第3章 孤独の果て
死体は脳で息をする。中身のない空っぽの器官は、呼吸をするのにちょうどいい。空虚な肺はただの飾りだ。二酸化炭素がぐるぐる回り、中毒症状を引き起こす。夢を見るにはちょうどいい。
死体に感情は存在しない。喜びも悲しみも痛みも、意思すらも持ち合わせてはいない。それらを心と呼ぶとしたら、自分の中から取り出して、彼女にまるごと預けてしまった。代わりにあるのは、腐敗した模造海のように醜い液体だけだ。生も死も一つに合わさった、ただの汚い水溜まり。心臓を飲み込んで締め付けて、雁字搦めに縛られる。
――ああ、
これは、呪いだ。
*
「雪人」
温かな日差しと共に、甘ったるい声がまどろみの中に入ってくる。夢と現実の区別すらできない愚かな瞳は、長い睫毛を二、三度震わせて、目の前にいる女を視界に入れた。
「おはよう、ございます」
そう言う彼女は少し他人行儀で、遠慮がちで、だが酷く優しい微笑みを浮かべて、ベッドの傍に立っている。
この女は、誰だったっけ。寝ぼけ眼で彼女を見つめ、しばしの間考える。ああ、そうだ。数秒ほど見つめたのち、ようやく記憶が整理される。
水瀬結菜は、もうひとりの僕だ。
「……コーヒーのにおいがする」
水分を含んでいない喉から、がらがらと乾燥した声が出た。朝の光から逃げるように、雪人は腕で両目を覆った。嗅覚を刺激する苦い香りが、リビングから雪人を誘っている。もう少しだけ、夢の世界に逃げ込んでいたい。なんだかとても幸せな夢を見ていたような気がする。夢というものはいつだって残酷だ。一度目覚めてしまったら、もう思い出すことすら許されない。ぱちん、と些細な音を奏でて弾けるしゃぼん玉のように、美しく、そして儚い。
「朝ご飯、もうできてるの」
慈しむように雪人の髪を撫でた後、結菜は寝室から出て行った。
「だから、早く起きて」
雪人はベッドの誘惑を振り払って、気だるく上半身を起こした。両腕を上げて伸びをすると、同時に大きなあくびが出た。スロー再生のような速度でベッドから下り、洗面台に行き顔を洗った。冬の冷たい水を浴びると、必要以上に目が覚めた。おかしな方向へはねた髪を撫で付けながらリビングへ行くと、テーブルの上には目玉焼きとトーストとコーヒーがふたり分並べられていた。
「結菜は朝強いよね……眠くないの?」
「そう、かな。雪人よりは眠くないかも」
ふふ、とおかしげに笑って、結菜はコーヒーにミルクをたっぷりと注いだ。雪人はトーストを齧りながら、彼女の笑顔をぼんやりと眺めた。寝間着姿の雪人とは対照的に、結菜は頭の先からつま先まで、出掛ける準備が整っている。遠くの方で、洗濯機が低い唸り声を上げていた。毎朝5時に目覚ましをセットしているらしいが、雪人の耳に届いたことは一度もない。
何気なくテレビのスイッチをつけると、ちょうどお天気キャスターが今朝の天気を占っているところだった。本日も全国的にとても寒くなります。ぱらぱらと雪が降る可能性もあるので、折りたたみ傘を持って行ってくださいね。防寒対策をしっかりして出掛けましょう。
「……地球って温暖化してるんじゃなかったっけ」
ぽつりと呟くと、結菜は難しい顔をして首を傾げた。
「嘘って噂もあるけど、どうなんだろう」
「じゃあ本当は寒冷化だったりして」
「確かに、今年は去年より寒いかも。風邪ひかないように気を付けないと」
「結菜が風邪になったら、僕が看病してあげるから大丈夫」
冗談まじりにそう言うと、結菜はぷっと吹き出した。
「お粥も作れないくせに」
「作れるよ。その時になったら勉強する。努力家なんだよ、僕は」
「じゃあ期待してるね」
ふたりの時間は緩やかに過ぎる。この部屋には痛みも苦しみも存在しない。トーストを全て胃におさめ、雪人は今日の新聞を開いた。
毎朝こうしてコーヒーを飲みながら新聞を読むのが、雪人の日課になっていた。小さな幸福も大きな悲劇も、同じ紙の上に記されている。この世にある無数の事件からピックアップされた、選りすぐりの幸福と悲劇。目当ての記事がないことを祈りながら、今日も雪人は新聞を捲る。こうして日々確認しないと安心しないのだ。監視し、探し、見つからないことに安堵して、ようやく雪人の1日は始まる。そうしないと、始まらない。
新聞を捲っていくと、一つの小さな記事が雪人の目を引いた。
『女子高生、謎の失踪から1週間』
そんな見出しと共に記載されている少女の顔写真。テレビのニュースでも連日報道されている少女の名前は、雨生あやめといった。
『警察は、連続殺人事件との関連も視野に入れ捜査を進めている』
記事には、ついこの間ニュースで聞いたこととほぼ同じ内容が書かれていた。なんてことはない、些細なニュース。些細な悲劇。
「そろそろ行かなくちゃ」
食器を片付け終えた結菜が、慌てた様子でコートを羽織った。雪人は新聞をテーブルに置き、玄関まで足を進めた。
「いってらっしゃい」
小さな体を抱き寄せて、額に軽くキスをする。結菜はほんのり頬を赤く染め、嬉しそうに笑った。
「いってきます」
扉が開き、冷たい風が流れ込む。外の世界に吸い込まれていく結菜を見送って、雪人はリビングへと引き返した。
たとえあやめが消えたとしても、雪人の日常は不自然なほど自然だ。水面に波紋が広がってもすぐに元に戻るように、偽りの静けさで満たされている。
雪人の日常は規則的だ。起床し、結菜と朝食を共にする。結菜を仕事に送り出す。ベランダの花に水をやる。洗濯物を干す。新聞を読み終わったら、ひたすら外を眺める。クラッシックを聞きながら読書に耽る。気が向いたらテレビを見る。昼食は結菜が用意してくれている。決められたメニューを食べ、食器を洗う。夜になったら、帰ってきた結菜に「おかえり」を言う。両腕を広げて抱き締めて、唇に軽くキスをしてやる。そうすれば、世界は平穏を保っていられる。
「そんなのおかしいよ、お兄ちゃん」
だがあやめはそれを許してはくれない。
「何であの人のためにそこまでするの? あの人はお兄ちゃんを支配したいだけだよ」
ソファーに腰掛けている雪人に近寄り、あやめの亡霊は声を荒げる。あやめはいつだってそうだ。正しいことしか言ってこない。
「じゃあ考えてもみなよ。生きる道も将来も全部自分で決めなければいけないことがどれだけ自分の負担になるのか。結菜は僕の意思なんだ。結菜といれば何も考えなくていいんだ。こんなに楽なことはないよ」
どれだけ訴えても、あやめは理解してくれない。口元に不満を表して、強気な眼差しを向けるだけだ。彼女は、親しくなりすぎた。
あやめの失踪を知ったのは数日前のことだった。アナウンサーが告げるありふれた悲劇の中に、突然あやめが登場したのだ。女子高生の失踪などよくある話で、普通ならばわざわざニュースにするほどでもないだろう。年頃の少女なら家出の可能性だって大いにあるはずだ。それにもかかわらずマスコミが放っておかないのは、近頃世間を賑わせている連続殺人事件のせいだろう。
被害者はみな女性で、首を絞められて殺されている。この半年間はぴたりと犯行がやんでいる上、行方不明者なんて星の数ほどいるのだが、マスコミはどうしても連続殺人事件に絡めたいらしい。その方が面白いからだろうか。それとも連続殺人事件に関与していることにした方が、人々の目を引いて情報が集まりやすいからか。どちらにせよ、真偽は定かではない。
兄妹の契りを交わしたあやめの失踪は、雪人の世界にほんの少しだけヒビを入れた。
あやめと出会ったのはもう10年以上も前になる。あやめは雪人の妹になることを望み、雪人もそれに応えた。小指と小指をクロスさせて縛り付けた約束は、何年も心臓を締め付ける。施設を出た後も、彼女はしつこいほどに雪人と連絡を取った。雪人を気遣い、雪人に寄り添い、雪人に依存し、明るい笑顔を向けてくれるあやめ。かわいいかわいい、偽りの妹。
雪人の世界からあやめが消えた。それは予定調和のように自然で、計画的なことだった。あやめが消えた世界は、ふたりで生きるには少し広すぎた。だがそれも一時のことなのだろう。時が経てば、この違和感も消えるのだろう。結菜に対する不信も、また。
結菜からは夜のにおいがした。煙草と香水の入り混じった大人の香りだ。あやめの失踪を知っても、結菜は何も言わなかった。まるで初めからあやめの存在など知らなかったかのように、彼女は徹底的に口を閉ざした。雪人もまた、あやめの名を口に出すことはしなかった。
言葉にしたら、関係が壊れてしまいそうな気がした。雪人はそれを何よりも恐れている。
「ふたり」の生活はガラス細工のように脆く弱い。あと少しだけ強い風が吹けば、途端にバランスを失い傾いてしまう。だから何も知らぬふりをして、上辺だけの恋人的会話を繰り返す。たとえ結菜があやめの死に関わっていたとしても、雪人にはどうすることもできない。また、しようとも思わない。彼女の首輪に繋がれることを望んだ。手錠を掛けられることを望んだ。自分の居場所はもう、ここしかないのだ。
テーブルに置いていた携帯が鳴った。洗濯物を干す手をとめて、雪人はリビングへと戻った。結菜が忘れ物でもしたのだろうか。そう思いながら携帯をつかむ。通話ボタンを押そうとした雪人は、画面に表示されている名前を見て動きをとめた。
『雨生あやめ』
消えたはずの妹の名前が、目の前でちかちかと点滅している。助けを求めるように、音は次第に強くなる。
風が吹く。ありったけの絶望を乗せて、雪人の髪を揺らしていく。
着信音は鳴り止まない。
*
人の価値はどのように決まるのだろう。
幼い頃から繰り返し生じる疑問の答えを、雪人はまだ見つけていない。出生? 歩んできた人生? 稼いだ金? 助けた人の数?
「自分の価値ってさ、自分で決めるものじゃなくて、他人に見つけてもらうものなのかもな」
屋上のフェンスに手を添えながら、安達健次はぼんやりと言った。
高校の屋上から見える街並みは、模型のようにわざとらしく、異常なほど複雑に入り組んでいる。ここから見下ろすだけでも数え切れないほどの人が動いているのに、まだこの世界には何千何万何億もの人間がいて、それぞれがそれぞれの意思を持ちそれぞれの人生を歩んでいるのかと考えると、脳味噌に配置されている回線がパンクしそうになった。
「そういう考え方ができるの、羨ましいな」
「お前は繊細すぎるんだよ、雪人。考える必要のないことまで考えるからだめなんだ。もっと楽しく生きようぜ」
「そんなこと、できない」
苛立ちを手に込めると、フェンスの網目がぎし、と軋んだ。
「だって僕は」
「雪人」
その先にある言葉を遮るように、安達が強く名前を呼んだ。
「お前は何も悪くない」
雪人の肩に手を置いて、言い聞かせるように繰り返す。
「悪くないんだ、雪人」
その言葉を、その台詞を、もう何度聞いたか知れない。ただはっきりと分かるのは、自分は彼の言葉に救われているということだけだった。雪人にとって安達は、この世界でただひとりの理解者だったのだ。彼さえいれば、自分は絶望せずに生きていける。そう思っていた。高校1年の春、まだ真実を知らぬ時のことである。
十数年前、初夏。何の悲劇も知らない安穏とした小さな町に、一つの悲鳴が響き渡った。パトカーと救急車のサイレンが入り混じり、夜の町をけたたましく鳴らしていく。
その日、一つの命が天へと消えた。死者の名前は望月沙耶。美しく愛らしいと評判の女だった。そしてひとりの男が殺人容疑で逮捕された。彼の名前は望月麻人。愛妻家と評判の、沙耶の夫だった。夫婦間で何らかのトラブルが発生し、麻人が衝動的に沙耶を階段から突き落としたのだと、ニュースは伝えた。後には9歳の息子だけが残った。
息子の名前は望月雪人といった。母を殺されたかわいそうな遺児。妻を殺した、犯罪者の息子。
人間の体は実にうまく作られている。生まれつき心臓の弱かった雪人は、事件の直後に発作を起こし倒れた。弱い心が壊れぬように、防衛本能が働いたのだろう。目が覚めた時、家族の記憶は雪人の頭から綺麗さっぱり抜け落ちていた。
数週間の入院を経て、雪人は春風園へと預けられた。父方の両親はまだしも、沙耶の家族も雪人を引き取ることを躊躇したのだ。愛する娘の形見である雪人は、同時に娘を殺した憎き男の息子でもあった。
雪人君のお父さんとお母さんはね、事故で天国に逝っちゃったの。
周囲の大人達は、雪人に優しい嘘を与えた。春風園へ入ると共に雪人を転校させ、情報を全て遮断した。幼い心を守るため、偽りの平和を選んだのだ。だが冷酷な世界はそれを許してはくれない。真実は蜘蛛の巣の間をするりと抜け、蛇のようにじりじりと這ってくる。口から耳へ、耳から口へ。ねずみ算式に噂は広がる。そして大抵それは、よくない方へ転がるのだ。
新しい小学校へと移った雪人は、欠けた記憶に不安を残しながらも、与えられた平穏に甘んじて過ごした。幼い頃からもてはやされた容姿は、友達を作るのに役立った。だが、そんな日々は1ヶ月も経たずに崩れ去った。
「雪人君のお父さん、人殺しなんだって」
どれだけ耳を塞いでも、それは否応なく雪人の耳に入ってきた。
犯罪者の息子。そのレッテルだけが肥大して、勝手にひとり歩きを始めた。被害者の息子ではなく、犯罪者の息子。友人がひとり、またひとりと雪人の傍から離れていく。
そんなの嘘だと主張するには、雪人の記憶はあまりにも頼りなかった。友人や祖父母のことは覚えているのに、両親の記憶だけがまるで誰かに切り取られたかのようになくなっているのだ。どれだけ思い出そうとしても、ふたりの顔にはモザイクがかかる。春風園の大人達に尋ねても、曖昧に言葉を濁すだけで、教えてくれる者はいなかった。
真実を確かめるには、自分で調べるしかない。幸い学校の図書館にあるパソコンは、誰でも使えるようになっていた。インターネットは簡単だ。たった2ヶ月前の事件など、両親の名前を入力するだけですぐに調べることができる。
否定したかったのだ。自分が罪人の息子であることを。根拠のない噂など信じるに値しないと、そう思いたかったのだ。だが現実はどこまでも残酷で、いくら優しい嘘で包んでも、更なる絶望がそれを覆う。
父は母を殺した。それは紛れもない真実だった。
――痛みはね、痛い瞬間が過ぎれば大したことないの。
真実を知った雪人を、叶麻紀はそう言って抱き締めた。彼女の腕の中は温かく、その瞳から流れる涙さえも、雪人への情に溢れていた。
でもね、麻紀先生。痛みが消えない場合はどうすればいいの。
血は争えない、と人は言う。人殺しの血と、彼に殺された女の血。量は半分だとしても、雪人自身の性別が男であるなら、人殺しの血の方が濃いのではないか。そんな屁理屈を言う大人もいた。最初はおそらく、誰かの親が言い出したのだろう。人殺しの息子と同じ学校になんて通わせられない。絶対に近付いてはいけない。仲良くしてはいけない。たとえどんなに容姿が美しくても、流れている血は醜いのだ、と。幼い子供にとって、親の命令は絶対だ。正しいことも間違ったことも、全部吸収して真似をする。
学校中の誰もが雪人を遠ざけ、恐れた。教室でも、雪人はいない者のように扱われた。教師までもが、腫れ物のように雪人に接した。こうして雪人は「ひとり」になった。
誰とも会話することなく学校を終え、春風園へと帰る。笑顔で迎えてくれる麻紀に応える気力はなかった。痛みも悲しみも、記憶のない自分にはよく分からなかった。一体何が不満なのか。両親の記憶がないことが辛いのか。母が死んだことが悲しいのか。それとも父が母を殺したことか。人殺しの息子であることが悔しいのか。何もかも曖昧なまま、ただ時だけが過ぎていった。
時が流れるうちに、恐怖は侮蔑に変わっていった。それは季節が移り変わることのように自然で、すぐには気付かないほど緩やかで、当たり前のことだった。いじめと名付けてしまえば、それは途端に子供の遊技に姿を変えてしまうだろう。だがそれはいじめほど無邪気でも稚拙でもなく、大人によって培養された嫌悪が不本意にも増幅し、表面に浮き出た結果だった。
その綺麗な顔が気に入らないと、ある者は言った。何をされても涙を見せない。怒りもしない。人形のような美しさが歪むことはない。それが無性に腹立たしいと。
顔を殴られた。教科書を破られた。靴を捨てられた。列挙するのが不可能なほど、ありとあらゆる行為を受けた。辛いという感情は捨てた。雪人には抵抗する理由がなかった。自分は被害者ではなく加害者なのだから。心を遠くに追いやってしまえば、痛い時間はすぐに過ぎ去る。
これは罰だ。父の罪は息子である自分にものし掛かっているのだ。だからこれは、仕方のないことなのだ。
人の価値はどのように決まるのだろう。出生か、歩んできた人生か。稼いだ金か、はたまた助けた人の数なのか。おそらくそれを最初に決定するのは血だ。どの親から生まれたか。どういう血が流れているのか。それがきっと、始まりなのだ。この白い皮膚の下に流れている血こそが、雪人の価値であり呪いなのだ。
呪いは日に日に強くなる。成長するにつれて、あの男の血が濃くなっていく。反比例するように生きる希望はすり減って、朝起きることさえも面倒に思えた。何故、今となっては顔も思い出せない男のせいでこれほどまでに苦しまなければならないのか。とっくに捨てたはずの不満が、再び脳を支配する。最後に笑ったのはいつだったか。最後に泣いたのはいつだったか。何も思い出せない。思い出す気力もない。生きていく意味もなければ、死んで終わりにする勇気もない。
あやめと出会ったのはそんな時だった。
彼女もまた全身に棘を纏って、近付く者全てを拒絶していた。小さな体に似つかわしくない鋭い目つきは、凍りそうなほど冷たく、弱かった。あやめも雪人と同じ「ひとり」だったのだ。同じだから、ごく自然に惹かれ合った。隣にいれば心が安らいだ。反発するものは何もない。自然で、必然。
「あやめのお兄ちゃんになってくれる?」
あやめはそう言って、雪人に小さな手を差し伸べた。弱い心を守る手段として、あやめは雪人を選んだのだ。もう誰とも関わりたくなかった。傷付けられるくらいなら、いっそのことずっとひとりでいたかった。だがその時思ったのだ。あやめの兄として生まれ変われば、全身を巡るこの血が薄まるのではないか。あやめの血を流し込めば、忌まわしい男の血が減るのではないか。そんな拙い考えが生まれたのだ。
「いいよ」
差し伸べられた手をつかんだ。あやめは雪人に救われた気になっていたらしいが、本当は違った。救われたのは雪人の方だったのだ。
*
狭い部屋に、着信音が鳴り響く。お兄ちゃん。お兄ちゃん。単調で無味乾燥な機械音が、あやめの悲鳴を乗せて、雪人の鼓膜を震わせる。その声に引き寄せられるように、雪人は携帯に手を伸ばした。この電話に出てしまえば、きっと世界は安定を保っていられない。ドミノ倒しのように、簡単に崩れてしまうだろう。だがそれでも、何か逆らえない力が働いているかのように、雪人は通話ボタンを押した。
