにある。パイロットがミスをした時などや必要な場合は、キャプテンはパイロットを排除して自ら操船指揮を執り事故を回避する義務がある。

 艉と艏の作業員は、運河の両岸にある機関車と本船をワイヤーで接続するなどの作業を行う。船は自船のエンジンも使用するが、四台の機関車で引かれたり止められたりして閘門こうもん内を移動する。

 パナマ運河の途中、太平洋側と大西洋側の間にガツン湖というダム湖がある。ガツン湖の水面は海抜二五メートル。船は海面から二五メートル持ち上げられてガツン湖を航行し、二五メートル下って海面の高さに戻る。

 海面と湖面の間を上下させるのが閘門と呼ばれる閉鎖式ドックである。閘門を閉めると船は密閉した箱に入ったようになる。その箱にガツン湖からの水を入れると水面が持ち上がり、船が持ち上がる。それを三回繰り返して二五メール上げるのだ。

 閘門があるために、パナマ運河を通峡出来る船は長さや幅に制限があって、デッドウェイト(載貨重量トン数)で七万トン程度である。この大きさの船をパナマックス型と呼ぶ。

 今から八時間ないし九時間、デッキでは細心の注意が必要な通狭作業が続く。

 エンジンも、閘門通過中はデッドスローアヘッド、ストップエンジン(機関停止)とデッドスローアスターン(微速後進)の繰り返しとなる。エンジンがパイロットの指示通り、サードオッサーのエンジンテレグラフの操作通りに動かないと、船体が閘門に衝突する。

 無線は、いつもの航海当直を維持する。

 途中、ガツン湖を航行中に、湖の水を雑用水として取り込んだ。海水ではなく真水だから、飲用以外の雑用水として洗濯や風呂の上がり湯に使用できる。


 夕方、クリストバルに入港した。ここでは中古車を一二〇台揚げる。今航の七港揚げの中では多い方だ。

 入港手続きはスムースに終わった。

 荷役は明朝〇六〇〇時開始とエージェントがアレンジしていた。

 エージェントから外貨を受け取り、乗組員へ配布する。今航の寄港地では全て米ドルが通用するとのことで、米ドルを借りてある。七港分、揚げ荷が少ないために上陸できない港もありそうだが、みんな数百ドルのバンスを借りている。米ドルはたとえ余っても回収せず、個人で保有して貰うことにしている。他の国の外貨と違って実用性が高いからだ。休暇後の次の船でも、米ドルは必ず必要になる。

 内地を出港してから二五日ぶりの(おか)だ。しかも、私には初めての国である。船乗りにとってワクワクする時間だ。前に来たことのある乗組員やエージェントから、注意事項は聞いている。どこで土産が買える、どこに飲み屋がある、どこは治安が悪い、などだ。

 停泊している岸壁の名前をしっかり頭に入れ、上陸許可証を携帯して、セーラーの宇治野、サードエンジャー、サロンと四人まとまって上陸する。男が四人なら多少治安が悪くても、まぁ大丈夫だろう。

 問題は英語が通じないことだ。なまじ、片言の英語がしゃべれると、英語の通じない国では不安になる。全く英語が出来ない人は、どこへ行っても同じで、不安は無いようだが。

 今航、カリブ海航路では、おそらく英語が通じるのはジャマイカだけだ。あとはスペイン語。

 横浜でスペイン語会話の入門書を一冊買って、航海中に挨拶の言葉などをまる覚えしたが、とても会話にはならない。文法を知らず単語も数十個しか知らないので、応用もきかない。

 四人で、バーへ行く事にした。買い物には誰も興味が無いようで、また大した店もなさそうだから。それに、帰りもロサンジェルスでバンカーとなるだろうから、船食屋から土産は買えるだろう。

 私は普段はビールを飲まないが、みんなに合わせてビールを頼む。水や氷は口にしない方が良いからだ。ウィスキーを割る水や氷で、腹をこわすわけにはいかない。船には、誰も自分の代わりはいないのだ。我々は観光客ではない。外地で病気をしたり、ケガをしてはならない。発展途上国では瓶詰めや缶詰のものか、加熱調理されたもの以外は口にしない。船員の常識だ。

「ウーノ・セルベッサ・ポール・ファボール(ビールを一本)」

 ビールの小さいボトルが出てきた。通じたようだ。横浜で買った本の成果だ。

「クアント?いくら?)」(

 指を一本立てた。一バルボアという意味か?