『――久し振り、雪人』
ガン、と脳天を思い切り叩かれたような衝撃が襲った。低い、ねっとりとした、厭らしい男の声だった。この声を、この男を、自分は知っている。
『俺が誰か分かるか?』
「……健次」
『覚えていてくれたんだな。嬉しいよ』
電話の向こうで、安達が笑ったのが分かった。あの、高校時代の爽やかな笑顔ではなくて、もっと歪んだ、皮肉めいた笑いだ。無意識のうちに抱いていた緊張を解いて、雪人はソファーへと腰を下ろした。
「僕が君を忘れるわけないだろ」
『相変わらず嘘がうまいな』
雪人はふっと笑みを零した。彼は何もかもお見通しだ。
「どうして君が、あやめの携帯を?」
『分かってるくせに。嫌な奴』
ベランダの方に視線をやると、干したばかりの洗濯物がゆらゆらと風に揺れていた。この電話が終わったら、残りの洗濯物も干さねばならない。安達の声を聞きながら、そんなことをぼんやりと考えた。
『なあ、雪人。覚えてるか? 高校の時、俺言ったよな。お前を守ってやるって。お前を守れるのは俺だけだって思ってたよ。お前のことが大切なんだ』
懐かしむような口調なのに、最後だけ現在形で言ったことに些細な違和感を抱いた。
雪人は外をぼんやりと眺める。安達の声は、右耳から左耳へと滞りなく抜けていく。
『今日が何の日か分かるか?』
雪人は壁に掛かっているカレンダーを見た。2月1日、月曜日。何の変哲もない普通の平日。
『詩帆の、月命日だ』
――井上詩帆。
忘れたはずの女の顔が、ゆらりと目の前に浮かび上がる。ウェーブした茶色い髪。明るすぎる笑顔。赤い唇。柔らかな、体。
『分かってたんだ。あいつが本当に好きなのは俺じゃないってことも。お前に依存してたことも。それでも俺は、詩帆のことが好きだったんだ。好きだからこの手で殺したかったんだ。死を支配すれば生も支配できるんじゃないかって思っちゃうんだよ。そうやって何人も殺した。でも1番好きな女だけは殺せなかった。……お前が殺したからだよ、雪人』
安達の声が痛々しげにかすれた。お前が殺した。お前が殺した。お前が殺した……。頭の中で繰り返すほど、その声は力を持って雪人の心臓をきりきりと締め上げた。
雪人は何も言わない。否定は何の意味も成さない。
『お前らの生活なんて一瞬で壊せるんだよ。分かってる?』
雪人、と名前を呼ぶ。その優しげな響きも温かな音も残酷なほど懐かしくて、ほんの少しだけ、愛しかった。
『水瀬を俺にちょうだいよ。そうしたら、助かるかもしれないよ。お前の妹』
太陽が雲に隠れた。つい先程までは疎ましいほど眩しさを注いでいたのに、今は見る影もない。
風だけが変わらずに吹いている。ありったけの絶望を乗せ、死神を連れてくる。
『水瀬と雨生、お前はどっちを選ぶんだ』
夕方になると本格的に雨が降り出した。
生乾きの洗濯物を部屋にしまい終え、徐々に激しくなる雨音に何時間も耳を澄ませた。冷えた窓が結露して、フローリングの床をわずかに湿らせる。そういえば、結菜は傘を持って行っただろうか。目を瞑り、目蓋の裏に結菜の姿を思い描く。その手に傘がないことを確認し、雪人はソファーから腰を浮かせた。
マフラーを幾重にも巻き、帽子を被って駅へと向かった。久々に感じる外の空気は、容赦なく雪人の肌を冷やした。傘で視界を狭め、アスファルトを潤わせる水溜まりを跳ねながら、規則的な速さで歩いていく。改札口前でしばらく待っていると、数分もしないうちに結菜の姿が見えた。
駆け寄ろうとした雪人は、結菜の隣を歩く人影に気付いて踏みとどまった。
眼鏡を掛けた、スーツ姿の若い男。背はそれほど高くなく、顔立ちも普通の、「平凡」という形容詞が似合うような人物だ。世間話でもしているのだろうか、男は楽しげに結菜に喋り掛けている。そして結菜は、男の話に相槌を打ち、くすくすと、笑っていた。
胸の奥に、ぽっと青い炎が灯った、ような気がした。
改札を出て、ふたりは別れた。男は鞄を傘代わりにして、雨の中をぱしゃぱしゃと走って行った。その後ろ姿を、雪人は冷やかに見つめた。
炎が、ゆらゆら揺れている。
この感情に名前を付けてはいけない。もしこの炎が何なのか自覚してしまったら、何かが終わってしまうような気がした。そうしたら、自分はまた「ひとり」になってしまう。ふたりぼっちではいられなくなる。だから、今は気付いてはいけない。体の底から込み上げる、禍々しい炎に。闇のように暗く、薄汚い感情に。
「結菜」
「雪人?」
雪人が近寄ると、結菜は驚いたように目を見開いた。彼女の髪と肩はほんの少しだけ濡れていた。
「迎えに来た。傘、持ってなかっただろ」
「……1本だけ?」
雪人の手にある傘の数を見て、結菜が眉を下げて笑う。忘れてきたんだ。そう言いながら、雪人は結菜の肩を引き寄せた。
「相合傘、しよう」
夜の街はネオンの光で溢れていた。人工的な光はどこか温かで、雨に塗れた闇をきらきらと輝かせていた。その雰囲気に呑まれるように、雪人はそっと結菜の手を取った。水分を吸い込んだ結菜の手は、雪人よりもずっと冷えていた。
「大丈夫。誰も僕らのことなんて見てやしないさ」
不安げな表情を見せる結菜に、雪人は穏やかに微笑んだ。子供ふたりには大きすぎ、大人ふたりには小さすぎる傘は、ふたりの世界を作るにはちょうどいいサイズだった。
遠い昔にもこんなことがあった。古びた記憶を思い出し、雪人は目を細めた。
あれは確か中学の頃だ。春風園へ遊びに来たあやめを、相合傘をしながら家まで送った。ぴちゃん、ぴちゃん。軽快に水を跳ねながら歩いた長い坂道。雨のにおい。下手くそな鼻歌。冷たい手。思い出にすらなれない、歪な記憶。もう戻れない、過去の記憶。
部屋に戻り、凍えた体を温めるためシャワーを浴びた。じめじめとした雨水を洗い流して風呂場から出ると、先にシャワーを済ませた結菜が夕飯の準備をしているところだった。
雪人は髪を拭きながら、テーブルの上に置かれている郵便物に目をやった。なんてことないチラシに紛れた、1枚の葉書を手に取って見る。そこには『同窓会のお知らせ』の文字が躍っていた。
「3月に開くんだって。雪人の追悼も含めて」
シチューをテーブルに運びながら、結菜が言った。
「予想通りだね。中川から?」
「正解」
葉書をテーブルに置き直し、雪人は椅子に座った。
「行くの?」
「別に……特に会いたい人もいないし」
それに、と結菜は続けた。
「雪人はちゃんとここにいるもの。行ったって意味ないよ」
綿菓子のような微笑みにつられ、雪人も思わず笑みを零した。ふんわりと、お菓子みたいに甘く笑う。共に過ごす時間が長くなるほど、彼女の微笑みは柔らかくなっていった。砕けた口調も親しげな声も、全て重ねた時間の結果だ。
ふたり同時に両手を合わせ、「いただきます」をした。結菜の作るシチューは温かく胃を満たした。ゆったりと、ゆっくりと、時が過ぎた。
夕飯を食べ終え、食器を片付ける。風呂に入り、髪を乾かす。そうすればもう何もすることはない。この空白の時間をどうにかして埋めようと、ふたりはただ寄り添う。それはどちらからともなく始まって、今ではふたりの日常の一部に組み込まれていた。ソファーの上で寄り添うと、シャンプーの香りが鼻をくすぐる。柔らかな髪を撫でながら、一時の永遠に安堵する。もう「当たり前」になってしまった時間。これまでも、これからも、ずっと続いていく時間だ。
『女子高生が行方不明になって、1週間が経ちましたが――』
BGM代わりのニュースが、突如ふたりの平穏を揺らした。
――警察の捜索が続いていますが、依然有力な手掛かりは得られないままです――ただの家出なのでは? このくらいの年齢の子にはよくあることでしょう――
雪人はさりげなくリモコンをつかみ、テレビの電源をオフにした。
しん、と静けさが反響する。静寂はどんな騒音よりもうるさい。
「……寂しい?」
ぽつりと、結菜が呟いた。
「いなくなって、寂しい?」
「……どうでもいいよ、そんなこと」
雪人は結菜の肩を抱き寄せ、額に軽くキスをした。これ以上話を進展させてはいけないと思った。
「結菜」
「なあに」
「ゆな」
「もう、くすぐったい」
首筋に顔を埋めると、結菜はくすくすと笑いながら体を捩った。結菜。結菜。繰り返し名前を呼びながら、逃がさぬように、強く彼女を抱き締める。
「春になったら、桜を見にいこう」
結菜の体温を感じながら、雪人は囁く。
「三色団子が食べたいんだ」
「うん」
「夏になったら海が見たい」
「海は焼けるから嫌。水族館がいい」
「あんな狭い水槽で泳ぐ魚なんて、見ているこっちが窮屈だよ。海にしようよ。たまには思い切りはしゃぎたいんだ。冷たい水の中で泳ごうよ」
「泳ぐの? 見るだけじゃなくて?」
「泳がないともったいないじゃないか」
「……やっぱり、海は嫌」
「何で?」
「水着が、恥ずかしい」
囁くように呟いて、結菜は雪人の胸に顔を押し付けた。胸の奥から愛しさが込み上げるのを感じた。
「決めた。絶対海に行く」
「……雪人の意地悪」
「今更だろ」
雪人は言われた通り意地の悪い笑みを浮かべた。
「秋にはもう一度紅葉を見に行くんだ。来年の冬はどうしようか」
「そんな先のことまで考えられない。その時になったらゆっくり考えればいいわ。焦らなくても、ずっと一緒なんだから」
――ずっと、一緒。
「ずっとずっと、永遠に」
「……うん」
ふたりきりの部屋は、少し寒い。暖房から吐き出される温い風が懸命に空気を温めても、外を支配する雨は容赦なく冷気を投げ入れてくる。
ねぇ、雪人。
甘えるように、結菜は囁く。
「幸せすぎて怖いの」
その声は微かに震えていた。
「こんなに幸せなのは初めて。全部全部、雪人のおかげ」
「……僕もだよ、結菜」
安心させるように頭を撫でて、優しい優しいキスをした。
どのくらいの温度で温め合えば満足するのか、もう自分には分からない。低すぎる体温は、結菜のぬくもりを貰わなければ正常を保ってはいられない。
人を好きになるってどういうことだろう。結菜の体を抱きながら、冷めた心で思案する。どうすれば満足するのだろう。手を繋げば? キスをすれば? デートをすれば? 体を重ねれば?
結菜の目に映っているのは自分だけのはずなのに、これだけ彼女を独占しても、何故だかちっとも満たされない。からっぽの心は乾いたままだ。
――水瀬と雨生。
頭の中で、反響する。
――お前はどっちを選ぶんだ。
雨が一層激しさを増した。どこかで木々がざわざわと揺れ、静かな夜に警報を鳴らしている。偽りの光が溢れる街では、本当の星空はもう見えない。
どっちを、選ぶんだ。
*
雨上がりの空を見ると、あやめのことを思い出す。
空一面に広がる青色の中、薄くかかる虹を見つけては、「幸せになれる」と嘘を教えた。そうやってすり込んで、彼女に少しでも希望を与えることができれば、それだけで雪人も救われるような気がした。
兄妹の契りを交わしてから、あやめは常に雪人の傍にいるようになった。絵本を読み、散歩をし、抱き合って眠った。お兄ちゃん、と呼ばれるたびに、手を引かれるたびに、自分は必要とされているのだと実感することができた。それは初めての体験で、何故か無性にくすぐったくて、あやめという小さな妹のことが愛しく、大切に思えた。あやめの望む自分でいよう。あやめに頼られるように、あやめの描く兄でいよう。そう心に誓った。勉強も運動も、今まで以上に努力した。あやめに失望されないように、あやめに嫌われないように。あやめだけが、雪人の生きる希望だった。
出会って1年ほどで、あやめは春風園から出て行った。あやめは毎日のように雪人に会いに来たので、寂しくはなかった。たとえ一緒にいられなくても、あやめと自分は同じだ。同じ孤独を分かち合い、同じ寂しさを抱いている。雪人にはあやめしかいなかった。あやめも同じだと、そう信じて疑わなかった。彼女さえいれば、生きていける。彼女さえいれば、この無意味で無価値な毎日も過ごしていける。そう思っていた。
「やっぱりお兄ちゃんの教え方が1番うまい」
小学校に入ったあやめは、学校帰りに春風園に寄り、雪人から勉強を教わることが日課となっていた。真新しいノートが、拙い文字で埋められていく様子を眺めながら、雪人は穏やかに微笑んだ。
「毎日会いに来るの、大変じゃない?」
「あやめはお兄ちゃんに会いたいの。それに、お母さんに教えてもらっても分かんないんだもん。美佳ちゃんも律子ちゃんも分からない問題をね、あやめは解けたんだよ。お兄ちゃんのおかげなの。やっぱり、お兄ちゃんはすごいね」
ふたりきりの時間は、あっという間に過ぎていく。気が付けば空は橙色に染まり、タイムリミットがやってくる。
「あやめちゃん、お母さんがお迎えに来たわよ」
麻紀の呼び掛けに、あやめは「はあい」と元気よく返事をした。
「じゃあね、お兄ちゃん」
母親の手に引かれ、あやめは雪人から去っていく。小さな背中を見送るたび、どうしようもない寂しさに襲われた。
あやめは家族を手に入れた。友達を手に入れた。明るい笑顔を見せるようになった。もうあやめは、ひとりではなくなった。彼女の笑顔を見るたびに、雪人の心は悲鳴を上げた。あやめだけは同じだと、同じであってほしいと願っているのに、神様はそれを許してはくれない。
中学に入ると、雪人を取り巻く環境はますます過酷になっていった。死ねと罵倒され、虐げられた。あやめに笑顔を向けられるたび、理想と現実の差を痛感した。あやめの望む「望月雪人」は、現実の雪人とはあまりにもかけ離れていた。
「お兄ちゃんはね、あやめのヒーローなの」
――違う。違うんだよ、あやめ。僕は君が思うような人間じゃないんだ。
そう否定したいのに、雪人にはそれができなかった。見放されることが恐ろしかった。あやめにだけは、嫌われたくはなかった。
あやめの望む自分でいること。それが、雪人の生きる術だった。少しでも理想に近付けるように、ヒーローでいられるように、雪人は勉強に励んだ。元々勉強は嫌いではなかったこともあり、少し努力しただけで、すぐに1位を取ることができた。これで名実共にヒーローでいられる。あやめの傍にいられるのだ。だがその功績は思わぬ変化をもたらした。
テストで1位を取った日を境に、雪人への暴力はぴたりとやんだ。まるで初めからいじめなどなかったかのように、平穏で、平凡な日々が訪れたのだ。人間は、自分より優れた人間を蔑むことはできない。そのことに、雪人は初めて気が付いた。それはあまりにも単純で、当然のことだった。
人より優れた容姿を求めて、すり寄ってくる者もいた。掌を返したようなその態度にあきれた。優しくされたかったはずなのに、いざ優しくされると、その恭しさに吐き気がした。
そうして中学3年間が終わり、雪人は県外の進学校へと入学が決まった。誰も自分のことを知らない場所に行きたかった。
「雪人君に会いたいという人がいるの」
養子の話が浮上したのは、中学を卒業してすぐ、高校に入学する直前のことだった。麻紀から聞いた話によると、それは雪人の遠い親戚らしい。明確な理由は分からない。ただ思い出したかのように、雪人を引き取りに来たのだった。
「お話は嬉しいけれど、僕はひとりで生きます」
直接その人物に会うこともなく、雪人は申し出を辞退した。六年間も放っておいて、今更善人ぶるような人間を信用する理由はない。それに自分は、ヒーローでいなければならないのだ。誰にも頼らず、何でも自分でこなせるようにならなければいけない。あやめを絶望させないようにしなければいけない。それはもはや義務であり、あやめの兄になった責任でもあった。
時期を同じくして、雪人は春風園を出た。肉親のいないあなたが、どうやって生きていくの。そう言って麻紀はとめたが、雪人は耳を貸さなかった。麻紀はありとあらゆる手続きを踏んで、雪人を守った。奨学金が得られたのも、全て麻紀の力によるものだった。幸いにもその高校には、付属の寮があった。高校に通う3年間、成績首位を条件に、授業料と寮費の免除が言い渡された。勉強に励む傍ら、バイトをして金を貯める。それが、未成年の雪人にできる唯一のことだった。
誰も自分を知らない場所で、新しい一歩を踏み出そう。新しい地では、雪人の過去を知っている者は誰もいない。新しい自分になるのだ。あやめの思い描くような、ヒーローになるのだ。
だがいつも、運命は雪人を弄ぶ。好きにはさせないよと嘲笑う。いつまで経っても呪いは消えない。
「同じ高校で、しかも同室なんて。偶然もあるもんだな」
寮に入った雪人が出会ったのは、安達健次という男だった。彼と会うのは初めてだったが、安達は雪人を知っていた。春、雪人を養子にしたいと申し出たのは彼の父親だった。安達は母方の遠い親戚だったのだ。雪人の過去も、彼は当然のように知っていた。せっかく新たなスタートを切り出そうとしたのに、ここでもまた、呪いが雪人を縛った。
「どうして養子になるのを拒否したんだよ」
「……僕は呪われているんだ」
深夜。ふたりきりの部屋。誰にも聞こえない、小さな声。
「僕は犯罪者の息子なんだ。人殺しの血を引いてる。僕がそっちの家に行けば、みんなが不幸になるだろう?」
自分の感情を誰かに吐露したのは、この時が初めてだった。味方がいなかったわけではない。麻紀もあやめも常に寄り添い、雪人を愛してくれたけれど、こうして痛みを言葉にして伝えたことはなかった。
「君はどうする? 僕のことを、周りのみんなに言う? いいよそれでも。そうしなよ。どうせ僕は幸せになんかなれないんだ」
「そんなことするわけないだろ」
子供じみた雪人の言葉を、安達は真剣に否定した。
「それに、お前が呪われてるっていうなら、俺だって同じだろ? 俺だって、多少はお前と同じ血が流れてるんだぜ。いいか。お前の母親を殺したのはお前じゃない。お前とお前の親父は別々の個体なんだ。だから、お前が恥じる必要もないし、お前に罪はない。お前は悪くないんだよ」
――お前は悪くない。
言い聞かせるように繰り返し、安達は雪人を真っ直ぐに見つめた。
「せっかく綺麗な顔してるんだから、もっと笑えよ。モテるぜ。もしお前に何か言ってくるような奴がいたら、俺が守ってやるよ」
「……どうして?」
そう尋ねると、安達は「さあ、何でだろうな」と首を傾げた。
「ヒーローになりたいだけかも」
安達健次は好青年をそのまま具現化させたような男だった。短く整えられた黒髪は夏風のように爽やかで、太陽によって焼かれた浅黒い肌も、ごつごつとした大きな手も、雪人とは正反対に男らしく、女生徒の目を引いていた。教師からの信頼も厚く、クラスでは学級委員を務めた。目元をくしゃくしゃにして作られる笑みは人懐っこく、裏表のない実直な性格も相容れて、学校中の誰もが彼を慕った。