 米ドルを見せてもう一度訊く。

「クアント・ヴァーレ?」

 やはり指を一本立てて、言う。

「ワン・ダラー」

 外地ではほとんどどこでもキャッシュ・オン・デリバリー、一本貰ったらその分支払う。

 米ドルがそのまま使える。ビールが一本一ドル、二四〇円ほどだ。現地の物価からすれば結構な値段だと思うが、ここは外国船員向けの店であり、外国船員向けの値段だ。仕方がない。公定レートでは一バルボアが一米ドルということだが、米ドルの方を歓迎する雰囲気だ。

 カウンターでビールを飲んでいると、女が寄ってきた。いつのまにか、全員にひとりずつ女がついている。ビールを奢ってくれと言っているようだ。

 おそらくスペイン人と現地人との混血だろう。ラテン系の人間はおおらかで、血が混じることを気にしないらしい。

 こちらの女性は余り背が高くないのがうれしい。日本人女性と同じだ。但し、身長以外はかなり違う。ふっくらしているように思えるのは、胸と尻が大きいからだ。

 カウンターのテーブルに座っている我々に、胸を押しつけるようにしてビールをねだる。

 それぞれが相方に奢ってやる。

 会話は出来ない。彼女たちは、英語を片言も話せない。こちらは、スペイン語を片言も話せない。私は挨拶やいくつかの文章を丸覚えしたが、会話にはほど遠い。

「コーモ・セ・ジャーマ・ウステ?(名前は?)」

 私に付いた女はマリアだという。ありきたりの名前だが、覚えやすくていい。

「ウステ・エス・ウナ・ムチャーチャ・エルモーサ!(おまえは美しい!」)

 声を上げて笑う。うれしいようだ。私も通じることがうれしい。

「クゥアントス・アニョス・ティイネ・ウステ?(歳はいくつだ?)」

 隠すこともなく教えてくれるが、スペイン語の数字を理解できない。数字くらいはなんとか英語でやりとりする。二二歳だという。

「ヨ・ソイ・ウン・ハポネス・マリーノ、セグーンド・ルァーディオ・テレグラフィスタ(私は日本の船乗り、二等通信士だ。)」

 オフィサーだと言ってみるが、だからどうした、という感じだ。

「サーバ・ウステ・アブラール・イングレース?(英語は話せるか?)」

 答えはノーだ。

「ノー・アーブロ・イスパニオール(スペイン語は話せないんだ。)」

 たったこれだけでもスペイン語をしゃべってしまったから、話せるものだと思われてしまう。しかし、これ以上はセンテンスも単語も知らない。結局会話は行き詰まってしまう。

 甘酸っぱいようなにおいは、マリアの体臭だろうか。胸を押しつけながら誘ってくる。奥に部屋があるから行こうと言っているらしい。彼女らはバーのホステスではなく、売春婦のようだ。店は酒だけではなく部屋も提供するのか。

 スペイン語と英語の単語を駆使して訊いてみると、ショートタイム三〇ドル、部屋が七ドルだという。

 遊んでみた。ほんの遊びだ。女をかわいいとは思うが、二度と会うことはないだろう。男の欲望を満たしただけだ。妻を裏切ったと言うことにはならない。それほど大げさなことではない。

 もちろん誇れることではないが、卑しむほどの事でもないと思う。男としてやむを得ないときもある。

 恋も愛も無い。米ドルへの欲望と、女の体への欲望だけがあった。

 素人とつきあうよりよほど健全だ。ネルソン丸での敦子とのつきあいに比べれば、どうということもない。

 敦子の場合は、彼女に恋をした。愛もあった。妻に対する罪の意識もあった。

 今回の事は、暑いときに水を飲んだ、寒いときにセーターを着たような程度のことだ。

 陸の人間が東南アジアへ買春ツアーに行くのとは違う。彼らはそれが目的で出掛けて行くが、我々は仕事の途中でたまたま機会があっただけだ。

 陸の人間のように、外交問題を惹起するような下品なことは決してしない。船員は無冠の外交官であるとまで言ったら言い過ぎだろうが、外地で日本を貶めるようなことはしない。アパルトヘイトの厳しい南アフリカでも、準白人待遇を受ける程度の行動はしてきているのだ。


 翌朝〇六〇〇時より荷役が始まり、一〇時間かけて一二〇台の中古車を揚げた。オンデッキ(甲板の上)積みの車が無くなった。代わりにホールドから取り外したカーポンツーン(車を積層するための床板)がデッキに積み重ねられた。

 一六〇〇時クリストバル出港、次の揚地ジャマイカの首都キングストンへ向かう。


 カリブ海は雑音の多い海域である。短波を使用した長距離通信がつらい。テキサスやフロリダの商業海岸局や、アメリカ合衆国コーストガード所属無線局との通信を確立するのが困難だ。

 クリストバルを出港して三日目の夕方、キングストンに入港した。今航唯一の英語圏だ。治安が良いかどうか分からないが、英語が通じるので気が楽だ。

 荷役は明朝からで、今夜は停泊する。

 今回はサードオッサー、セーラーの吉野、オヤジさんの市川、それと上司の局長も一緒に上陸する。

 タラップを下りた。真っ暗だ。街灯などない。とりあえず明かりが見える方へ歩いていく。

 タクシーがいた。無理やり五人乗って、バーへ向かう。

 なにやら悪臭がする。これがキングストンのにおいなのか。街中が臭い。

 タクシーが止まった。局長が料金を払って、二時間後に迎えに来るように運転手に依頼した。タクシー運転手にとっては、日本の船乗りは金払いの良いお客のはずだ。間違いなく来るだろう。帰りの足は確保したと言っていい。

 バーに入った。先客はいない。少し不安になるが、五人いるからなんとかなるだろう。

 我々が入店したら、入り口の鉄格子が閉められ、鍵もかけられた。どういうことだ?

 店のマスターなのか只のバーテンダーなのか、が言うには、安全のためだという。我々の安全のために入り口をロックしたのか。それとも、我々を逃がさないためか。店とタクシー運転手がグルになってのぼったくりの可能性も考えるが、彼の雰囲気からしてそんなことはないようにも見える。

 全員ビールを頼む。小瓶だ。グラスは出ない。直接ボトルから飲んだ方が清潔だろう。全く冷えていない。しかたがない。金を出しても冷えたビールを飲めない国は、世界にいくらでもある。

 直ぐに二階から黒人の女たちが下りてきた。この店はどうやら酒だけでなく女も売るようだ。もしかするとこの店は外国人、それも船員専用の店かもしれない。彼の言うとおり、入り口の鉄格子を閉めたのは現地人を入れないためで、それは客単価の安い現地人を排除する目的だとすれば、多少割高でも安心できる。内地でも、地元の常連には安くして、よそ者の一見の船乗りとみると高く取る飲み屋はいくらでもある。

 なまぬるいビールを、それでも暑いから皆二本、三本と飲む。私は一本で充分だ。

 サードオッサーとオヤジさんが二階に上がっていった。彼女たちと仲良くして航海の疲れを癒すのだ。

 私の隣の女の子もしきりに誘ってくる。あまりかわいくない。それに太っている。肌の色は気にならないが、もう少しかわいければと思う。今回は遠慮しておこう。

「チャイナ?」

「ちがう」

「コレアン?」

「ちがう」

「ジャパン?」

「そうだ」

「あなたの友達が二階に行った。あなたも私と行こう」

「二階に何しに行ったのだ?」

 とぼけて訊いてみる。

「たのしいことだよ。とっても気持ちいいよ」

「私はそんなことはしたことがない。したいとも思わない」

 他に断る理由が思いつかなかった。

「チェリーボーイ?大丈夫、まかせておいて」

 チェリーボーイというのか。英語の勉強になった。覚えておこう。

「いや、やめておく」

 ビールを奢られただけでは彼女は商売にならない。だんだん機嫌が悪くなってきた。これ以上しつこく誘わないで二階に戻ってくれた方がいいと思うが、そばを離れない。他に客はいないし、可能性がゼロではないと思って離れないのだろう。

 オヤジさんは結婚していて、航海中の肩ふりで聞く話では、家族を愛している。外地で機会があったとき女を買っても、それは家族を思う気持ちとなんら矛盾するものではない。軽い息抜きだ。これで元気を出して、また航海するのだ。

 天井で扇風機が回っているが、暑い。座っているだけで汗が出てくる。ぬるいビールがそのまま汗になるようだ。

 サードオッサーとオヤジさんが二階から下りてきた。そろそろタクシーも迎えに来る頃だ。我々はマスターに鉄格子を開けるように言った。マスターは笑顔を見せながら解錠した。客の安全のために閉めたというのは本当だった。今、やっと一〇〇パーセント信じることができた。

 既に待っていたタクシーで、全員無事に船に戻った。

 翌日、〇六〇〇時より荷役、一三〇〇時キングストンを出港、船首はハイチの首都ポルトープランスを向いた。


 キングストン出港の翌日一一〇〇時、ポルトープランス入港。二二時間しか航海していない。実際に最大航海速力で航海したのは二〇時間もない。国内航路のようだ。

 しかし、紛れもなく国際航路、入港書類の確認をする。シールロッカー(免税品保管庫)は開けずに、キングストン入港時と同じ数量の酒、タバコで申告書を作成してある。

 クルーリストと携帯品リストは変更がないから、ロサンジェルス入港前に確認した申告書を元に、各国のフォームで作成してある。

 ナルコティック(医療用麻薬)リスト、武器弾薬リストは日本船の場合は常に『NIL』、つまり『無し』と記入するだけだ。

 チョッサーはカーゴマニフェスト(積荷目録)などを準備する。他には提示するだけの船舶国籍証書、安全無線電信証書、国際満載喫水線証書、前の港のクリアランスなどがある。

 税関にお土産を渡して、無事入港手続きが終わった。お土産を渡さないとへそを曲げられ、サーチ(船内捜索)などをやられると荷役に遅れが生じる可能性もある。

 お土産にも相場があるので、情報がある場合はそれを参考にする。相場以上に渡すと、次回からそれだけ要求される事になりかねない。相場が上がってしまう。

 ここでは四五台だけ揚げる。今日の二〇〇〇時出港予定で、入れ出し(停泊せずに入港日に出港する)ということになる。夜、飲みに行くことは出来ないので、局長に昼食の後上陸する許可を貰った。