「誰にも言わない」という約束通り、安達は雪人の過去を暴露することはなかった。過去を共有できる唯一の人間。弱音を吐き出せる唯一の男。共にいる時間が長くなるにつれ、安達の存在はどんどん大きくなっていった。安達は雪人の親友であり、尊敬の対象であり、憧れだった。ヒーローと呼ぶのにふさわしい男だ、と雪人は思った。安達のようになろうと、彼の笑顔を模倣したりもした。
中学までの生活が嘘のように、高校生活は光に満ちていた。ここにはもう雪人を虐げる者はいない。蔑む者はいない。生まれ持った容姿と安達に教わった処世術で、雪人は瞬く間に人気者として名を馳せた。一度要領を得てしまえば、世界は実に容易く色を変える。過去はどう足掻いても変わらない。それなら今を変えてしまえばいい。そう思うことで、前に進めるような気がした。
時折何もかも嫌になることがある。逃げられないんだよ。過去の陰影が心臓を締め上げ、嗚咽がとまらない夜もある。そのたびに安達は雪人に言い聞かせた。お前は悪くない。悪くないんだよ。もう、苦しまなくてもいいんだよ。それはまるで呪文のようで、過去を忘れる魔法のようで、その言葉を聞くことで、痛みも苦しみも嘘のように消すことができた。
父と自分を重ね、父の罪を自分のものとし生きてきた。そうすることで罰を受けたつもりだった。だが本当は、こうして誰かに許されたかったのかもしれない。お前は悪くないと言ってほしかったのかもしれない。それによって過去を精算し、新たな人生を歩むことを望んでいたのだ。そうして春が過ぎ、もう一度季節が巡ってくる。
蝉の声が今もやまない。
15歳の夏だった。
うだるような暑さが続き、無機質な街にはコンクリートから溢れる熱気が悶々と立ちこめていた。いたるところで蝉が自己を主張し、思考能力をみるみるうちに奪っていく。外を歩くと、弱い体は太陽熱にやられて、くらりと目眩がした。空はまるで作り物のようにどこまでも青く透き通って、雪人の頭上に広がっている。
15歳の、夏だった。
「もうすぐ着くから」
励ますような安達の言葉に、雪人はうん、とうなずいた。約1時間の電車旅の後、更に歩くこと20分。同じような建物が立ち並ぶ住宅街の中、ようやく「安達」と書かれた表札が見えてきたことを確認し、ふたりは安堵の息を漏らした。
高校1年の夏休み、帰省する安達に連れられて、雪人は安達家でひと夏を過ごすことになった。当然ためらった雪人だったが、この時ばかりは安達の熱心さに折れた。以前の雪人ならば頑なに拒否していただろう。この変化もきっと、安達がもたらしたものだ。
「いらっしゃい、雪人君」
安達の両親は、人のよい笑みを浮かべて雪人を迎えた。お邪魔します、と頭を下げ、雪人は恐る恐る靴を脱いだ。
「春は結局会えなかったからね。直接話をしたいと思ってたんだ」
安達の父・善之は、妻の皐月と共に雪人をリビングへと呼び出した。清潔感のある白い壁には、高級そうな絵画や写真が飾られていた。ふたりと向き合って座った瞬間に、来なければよかったという後悔が雪人を襲った。他人の家族のにおいが満ちた空間は居心地が悪い。どのように息をすればいいか、どの瞬間にまばたきをすればいいのかすら分からなくなる。
「まず、今まで君に何の支援もできなかったことを許してほしい」
善之が深々と頭を下げたので、雪人はますます身を縮めた。
あの事件が起きた後、雪人の引き取り手がいないことを知った善之は、すぐに雪人を迎え入れようとしたらしい。だが厳格な父――安達から見れば祖父にあたる人物がそれを頑なに拒否したのだと言う。彼は頭の固い、いわば古い人間であり、いくら安達夫妻が訴えても、雪人の受け入れを許可しなかった。身内に面倒な事情のある人物を起きたくはない、というのが彼の主張だったそうだ。
だが昨年の冬、彼が急逝した。葬儀を済ませしばらく経った時、善之は突如雪人のことを思い出した。雪人は、あの小さい男の子は今どうしているだろう。もうとっくに誰かに引き取られているだろう。気がかりに思いなんとなく春風園に電話をしてみると、雪人はまだ施設にいると言う。そして春からは春風園を出て、息子と同じ高校に通うつもりだということを麻紀から聞いた。たったひとりで生きていこうとする雪人を思うと、いてもたってもいられなくなり、急遽春に親子縁組の申し入れをした、と――
全てを聞き終えた雪人は、茫然とふたりの顔を見つめた。自分のためにこれほど動いていた人がいたとは信じられなかった。
「突然こんなことを言ってごめんなさいね」
雪人の心境を察したのか、皐月が気遣うように声を掛けた。目元が安達にそっくりだ、と思った。
「形だけでもうちに籍を置けば、いろいろ力になれるだろう」
善之は身を乗り出すと、雪人の手を強くつかんだ。その大きさとぬくもりに、少し怯えた。
「今まで何もできなかった償いだ。どうか、養子になることを考えてほしい」
ここでうなずいてしまえば、きっと自分は幸せになれるのだろう。永遠に逃れられないと思っていた孤独から抜け出せるチャンスがやってきたのだ。この手を握り返せば、もう自分は「ひとり」ではなくなる。あやめのように、自分にも家族ができるのだ。だが、雪人は素直に善之の申し出を受け入れることはできなかった。長年憎しみを受けてきた心は、優しさをもらうことに慣れていなかった。
胸の奥に何かが突き刺さっている。それは魚の小骨のように微小で、気に掛けるには事足りぬものだったが、誰かの優しさを受けるたび、ちくりちくりと痛むのだった。優しさを拒絶するように、何かに対する警報を鳴らすように、雪人を愛から遠ざけようとするのだ。それが意味することを、この時雪人は理解できずにいた。
「悪いな、いきなりあんな話聞かせて。びっくりしただろ?」
クーラーのきいた部屋に招き入れ、安達は雪人に麦茶を差し出した。コップの氷がカラン、と涼しげな音を立て、見る見るうちに溶けていく。乾いた喉に流し込むと、緊張も共に流れていった。
「いいご両親だね。僕にもすごく優しいし……君とそっくりだ」
「ま、いろいろ思うところはあるだろうけどさ、前向きに考えといてくれよ」
安達は豪快に麦茶を飲み干すと、興奮気味に声を大きくした。
「だってさ、そしたら俺達兄弟になるんだぜ。それってすげぇ楽しそうじゃん」
彼の目はまるで面白い悪戯を思い付いたかのようにきらきらと輝いていた。
「俺、お前に会えて嬉しいんだ。こんなに気の合う友達はいなかった。だからさ、家族になれたらもっともっと嬉しいんだ。いつも言ってるように、お前が引け目を感じる理由なんて全くないんだから」
きっと安達は雪人の過去など全く気にせず、ただその先にある未知の体験に胸を踊らせているのだろう。その無邪気な優しさを感じ取り、雪人は泣きそうな顔で微笑んだ。
「……ありがとう」
「よせよ、そういうの」
安達は照れくさそうに頭を掻いた。
「とりあえずこの夏はいっぱい遊ぼうぜ。んで、ゆっくり考えればいいよ」
「うん」
その夏は記録的な猛暑だった。太陽熱がじりじりと頭を焦がし、部屋の中にいても汗が肌を濡らした。夏休みらしい夏休みを謳歌するのは、雪人にとって初めての体験だった。あの事件が起きる前も、こうして友達や家族と遊んでいたのだろう。きっと今と同じような平凡な日常があったのだろう。そう思うだけでも、幾分か救われるような気がした。
まず海に行き、映画を見に行った。8月には安達のいとこの琴音という女が遊びに来た。彼女は3つ年上の大学1年生だった。安達は彼女に好意を抱いているらしく、そのことを安達に言うと、珍しく雪人を怒鳴った。
このまま安達の家族として過ごせたらどんなにいいだろうか。のらりくらりと毎日を過ごすにつれ、雪人の心は少しずつ傾き始めていた。片意地を張ってひとりを貫くよりは、よほど現実的なのではないか。もう父の呪縛から抜け出してもいいのではないか。そんな甘い考えが芽生え始めていた。少しずつ軽くなっていく心を感じながら、安達家で過ごす最後の夜を迎えた。
午前2時を過ぎた頃だった。網戸から入る涼しげな風に揺られながら、雪人はすやすやと眠りに着いていた。遠くから微かに聞こえる蝉の声は子守歌のように心地よく、夢の中までするりと滑り込んでくる。
蝉の鳴き声が響いている。その声に誘われるように、ゆっくりと時間が巻き戻る。あの夏に、魂が帰っていく。ああそうだ。ぼんやりと雪人は思い出す。あの日も確かこんな風に、蝉がうるさく鳴いていた。つけっぱなしのテレビからはなんてことないニュースが絶えず流れていた。
――お前だけが幸せになれるとでも思っているのか。
記憶の彼方から、男の声が聞こえてくる。
そうやって、真実から逃げるのか。自分だけ被害者ぶるのか。それで逃げたつもりか。
父の幻影は虚ろな瞳で雪人を見る。ゆっくりと右腕を上げて、人差し指を雪人に向ける。
――沙耶を殺したのは、
悲鳴とも叫びともつかない声が、真夜中の静寂を引き裂いた。
「雪人?」
異変に気付いた安達は、すぐさまベッドから抜け出し雪人の元へとやってきた。雪人のシャツは汗でべっとりと体に張り付いていた。震える体を守るように両腕で抱き、肩は呼吸に合わせて激しく上下を繰り返している。充血した瞳は何かに怯えるように大きく開かれていた。
「どうしたんだ、しっかりしろ」
安達は雪人の肩をつかみ、軽く揺すった。
「……思い出したんだ」
今見たものがただの夢だったのか、それすらも雪人には分からなかった。不安げな表情を浮かべる安達を見つめると、瞳の中の自分と目が合った。その男に父の面影を視た。
「僕のせいだ」
「……お前は悪くない」
「僕なんだ」
先程見た光景が、まだ目の前に広がっている。あの日何があったのか、何故母が死んだのか。封じ込めていたはずの過去が、たった今解き放たれたのだ。あの夜、母を階段から突き落とした人物は父ではなかった。
「母さんを殺したのは、僕だ」
雪人は手のひらを広げ、確かめるように動かした。まだ感触が残っているような気がした。
望月沙耶は美しい女だった。透き通るような白い肌も、流れるような漆黒の髪も、どんな女優にも劣らなかった。周りの人間はみな彼女を持て囃し、愛でた。沙耶にとって容姿を褒められることは、飯を食うことと同義だった。「美しい」という賞賛を何年も浴びてきた沙耶は、もはやその言葉なしでは生きていけない体になっていた。
23になった沙耶は、自分の美しさに釣り合うような美しい男と結婚し、美しい子供を生んだ。一つ、また一つ年を取るにつれ、雪人はどんどん美しく成長していった。反対に沙耶の美貌は、一つ、また一つ年を重ねるたびに衰えていった。美しさをアイデンティティとしてきた彼女は、それを何よりも恐れ、憎み、嫌った。周囲の人間は雪人の大きな瞳を愛でた。雪人の白い肌を愛した。雪人は母の美しさを吸収して育った。そうして、沙耶を見る者はいなくなった。
ただの母親になっていくこと。そして、雪人が美しすぎること。初めはおそらく、小さな小さな傷だった。仕方のないことだと、それが自然の摂理なのだと、無理やり納得したりもした。だが次第に傷口は広がり膿んでいく。それに比例するように、雪人の体にも傷が増えていった。
「あんたばかりが、ちやほやされて」
あんたばかりが、愛でられて。
――かわいい息子さんねぇ。
――本当に素敵なお子さんね。
周りの賞賛を受けるたび、沙耶の精神はすり減っていく。口元に作った笑いも引きつって、もう泣くことすらできやしない。
雪人が9歳になった夏、決められた予定のように自然に、何の違和感もなく、それは起こる。
「おい、やめろ」
薄暗い部屋に、麻人の声が響き渡る。焦りと動揺が浮かんだその顔を、雪人はぼんやりと眺めている。
「あなたに何が分かるの。あんたは、あんたは仕事ばかりで私のことなんて気に掛けない。もう私を女として見てくれない」
その手に握られた包丁も、その刃が自分に向けられていることも、現実には思えなかった。彼女の顔に母親の面影はない。ただそこにいたのは、美しさを忘れ憎しみに囚われた醜い女だった。恐怖も同情も浮かばない。愛情も憎しみも感じない。
どん、と背中を押した。醜い女を消すために、自己防衛を盾にしたのだ。
長い黒髪が宙に舞う。ひらりひらりと舞いながら、女がゆっくり落ちていく。
階段の下に血だまりが広がる。赤い海に、さっきまで母親だったものが倒れている。ガラス玉のような瞳は、もう何も映してはいない。そしてもう二度と、映さない。
何故記憶に蓋をしたのか、何故父の罪に囚われていたのか。その理由を、ようやく雪人は理解した。初めから父に罪はなかった。沙耶を殺したのは父ではなく、雪人自身だったのだ。
――お前は何も悪くない。
どんなに救いを求めても、安達の魔法はもう効かない。
父のせいだ、と思ってきた。蔑まれ、虐げられるのも、父が母を殺したからだと。先の見えない迷路のような人生を歩んできたのも、全部父のせいなのだ。その罪を無理やり背負わされている哀れな息子。心のどこかで被害者ぶっていた自分がいた。だが真実は逆だった。息子をかばい、息子の罪を背負った慈悲深い父。自分の罪を都合よく忘れ、のうのうと生きている非情な息子。呪いの根源は、自分自身。いくら幸せを求めても、前を向こうと努力しても、断ち切れるわけがなかったのだ。絶望は絶望にしかならない。
優しさを与えられるたびに胸が痛む理由を、ようやく雪人は理解した。自分は優しさなど受ける価値のない人間なのだ。自分こそが裁かれるべきだったのだ。
夏が終わり、雪人は安達家を後にした。結局、雪人が家族を手に入れることはなかった。ひと時でも夢を見せてくれた。家族を教えてくれた。それだけで、十分だった。
どう足掻いても幸せになれないのなら、善行を重ねることに何の意味があろうか。消せない罪に喘ぐことが、何の償いになろうか。
一つの季節と共に一つの罪が終わり、新たな罪が始まる。
雪人は少し、疲れていた。
起きている時も眠っている時も、罪の意識が消えることはない。誰に何を懺悔すればいいのか、もはやそれすらも曖昧だ。どれほど幸せを望んでも、結局は自分自身に裏切られるのだ。希望を持つことはもはや困難で、絶望に身を沈めながら生きることは、精神を大きく消耗した。
早すぎる、と大人は言うのだろう。雪人はまだ15だった。過去に囚われ絶望するには、あまりにも若すぎると。だが雪人は、過去を受け止めて生きられるほど強くはなかった。あやめの前で泣けるほど弱くもなかった。弱いままではいられない。だけど強くもなれない。
15歳の、秋。
雪人は少しずつ、壊れていった。
「望月君、変わったよね」
教室の窓から見える景色が、少しずつ秋色に染まっていく。緑色の葉は次第に赤や黄に変化して、ゆっくりと冬に備え始めていた。
「そう?」
目の前にいる女子生徒の言葉に、雪人はわざとらしく首を傾げた。自分の変化なんて、自分が1番よく分かっている。
「前までちょっと近寄りづらかったんだけど、何て言うか、明るくなった」
「……今の僕は嫌い?」
「そんなこと、ない」
彼女はほんのりと頬を染め、勢いよく首を振った。
「望月君は、素敵だよ」
偽りの笑みを浮かべれば、愛は自動的に入ってきた。この世界は、そういう風にできている。
真実を知った雪人は、罪悪感に苛まれることに限界を感じていた。どうしたって償いきれない罪を、どうやって償っていこうか。矛盾した問いを解決しようと苦悩しもがいても、正しい答えなど出やしない。夜になると目蓋の裏に浮かんでくる、母のあの暗い瞳。父の責めるような眼差し。父はきっと、今も狭い牢獄の中にいるのだろう。父として息子の罪を背負い、夫として死んだ妻を想っているのだろう。そう考えるとやるせない。弱い心は疲れ果て、今にも壊れようとしていた。そうして限界が来た瞬間に――スイッチが、入ったのだ。
誰かが搭載した自己防衛機能。それは都合よく働いて、雪人の心を崩壊から守った。
過去を過去として振り切り、開き直ること。それが自分を守るたった一つの術だった。
弱い自分を殺してしまおう。そうすればもう苦しむことはない。涙を流すこともない。自分の容姿と頭脳を利用し、幸せをつかむのだ。ただひたすら周りが望む人間を演じれば、おのずと愛は入ってくる。犯罪者である自分がひとりで生きていくためには、それしかなかった。
――お前は繊細すぎるんだ。
かつて安達は雪人にそう言った。繊細で、純粋だから傷付きやすい。純粋すぎるから弱い。彼の言った通りだった。この世界を生きるには、狡くなければやっていけない。薄情なくらいがちょうどいい。そうしないと、幸せはつかめない。
犯罪者だということさえ除けば、雪人は幸せになれる条件を満たしていた。愛を告げ、交際を願う女も多くいた。だったらそれを拒否する理由はない。他人が望むような「望月雪人」でいれば、自分は幸せになれるのだ。
人はみな見かけで判断する。雪人の容姿を見て、雪人の性格を決める。豪華な包装の箱には豪華なものが入っている――そんな先入観と同じように、人々は雪人に完璧を求めた。望月雪人は美しいから、美しい心を持っていなければならない。誰にでも優しくなければならない。勉強も運動もできなければならない。誰かが困っていたら助けなければならない。弱い人を支えなければならない。常に明るく、笑ってなければならない。だから涙なんて、流してはいけない。
周囲の願望に合わせるにつれ、周囲の要求は多くなる。人々の理想である望月雪人が意思を持って動き出し、本当の雪人を侵食する。もはや雪人自身も、本当の自分がどうであったか分からない。この頃から、雪人は毎日貪るように新聞を読み始めた。父が出所し、真実を暴露するかもしれない。そんな馬鹿げた不安を解消するためだった。なんて自分勝手な行為だろう。自覚はしていたがやめられなかった。それはいつしか習慣となっていた。
現実はどんどん歪んでいく。心はどんどん病んでいく。壊れていく自分に気付かないまま、1年が過ぎ、2年が過ぎ、高校時代が過ぎていく。
少ない援助をやりくりして、雪人は国立大学へと進学した。幸せになるためには金が必要だ。一流大学を出て、一流企業に就職する。それが雪人の考える幸せで、周囲が描く望月雪人の生き方だった。適度な愛を息抜きに、よき大学生を演じ、狡賢く生きていく。そうすれば周りは雪人を崇め慕う。誰も本当の雪人に気付かない。ただひとり、安達をのぞいては。
養子の話を辞退した後も、安達家とは適度な付き合いがあった。雪人が彼らを頼ることはなかったが、安達の両親は常に雪人を気に掛け、気遣ってくれた。
15歳の夏の日から、安達は雪人の罪を知る唯一の人物となった。安達は誰にも真実を漏らすことはなかった。今まで以上に雪人を気遣い、雪人に優しさを与え、雪人を守った。その優しさが憐れみに思えて苦々しくも感じたが、それでも安達は、雪人にとってただひとりの親友だった。
琴音が死んだのは、大学1年の冬だった。
生まれつき体が弱かったのだ、と安達は言った。通夜には雪人も参列した。遺影の中の彼女は美しく、あの夏と同じ笑顔を浮かべていた。
「早すぎるよなぁ」