 サードエンジャーとサロンも一緒に上陸する。外地で治安の悪いところや、悪いかどうか分からないところは複数で上陸する。事故や犯罪に巻き込まれる可能性を減らすためだ。

 サロンは夕食の用意があるので、一六〇〇時までに船に戻らなければならない。タラップを下りて、歩いていける範囲を見て回るだけになるだろう。

 岸壁にいるステベ(港湾労働者)に教えて貰った、木彫りを売っているマーケットに行くことにした。歩いて二〇分ほどだった。

 土産になるような珍しいものがあれば買っても良い、という程度の気持ちで見て回る。売り子が盛んに声をかけてくる。訊きもしないのに値段を言う。ここでも米ドルが使える。要らないと言うと値段を下げてくる。定価など無くて、交渉次第だ。

 まるで押し売りだ。全くしつこい。六〇ドルというものを、諦めて貰うために一五ドルでどうか、と言ってみる。さすがに悲しげな顔をする。しかし、演技かもしれない。とにかく、買う気はないので、それで解放してくれればと思うが四〇ドルでどうか、三五ドルでどうかと諦める気配がない。

 妥協するつもりはなく、一五ドルと言い返す。

 しかし、結局根負けした。二〇ドルで買うことになってしまった。高さが一二〇センチくらいある、パイプをくわえた男の人形だ。削りは荒っぽいが、まぁ、内地では手に入らないし、記念になるだろう。六〇ドルが二〇ドルだから、ぼられたことにはならない、かもしれない。

 船まで運んでくれるかと訊くと、近くの少年ふたりを指して、彼らが運ぶという。彼らは人形を持ち逃げすることなく、船まで持ってきてくれた。心配しすぎたようだ。しかし船乗りは観光客と違い、上陸したときは細心の注意を払うようにしている。物を取られるくらいはかまわないが、病気やケガをするわけにはいかないのだ。彼らにはチップを一ドルずつ渡した。

 今航最初の土産が出来た。ハイチの上陸はこれで終わった。

 二〇〇〇時ポルトープランスを出港した。明後日の朝、ドミニカのサントドミンゴ入港予定だ。揚げる台数は七〇台。上陸できないかもしれない。でも、あと一つか二つの港では上陸する機会があるだろう。


 船乗りは港、港に女がいて、という言葉があって、陸の人間はそれを信じてるようなところがあるが、クリストバルやキングストンのように酒も女もある港は少ない。逆に陸のサラリーマンの方が、いつでも好きなときに酒も飲めるし、女にも触れられる。

 我々船乗りは、火事になっても消防車が来ない、ケガをしても救急車が来ない、海賊に襲われても警察も保安庁も来ない、仕事が終わっても飲みにも行けない、きれいな女性を見ることもない環境で仕事をし、生活をしているのだ。

 何年かに一度はこのような航海があってもいい。そのときは、つまらない意味では妻を裏切ることもあるかもしれない。だが、あくまで妻は妻、最愛の妻である。決して本当の意味では妻を裏切ってはいない。

 何週間も船に閉じこめられていて、やっと酒が飲める店に行けた。たまたま女もいて触れることが出来た。それだけのことだ。

 現実的には、陸の人間ほどには船乗りは女性に縁がない。


 ひとみのキス

 あっという間に哲夫の三ヶ月の休暇が終わった。哲夫が船に乗ってまだ一週間しか経ってない。

 哲夫、どうしてるかな。乗船して直ぐ中南米航路だからって、船員保険病院というところへ行って黄熱病の予防注射を打って貰ってたけど、そんなに危ないところなのかな。あんまり不衛生な街なら、船から下りなければ良いのに。

 一日に何度もたまらなく寂しくなるときがある。仕事をしてないせいもあるかもしれない。暇な時間に、ぽっかり心に穴が空いたように感じる。哲夫がいなくて毎日が空しい。

 哲夫は船乗りで、一年に数ヶ月しか一緒にいられないというのは結婚する前から分かっていたけど、結婚して一緒に暮らしてみてこんなに寂しいとは・・・想像も出来なかった。

 この前の哲夫が乗船中も寂しかったけど、今回はもっと寂しい。前よりもっと哲夫を好きになったからかもしれない。一緒に暮らした分だけ、もっと好きになったんだ。

 子供が出来たらきっとかなり気が紛れるんだろうけど、今のところそんな兆候もない。毎日が寂しくて心が不安定な感じ。こんな時に誰かそばにいてくれれば、と思う。会って話をしたり、電話だけでも良いけど、だれか頼れる人が欲しい。

 哲夫ほど好きになれる人は現れないと思うけど、ちょっとだけ好意が持てて、信頼できる人が欲しい。かといって、昔の同級生とか仕事してた頃の同僚じゃなくて、新しく誰かに出逢いたい。

 浮気って事になるかもしれない。けど、哲夫がいない間だけのピンチヒッター。それでも許されないかな?確かに悪いことかもしれないけど、哲夫のいない寂しさを埋めるだけ。

 セックスが無ければ浮気にならないのかな?セックスが無くっても、好きって思ったらやっぱり浮気かな?

 だけど、セックスするというのはやっぱり好きだからよね。

 ぎりぎりのところでセックス無しに、食事したり、どこかへ行ったり、相談したり、そういう関係は作れないかな?好きだけど、セックスだけはしない。セックスだけは哲夫とだけ。都合が良すぎるとは思うけど。

 でも哲夫は私がそんなことしたら、やっぱり許さないだろうな。だけど、哲夫はこの寂しさをどうにもしてくれない。

 哲夫が毎日家に帰ってくれば、こんなこと考えるはずもないのに。私は寂しいだけなのよ。


 寂しいときは何かやって気を紛らわすしかないわね。今夜、哲夫が船に行ってしまってからはじめて、スナック銀の扉にアルバイトに来た。

 アルバイトというより、遊びに来たという感じかな。楽しければ言うこと無いけど、たとえ楽しいお客さんばっかりでなくても何かやっているということで時間が過ぎて、その間だけは哲夫がいない寂しさを忘れていられる。それが目的。別にお金が欲しいわけじゃない。

「いらっしゃいませ。おふたりさんですね。カウンターでいいですか?」

「あ、うん、いいよ」

「外、寒いでしょう。ボトル入ってるんですか?」

「うん。」

 あ、常連さんなんだ。

「なんというお名前ですか、ボトルは?」

「北島です」

「はい、ちょっとお待ちくださいね」

 あ、あった。これだわ。

「これですね。まだ半分以上残ってますね。水割りでいいですか?」

「うん、水割り」

「そちらの方も水割りでいいですか?」

「はい」

「はい、どうぞ」

「どうも」

「そちらの方、お名前は?」

「あ、渡部わたべです」

「北島さんと渡部さんですね。私は恵子です。よろしく。私ね、週に二、三回だけのアルバイトなので知らなかったんですけど、ボトルを入れてあるということは常連さんだったんですね」

「いや、今日が三回目。渡部は今日初めて連れてきたんだよ」

「あ、そうなんですか。ふたりは同じ会社ですか?」

「そうだよ。恵子ちゃんも飲む?」

「いいですか。すいません、いただきます」

 薄い水割りを作った。

「はーい、じゃ、すいません、いただきまーす。かんぱーい」

 北島さんと渡部さんがグラスを持って、私のグラスにカチンと合わせてくれた。

「どんなお仕事なんですか?」

「ソフトを作ってる会社」

「あ、プログラマーとかいうの?」

「そう、よく知ってるね」

「へー、難しそうなお仕事ですね」

「いや、そうでもないけど、忙しいね」

「渡部さんも同じ会社ですか?」

「はい。北島さんの部下です」

 北島さんは結構しゃべるけど、部下の渡部さんはどちらかといえば無口。上司が一緒だからかもしれないけど。

 渡部さんは私より年下かもしれない。笑うとちょっとかわいい感じ。北島さんは部下をかわいがるというタイプみたい。きっとあのふたり、平均的な上司と部下よりいい関係だわ。