焼香に並ぶ人々を、雪人と安達はぼんやりと眺めていた。
ふたりの目に涙は浮かんでいない。琴音が死んだという事実をまだ現実として受け止めることはできなかった。悲しみの涙を流す人の群れは、どこかわざとらしく、偽物のような気がしていた。きっと何日も経って初めて、彼女の死を実感できるのだろう。ふとした瞬間に彼女を思い出し、そうして初めて、もう会えないことに気付くのだろう。だから今はまだ泣けない。きっと安達も同じ気持ちなのだろう。
「高校1年の夏さ、よく3人で遊んだよな。琴姉に勉強教えてもらったり、ドライブに連れてってもらったり。あいつ、運転下手だったよな。俺達すげぇびくびくして、お前は泣きながら降ろしてくれ、とか叫んで」
「叫んでたのは健次だろ」
「いや、お前だって」
ふたりで過去を思い出し、おかしくなって吹き出した。普段着慣れないスーツは着心地が悪かった。葬儀の最中に笑っている自分達も、なんだか無性におかしく思えた。
思い出を語っていくうちに、安達はふと真顔になった。やがて、ふたりの間から笑い声が消えた。
「気付いてたか?……あの時から、あいつお前のこと好きだったんだぜ」
雪人は俯き、黙った。彼女の熱い視線に、気付かないはずがなかった。
「俺の目の前で倒れたんだ」
その声は微かに震えていた。
「助けようと思えば助けられた。だけど俺は、救急車を呼ばなかった」
靴のつま先を見つめながら、彼の声に耳を傾ける。一言も聞き逃してはならないような気がした。
「初めて俺を見てくれたんだ。もがき苦しみながら、泣き出しそうな目で俺を見てた。その瞬間だけ、あいつの命は俺の手の中にあった。あいつは俺のものだった」
安達は自嘲するように笑った。
「おかしいよな、こんな考え。俺、嬉しかったんだ。琴姉が死にかけてるのを見て、嬉しかったんだ」
「……健次」
どうすることもできず、ただ名前を呼んだ。
「ごめんな、雪人」
安達は弱々しい声を出し、頭を抱えた。
「お前を守るとか言っておいてさ……多分、心のどこかでお前を恨んでた。お前は俺のほしいものを簡単に手に入れるから……羨ましかったんだ、きっと。だからこそお前が俺を頼ってくれることが嬉しかった」
「……僕も同じだよ」
焼香の列が徐々に短くなり、葬儀がゆっくり終わりに近付く。この葬儀が終われば、彼女の存在は空気に溶けてしまうのだろう。じんわりと過去に染み込んで、いつか人の記憶の隅に追いやられてしまうのだろう。それが少し、羨ましい。
「僕も君が羨ましかった。君は家族を持っていて、みんなに好かれていた。だから僕は、君みたいになりたかったんだ……」
安達の笑顔を模倣したつもりだった。前向きになろうと努力もした。だけど理想と現実は重ならない。荒んだ心は歪みを増して、もう修正が困難になってしまった。
ふたりの道はずれていく。
「……似た者同士、だな」
「そうだね」
安達の言葉に微笑んで、雪人はその場を後にした。琴音の死は悲しかったけれど、悲しいという感情が蔓延したこの空間では、涙は逆に引っ込んでしまう。そんな自分に虚しさを感じた。
――もし、自分が死んだなら。
泣いてくれる人はいるのだろう。あやめにいたっては、泣くどころでは済まないかもしれない。それでも雪人は、素直にそれを喜べないような気がした。死者を悼む涙は純粋な愛情に満ちていた。自分には、それを受け止める勇気も資格もなかった。
朝起きて、授業に出る。望月雪人は勉強熱心でならねばならない。夜はバイトに行き、金を稼ぐ。そうしないと生活はできない。決められたメニューをこなして、1年がのろのろと過ぎていく。己の罪を過去に捨て狡く生きてしまえば、それなりに毎日は楽しかった。友人はできたが、恋人はひとりも作らなかった。今の自分が周囲の望む「雪人」でいられるのは、自分と他人の間に適度な距離があるからだ。その距離を縮められてまで、理想像を保てる自信が雪人にはなかった。
少しでも気を抜けば、過去の呪いが雪人を襲う。幸せになんてなれないと耳元で囁く。だからこそ、雪人は完璧でなければならなかった。完璧を保つ努力をしていれば、過去に耳を傾ける時間はなくなる。完璧でいれば、もう傷付くことはない。
大学3年の終わり。かねてからの希望通り、雪人は大手企業への就職が決まった。予定通りの未来が、すぐそこまで迫っていた。このまま大学を卒業して一流企業に就職すれば、十分すぎる金が手に入る。誰の助けを借りることもなく、ひとりで生きていけるのだ。そうすれば胸を張って生きていける。その時初めて、本物のヒーローになれるような気がした。
全ては順風満帆だった。憂うことなど何もないほど、人生は雪人の思い通りに進んでいた。このまま、絶対的な幸せを手に入れるのだ。幸せの海にどっぷりと浸って、過去のことを思い出す余裕なんてないくらい脳味噌が「今」で満たされてしまえば、暗い過去から逃れられるような気がした。目を閉じて、耳を塞ごう。過去のことは、もう忘れよう。そうすれば、自分は壊れずに生きていける。そう思っていた。そう願っていた。
その知らせは突然やってきた。
「――内定が、取り消し?」
携帯の向こう側から聞こえた言葉の意味を、雪人は理解できなかった。舌先で確かめるように繰り返しても、まるで知らない国の言語のように思えた。
「どうして、ですか? 何でいきなり……」
『君のことを調べさせてもらったんだ』
電話の向こうで、男が苦々しげに言った。
『犯罪者の息子は、ちょっとね』
――犯罪者の、息子。
過去に捨ててきたその肩書きが、再び雪人に貼り付けられた。
ブツン、と荒々しげに電話が切られた。後には無意味な機械音だけが残った。
「何だよ、それ」
突如訪れた絶望に、うまく頭がついていかない。足が震え、目の前の景色がぐにゃりと歪んでいく。
たった数分の会話だった。たった数分で、今まで積み上げてきた全てが跡形もなく風に流されたのだ。
犯罪者の息子と言われた。犯罪者の息子は、どんなに優秀でも受け入れられないと言われた。言い訳も反論もできなかった。違うと否定すれば、自分の罪があらわになる。肯定しても、その先に明るい未来はない。どうすることも、できなかった。
人の価値は、親で決まるのだ。どんなに学歴で飾っても、真っ当な人生を歩んでも、自分の過去は絶対に消せない。一度でも過去に傷が付いたら、誰も認めてはくれない。どんなに足掻いても、どんなに努力をしても、結局は呪いが雪人を縛る。雪人は全てを失ったのだ。
内定が取れた時、安達はそれを自分のことのように喜んだ。安達の両親も友人も、盛大に雪人を祝ってくれた。よかったね。さすが雪人だね。その賞賛を受けて初めて、報われたような気がしていた。理想の雪人になれた気がした。だがもう、自分は周りの期待に応えられない。望月雪人は泣いてはいけない。だから、誰にも頼ってはいけない。
安達に泣きつくこともできただろう。もう嫌だと叫んで、相談することもできただろう。だが、雪人の就職が決まった時に見せてくれたあの笑顔を曇らせることは、雪人にはできなかった。大切で、頼りにしているからこそ、自分はひとりで生きていけるのだと証明して、安達を安心させたかった。
明るい未来への階段を、一段一段長い時間をかけて上ってきた。もう少しで頂上に着くというところで、突然体を押されたのだ。あの時、自分が母にしたように。ふわり、と体が宙に舞う。真っ逆さまに落ちていく。強い痛みを伴って、背中から地面に着地する。長年酷使してきた足は疲れ果て、どんなに叩いても動かない。どれだけ階段を上っても、また突き落とされるかもしれないのだ。そう考えると、恐怖で足が竦んでしまう。そう考えると一歩も動けなかった。
同期の友人は続々と進路が決まっていった。大学院に進む者もいれば、公務員になる者もいた。まだ見ぬ未来に期待する彼らの姿はきらきらと輝いて、雪人の視界を曇らせた。どれだけ努力をしても、やはり彼らと自分は根本的に違うのだということを思い知らされ、もう何もかもが嫌になった。塵も積もれば山となる、という使い古された慣用句そのままに、気が付けば疲労は巨大に膨れ上がっていた。そしてそれは、雪人をぐしゃりと潰すには十分な大きさだった。内定の取り消しが直接の原因なのではない。それも小さな塵の一つなのだ。いろいろなことが時間をかけてゆっくりと雪人を壊していったのだ。何度希望を求めても、絶望がそれを許さない。
雪人は疲れ果てていた。大学にもバイトにも行く気力を失った。1日中部屋にこもり、腹が減ったら何かを口にし、眠くなったらベッドに倒れる。もう何も考えたくなかった。生きていくのは面倒だったが、死ぬ勇気もなかった。
何もせずとも時間は流れて、生きる代償のように通帳の金は減っていった。没頭するような趣味も、遊びに使う時間もないのに、ただ呼吸をしているだけでも金がいるのだと実感した。全てを捨てた雪人に残っていたのは、母を殺した容姿だけだった。
卑劣で、非情で、残酷で、非生産的な愛だった。
人間は見た目で性格を判断する。望月雪人は、誰からも愛される存在でなければならない。高校時代に学んだ方程式を利用して、雪人は複数の女と関係を結んだ。その見返りに金をもらった。相手に合わせて微笑んで、相手の望むように愛してやる。それはとても簡単で、自らの不幸を美談のように語って、中身のない愛を注げば、生きるための資金は手に入った。腐敗していく心と共に、汚染されていく体を感じながら、偽りの愛を作っていく。誰かを抱き締めるたび、好きだと囁かれるたび、どうしようもなく悲しくなった。
愛している、と女は言った。そのままのあなたが好きだとキスをした。ありのままの雪人など見ようとしたこともないくせに、女は平気で嘘をつく。僕もだよ、と返してやる。嘘をつくことは慣れている。そのままでいいと言うくせに、ただ傍にいてくれるだけでいいと言うくせに、それを真実にしてくれた女はいなかった。仮初の愛には常に終わりがあった。愛情をくれるだけでいい。そんな嘘はすぐに剥がれて、雪人に注ぐ金がなくなる頃には、彼女達は雪人を嫌悪した。金の切れ目が縁の切れ目、という慣用句は、紛れもない真実なのだ。
大抵の女は、守られることを望んでいる。傍にいてくれればいいというのは口実で、いつかは雪人に養ってもらうことを望んでいる。男というものは常に女を守らねばならない。その社会通念は覆せない。愛する人を守りたいなんて考えは、本当のヒーローのみが持てるものだ。諦念に飲み込まれた雪人に、もはやそんな力はなかった。
ひとりで強く生きていきたい。だから雪人は春風園を出た。あやめが望む雪人でいられるように、強くなれるように。早く大人になりたかった。だがいざ世界に飛び出してみると、自分はどうしようもなく無力だった。守ってくれる人は誰もいない。頼れる人間などいやしない。
いつまでも子供でいたかった。心が成長をとめたまま年だけを重ねた今、誰も雪人を子供としては見てくれない。少年法だってもう効かない。子供のままではいられない。大人になどなれはしない。なりたくない。
一定期間愛を与え、疎まれる前に次へと移る。そうして、捨てられる前に女を捨てた。そうすれば生きていくことができた。負い目も後悔も雪人にはなかった。最低な行為だと罵られても構わなかった。人間失格だと叫ばれても気にならない。殺人に比べれば、中身のない愛など些細な罪だ。偽りの愛を囁くたびに、心はどんどん汚れていく。体もどんどん汚くなる。本来人間が持つ三大欲求が、雪人には驚くほどなかった。よくよく考えてみれば、人を好きになったことすらない。愛を知らない自分が多くの女に愛されるとは、なんという矛盾だろう。馬鹿馬鹿しくて、煩わしい。もう何も考えたくはない。これ以上傷付くくらいなら、いっそのこと壊れてしまいたかった。愛を与えて、貢がせて、何の楽しみもなく生きていく。こんな生活を、いつまで続けていけばいいのだろう。
同窓会が開かれたのは、大学を卒業したすぐ後だった。
「なぁ、頼むよ雪人。お前がいないと集まらないんだよ」
同窓会の幹事を務める中川からの懇願に負け、雪人は渋々参加の意を示した。全てを捨てた気にはなっていても、結局長年つけてきた仮面だけは捨てきれなかった。そんな自分に反吐が出る。
3月の下旬。気温は徐々に上昇し、ようやく春の陽気が漂い始めていた。桜の蕾は膨らみ始め、よく見ると桃色の花を咲かせているものもある。その日は雲一つない快晴で、旧友との再会を喜び、思い出話を語り合うにはちょうどよい天気だった。会いたい人間も語りたい思い出もない雪人には、太陽の光さえも疎ましく感じた。
電車を乗り継いで、やっとのことで会場のホテルに到着した。やけに洒落たフロントを抜けて扉を開けると、どうやら遅刻したようで、ちょうど幹事が乾杯の挨拶をしているところだった。自分のタイミングの悪さにあきれながらこそこそと歩いていると、誰かが唐突に「雪人」と叫んだ。喧騒に塗れたはずのその叫びは、一瞬で幹事の挨拶を中断させた。会場にいる全ての人間の視線が雪人に集まった。
「雪人」
「雪人だ」
「雪人君」
「望月」
30の口が一斉に雪人の名前を呼んだ。その異様な光景に、おののいた。
「久し振り、雪人!」
わあ、と会場が賑わい、雪人はあっという間に取り囲まれた。
「久し振り」
「うん」
「元気だったか?」
「うん」
「変わってないな」
「みんなも、久し振り」
スターのような待遇にたじろぎながらも、雪人はぎこちなく笑みを浮かべた。
「遅かったな」
いつの間にか隣にいた安達が、こっそりと雪人に耳打ちした。
「どうせ寝坊だろ」
「……バレたか」
「馬鹿め」
安達はにやりと笑った。普段と変わらぬやりとりに、雪人はほっと息を吐いた。
同窓会は和気あいあいと進行した。学生と社会人の狭間にいる若者達が、精一杯の背伸びをして豪華な会場に集まっている。大人な素振りを見せながらも、まだ子供のままでいたいと願うように、青春時代に花を咲かせる。大人のふりをしているけれど、きっと誰も、成長なんてしたくはないのだ。
「雪人君」
ぽん、と肩を叩かれ振り向くと、そこには茶色く染めた髪を一つにまとめ、淡い色のドレスを着た女が立っていた。
「ええっと、井上さん」
古い記憶を引っ張り出すと、井上詩帆は「正解」と笑った。
井上詩帆は、高校3年生の時のクラスメイトだった。可愛らしい見た目とは反対にはっきりとした性格で、安達と共に学級委員を務めていた。男子からの人気も高かったが、雪人はあまり詩帆のことが好きではなかった。はっきりと理由を述べることはできないが、彼女の纏わりつくような視線を感じるたびに、体が拒否反応を示していたのだ。
「相変わらずモテモテだね、かっこよくなっちゃって」
「井上さんも、相変わらず口がうまいね」
「もう、本心だってば。……ほら、あんたも挨拶しなよ」
詩帆は雪人から視線を外すと、後ろに隠れていた女にこそこそと耳打ちした。
「いいです、私なんて」
「何言ってんの。あんたが話したいって言ったんじゃない」
「それはそうなんですけど……」
消え入りそうな声で呟いて、彼女は詩帆の背中にぴったりと張り付いた。不思議に思った雪人は、詩帆の後ろに回り込んでその女をまじまじと見つめた。
黒いワンピースを着た、小柄で華奢な女だった。ふんわりとしたショートボブの髪から、シャンプーの香りが漂った。雪人の視線に気付くと、女は逃げるように俯いた。
こんな女、同級生の中にいただろうか。記憶の引き出しを開けていくと、脳内に一つの名前が浮かび上がった。
「……水瀬さん?」
雪人が名前を呼んだ途端、彼女の白い頬にぽっと赤みが差した。どうやら当たりだったらしい。この時ばかりは自分を褒めてやりたくなった。水瀬結菜はためらいがちに雪人を見上げた。潤った瞳には歓喜と羞恥が映っていた。
「私のこと……覚えていてくれたんですか?」
「もちろん。眼鏡、取ったんだね。一瞬誰か分からなかった」
「はい。あの……」
結菜は何か言いたげに口をもごもごと動かしたが、結局それきり何も言わず、再び床に視線を落とした。そんな彼女を見て、詩帆はあきれたように息を吐いた。雪人も詩帆につられて笑った。
もちろん、と答えてしまったが、正直思い出せたのが不思議なくらいだ。1年間だけ同じクラスで過ごしたが、言葉を交わしたかどうかすら分からない。多くの女子生徒が雪人に好意を持つ中で、結菜だけは全くそういった素振りを見せなかった。
高校時代の結菜は暗く、地味な印象の女だった。細部まで思い出そうと試みても、記憶は靄がかかったようにぼんやりとしていて、はっきりとはイメージできない。当時は今よりもっと髪が長く、その瞳は常に眼鏡で隠れていた。声も小さく、人と話す時は決して目を合わせようとしなかった。無愛想で、笑うことは滅多にない、変わった雰囲気の女だった。
数年ぶりに会った結菜は、高校生の時よりずっと綺麗になっていた。アイシャドウも桃色のリップも、大人に見せるための手段であるはずなのに、メイクをしている結菜は少女のように可愛らしかった。小さな女の子が母親の化粧道具をこっそり盗んだような初々しさが、彼女にはあった。
それからは、同級生達と他愛もない話をした。結菜は詩帆の隣にぴたりとくっついて、曖昧に相槌を打つだけで、他に何も話さなかった。話の途中で、雪人は安達と詩帆が妙に親しげなことに気付いた。お互いを苗字ではなく名前で呼んでいるのだ。ちらりと安達に視線を送ると、彼からは照れたような微笑みが返ってきた。少し会わない間に、どうやらそういう仲になっていたらしい。
「それにしてもさぁ、お前は腹立つくらいイケメンだなぁー!」
親しげに言葉を交わす安達と詩帆を眺めていると、中川が勢いよく肩を組んできた。
「何、いきなり。酔ってるの?」
「酒なんか飲んでねぇよ。今日さ、雪人が来ないなら行かない! っていう女子も結構いたんだよ。お前が来なかったら、責められるのは幹事の俺じゃん?マジで来てくれて安心した」
「何それ、望月すごすぎ」
周りにいた男達がげらげらと笑ったので、雪人も社交辞令に笑い返した。今まで幾度となくこういった場面には出くわしてきたが、未だにどんな顔をすればいいのか分からない。
「そういえば雪人、大企業に就職決まったんだって?」
「……え?」
「すげぇよな、お前は。完璧すぎて何も言えねぇ」
言いながら、中川はぎりぎりと雪人の首を絞める仕草をした。
「ホントかよ、それ。初めて聞いたぞ」
「何だよー、世の中不公平だよな」
周囲から、一斉に羨望の眼差しが注がれた。目眩がした。笑顔を作ろうとしたら、失敗してぐらりとよろめいた。
「そんなこと、ないよ」
「謙遜するなよ、今更」
喉の奥から声を絞り出しても、周りは笑って雪人の言葉を否定した。
「やっぱ望月は住む世界が違うよなぁ」
「まったくだよ。中川はどうすんの?」
「俺は大学院だよ。まだ学生。お前は?」
「俺は――」
友人達の声が次第に遠のいていった。酸素がうまく取り込めず、呼吸をするたびに肺が喘いだ。目の前にいる友人達が、突然知らない人間のように思えた。彼らの陽気な笑顔も楽しげな声も、全てが雪人の心をきつく締め付けてきて、胃の中のものが一気に喉元に込み上げてくるような気がした。
世界が、遠くなる。
自分は今、どんな顔をしているのだろうか。ちゃんと上手に笑えているだろうか。泣きそうな顔を、していないだろうか。
――すごいなぁ、雪人は。
――さすがだな、雪人は。
繰り返される賞賛。反響する笑い声。足元がぐらつき、立っていられなくなる。堪らずに、雪人はその場から逃げ出した。
天井の電灯が、廊下を明るく照らしている。会場へと繋がる扉が、まるでボディガードのように、満ち溢れる笑い声から雪人を守った。
来なければよかった。
壁に背中を預けながら、雪人はぼんやりと天井を仰いだ。こうなることは予想できたのに、何故のこのことこんな場所まで来てしまったのだろう。自分の愚かさに腹が立つ。
虐げられてきた中学までとは違い、高校では栄光を手に入れた。勉強も運動も人一倍努力をして、絶対的な人気を手に入れた。だがそれは結局、雪人には不釣り合いなものだったのだ。だからこうして今、しわ寄せが来たのだ。
今ここにいるのは、無様で、みっともなくて、格好悪いただの男だ。ヒーローなどでは決してない。ただの、惨めな男。どれだけ多くの人間から慕われても、その事実は消えないのだ。そう考えると、目頭が熱くなった。もう涙なんて忘れたはずなのに、自分にもまだ「悲しい」という感情が残っていたとは。涙を拭おうとして初めて、雪人は自分の手が震えていることに気付いた。いくら笑顔で飾っても、弱さだけは隠せない。
曲がり角の方から、ヒールの鳴る音が聞こえてきた。
「望月、君?」
控え目な声に、雪人ははっと振り返った。黒いドレスを着た、小柄な女が立っていた。雪人の涙を見て、結菜は驚いたように目を見開いた。
「……水瀬さん」
見られてしまった。思考回路が停止して、咄嗟に言葉が出なかった。
「ちょっと、結菜ぁ!」
遠くから、詩帆の叫び声が聞こえてきた。バタバタとうるさい足音が、こちらに向かっていることを知らせている。
その時、結菜が雪人の腕を引っ張った。
「置いていかないで、よ……」
声と共に、詩帆の歩調は次第に遅くなっていった。恋人のように寄り添う雪人達を見て、詩帆はぽかんとだらしなく口を開けた。
「……すぐ、行きますから」
恐ろしく感情のない声だった。「う、うん……」その声に気圧されたように、詩帆はそそくさと会場に戻って行った。
扉が閉まったのを確認して、雪人は結菜から体を離した。
「……みっともないとこ、見られちゃったね」
結菜は何も言わず俯いて、小さく首を左右に振った。
弱さを見られてしまった。今まで、自分は完璧であったはずなのに。気恥かしく、気まずかった。
「戻ろう」
「……戻らなくていいです」
結菜は小さく呟くと、歩き始めようとした雪人の腕をつかんだ。振り向くと、彼女の大きな瞳が雪人を見上げていた。
「帰りましょう。……目、少し赤い」
雪人は咄嗟に指で目頭を押さえた。結菜は雪人の手を握ると、会場とは反対方向へ雪人を引っ張った。似つかわしくない強引さに呆気にとられ、雪人はなされるがままに歩き始めた。
「ちょっと、水瀬さん……」
「家、どこですか? 送ります」
「でも」
「いいから」
外に出ると、もう空は暗くなっていた。春先とはいえ、夜の空気はまだまだ冷たい。寒さに震える間もなく、結菜はすぐにタクシーをつかまえ、ためらう雪人を無理やり押し込んだ。再会した時のしおらしさが嘘のようだった。運転手に行き先を告げると、タクシーがゆっくりと動き出した。
ふたりはしばらく黙っていた。互いに目を合わさず、ただ窓の景色を眺めた。灰色のビルがきらきらと輝いて、空の暗さを際立たせていた。次第に明かりは減っていって、雪人の住むアパートに着く頃には、闇の方が濃くなっていた。
タクシーが停まると、結菜は雪人を制して代金を払った。雪人はのろのろとタクシーから降りた。3階建ての、寂れたアパートを見上げると、誰もいない自室が目の前にぼんやりと浮かんだ。これから、また自分はひとりの空間に戻るのだ。
「じゃあ、私はこれで……」
「……待って」
雪人はタクシーをのぞき込み、そっと結菜に手を伸ばした。
「少し、寄ってかない?」
今はまだ、ひとりになりたくなかった。あの静かな空間に戻るのが怖かった。結菜は視線を宙に泳がせた後、遠慮がちに手をつかんだ。彼女の小さな手は、驚くほど温かかった。
古びた外階段を上がっていくと、カン、カン……と結菜のヒールが大きく響いた。4つあるうちの、奥から2番目のドアの前まで行き、ポケットから出した鍵を穴に突っ込んだ。
ドアを開き電気をつけると、部屋は朝の状態のままだった。慌てて出掛けたため、寝巻が無造作に脱ぎ捨ててある。静寂が怖いくらい大きく耳に響いた。雪人が靴を脱いで部屋に上がっても、結菜は玄関に留まったままだった。
「……幻滅しただろう」
彼女に背を向けたまま、雪人は静かに口を開いた。
「本当の僕は、こんなに弱い」
今までずっと隠してきた、本当の自分。だが結菜には、もう全て見透かされているような気がした。
「もう終わりにしたい。もう何も考えたくない。弱いから、死ぬ勇気も持てない」
言葉が、溢れる。弱さも痛みも全て、吐き出してしまいたかった。
「誰も助けてくれないんだ。世界は不条理だ。劣悪で、汚い。みんな僕に求めるんだ。僕に、愛情を求めてくるんだ。僕には何もないのに。愛し方なんて分からないのに。みんな『望月雪人』を求めるんだ。完璧なヒーローを。本当の僕に気付きもしないで」
舌がもつれ、自分でも何を言っているのか分からなくなった。雪人はゆっくりと結菜の方へ振り向いた。
「君はどうして僕を助けたの?」
結菜は何も答えない。
「君も僕に、愛を望んでいるの?」
瞳にほんの少しの憐憫を込めて、雪人をじっと見つめている。それがなんとなく、煩わしい。
「いいよ。あげるよ。金をくれたら、いくらでも愛してあげるよ」
ぶっきらぼうにそう言って、雪人は結菜に近付いた。指の間から、結菜の髪がさらりとすり抜けていく。
「僕のこと、好きなんでしょう」
「……好き、じゃないです」
ぽつりと、結菜が呟いた。
「愛してるんです」
「どれくらい?」
「殺したいくらい」
「……君は僕を殺してくれるの?」
「いいですよ」
あっさりと、結菜は答えた。あまりにも軽く答えたので、雪人は一瞬自分の耳を疑った。結菜の瞳は真剣で、とても冗談を言っているようには見えない。表情からは何の意図も読み取れない。それが急に恐ろしくなって、雪人は思わずたじろいだ。
「信じられないよ……愛情なんて信じられない」
「……信じてください」
「今までだって、女はみんな同じことを言った。でも、一生僕を愛せる人なんていなかった。何もしなくていい、雪人はいるだけでいいって言いながら、時が経つと求めてくる。更なる愛とか、金とかを。そういうの、もううんざりなんだ」
次第に声が大きくなった。唇が震え、涙がぽろぽろと零れた。もう自分は大人であるはずなのに。いつまで経っても大人になれない。涙を流すことすら許されない。永遠に子供のままでいたいのに、時はそれを許してくれない。右手で両目を覆っても、溢れる涙は隠せない。
結菜は何も言わず、涙を流す雪人を見つめていた。そこには同情も、あきれもなかった。人形のように静止して、じっと、雪人を見つめ続けた。
「……春が過ぎて」
涙も嗚咽も薄まった時。そっと、結菜が囁いた。
「夏が終わったら、迎えに来ます」
雪人は手を離し、顔を上げた。
「あなたを殺してあげる」
今までのどの言葉よりも強く、大きな声だった。それは力強い、誓いの言葉だった。
結菜のワンピースが、ふわりと揺れた。ドアがゆっくりと開かれ、夜の光が差し込んだ。
「だから、信じてください」
――一瞬、
弱く、こころもとない光に照らされる彼女に見惚れた。雪のように白い肌と、闇のように黒いワンピースが、外の世界に吸い込まれ、パタンと音を立てて消えた。
再び閉ざされた扉が、番人のような顔で雪人を見ている。その冷たさに、雪人はしばらく動けずにいた。
彼女は、何を考えているのだろう。
今起こった出来事を、脳内で再生してみる。結菜は雪人を愛していると言った。夏が終わったら、雪人を殺してやるとも言った。その表情に、再会した時の面影はもうなかった。
会場で会った結菜はおどおどしていて、ろくに会話もできないほど内気な印象を受けた。だが今の結菜は違った。何を考えているか、本心が全く読めない奇妙な女だ。
彼女は本当に、自分を殺してくれるのだろうか……。
そう考えて、雪人はすぐに首を振った。女の愛情なんて、信じられるはずがない。数ヶ月したら忘れるに決まっている。期待したって裏切られるだけだ。
ふらふらと歩いて、雪人はベッドに倒れ込んだ。布団から、微かに女のにおいがした。甘ったるくて気持ち悪い。結菜から漂う、シャンプーの香りを思い出した。干し立ての布団のような、太陽の光のような、温かいにおい。繋いだ手のぬくもり。冷たい瞳。
水瀬、結菜。
彼女の姿を思い描きながら、雪人はゆっくりと目蓋を閉じた。
4月になると、本当にすることがなくなった。今まで名目上は学生だったわけで、1日を何もせずに過ごしても、まだ学生だからと言い訳ができたが、その肩書きすらも失った今、甘えられるものはどこにもなかった。街に春のにおいが溢れるにつれ、雪人はますます部屋に引きこもるようになった。どことなく暗く、冷たい印象を持つ冬とは違って、出会いや始まりを持つ春という季節は、自分と対極にあるもののように思えた。
出掛けるといえば、食料を調達に行く時か、金を貰うため女に会う時くらいだった。特定の女がいなくても、街でぼんやりと立っているだけで、自然と女は寄ってきた。稀に、芸能事務所からスカウトされることもあった。美というものは、本人にその気はなくても、それを持っているだけで人間を引き寄せるものらしい。犯罪者である自分に群がり、媚を売る人間達は馬鹿らしく、滑稽だった。
同窓会から1ヶ月も経たないうちに、雪人は詩帆と再会した。夕飯を買おうと駅前のコンビニに立ち寄った時、突然背後から声を掛けられたのだ。避ける暇も、手段もなかった。
「すっごい偶然。びっくりした」
そう言って彼女は笑ったが、なんとなく、雪人は偶然ではないんじゃないかと思った。まるで雪人に見せるためだけのように準備された笑顔が、わざとらしく、嘘のように感じたのだ。
それから詩帆は、こうなることが分かっていたかのように雪人を食事に誘った。本当はあまり関わりたくはなかったが、特に断る理由もないので、雪人はあっさりと了承した。
駅にあるレストランに入ると、夕食時なだけあって、店内は人で溢れていた。土曜日だからだろうか、客は家族連れからカップルまでさまざまだ。注文をして、料理が来るまで随分と待たされた。最初は食欲がなかった雪人も、ようやく料理が運ばれてくる頃には空腹を感じるようになっていた。
「もしかして、体調悪い?」
詩帆が、心配そうに雪人の顔をのぞき込んだ。
「え?」
「あんまり顔色よくないみたいだから……。無理に誘っちゃったかな?」
「そんなことないよ」
ぎこちなく笑って、雪人はドリアを一口食べた。ここ数日ろくなものを食べていないせいか、驚くほどおいしく感じた。
「ならいいけど。仕事、どう?忙しい?」
雪人の表情が曇った。
「……実は、今ちょっと休んでるんだ」
予想していた質問に、予定していた答えを返す。
「生まれつき心臓が弱くてさ。始めたばかりなのに、情けないよ」
「心臓って……そんなに悪いの? 大丈夫?」
「すごく悪いってわけじゃないんだ。安静にしていれば苦しむことはないし」
清々しいほどの嘘だった。心臓が弱いのは本当だが、生活に支障が出るほどのことではない。自分を守るためならば、どんな嘘でもつくことができる。詩帆の不安げな表情を見ても、心は何も感じない。
「本当に、気にしないで。大したことないんだから」
「それならいいけど……」
「井上さんは、最近どう?」
「どうって、普通。毎日つまんないわ。同窓会が遠い昔のことみたい」
「まだ3週間くらいしか経ってないよ」
「そう、ね」
白い皿の上に乗った魚を、詩帆は流れるように優雅な手つきで口に含んだ。長い睫毛が何かを思案するように二、三度震える。
「同窓会の日」
家族連れの客を横目で見ながら、詩帆が言った。
「雪人君、途中でいなくなったよね? 結菜と一緒に」
父親と、母親と、幼い息子を順に見て、それから雪人に視線を戻す。鋭い、女の目だ。
「ふたりでどこに行ったの?」
「……どうしたの、いきなり」
ごまかそうとして、笑顔が歪んだ。忘れようとしていた、あの日のことを思い出す。冷たい瞳に、温かい手を持った女を。殺してあげる、という愛の言葉を。
「あの子、変わった子でしょ。笑わないし、喋らないし。高校の時からそう。ひとりぼっちで、付き合い悪くて。見ていられなくてなんとなく一緒にいたけど、そうする必要なんかなかったのね、きっと」
「どういう意味?」
「私が一緒にいてあげた気になってたけど、本当は違ったの。あの子はひとりでも生きていけるのよ。同情してたのはあの子の方。あの子が私と一緒にいてくれたの。本当、嫌な女」
吐き捨てるように言って、詩帆はフォークを魚にブスリと突き立てた。ソースが汚らしく皿の上に飛び散った。先程までの上品さは、もう彼女の中にはない。そこにあるのは、結菜への確かな嫌悪だけだ。雪人の心情に気付いたのか、詩帆は取り繕うようににこりと笑った。
「友人として、興味があるのよ。雪人君ほど素敵な人が、どうしてあの女を選んだのか」
「僕と水瀬さんは、別にそういう関係じゃ……」
「じゃあ、私は?」
ずい、と詩帆が身を乗り出した。詩帆の瞳の中に映る自分と目が合った。
「私でも、いいでしょ」
「……本気?」
雪人が尋ねると、詩帆は頬を赤らめながらこくりとうなずいた。
――ああ、結局詩帆も同じなのだ。この美貌が、ほしいのだ。
そう考えると、急に目の前の女が安っぽく思えた。
雪人は自分が口の端を歪め、皮肉めいた、蔑むような顔で笑っていることに気付いた。昔の無邪気な笑みは、もう作ることはできないのだと思った。もう、自分にはこれしかないのだと。こうやって、他人を蔑みながらも他人の優しさに甘えて生きていくことしかできないのだと。
この日から、詩帆は頻繁に雪人の部屋へ出入りするようになった。雪人が何を言わずとも、飯の用意から掃除洗濯まで器用にこなした。収入がなく家賃が払えないと知ると、彼女は二つ返事で支払いを引き受けた。ごめんね、ありがとう、愛してる。心にもない言葉を並べて口を塞いでしまえば、それだけで詩帆は上機嫌になる。派手な外見とは反対に、詩帆は尽くすタイプのようだった。利用するにはちょうどいい、都合のいい女だ。
どれだけ夜を重ねても、どれだけの時間を共に過ごしても、詩帆に心惹かれることはなかった。子供のように甲高い話し声も、血のように赤い口紅も、不快に思えて仕方なかった。
何よりも嫌なのが、甘ったるい香水のにおいだ。自分を美しく着飾って、男を誘惑するためだけにつけられたようなその香りを嗅ぐたびに、胃と肺が強く圧迫されるような気がした。そのにおいは、遠い昔、美しさに囚われて狂っていった女と似ている。詩帆はどことなく、母親に似ていた。
詩帆は今までのどの女よりも甲斐甲斐しく雪人に尽くしてくれた。最初の病弱設定が功を奏したのだろうか。彼女は雪人に働けと言うことはなかったし、金も求めたことはなかった。どこかに出掛けたいとねだったことも、何かがほしいと願ったこともなかった。ただ傍にいて愛してやれば、それだけで詩帆は満足なようだった。雪人はブランド品のように、持っているだけで価値があると、彼女は考えているようだった。
このまま詩帆に身を委ねてしまえるのなら、それはそれでいいかもしれない。時が経つにつれ、詩帆への嫌悪感は徐々に薄れていった。このまま彼女に全てを任せてしまえば、もう何も考える必要はない。苦しむことも、傷付くこともない。永遠に自分の世界に閉じこもっていられる。
ただ一つ気になることは、どうやら詩帆は安達との関係を保ったままであるということだった。詩帆に対する怒りは湧かない。不誠実なのは雪人も同じだ。ただ、安達に対する罪悪感だけは、常に雪人の頭の片隅に存在していた。安達が雪人と詩帆の関係を知っているのかは分からなかった。詩帆も安達の話題を避けているようだったし、雪人もまた、決して問いただすことはなかった。安達とは同窓会以来一度も連絡を取っていない。もし彼が今の雪人を見たら、どんな顔をするのだろうか。働きもせず引きこもり、あまつさえ詩帆に養ってもらっているこの状況を、彼はどう思うのだろうか。
かつて安達は、雪人を守ってやると言った。それなのに自分は、その恩を仇で返しているのだ。「お前はもう悪くない」――もう、そんな言葉は掛けてくれないだろう。
昔から安達は常に正義であろうとした。困っている者がいたら助け、間違っている者がいたら躊躇なくそれを正す。そうやって善行を積み重ねることを義務のように思っている節があった。人に優しくすれば、その分だけちゃんとした報いを受け取っていた。だが雪人の裏切りは、彼にとって初めての誤算であり、「失敗」なのだ。与えた恩が仇で返ってきた時、安達は、安達の信念はどうなってしまうのだろう。彼の正義は、大きいがゆえにとても脆く、壊れやすいような気がした。
詩帆の愛に甘えるうちに桜が散り、夏が来た。八月が終わる頃には、結菜のことなどすっかり記憶から抜け落ちていた。
――夏が終わったら、迎えに来ます。
8月31日、深夜。
忘れもしない、夏の終わり。
「雪人ぉ」
部屋に上がり込むなり、詩帆は甘ったるく雪人に抱き付いた。時計の針はもう少しで0時を示そうとしている。窓の外は真っ暗で、秋を告げる虫の鳴き声が網戸から微かに聞こえていた。
「酔ってるの?」
「んー……」
倒れそうになる詩帆の体を抱きかかえると、香水に混じって酒のにおいがした。そういえば昨日、会社の飲み会があると言っていたような気がする。雪人は短く息を吐くと、そっと詩帆をベッドに下ろした。
「待ってて、今水を……」
「……ねぇ」
台所に向かおうとした雪人のシャツを、詩帆がつかんだ。振り返ると、詩帆はにんまりと不適な笑みを浮かべていた。頬は紅潮し、瞳は熱っぽく潤んでいる。
「私ねぇ、知っちゃった」
「……何を?」
なんとなく、嫌な予感がした。生ぬるい風が、シャツの間をぬるりと通り抜けていく。その気持ち悪さにぞくりと鳥肌が立った。
「あなたのお父さん、人殺しなんでしょ」
息が、とまった。
「……誰に聞いたの」