 ふたりは二時間くらい飲んで、ボトルを四分の一くらい残して帰って行った。


 二回目に渡部さんに会ったのは三日後だった。

「いらっしゃい。渡部さんですよね?今日はひとりですか?」

「はい、ひとりです」

「えーと、北島さんのボトルでいいですね?」

「あ、いいえ。新しいのを入れてください」

「北島さんのがまだ残ってますよ」

「いいんです。一本入れてください。ホワイトホース」

「はい。水割りですね?」

「はい」

「どうぞ」

「良かったら恵子さんも飲んでください」

「あ、いただきます。すいません・・・じゃ、かんぱーい」

「・・・」

 渡部さんは何も言わないでグラスだけ持ち上げて、私のグラスに軽く当てた。

「今日はひとりですね。北島さんは忙しいの?」

「そうみたいです」

「渡部さんは手伝わなくていいんですか?」

「内容によって、手伝えることと手伝えないことがあるんです」

「あ、そうか。なるほどねー」

「今日、恵子さんがいて良かった」

「え、どうして?」

「この前来たとき、恵子さんはアルバイトで毎日じゃないって言ってたから」

「そうなんですよ。今日は金曜だから来たの。お客さん、多いから」

「金曜はいつも来るんですか?」

「いつもじゃないけど、来る方が多いわね」

「あとは?」

「月曜が定休日でしょ。あとは、一日か二日来るけど決まってない。その日の気分と、お客さんが多いときはママから電話があるの」

「ふーん。じゃ、金曜は多分いるけど、あとはいるかどうか分からないんだ」

「そうね。私を目当てに通ってくれるんですか?」

「うん。だけど、いつ通えばいいのか分からないよ」

「じゃ、来る前にお店に電話して訊いてください」

「恵子さんの電話は教えてくれないんですか?」

「うーん、いつかそのうちね」

「冷たいなぁー、せっかくボトル入れたのに」

「どうして北島さんのを飲まないんですか?怒られちゃう?」

「北島さんのボトルを飲みに来たんじゃなくて、恵子さんの店に飲みに来たんだよ」

「あら、うまいこと言うのね。」

 でも、たいがいはボトル一本飲んだら終わりよね。


 次の金曜も渡部さんはひとりで来た。

「渡部さん、いらっしゃい」

「うん、また来た」

「渡部さんが来ると思って私もお店に出たのよ」

「本当?」

「本当よ。信じないの?」

「信じる」

「渡部さんて素直ね」

「まだ若くて、汚れを知らないから」

「あはははは・・・渡部さん、冗談言う人だったんだ」

「冗談じゃなくて、本当。信じないんですか?」

「あははは・・・信じるわよ」

「そんなにおかしい?」

「うん、おもしろい。渡部さん、若いからっていって、いくつなの?」

「二六」

「ふーん。本当に若いのね」

「恵子さんは?」

「本当の歳を言うの?」

「もちろん」

「二八。二つ年上だわ」

「えー、そうは見えないけどなぁー」

「同じくらいと思ってた?」

「年下だと思ってた」

「ありがとう」

「そうなんだぁ」

「年上でがっかりした?」

「全然。かわいいから」

 今日も来てくれた。渡部さんは私に興味があるのかな?


 また、次の金曜日も渡部さんが来た。

「いらっしゃい。金曜日の皆勤賞ね」

「金曜が、一番恵子さんがいる可能性が高いから」

「私もね、渡部さんが来ると思って金曜日休みにくくなったわ」

「無理して来てる?」

「そうじゃなくて、せっかく来てくれるかもしれないと思うと、ね」

「今日はボトルが空きそうだね」

「また入れてくれる?」

「うん、今入れてもいいよ」

「ううん、空いてからでいいわ。毎週来て大丈夫なの?」

「え?俺の健康を心配してくれてる?」

「あははは・・・違うわよ。お金あるの?」

「なんだ、そうか。週に一回くらい大丈夫だよ」

「他の店には行かないの?」

「うん、ここに来るようになってから行かなくなった」

「どうして?」

「恵子ちゃんほどかわいい人は他の店にはいないから」

「あははは・・・渡部さん、上手ね」

「ねぇ、今度店が終わってから飯食いに行こうか」

「私ねぇ、ほとんど閉店まではいないのよ」

「アルバイトだから?」

「そう。一〇時とか一一時くらいで帰るの」

「じゃ、ますます都合がいいんだけど」

「そう?そうねぇ、じゃ、今度考えておきます」

「冷たいなぁ」

 渡部さん、それほどハンサムじゃないけど真面目なタイプみたい。ちゃんとつき合うにはいい人だと思うけど、私は結婚してるからちゃんとはつき合えない。

 きっと渡部さんは私が独身だと思ってるだろうな。でも、渡部さんは独身かしら。そういえばまだ聞いてないな。

 うーん。いい人なんだけど、夢中になられても困るのよね。絶対に、私、家庭は壊したくないから。そこを分かってくれる人なら、第一関門突破だけど。

 そうは言っても、実は私もそこまで思いきれるかどうかわからない。この前だって、野村さんとドライブまでしたけど結局何もなくて帰ってきて、内心ホッとしたくらいだから。

 私って、頭では悪いことを考えるけど、実際には悪いことは出来ない人かも。ということは、良い奥さんって事かな。

 渡部さんがいつまで通ってくれるか、これから渡部さんとどうなるか、少しだけドキドキする楽しみということにしておこう。


 次の金曜日も渡部さんは来た。私も店に出て良かったと思った。

「渡部さん、いつも来てくれてありがとうね。無理しないでね」

「無理してでも、恵子ちゃんには会いに来たいよ」

「またまた、うまいんだから」

「一回くらいは飯に行きたいからさ」

「ねぇ、渡部さんて独身?」

「もちろん。恵子ちゃんは子供が三人くらいいる?」

「あ、ひどーい。そんなふうに見えるのね。もう、ご飯なんかつき合ってあげない」

「ははは・・・冗談に決まってるでしょ。せいぜい子供はふたりくらいかな?」

「あのねー、もういいってば」

「恵子ちゃんも独身だよね?」

「えー、どうしよう。困ったなぁ」

「困るってことは結婚してるってこと?」

「そうかも」

「えー、そうなんだ。ふーん、そう!」

「がっかりした?」

「というか、こういう店で正直に言うのも珍しいね」

「なんだか渡部さんには嘘つきにくくて」

「結婚しててもいいから、飯行こうって言ったらどうする?」

「言われてから考える」

「だから、言ってるじゃない。行こうよ」

「そうね。あんまり遅くならなければ・・・」

「家で待ってる人がいるから?」

「そんなことはあんまり訊かないでね」

「うん。今日は大丈夫?」

「そうねぇ・・・私、一一時にお店を出るようにするからどこかで待っててくれる?」

「うん。ワシントンホテルの向かい側に喫茶店があるのを知ってる?」

「知ってるわよ」

「そこで待ってる」


「お待たせ。時間もったいないから出ましょう」

「オーケー。じゃ、何食べたい?」

「遅いから軽い物がいいわ」

「寿司は?」

「お寿司は高いでしょう。ほら、あそこにあるイタリアンレストランは?」

「いいよ、行こう」

 渡部さんはアサリの入ったスパゲッティーを、私は酸味の効いたトマトソースのスパゲッティーを頼んだ。

「寿司が高いからってこんなとこに来て、恵子ちゃんって不思議な人だね」

「どういうこと?」

「飲み屋の女の子じゃないみたいだ」

「どうだ、ますます気に入った?あははは・・・」

「うん、そう、そう。ますます気に入った。独身だったらもっと良かったんだけど」

「今は独身みたいなものだけど。だけど、やっぱり違うか」

「え?どういうこと?」

「夫は単身赴任みたいなものなのよ」

「ふーん。じゃ、普段はいないんだ。毎週帰ってくる?」

「たまにしか帰ってこない」

「今日も明日もいないんだ?」

「うん、いない」

「チャンス?」

「何のチャンス?」

「いろいろ」

「ダメよ」

「寂しくない?」

「そりゃ寂しいわ」

「旦那は浮気してないのかな?」

「いじわるね。渡部さん、そんな人だと思わなかった」

「恵子ちゃんを口説きたくてさ」

「そろそろ帰らないと。ごちそうさま」

「また、店に行くよ。金曜日」


 次の金曜日、店に着くなりママの幸恵に冷やかされた。

「きっと今日も渡部さんが来るわよ。恵子ちゃんが目当てで」

「そうかな?」

「恵子ちゃんだって、この頃金曜日は必ずお店に出てくれてるでしょ。渡部さんが来るからじゃないの?」

「だって、金曜はいつも忙しいでしょ」

「まぁ、そりゃそうだけどさ。とにかくうまくやってね。どうするにしろ、私はもちろん干渉しないし、秘密は守るからさ」

 幸恵は私の友達で、私が結婚していることも知ってる。こんな商売の常識というものもわきまえてるから、何かあっても幸恵から夫にばれる心配はない。店のお客さんが欲しいから、うまくやってね、と言ってるのでないことも分かってる。

 渡部さんが来た。

 私と目が合ったあとの笑顔が、先週までよりもっと笑っている感じがする。この前ご飯に行って、親しみを感じてくれてるのかもしれない。それとも、私とご飯を一緒に食べることが出来たという余裕が現れているのかな?

「いらっしゃい」

「また来ちゃったよ」

「うん、どんどん来て。あははは・・・」

「その明るい笑い方、いいなぁ」

「はい、どうぞ、水割り」

「恵子ちゃんも飲んで」

「戴きます」

「ねぇ、今度映画見に行こう」

「土曜か日曜の昼間?」

「うん。明日でも明後日でもいいんだけど」

「何かおもしろいのやってる?」

「どうだろう?」

「え、知らないの?」

「実は、一度昼間に会いたくて。映画でも遊園地でもなんでもいいんだよ」

「そういうこと。そうねぇ、映画くらいはいいか。日曜日にする?今日は飲んでるから、明日はゆっくり寝ていたいでしょう」

「早くデートしたいけど、日曜でもオッケーだよ。おっしゃ、やったー」

「そんなに張り切って飲まなくてもいいのに」

「うれしくてさ」


 約束の日曜日、午後三時から始まる映画に合わせて喫茶店で落ち合った。

「恵子ちゃん、すごくかわいいね。夜より、昼間の方がきれいだ」

「えー、本当?あんまりはっきり見えたらやだなー」

「どうして?こんなに色が白いって知らなかったよ。店は暗いからね」

「ずいぶん褒めるのね」

「本当だよ。びっくりした。恵子ちゃんは絶対明るい光の下で見た方がきれいだ」

 映画はホラー映画だった。もちろん恐いシーンでも渡部さんに抱きついたりはしない。そんな間柄ではないし、そんなことで渡部さんとの関係を少しでも親密にするのもみえみえで嫌だった。