自然と声が低くなった。もう偽りの笑みを作ることもできない。詩帆はけらけらと下品な笑い声を上げた。
「やっぱりそうなんだぁ……あ、でも誤解しないでね。そんなことで雪人のこと嫌いになるわけないし……」
詩帆が腰を浮かせると、ギシ、とベッドが軋んだ。するり。蛇のように厭らしく、雪人の首に腕が絡み付く。熱い吐息が首筋にかかった。
「かわいそうなひと」
赤い舌が、唇の間を割って入ってくる。
「きれいでこどくな、よわいひと」
傷んだ茶色い髪。白い肌。柔らかな胸。ぬるい、体温。
「雪人はねぇ、所有してこそ価値があるの。宝石みたいにきらきらしてるの。だからみぃんな、あなたがほしいの。輝いているあなたが好きなの。輝いてないと、誰も愛してくれないの」
吐息混じりの甘い声が、波紋となって脳に広がる。言葉は毒となり、じんわりと心に浸透する。
「人殺しの息子を、他に誰が愛してくれるの?」
痛い。
「私の他にそんな女いないわ」
痛い。
「だから、ねぇ、もっと私を見てよ。私なら、私だったらあなたを――」
「――君もそうなんだ」
どうしようもなく、痛い。
体に張り付く女を思い切り突き飛ばした。詩帆の細い体がベッドに沈み、きゃっ、と短い悲鳴が上がった。白い首に両手を掛け力を込めると、詩帆の表情が恐怖に染まった。酸素を取り込もうと、ぱくぱくと金魚のように口が開かれた。両腕と両足をじたばたと動かす姿はちょっとした喜劇だ。
「君も同じなんだ」
遠い昔、まだ雪人がヒーローを演じる前。周りの人間は雪人を罵倒し、蔑み、虐げた。いくら美で飾り立てても、雪人に人殺しの血が流れていると知った途端に、周りの人間は逃げていく。この女もそうだったのだ。今までずっと、雪人を憐憫の瞳で見ていたのだ。そう思うと、強い怒りが込み上げてきた。
いつも、過去が邪魔をする。雪人の幸せを妨げる。雪人を愛する女だって、途端に悪魔へと姿を変える。
これは呪いだ。永遠に解かれることのない、罪の呪い。
――ピンポーン、
玄関から、軽快なチャイムが鳴った。雪人ははっと我に返り、詩帆の首から手を離した。酸素を得た詩帆は激しく咳き込んだ。
――ピンポーン、
もう一度、鳴った。
雪人は振り返り、玄関を見た。灰色のドアの向こうに誰かがいる。時計に目をやると、ちょうど日付が変わったところだった。
9月1日。
夏が終わり、秋が来たのだ。
そのまま雪人が動けずにいると、ギイ……と軋んだ音を立てながら、玄関のドアがゆっくりと開いた。暗闇の中に、白い肌がぼんやりと浮かび上がった。氷のような冷たい瞳に、雪人は息を呑んだ。何か言おうと口を開いてみたが、何を言えばいいのか分からなかった。
結菜は靴を脱ぐと、静かに雪人へと近付いた。
「ゆ、結菜……?」
詩帆が苦しげに名前を呼んだ。結菜は彼女に目もくれず、茫然と立ち尽くす雪人だけを見つめた。
「迎えに来ました」
相変わらず、かすれるほど小さな声だった。結菜はポケットから通帳を取り出し、そっと雪人に差し出した。
「あなたの心と体と、未来を買い取ります」
雪人は戸惑いながらも通帳を受け取った。開いて見ると、そこには数え切れないほどの0が並んでいた。雪人は驚いて顔を上げた。
「だから、私のものになってください」
「……本気なの?」
「私は冗談が苦手です」
結菜はちっとも笑っていなかった。
「……君は、僕を守ってくれるの?」
「守ります。あなたのためなら何でもする。あなたの望むことなら何だって叶えてあげる。もう、泣かせたりしない」
あれほどうるさかった虫の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。夏の終わりの風だけが変わらずに吹いて、どこかで木々を揺らしている。
「……じゃあこの女、殺してよ」
慈しむように、詩帆の頬を撫でた。最後の愛だった。
「そうしたら、本当に信じてあげる」
「何、言ってるの……?」
ようやく酔いが醒めてきたらしい。先程までの赤みが嘘のように、詩帆の顔は青ざめていた。
「ねぇ、雪人……冗談でしょ?」
結菜は初めて詩帆を視界に入れた。それから辺りを見渡すと、台所へと足を進めた。
戻って来た結菜の右手には、包丁が握られていた。ひ、と詩帆の喉が鳴った。
「その手をどけてください。最後にあなたのぬくもりを感じながら死ぬなんて、そんなの許せないから」
「や、やめて……やめて……」
雪人は詩帆から手を離し、数歩下がった。反比例するように、結菜は詩帆に近付いていく。
「ねぇ、結菜……私達、友達でしょ」
「私に友達なんていません」
大きく、腕を振り上げた。きらりと包丁が光った。
「私に必要なのは、ひとりだけなの」
血飛沫が飛び散る。
白い壁が、ベッドが、雪人の視界が、赤く染まる。
結菜は何度も詩帆の体に包丁を突き刺した。まるで作業のように淡々と、表情一つ変えずに。詩帆の命が消えていく様子を、雪人は傍観者のようにただ見ていた。詩帆の体はぴくぴくと小刻みに痙攣し、やがてぴたりと動かなくなった。
まるでビデオの一時停止ボタンを押したように、詩帆は恐怖を映したまま、固まった。目は化け物を見たかのようにひん剥かれ、口はだらしなく開かれている。完全に息絶えたことを確認すると、結菜はだらりと腕を下げた。
風の音が聞こえる。窓の外から月明かりが入って、ぼんやりと結菜を照らしていた。汗が雪人の頬を伝って、ぽたりと落ちた。
ゆっくりと、彼女は振り向いた。
白い肌と黒い服は、返り血で赤く染まっていた。結菜が手を開くと、包丁が鈍い音を立てて床に落ちた。
茫然と佇む雪人に、結菜はふわりと微笑んで見せた。残酷なほど優しい笑みだった。
「……ああ……」
その笑みを見た瞬間、どうしようもなく泣きたくなった。震える手を伸ばし、結菜を思い切り抱き締めた。結菜の体は折れてしまいそうなほど細く、小さかった。彼女の体温を感じると、涙がとめどなく溢れ出した。
子供のように声を上げて泣いた。結菜は何も言わず、雪人の背中に腕をまわした。
雪人が母を殺したように、結菜は友を殺した。自分がそうさせたことなのに、なんだか無性に悲しかった。今この腕の中にあるぬくもりも、ぬめついた詩帆の返り血も、ベッドの上にある詩帆の死体も、逃れられない現実だった。
この女は、狂っているのだ。自分と同じ、大人になれない子供なのだ。雪人の泣き声を掻き消すように、暗い空から雨が降り始めた。網戸から入ってくる雨が、死んだ女を濡らしていく。
雪人はずっと「ひとり」だった。安達もあやめも、雪人と同じ「ひとり」にはなってくれなかった。だが結菜は違う。結菜もきっと、初めから「ひとり」だったのだ。だから雪人を求めたのだ。
どれだけ強く抱き合っても、体の震えはなくならない。涙も声もとまらない。もう、どこにも行くことはできない。膝から力が抜け落ちて、ふたりして床に崩れ落ちた。積年の疲労と重圧が、すう、と空気に溶けていくのを感じた。
どちらからともなく、そっと唇を重ね合わせた。重ねるだけの口づけは、徐々に深いものに変わっていった。死体が転がる狭い部屋で、何度も何度も、狂ったようにキスをした。世界にはもう、ふたりしかいなかった。
太陽が昇る前に、結菜は手際よく死体の処理をした。中身の見えない黒いビニール袋で死体を包み、押し入れにぐいぐいと押し込んだ。血で汚れた布団とカーペットも袋に入れ、壁や床を雑巾で念入りに掃除した。明日はちょうど燃えるごみの日だった。
それから、体に着いた血を洗い流すためにシャワーを浴びた。結菜の着替えには雪人のシャツを与えた。シャワーを浴び終わり、綺麗に片付いた部屋を見渡すと、ついさっき起きた惨劇が全て夢だったように思えた。押し入れに放置していた死体や布団を、家から離れたところのごみ捨て場へと運んだ。死体は詩帆のものとは思えないほど重かった。これが命の重みなのだと感じた。
それからはあっという間だった。数日もしないうちに、雪人の部屋はもぬけの殻になっていた。元々私物は少なかったため、荷物整理は半日もかからずに終わった。名残惜しさは微塵もなかった。
結菜の部屋は、ふたりで住むには十分すぎるほど広かった。
「お金だけはあるんです、私」
結菜は冗談っぽくそう言って、悲しそうに笑みを浮かべた。聞くと、彼女は一応社長令嬢だと言う。愛人の子である自分を本妻に預けた引け目から、毎月膨大な仕送りが父から送られてくるのだと言った。だから金の心配はないと。それを除けば実家とは完全に疎遠状態で、結菜を訪ねてくる者はいないらしい。この広い部屋でたったひとり過ごす彼女を想像すると、なんだかとても寂しい気持ちになった。
ベランダに出ると、空の青が一面に広がっていた。マンションの7階から地上を見下ろすと、人も家もレゴブロックのように小さく見えた。
あの時と、同じだ。
高校の時、屋上から見た景色を思い出した。あの時もこんな風に街を見下ろして、滑稽だと蔑んだ。何も変わっていないのは風景だけで、信じていた過去も未来も、今では驚くほどに変わってしまった。もう、あの頃には戻れないのだ。
ここから見渡す風景が、雪人の世界の全てになる。この閉鎖的な空間で、結菜と共に生きていくのだ。そうすればもう、永遠に傷付くことはない。「望月雪人」は死んだのだ。優秀で、運動もできて、器量もよく、優しい、みんなの「雪人」は死んだのだ。これからは結菜だけを見ていればいい。優しく抱き締めてやればいい。そうすれば、永遠の平穏が手に入る。
これがふたりの、ふたりぼっち計画。雪人を守るために結菜が考えた、たった一つの小さな秘密。
望月雪人は世界から遮断されなければならない。雪人はこの世界から消えなければならない。世界中の人間に、「雪人は死んだ」と思わせるのだ。そうすればもう雪人を求める者はいない。ヒーローの雪人も、犯罪者の雪人も、この世界から消えるのだ。
1番問題となるのはあやめの存在だった。雪人が施設から出た後も、あやめは頻繁に連絡を取ってきた。以前に比べて直接会う回数は減ったものの、それでもメールは続いていたし、電話も掛かってきた。
成長するにつれ、あやめが向ける愛情は強くなっていった。幼かった淡い恋情は、執着心へと形を変えていく。あやめを大切にするあまり、雪人は知らず知らずのうちに異常な依存心と独占欲を育てていたのだった。雪人が他の女と歩いていると、あやめは強い憎しみのこもった目で女を睨んだ。その瞳に映る殺意に、恐ろしささえ感じた。共に過ごしてきた時間が長いせいで、雪人の存在は容易には消えないほどあやめの中に染み込んでいた。きっとあやめには、どんな嘘も通用しない。雪人と連絡が取れなくなったとしても、あらゆる手段を使って雪人を探すだろう。
「妹さん、ですか?」
あやめの存在を結菜に打ち明けると、彼女はきょとんと首を傾げた。
「血は繋がってないんだけどね。昔、約束を交わしたんだ。それからずっと、僕らは兄妹」
幼い頃の自分は、あやめの兄になることで自分に価値を与えようとした。あれから12年。あやめに救いを求めていたはずなのに、そうすることで逆に自分の首を絞めていた。あやめの望む兄であろうとすればするほど、自分の弱さを思い知った。結果、自分は逃げたのだ。なんて愚かで、無様な生き物だろう。
「……どうかした?」
口を閉ざしたままの結菜に、雪人は不思議に思って問い掛けた。
「いえ……仲、いいんですね」
小さく首を左右に振って、彼女はそっと微笑んだ。
「羨ましいです」
それきり、結菜は何も言わなかった。まるで誰かを想うように、窓から見える空を仰いだ。
考えた末、あやめには雪人の死を広めてもらうことにした。だからといって、故意に広める必要はない。今まで関係を持ってきた女達の中には、あやめの存在を知っている者も何人かいる。雪人と連絡がつかなくなれば、きっと彼女達はあやめの元へ行くだろう。そうなった時に、雪人の死を伝えてもらえばいい。そうすれば、能動的にならずとも、死はじんわりと世界に浸透していくだろう。人の噂ほど広まりやすいものはない。
結菜にその計画を伝えると、彼女はしばらく思案した末、「いいですよ」と了承した。
「それがあなたの望むことなら」
こうして、ふたりぼっち計画は、不完全のまま始まることになった。結菜の部屋に住居を移した雪人は、早速あやめに電話を掛けた。
「あやめ、僕は死ぬことにしたよ」
そう告げると、案の定あやめは戸惑い、反対し、泣き喚いた。
「嫌だよそんなの雪人はあやめのお兄ちゃんなんだからあやめと一緒にいなくちゃいけないの何でいきなりそんなこと言うのあやめはずっとお兄ちゃんの傍にいたいのに」
我が儘で、甘えん坊で、泣き虫な妹。最初に雪人を必要としてくれた、小さな小さな女の子。全てを捨てようとしたはずなのに、あやめの泣き声を聞くと、雪人の心はちくりと傷んだ。だがもう後には引けない。自分は、結菜に殺されることを選んだのだ。穏やかな死を願ったのだ。きっと世界中の人間が雪人を忘れても、あやめだけは忘れないでいてくれるだろう。そう思うと、安心した。
あやめに電話を掛け終えた夜。
微かに聞こえるシャワーの音に耳を澄ませながら、雪人はソファーに腰掛けていた。テーブルの上には役目を終えた携帯がアンティークのように置かれていた。明日、結菜が新しい携帯を買ってきてくれる。そうすれば完全に、電話帳の中の女も友人も消えてなくなる。また一歩、「ふたり」に近付く。
雪人は首だけを動かして、ぐるりと部屋を見渡してみた。結菜の部屋は驚くほど何もなかった。リビングにはテーブルとソファー、そしてテレビ。寝室にはベッドと化粧台。まるでモデルルームのような、素っ気ない空間。家具は全て雪のように白く、それ以外の色はなかった。
薄型のテレビにはくだらないバラエティー番組が映っていた。長らくテレビを見ていなかったせいで、名前も知らない芸能人ばかりだった。VTRを見ながら、ゲラゲラとわざとらしく笑っている。きっとカメラのいない場では、彼らは全く別の人間なのだろう。観客から求められるがまま、ピエロのように道化を演じているのだ。妙に感傷的になったので、雪人はニュース番組にチャンネルを変えた。
携帯電話が鳴ったのは、ちょうどその時だった。
テレビのリモコンを置いて、携帯を手に取った。あやめからか、それとも過去の女だろうか。しかし画面に表示されていたのは、予想とは違う名前だった。
まるで首を絞められたかのように、途端に呼吸が苦しくなった。先程まで置物と化していた携帯は、本来の役割を思い出したかのように激しく鳴り続け、雪人を呼んでいる。
出ては、いけない。
もうひとりの自分が、脳で警鐘を鳴らしている。それなのに、震える指は自然と通話ボタンを押していた。
携帯を、耳にあてる。回線の向こう側から人の気配が伝わる。だが声は聞こえない。雪人は固く口を閉ざし、隠れるように息を潜めた。
『……雪人』
自分が知っているのとは違う、まるで魂が抜けたような、弱々しい声だった。
「健、次?」
名前を呼んでも返事はない。電話の向こう側にいるのが本当に彼なのか、ほんの少しだけ疑った。
『詩帆が、いなくなったんだ』
憔悴し切った様子で、彼は言った。
『1日から連絡が取れないんだ。仕事にも行ってない。部屋にもいない。誰も詩帆の居場所を知らないだ。どれだけ探してもいないんだ。メールを送っても返ってこない。電話を掛けても繋がらない。今までこんなことなかったのに』
電波が悪いのか、それとも声が小さいせいか、言葉がよく聞こえない。雪人は携帯を強く耳に押しつけた。
ノイズに混じって、すすり泣くような音が聞こえてきた。耳を澄ませば聞こえないくらい小さな嗚咽だった。安達は静かに泣いていた。
『なぁ、雪人ぉ……』
絡み付くような口調で名前を呼ばれた。その瞬間、遠く離れた場所にいるはずの安達が、まるですぐ隣にいるような錯覚を覚えた。雪人を逃がさないように後ろに立って、首に手を掛けながら、耳元で囁かれたような、厭らしい声色に、ぞくりと全身の毛が逆立った。
『お前は今どこにいる?』
「……」
『……俺が何も知らないと思ってた?』
馬鹿にしたような、あきれたような言い方だった。
『詩帆は何も言わなかったけど、俺は最初から気付いてたよ。でも認めたくなかったんだ。お前が俺を裏切ったなんて、そんなこと考えたくなかった』
「……健次」
先程までの泣き声が嘘のように、けらけらと安達は笑った。まるで壊れたラジオのように歪で、曇り空にかかった虹のようにおかしな、狂った男の笑いだった。もはや彼に昔の、あの朗らかな面影はなかった。
ひとしきり笑った後、安達は異常なほど優しく囁いた。
『雪人ぉ……俺はお前にいろいろしてやったよな? お前の過去だって周りに言ったことはないし、お前が落ち込むたびに励ましてやったし、親父は養子話までもちかけてやったし、お前の嫌がることなんて何一つしてないよな? そうだよな? 俺は間違ってないよな? 俺は優しかっただろ? いい奴だっただろ?なのに昔からお前は俺の大切なものを奪っていく。琴音も詩帆も、俺の好きな女は全員お前が奪っていくんだよ! 俺は正しいことしかしていないのに! それなのにお前はいつまでも悲劇の主人公ぶって自分だけがかわいそうだと思い込んで俺がどんな気持ちでいたかなんて考えもしない!』
言葉が鋭利な刃物となって、何度も何度も雪人を刺した。結菜が詩帆にそうしたように。全身から血が吹き出るような感覚に襲われ、雪人はふらりとよろめいた。
『……お前が詩帆を殺したんだろ? 母親を殺したお前なら、愛した女も簡単に殺せるんだろ?』
雪人は下唇をきゅっと噛み締めた。肯定も否定もできない。直接手を下したのは結菜だが、そう命じたのは自分だ。だからこれは、ふたりの罪だ。黙り込んだ雪人に、安達は『やっぱりな』と吐き捨てた。
『安心しろよ……俺はお前を守るって約束した。その約束を破るつもりはないよ。俺はお前みたいに裏切り者じゃないから』
――俺がお前を守ってやるよ。
15歳の時に交わした約束を思い出した。あの時の友情は永遠のように思われた。安達は雪人の、たったひとりの友だった。傍にいると安心した。今となっては、あの短い夏は儚い幻だったような気がする。父に罪をなすりつけ、悲劇の主人公を演じていられたあの夏。安達と、そして琴音と遊んだ思い出だけが、短い青春だったのかもしれない。
結局は、安達でさえも雪人を責め、見捨てる。裏切り者だと罵倒して、言葉に刃を仕込むのだ。それなのにまだ彼は、約束を守るだなんて綺麗事を吐くのだ。
――破綻し、矛盾している。雪人を恨みながらも、正義でありたいがために雪人を捨てられないのだ。
中途半端な、悪い男。
「……言いたいことはそれだけかい?」
皮肉と嫌悪をたっぷりと含んで笑ったら、安達は面食らったように沈黙を作った。
母を殺したのと同じように、詩帆を殺したことも、もう償えない罪なのだ。いくら謝罪しても許されないのなら、元の関係に戻れないのなら、ぐちゃぐちゃに切り刻んで消してしまえばいい。自分にはもう、それしかないのだ。