 映画のあと、夕食に誘われた。映画館で紳士的だった渡部さんに敬意を表して、夕食を一緒にすることにした。

 まだ早かったので、しばらくデパートのウィンドーショッピングにつきあって貰ってから、独身の渡部さんが時々夕食のために行くという小料理屋さんに行った。

「恵子ちゃん、楽しかったよ、今日は」

「私も久しぶりに恐い映画見て、楽しかったわ」

「俺、映画じゃなくて、恵子ちゃんとデートできたから楽しかったんだけど」

「あははは・・・、映画もおもしろかったでしょ」

「うん」

「渡部さんはホラー映画好き?」

「うん、好きだよ。恵子ちゃんがしがみついてくるかと期待してたんだけどね」

「残念でした。でも、本当は恐くて、しがみつきたかった時もあったのよ」

「じゃ、遠慮しなくても良かったのに」

「えー、だって、わざとらしいと思われたくなかったし」

「それなら、俺がしがみつけば良かったかな」

「バカ」

「手ぐらい握りたかったよ」

「我慢してたの?」

「そうとも言えるし、勇気が無いとも言える。というか、嫌われたくないってのが一番かな」

「嫌うと思った?」

「分からないよ。嫌う?」

「分からないわ」

「微妙だね」

「そうよ。揺れてるの。渡部さんはとってもいい人だし、好きだけど・・・、私、結婚してるから」

「そうか。そうなんだよな。恵子ちゃんが結婚してなければなぁー」

「私ね、結婚してることは私にはいいことだと思ってる。彼のこと、好きだから。ただ、一緒にいられる時間が少ないことだけが残念なの。それで、寂しくなって、渡部さんとデートしたり・・・。本当は悪いことだと思うけど」

「そうか、うまく行ってるんだ。ただ、出張というか、単身赴任みたいになってるだけで」

「うまくは行ってるのよ。電話も来るし、手紙も来るし、帰ってくるときはお土産いっぱい買ってきてくれるの」

「だけど、そばにいない」

「そう。仕事だから仕方ないけど」

「仕方ないけど、寂しいんだね。そこにつけ込みたいよ」

「あははは・・・つけ込みたいって自分で言っちゃダメでしょう」

「つけ込めなくても、銀の扉には通うだろうな。顔を見て話が出来るだけでもいいよ。かわいいから」

 ふたりともお腹いっぱいになって、ほろ酔い気分でその店を出たのは八時過ぎだった。

「恵子ちゃん、帰り道はこっち?」

「うん」

「じゃ、途中まで一緒に歩こう」

 あっ!渡部さんが私の左手を取った。

 どうしよう。手を引こうか。手ぐらいいいか。どうしよう。迷っている内に手を引くタイミングを無くしたみたい。

 最初は軽く握っていたのに、少ししたら握る力が強くなった。ふたりとも何もしゃべらない。

 人通りが途切れたと思ったら、突然渡部さんが抱きしめてキスしてきた。強い力では無かったけど、突然で逆らえなかった。ほんの一瞬、くちびるとくちびるが合わさった。

 びっくりしている間に、優しく腕の中に閉じこめられて、優しくキスを盗られてしまったという感じ。

 哲夫以外の人とキスをしてしまった。勝手にキスを盗られたのが悔しかった。

「もう一度やろうと思っても出来ないと思う。思い切ってがんばったんだよ。嫌われたら嫌われたでしょうがない、諦めようと思った」

 自然なことかもしれない。私を気に入ってくれてお店に通ってくれて、デートにもつきあったり食事をしたら、いつかこうなるのは自然な事かもしれない。私がお店以外で会わないようにしていれば、こんなことは無かったはず。悪いのは渡部さんだけじゃない。

「また、金曜日店に行くよ」

「うん、待ってる」

 とりあえずそう答えた。金曜日店に出るかどうかは私次第だから、金曜日までに考えればいい。


 きっと渡部さんは毎週金曜日に銀の扉に通ってくる。私も今まで通りに金曜日に店に出れば、渡部さんとの仲が進んでいくかもしれない。

 今もこれからも哲夫が一番なのは間違いないし、渡部さんを好きになっても家庭を壊さない自信はある。だけど、裏切りよね。

 キスしただけでもう裏切りかな。そうかもしれない。そうでないかもしれない。哲夫が何ヶ月もいない間の、ほんのちょっとした遊び。寂しさを紛らわせる遊びかもしれない。

 哲夫も遊んでるかもしれない。遊んでないかもしれない。哲夫が遊んでいるから私も遊ぶというのじゃなくて、私は私で自分を納得させたい。他の男の人と仲良くなるにしろ、ならないにしろ、自分で決めて納得できる行動をしたい。

 本気になるわけじゃない。寂しさを埋めるだけ。それがいけないことなのかな?どうしていけないのかな?

 せっかく私を好きになってくれた人がいて、私もその人を好きになりそうなのに、どうして好きになってはいけないのだろう。哲夫が知ったら許さないから?私は哲夫を失うから?

 哲夫と渡部さんを比べたら、もちろん哲夫の方がずっと好き。そしたら、哲夫を失わないためには、渡部さんを諦めるしかないということ?

 哲夫に知られなければいいというのはずるいわよね。何もずるいことしなくて、やましい気持ちが無くて、哲夫が帰ってきたとき哲夫の胸に飛び込むにはやっぱり誰も好きになってはいけないのよ。

 哲夫、ごめんね。キスだけしちゃった。だけど、それだけよ。

 しばらく金曜日は店に行かない事にしよう。


 2/2へ続く

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