「恨んでくれて構わないよ。どうせ僕はもう死ぬんだ」
『……臆病者のお前がひとりで死ねるわけないだろ』
「ひとりじゃないさ」
脱衣所に続くドアを見ながら、雪人は強く言い放った。
「僕はもう、ひとりじゃない」
早々と通話を遮断して、携帯の電源をオフにした。画面が黒く染まったことを確認し、テーブルの上に投げ捨てる。
『――あなたが殺したのよ!』
突如響いた金切り声に、びくん、と肩が跳ねた。
テレビを見ると、ドラマの中で女優が刃物を犯人の男に突きつけていた。ほっと胸を撫で下ろし、ソファーにもたれ息を吐く。
額に手を置くと、じんわりと汗が浮かんでいた。気分が悪い。手の甲で汗を拭い、テーブルに置かれていた麦茶を飲み干す。
入浴を終えた結菜がリビングへと入ってきた。
「お風呂あきました」
「ああ、うん」
促されて、雪人はソファーから腰を浮かせた。このもやもやとした気持ちを、汗と共に早く洗い流したかった。風呂場に向かおうと歩いて、結菜の前でふと足をとめた。
結菜の髪はしっとりと濡れていた。首に掛けたタオルに雫がぽたりと落ちていく。無防備に着た白いシャツから、細い足がすらりと伸びている。頭の先からつま先まで、余すところなく見ていると、結菜が戸惑ったように眉を下げた。その仕草は年端のいかない少女のようで、なんだかおかしかった。
そっと結菜を抱き締めてみると、案の定、シャンプーの香りが鼻をくすぐった。着飾った女達とは違う、自然な香り。このにおいを嗅いでいると、心に広がる波紋がみるみるうちに消えていくような気がした。風呂上がりの結菜の体は火照っていて、かいろのように温かかった。柔らかくて小さな体を抱き締めていると、まるで大きなぬいぐるみを抱いているような気がした。
「あ、あの」
腕の中で、結菜がもごもごと喋った。声がこもってよく聞こえなかった。体を離すと、結菜は真っ赤になって俯いた。
「お湯、冷めちゃう」
「……はぁい」
雪人はくすくす笑いながら風呂場へと向かった。
汗を洗い流し、熱いお湯に身を浸した。風呂から出て、タオルで水分を拭き取る。寝間着に着替えて鏡を見ると、髪が少し伸びていることに気が付いた。指先で前髪を弄びながら、最後に髪を切ったのはいつだったか思い出そうとした。濡れた髪からは、結菜と同じ、シャンプーのにおいがした。
結菜のベッドは、ふたりで寝ても少し余るくらい広かった。仰向けになって、真っ暗な寝室にぼんやりと浮かび上がる天井の白を眺めながら、時計の秒針に耳を澄ませた。
穏やかな夜だった。首を動かして隣を見ると、結菜が目蓋を閉じて横になっている。寝息は立てていないから、まだ完全には寝ていないだろう。
――私のものになってください。
その威圧的な台詞とは反対に、結菜は雪人に何も求めては来なかった。今までの女は、金を出す代償に愛をせがんだ。それが対価であり、雪人に課せられた義務だった。
だが結菜は、体どころかキスをねだることすらない。彼女が雪人に与えるのは、見返りのない、無償の愛だった。こんな風に誰かに愛されたことはない。先程のように雪人が抱き締めると、結菜はまるで少女のような反応をした。再会した時のような、内気で、気弱な女に戻るのだ。
顔色一つ変えずに友を殺した狂った女と、恋に不慣れなか弱い少女。どちらが本当の結菜なのだろう。きっとどちらも本当で、どちらも違う。水瀬結菜は、つぎはぎだらけの人形のようだ。様々な種類の細胞が集まってできた歪な人間。不完全で不安定。ゆえに、純粋。
雪人は手を伸ばし、結菜の目蓋にかかった前髪をそっと払った。結菜はくすぐったそうに身を捩り、ぱちりと大きな目を開いた。遠慮がちに雪人を見上げ、何をされたか分からない、というように頭を傾けた。化粧を落とした結菜は、年齢よりはるかに若く見える。それに加えて戸惑った表情をすると、中学生くらいの、汚れを知らない女の子のように思えた。
人殺しの、くせに。
声に出さずに囁いて、柔らかな頬を指先で摘んだ。
「……変な顔」
そう言って笑うと、結菜は困ったような、拗ねたような顔をした。
人殺しのくせに。人殺しのくせに。人殺しの、くせに。
心で何度も囁きながら、結菜の頬を弱くつねる。人殺しの女は、ますます困惑して瞳を潤ませた。
「名前、呼んで」
「えっ」
「雪人って呼んで」
つねった部分がほんのり赤く染まっていたので、応急処置のように頬を撫でた。
「……ゆ」
桃色の唇が、ぎこちなく開かれる。結菜は、恥じらうように視線を泳がせ、小刻みに肩を震わせた。雪人は息を潜め、耳を澄ませた。熱っぽい吐息に混じって、その言葉が紡がれる瞬間をじっと待つ。
「ゆき、と」
泣き声のようにか細い声は、余韻を残す間もなく空気に溶け、消えた。弱々しくて、拙くて、こころもとない、桜の花びらのような、甘くて優しい音色。
「結菜」
捉えようとしてもすぐに消える。
「僕の、結菜」
だから所有格をつけ、その音色を永遠にするのだ。名前を呼ぶたび、愛しさの波が押し寄せてくる。その波が引かないうちに、もう一度、名前を呼ぶ。
「君は、僕だけの結菜?」
「……うん」
結菜は小さくうなずいた。
「雪人も……ねぇ、雪人も、私だけの、雪人?」
「そうだよ」
改めて答えると、気障な台詞だな、と笑いがこみ上げてきた。今まで囁いたどんな睦言よりも滑稽で、本当みたいな嘘だった。結菜は雪人の手に自分の手を添え、遠慮がちに雪人を見つめた。
「雪人」
「うん」
「ゆきと」
「うん」
「……ゆきとぉ……」
砂糖菓子みたいに甘ったるく、舌足らずに名前を呼ばれた。
「結菜」
もう一方の手を伸ばし、結菜の体を引き寄せた。彼女の小さな体は雪人の腕にすっぽりと収まった。
「ここに、いるよ」
囁くと、結菜は雪人の背中に腕をまわし、声を押し殺して泣き出した。寂しさを埋めるように抱き合って、冷えた体を強く重ねた。どれだけ足を絡めても、どれだけ腕に力を込めても、決してふたりはひとつになれない。分かっているのに、分かっていたのに、抱き合わなければ生きてはいけない。
水瀬結菜という女を、雪人はまだよく知らない。どんな子供だったのか、互いに語ったこともない。それでもうっすらと分かるのは、結菜も雪人と同じように、精神疾患を患って、壊れてしまったということだけだ。胸の奥底に抱いた孤独が、狂気に変わってしまったのだ。
きれいでこどくな、よわいひと。
海の底に吸い込まれるように、意識が深く沈んでいく。光の届かない海底では、ふたりを邪魔するものは何もない。永遠の孤独を感じながら、雪人はそっと目蓋を閉じた。
このままずっと目覚めなければいい。
結菜の寝息を感じながら、願ってはいけないことを、願った。
次第に1日が短くなり、秋の色が濃くなった。
雪人の死はじんわりと世界に浸透し、ふたりが始めた小さな嘘は、大きな真実へと育っていった。雪人の死を嘆く声を聞いては、いたずらに成功した子供のように、顔を見合わせてくすくすと笑った。これは神様に対する復讐だ。過酷な運命を雪人に課した、世界に対する罰なのだ。
結菜の狂気は雪人を正気にさせた。狂気をとめるのは狂気だ。雪人と同じ罪を犯していながら、罪悪感を抱くこともなく生きている狂った女。結菜は雪人をとめるのに十分な狂気を持っていた。
ふたりになってからも、あやめは忍耐強く雪人を世界に戻そうとした。唐突に雪人を訪ねては、今日あった出来事をひっきりなしに話して、雪人と世界を繋ごうと試みた。
あやめの明るさは、ふたりの空間を乱すちょうどいい刺激になった。懲りずに雪人を引き留めるあやめを愛しくも感じた。いくらあやめが足掻いても、もう雪人は生き返ることはない。叶わない願いを叶えようともがくその姿が滑稽で、愚かで、可愛らしかった。
以前までの自分は、あやめの陽気さが嫌だった。あやめが持つ底抜けの明るさに触れるたび、自分とあやめは違うのだと思い知らされ、劣等感を抱いてしまうのだ。だがこうして全てを割り切ってしまうと、苦しみや痛みは雪人の中から綺麗に消えていった。あやめの求める「雪人」が死んだ時、彼女に対する引け目も共に連れていってくれたのだ。
結菜は雪人と同じだ。雪人と同じ、人殺し。だからこそ信じられる。だからこそ分かり合える。結菜は雪人をあらゆる苦痛から守ってくれる。雪人の望むもの全てを与えてくれる。罪を嘆く必要もなければ、金の心配をする理由もない。金を持て余した孤独な女は、絶対に雪人を裏切らない。雪人に結菜しかいないように、結菜にもまた、雪人しかいないのだ。ふたりの、ふたりだけの、甘美な秘密。
朝起きて新聞を読む。たとえ全てを捨て去っても、この習慣は直せない。母や詩帆に関する記述がないことを確認し、結菜と共に朝食を取る。結菜を仕事に送り出し、ベランダの植木に水をやる。まだ芽は出ていないが、春になれば綺麗な花を咲かすだろう。
共に暮らし始めてから、結菜の部屋には物が増えた。暇な時間を過ごすために本がほしいとねだったら、結菜はすぐさま雪人に与えた。ついでに大きな本棚も買った。クラッシックが聞きたいと言ったら、翌日には大量のCDを買ってきた。数え切れないほどの本とCDを見て、これじゃあ当分は退屈しないね、と笑ったら、結菜は嬉しそうに目を細めた。
何も変わらない毎日で、窓から見える景色だけが変わっていく。紅葉が散り果てて冬が来れば、街はすぐさま銀色に染まる。同じ時を重ねるほどに、ふたりはどんどん強くなる。地に足が着いたように、「ふたり」という言葉が安定し、強固なものになっていく。誰も入る余地のないほどに、ふたりは、ふたりだけになる。
結菜。
結菜。
僕の結菜。
たったひとりの、僕の恋人。
寂しさを埋めるように抱き締めて、呼吸をとめるように口づけて、確かめるように名前を呼んで、じゃれるように囁き合う。
そうやって手に入れた、ふたりだけの世界。ふたりだけの空間。ふたりだけの生活。罪に喘いでさまよって、ようやく得られた小さな幸せ。結菜さえいれば、もう他には誰もいらない。もう何も望まない。あやめがいなくなったことだって、予定されていた運命だ。何も悲しむことはない。
――だけど。
だけどね、結菜。
君からは夜のにおいがする。
違和感を抱き始めたのは、1月の中旬頃だった。結菜を抱き締めると、煙草のにおいを感じる時があった。男らしい煙草のにおいに加え、女の、甘ったるい、花ような香りも混じっていた。安っぽくて人工的な香水のにおいだ。
この香りを、自分は知っている。忘れるはずはない。夜を重ねるたび肌に染み込んで、シャワーで洗い流しても消えない――詩帆の、においだ。
女は変化する生き物だと、どこかで誰かが言っていた。身に着けるものを変えるだけで、魔法のように印象が変わる。香水のにおいを感じ取るたび、結菜に詩帆の面影を見た。
だがもう、詩帆は死んだのだ。確かに結菜が殺したのだ。空洞のような瞳も、どす黒い血の色も、はっきりと思い出すことができる。詩帆のにおいはもうどこにもないはずだ――いや、ひとりだけ、いる。詩帆のにおいを、体を、よく知る男が。
煙草と香水のにおいを纏った男を、自分は知っている。
短い黒髪。優しげな目元。男らしい武骨な手。低い声。煙草を口にくわえ、女物の香水を身につけて、歪んだ正義を振りかざす悪い大人。
安達健次。
たったひとりの親友。
結菜の体に安達が棲んでいる。シャンプーの香りで誤魔化したって、重ねた夜は消えやしない。
2月の終わりは、最後の悪あがきのように、大雪だった。
「見て見て、雪人」
結菜のはしゃいだ声に起こされて、雪人は重い目蓋をゆっくりと開いた。目をこすりながら上半身を起こすと、結菜が寝巻のまま窓の外を眺めていた。太陽の光が薄暗い部屋を温かく照らしていた。冷えた室温にためらいながら、雪人はのろのろとベッドから出た。フローリングの床を歩くと、足の裏からきぃぃん、と寒さが伝わってきた。
結露した窓から地上を見下ろして、雪人はあっと声を上げた。
「すごい、真っ白」
一晩中降り続いた雪のせいで、街は白に覆い尽くされていた。普段見える寂れた色の屋根には、数メートルほどの分厚い雪が乗っかっている。新鮮な太陽が光を降り注いで、どこもかしこも宝石みたいにきらきらと輝いていた。突然の気象変化に戸惑ったのは人間だけではないようで、遠くから、慌てたような鳥の鳴き声が聞こえてくる。自動車がのろのろと走って、白い道にタイヤの跡を増やしていった。
「北海道みたいだね」
「行ったことあるの?」
「ない」
「なぁんだ」
結菜はおかしげにくすくすと笑った。壁に掛かった時計を見ると、もう9時を過ぎていた。いつもなら、結菜はとっくに出勤している時間だ。ああそういえば今日は休日だったなとうなずいて、雪人は大きくあくびをした。
洗面所に行き、蛇口から出る水の冷たさに怯えた。覚悟を決めて顔を洗うと、肌が水分を吸い込んでぶるぶると震えた。
リビングに行くと、着替えを済ませた結菜がコーヒーの準備をしていた。朝食の誘惑をぐっと堪え、寝室に行き、セーターに着替えた。滅多に着ないコートを取り出し、厳重にチャックを首まで閉める。意気揚々とリビングに戻ると、結菜が驚いたように動きをとめた。
「どこ行くの?」
「公園」
結菜とすれ違って玄関へと向かった。分厚い靴下を履いているせいで、なかなか靴に足が入らない。
「雪だるま作る」
「でも、寒いよ?」
「子供は風の子」
「待って、ちゃんとマフラーも巻いて」
背後からばたばたと慌ただしい足音がした。結菜の制止を振り切って、雪人は軽い足取りで玄関を出た。
休日の昼間だというのに、公園には人ひとりいなかった。誰も踏み入れていない綺麗な雪の上を、ぐるぐると歩き回った。ぺたりぺたりと、スタンプのようについていく靴の跡を見て、所有印のようだな、と思った。真っ白な世界を、自分が汚している。まるで神様にでもなった気分だ。自分の悪趣味さに、にやりとした笑いが漏れた。
そうしているうちに、結菜が来た。手にはマフラーと帽子が握られていた。置いて行かれたことが嫌だったのか、唇が少し尖っている。ごめん、と笑うと、結菜は渋々雪人に帽子を被せ、裸の首に長いマフラーを巻き付けた。久し振りに着けたマフラーは、ちくちくしてくすぐったかった。
そのままふたりはしゃがみこんで、地面に積もる雪をかき集めた。手袋が濡れるのも構わずに、おにぎりを握るように大きな丸を作っていく。
「私、雪だるま作るの、初めて」
白い息を吐きながら、結菜が言った。
「子供らしい遊びなんてしたことなかった。私はいらない子だったから、楽しいことなんて、しちゃいけなかったの。生まれてはいけない子が、楽しく生きてちゃだめだったの。なのに今、雪人と雪だるまを作ってるなんて、変な感じ」
ふたりの手の中で、違う大きさの雪玉ができあがっていく。こんな風にふたりで身を縮めていると、なんだか悪いことをしているような気がした。慌ただしい街では、ふたりを気に留める人はひとりもいない。透明人間にでもなった気分だ。
「……しちゃいけないことなんて、ないんだよ」
自分で作った雪玉の上に、結菜の小さな雪玉を乗せた。石ころを二つ手に取って、のっぺらぼうに顔を与える。
「僕らは、何をしてもいいんだ」
人を殺した自分達に、してはいけないことなど何もない。最大のタブーを破ってしまった自分達に、恐れるものなど何もない。1番怖いのは、「ふたり」の日々が壊れること。その瞬間はきっとやってくる。すぐそこまで、死神が迫っている。
完成した小さな雪だるまは、まぬけな顔できょとんとこちらを見ていた。
「かわいい」
頬を紅潮させて、結菜は嬉しそうに声を上げた。そうだね、とうなずいて、雪人は雪だるまを軽くつついた。明日になれば溶けて消える、不格好で歪な人形。
人間は、不完全な生き物だ。不足した遺伝子をかけ合わせても、決して完璧にはならない。不完全な人間が作り出すものも、また不完全なのだ。この雪だるまも、偽りの平和も。永遠なんてどこにもない。
「雪って、雪人に似てるね」
足元の雪をすくいながら、結菜がぽつりと呟いた。
「何それ。名前が?」
「それもあるけど、それだけじゃないの」
指の間から、雪の塊がぽとりぽとりと落ちていく。
「白くて、儚くて、あったかい」
「僕は冷たいよ。体も……心も」
「そんなことない。こういうことって、きっと自分では気付かないのよ。雪人は優しくて、あったかいの」
「……あったかいのは結菜だよ」
驚くほど弱々しい声が出た。
強い風が吹いて、雪人のマフラーをふわりと舞い上がらせた。枝に積もった雪が風にさらわれて、あちこちでぼとぼとと落ちていく。自動車だけが、風なんて気にもせず、排気ガスを撒き散らしながら、素知らぬ顔で走っていく。
乱れた髪を直して、結菜は照れたように微笑んだ。その眩しさに、雪は思わず目を細めた。
あなたは、どんどん、綺麗になる。
時を経るにつれ、結菜の微笑みはどんどん優しくなっていく。キャンディーみたいに甘く、マシュマロのように柔らかい、天使のように無垢な笑顔。そこに狂った女の面影は、ない。他人行儀だった口調も、今ではすっかり気さくなものに変わっていた。
雪人の中にある狂気は、浄化作用を持っているようだ。思えばあやめもそうだった。自分の殻にこもって、決して心を開こうとしなかったあやめは、雪人と共に過ごすうちに、普通の、明るい少女になっていった。安達のような、元から明朗な人間には、逆の作用を及ぼした。狂気は安達に伝染し、彼の心を壊した。どちらも、雪人の与えた変化だった。
結菜は日毎に美しく成長していった。雪人と暮らし始めてから、結菜は化粧を変えた。服の種類も増えた。高校時代の地味で目立たない少女は、もうどこにもいない。結菜は、美しい女になっていった。
雪人と結菜は、「ひとり」同士。同じ孤独を分け合って、同じ時間を共有する。それがふたりでいる理由だ。ふたりだけでいる意味だ。だけど本当は違うということに、雪人は薄々気付いていた。結菜は、雪人とは違うのだ。結菜の「ひとり」は、雪人の「ひとり」とは重ならない。
雪人はもう、死んだのだ。結菜にだけ見える幽霊。死体だから、他の人間と言葉を交わすことはできない。世界からはじき出された人間なのだ。
だけど結菜は違う。結菜は世界と繋がっている。会社に行き、仕事をしている。上司もいれば同僚もいる。友達などいないと言うけれど、その気になれば連絡だって取れるはずだ。家族だって生きている。だから結菜は、「ひとり」ではない。
結菜の笑顔を見れば見るほど、結菜の存在が遠くなる。たとえ自分がもたらした変化だとしても、心はどんどん寂しくなる。どれだけ強く抱き合っても、彼女はどんどん遠くなる。夜のにおいと共に、結菜は彼方に消えていく。
「あたしはお兄ちゃんを裏切らないよ」
はっとして顔を上げると、結菜のはるか後方に、あやめの亡霊が立っていた。怒ったように眉を上げ、強い瞳で雪人を見ている。
「昔も今も、あたしはお兄ちゃんだけを見てるよ。お兄ちゃんも知ってるでしょ? 得体の知れない女より、あたしのほうが何倍も信用できるよ」
あやめ。
名前を呼ぼうと口を開けたら、彼女はすぅーっと空気に溶けて見えなくなった。ブランコが、ゆらゆらと風に揺れている。
死神はしゃがれた声で囁く。
――水瀬と雨生。お前はどっちを選ぶんだ。
何度も何度も、雪人の脳に訴えかける。早く答えを出せ、と急かしている。
10年以上雪人を慕い、愛してくれたあやめ。雪人を守り、孤独から救ってくれた結菜。ひとりを選べばひとりを失う。それはすなわち、ふたりぼっちの終わりを意味する。
春はもう、すぐそこまで迫っている。
「ねぇ、結菜」
濡れた手袋を外して、コートのポケットにしまいこんだ。水気を帯びた手が空気に晒され、ぴりぴりと痺れた。
「同窓会、行きなよ」
「どうしたの、いきなり」
「君が出ないと怪しまれるだろ。行っておいで。そして僕に教えてよ。僕のいない世界を」
雪人は立ち上がり、結菜に手を差し伸べた。「でも……」結菜はためらいながら雪人の手をつかんだ。彼女の手は相変わらず温かい。
「そしたら春が来るんだ」
思い切り手を引っ張って、そのまま結菜を胸に抱いた。
「瞳に桜を焼き付けるんだ。目蓋を閉じても思い描けるように」
「雪人……?」
結菜が不安げに名前を呼んだ。
「今日のこと、忘れないで」
その不安を殺すように、きつく、強く抱き締める。そうすれば、何も失わないで済むような気がする。いつまでも共にいられるような気がする。
「ふたりの時を、しっかり刻んで」
太陽が徐々に雲に隠れて、光の代わりに影を注いだ。まぬけな顔の雪だるまが、ふたりを憐れむようにけらけらと笑う。何をしても無駄だよと、抱き合うふたりを嘲笑う。
「頭に、体に、心臓に」
びゅう、と風が悲鳴を上げる。そのたびに枝がぎしぎしと軋む。どれだけ強く抱き締めても、凍えた体はちっとも温まらなかった。
3月になると、冬の寒さが嘘のように消えて、窓から見える景色も鮮やかな緑色に色づき始めた。短い春を満喫しようと桜の下に集まる人の様子を、マスコミが連日伝えている。
テレビに映る風景だけが、雪人の春の全てだった。ベランダの鉢植えから、小さな芽がひょっこりと頭を出し始めた。ぽかぽかと暖かい太陽の光を浴びながら、じょうろで水を与えては、花が咲く瞬間を待った。
「じゃあ、そろそろ行くね」
「うん」
昼過ぎ。同窓会に出掛ける結菜を、雪人は玄関で見送った。春物のコートに身を包んだ結菜は、普段よりずっと綺麗に見えた。結菜が動くたび、耳元のイヤリングがゆらゆら揺れる。
「なるべく早く戻るから」
「待ってる」
雪人は穏やかに微笑んで、桃色に塗った唇に軽く触れた。結菜は恥じらうように目を伏せて、熱っぽい息を漏らした。それから雪人を見上げ、今度は自分から、ついばむようなキスをした。
「……いってきます」
「いってらっしゃい」
玄関のドアが開かれて、結菜は外の世界に吸い込まれていく。光の中に、結菜が消える。
ぱたん、とあっけない音を立ててドアがしまった。
しん、と孤独が鳴る。この音を聞くと、雪人は本当にひとりになる。孤独の音は、ひとりぼっちを痛めつける。ぎりぎりと胃を締め付けて、肺を圧迫する。
雪人は早足で寝室へと戻った。クローゼットを開けて服を選ぶ。カジュアルな服よりも、少しだけフォーマルなものがいい。悩んだ末、雪人はいつものワイシャツを手に取った。選ぶほど服の種類はなかった。着替えを済ませ、鏡の前で髪を整えた。昨日結菜が切ってくれたおかげで、首元が空気に触れて涼しい。ジャケットを羽織り、財布をポケットにしまった。ベランダの窓に鍵を掛け、満開の桜を映すテレビの電源を切る。帽子を被ろうとして、やめた。春の陽気を少しでも多く体内に取り込んで歩きたい。
靴を履いて、ドアノブに手を掛けた。目を閉じて、小さく深呼吸をする。ゆっくりとドアを押して、少しずつ外の光を玄関に取り込む。結菜が消えた方向へ、足を踏み出す。
鍵を掛ける前に、雪人は誰もいない部屋を見つめた。雪人と結菜の、ふたりの時間が流れる部屋。こうして外側から見てみると、まるで時がとまっているように思える。リビングにも寝室にも、ふたりの記憶が刻まれている。刻まれていてほしいと思う。所詮それは、雪人の願望に過ぎないのだけれど。
ドアを閉め、鍵を掛ける。もうこの部屋には戻れない気がした。
春の日差しを浴びながら、雪人は歩いて駅へと向かった。公園の桜は満開で、一瞬の美しさに酔いしれようとブルーシートを広げる人でごった返していた。澄んだ青空を背景に、桃色の花弁がはらはらと舞い散る。つかもうと手を伸ばしても、するりと指の間をすり抜けて、音もなく地面に落ちていく。
桜の下には死体が埋まっている――昔聞いた言い伝えを思い出し、雪人はこっそりと笑った。汚いものを養分として吸収し、何食わぬ顔で綺麗に咲き誇る桜も、それを知らずに愛でる人間も、滑稽に思えた。所詮、人は外見的な美しか気にしないのだ。愚かで、安直。
駅に行く途中でホームセンターに寄り買い物を済ませた。時間つぶしにぶらぶらと駅前を歩いてみたが、久々すぎて何を見ていいのか分からなかった。
しばらく来ないうちに、駅前の風景はすっかり変わっていた。何が違うのかはっきり分からないが、見覚えのない店が増えている。元はどういう景色だったのか、もう思い出せない。一日が過ぎるほどに、記憶はどんどん薄くなる。
街はゆっくり変わっていく。雪人がいなくても世界はまわる。誰も雪人に気付かない。誰も雪人を見ていない。完璧で美しい、望月雪人はどこにもいない。
切符を買い、電車に乗った。右から左へと流れていく街並みを、一瞬たりとも逃さないよう、一心不乱に眺め続けた。
母を殺したあの夜から、雪人は世界を恨んでいた。どうして自分ばかりが不幸になるのか。どうして世界は、雪人の幸せを邪魔するのか。世界が自分を捨てる前に、自分が世界を捨ててしまおう。そう考えて、ふたりだけの世界へ逃げた。そうすればもう傷付かなくて済む。劣悪で醜い世界なんて、自分には必要ない。そう思っていた。
それなのに、桃色の花が咲き誇る春は、悔しいほどに美しい。雪人のいない世界は、こんなにも綺麗に澄んでいる。残酷なことだ。
数十分ほど電車に揺られて、目的の駅に着いた。休日の喧騒をすり抜けて歩いていくと、背の高い、洒落たホテルが見えてきた。今頃あそこでは、同級生達が涙ながらに雪人を悼んでいるのだろう。結菜と、安達を除いて。ちっぽけな自分に騙され悲しみに暮れる人々を想像すると、馬鹿らしくて笑ってしまう。半年以上かけた壮大なドッキリのネタばらしを、今からするのだ。真実を知ったら、みんなはどんな顔をするのだろう。怒るだろうか。笑うだろうか。
1年前と同じように、雪人はホテルに足を踏み入れた。
フロントの前には、数人の若い男女がいた。大きなキャリーバックを持っているから、おそらく観光客だろう。手前にいる女性がちらりと雪人を目に留め、微かに息を呑んだ。気まぐれに微笑みを与えてやると、彼女は慌てて目を逸らした。
エレベーターで10階まで上がった。心臓がひゅん、と持ち上がる。この感覚が、昔から苦手だった。何年経っても克服できない。エレベーターも料理も、苦手なものはいくつになっても苦手なままだ。
小さい頃は、20を過ぎれば大人になれると思っていた。煙草を吸って酒を飲めば、自動的に大人になるものだと思っていた。だが現実は違う。いくつになっても大人になれない。いや、なりたくないのだ。子供のままでいれば、何も考えなくて済む。子供のままでいれば、誰かに守ってもらえる。ピーターパンのように、永遠に子供でいたかった。そして結菜もそうであってほしいと思っていた。自分と同じであってほしいと願っていた。結菜だけではない。きっとあやめにも、自分と同じ孤独な子供のままでいることを望んでいたのだ。きっとこんな願いを持つこと自体が、自分が子供である証拠なのだろう。
エレベーターを下りると、1年前と同じ、無駄に壮大な扉が雪人を迎えた。扉に耳をあて、息を潜める。
「望月雪人は、優秀で、優しくて――」
芝居がかった、涙混じりのアナウンスが聞こえる。中川だ。以前結菜と予想していた通りの展開に、雪人は思わず吹き出した。気付かれないように注意しながら、扉を少しだけ開けて中をのぞく。会場には大勢の同級生がいた。扉に背を向けて、中川の演説を静かに聞いている。1年前のようなはしゃいだ様子はなく、しんみりとしていた。
視線を左右に動かすと、遠くの方に安達を見つけた。悲しみに暮れ俯く人々の中、ひとりだけ、冷めた表情を浮かべている。両手をズボンのポケットに入れて、何かを待つように、中川とは別の方向を見つめていた。
みんな、大人になった。もう高校の制服は着ることができない。大人びたスーツやドレスに身を包み、外側から大人になっていく。それが自然の摂理だと分かっていても、やはり雪人は大人になどなりたくはなかった。大人になってしまったら、もう上手に甘えられない。結菜の傍にはいられない。そうしたらまた、雪人はひとりになってしまう。流れていく時間はとめられない。同時に、積み重ねてきた時間はなくならない。
だから――だから雪人は今、全てを終わらせる。
口元に微かな笑みを浮かべ、雪人はゆっくりと扉を押した。
「雪人に追悼の意を込めて、もう一度みんなで――」
会場に響いていた中川の声が、不自然にとまった。突如開かれた扉を見て、目玉が飛び出そうなくらい、大きく両目を見開く。
「何、で……」
小さな呟きが、マイクを通して大きく響く。中川の異変に気付き、会場が戸惑いの色を帯びた。
中川の視線を追って、人々が一斉に振り向いた。誰かが、ひ、と息を呑んだ。
「ゆ、雪人……」
どよめきの中、一歩一歩確かめるように、雪人はゆっくりと会場を歩く。みな怯えるようにたじろいで、雪人のために道を作る。まるで幽霊でも見ているような目だ。いや、実際にそうなのだろう。雪人はもう、存在してはならないのだ。
視界の端に結菜が映った。両手で口を覆い、蒼白な顔で雪人を見ている。全身がかたかたと震えている。湿った瞳が、どうして、と雪人を責めている。
やめてよ、結菜。君に涙は似合わない。
声に出さずに囁いて、雪人は死者の花道を歩く。人が左右に分かれていく。あれほど雪人にすり寄ってきた人間達は、みな、恐れるように後ずさっていく。
歩いた先に、ひとりの男が立っていた。雪人に怯える様子もなく、ポケットに手を突っ込んで、微笑みながら、雪人を待っていた。その笑みに応えるように、雪人は男の前で足をとめた。
「……よう、雪人」
昔と変わらない、穏やかで優しい声だった。安達は、まるで父親のように慈愛のこもった瞳で雪人を迎えた。そんなところも、あきれるほど同じだ。
「健次」
たったひとりの親友の名を、呼んだ。いつの間にか、ふたり以外に声を出す者はいなくなっていた。息を殺して、対峙するふたりを見つめている。
「終わりにしよう。何もかも」
ジャケットのポケットに手を入れ、その感触を確かめた。硬くて、ひんやりとしたそれを、味わうように指先でなぞる。
「結菜」
雪人が振り向くと、結菜の肩がびくりと跳ねた。大きな瞳には、涙がいっぱいたまっていた。
「君が望む通りにするよ」
安心させるように微笑むと、結菜は口を開けて何か言おうとした。だが、言葉が喉につっかえて、想いは声になっていなかった。雪人は結菜から顔を背け、もう一度、安達を見た。
終わらせる。
全てを、終わらせる。
ポケットからナイフを引き抜いた。床を蹴って、勢いよく安達の脇腹に突き刺した。
安達の顔が苦しげに歪んだ。黒いスーツがじんわりと赤く染まった。ぽた……、とナイフから血が落ちて、綺麗な床を汚していく。
泣き声のような悲鳴が上がった。
その場を動く者はいなかった。突如目の前で起きたことに、思考がついていかないようだった。ただか細い悲鳴を上げ、体を震わせ、安達から溢れる赤い液体に怯えていた。
雪人の手に手を重ね、安達は喉から言葉を絞り出した。
「これが、お前の、答え?」
「……そうだよ」
「そう、か……」
雪人はナイフから手を離した。安達の膝がかくん、と折れた。呻き声を上げながら、安達は床へ崩れ落ちた。
「あ、あ、安達ぃ……!」
中川が、うわずった声を出して駆け寄ろうとした。安達は床に倒れたまま、制するように手を上げた。
「いいんだ……救急車も、呼ばなくていい」
安達はナイフの柄に手を掛けると、叫び声を上げてそれを引き抜いた。赤黒い血が噴水のように溢れた。
雪人は震えながら、倒れている安達を見下ろした。まだ肉を抉る感触が生々しく残っている。全身から生命力が抜け出ていくのを感じ、倒れるように膝を着いた。
「なんて顔、してんだよ」
血の気が引いた雪人の顔を見て、安達が馬鹿にしたように言った。
「雨生は生きてる……だから、そんな顔するなよ……」
彼が言葉を紡ぐと同時に、命がするりと溶け出していく。
「いいんだ」
額に汗を浮かべながら、安達は優しく微笑んだ。
「これでお前は、決断できる」
「健次……君、は」
「言っただろ……お前を守ってやるって」
安達は弱々しく腕を伸ばし、そっと雪人の頬に触れた。赤い血が、雪人の白い肌をどろりと汚した。
「俺は、詩帆が好きだったよ」
吐息混じりに、安達は言った。
「水瀬のことも、愛してる」
言葉を聞き逃さないよう、雪人は顔を近付けた。
「でもな、雪人」
安達の顔がくしゃくしゃに歪んだ。唇が、わなないた。
「それと同じくらい、お前のことが好きなんだ」
胸の中から、熱いものが込み上げてきた。
「大切な、俺の友達」
「健、次……」
安達はいとおしむように雪人の頬を撫でた。雪人は震える手を安達と重ねた。
「死にたかったんだろ、お前は」
「……」
「ひとりじゃ怖くて死ねないんだろ」
ためらいながら、うなずいた。安達はますます笑った。
「だったら、俺が一緒に死んでやる。俺が先に待っててやる」
頬に伝わるぬくもりが、みるみるうちに冷えていく。瞳の奥が熱い。視界が滲んで、安達の顔がぼやける。
「よかったな……これで、死ねるよ……」
穏やかな微笑みを残したまま、安達は目をゆっくりと閉じた。雪人の頬から、彼の手がするりと滑り落ちた。
甘い、花のようなにおいが漂った。安達が愛した詩帆の香りは、誘うように空気に舞った。香水は安達の体を優しく包み――やがて彼の呼吸もとめた。
まるで時がとまったかのように、誰ひとり、その場から動かなかった。叫ぶ者も、泣き出す者もいなかった。ただ、抜け殻のような生気のない顔で、息を殺しながらふたりを見ていた。
きらびやかな照明が、雪人を明るく照らしていた。雪人の影が、安達の死に顔を隠すように彼を覆っている。
手を握っても応えてくれない。名前を呼んでも目を開けてくれない。
雪人はふらつきながら、静かに立ち上がった。
「……結菜」
振り返ると、結菜はすぐに雪人の元へ駆け寄ってきた。彼女は死を確認するように安達を見た。それから不安げな顔を雪人に向けて、申し訳なさそうに目を伏せた。
「行こう」
安心させるように微笑んで、雪人は結菜の手を取った。不自然な静寂の中、ふたりは会場から出て行った。追いかけてくる者は誰もいなかった。
エレベーターの下りボタンを押して、扉が開かれるのをじっと待った。ジャケットの袖で頬についた血を拭うと、結菜が鞄からハンカチを取り出して、残った血を丁寧に拭き取った。繋いだ手に力を込めると、結菜はハンカチをしまって俯いた。
「……これで満足かい、結菜」
雪人は階数表示板を見上げた。1階、2階、3階。規則的な速さで、表示はどんどん10階に近付く。
「君はこうしてほしかったんだろう」
結菜が息を呑むのが分かった。
「健次があやめを殺せば、僕が健次を殺すと考えたんだろ」
結菜の手が、怯えるように震えた。耐えるように、唇をきゅっと結ぶ。
「君は頭がいいからね」
軽快な音と共に、エレベーターが10階に着いた。結菜を引っ張るように乗り込んで、雪人は1階のボタンを押した。
「そんな君も、僕は好きだよ」
扉が閉まる。小さな箱は、ふたりを乗せて下降する。どこまでも下へ、堕ちていく。
ロビーに着くと、先程の観光客はもういなかった。ふたりは寄り添いながらホテルを出た。傾いた太陽の日差しが目にしみて痛い。人も車も多い道路を、駅に向かって歩いた。かつて屋上から見下ろした、複雑な街並みに溶け込むと、途端に自分自身も作り物のように感じた。
明確な目的地は決めていなかった。残された時間をゆっくりと過ごしたかった。適当に切符を買って、ホームに着いた電車に飛び乗った。夕方にもかかわらず乗客はまばらだった。ふたりは肩を寄せ合って、流れていく風景を眺めることにした。
がたん、がたん。不安定な音を響かせて、電車は進む。茜色に染まる世界を瞳に映すと、網膜を通して世界が体に入ってくる。存在が、命が、世界に溶ける。
「夢をね、見たんだ」
「……どんな?」
結菜がぽつりと問い掛けた。
「忘れちゃった。とても幸せな夢だった。覚えてるのは、それだけだ。夢は現実に持ち込めないね」
夢はいつだって残酷だ。しゃぼん玉のようにぱちんと弾ける。触れようと手を伸ばしても、決して届くことはない。
「でも、覚えている必要なんてなかったんだ。目覚めたら、いつだって君がいてくれたから」
ずっと、眠ることが怖かった。目蓋を閉じれば、母の死に顔が浮
かんだ。父が、責めるようにこちらを見ていた。結菜と暮らし始めて、ようやくゆっくりと眠りに着くことができた。
結菜は、幸せそのものだった。たとえ見ていた夢を忘れても、目覚めた時に結菜がいてくれたら、それで十分だった。隣にいてくれれば、それだけでよかった。
「……これから、どこに行くの?」
次第に電車が速度を落としていく。
「何をするの?」
雪人は黙って結菜の肩を抱いた。結菜の瞳は不安げに揺れていた。触れ合う体を通して、心まで見透かされているようだった。
寒かった。温かいはずの春なのに、雪人は寒さに体を縮めた。結菜のぬくもりを求めてすり寄った。もう少しだけ甘えていたかった。子供のままでいたかった。
「……桜を見に行こう」
車掌のアナウンスが流れ、電車が緩やかに停まった。雪人が立ち上がると、結菜も真似するように腰を浮かせた。離れぬように手を繋いで、ふたりは駅のホームへと降り立った。
数年前となんら変わりない風景に、雪人はほっと息を吐いた。朧げな記憶を頼りに駅から出て、つい先程決めたばかりの目的地へと向かう。どこへ向かっているのか、結菜も気付いたようだった。結菜は何も言わずに、ぎゅっと雪人の手を握ったまま、隣を歩いた。
茜色に染まる空が、次第に暗さを増してきた。1日の終わりが始まったのだ。30分ほど歩くと、記憶と同一の、古めかしい校門がふたりを迎えた。春休みで、しかも日曜日ということも重なって、生徒の姿は見えなかった。
「……懐かしい」
校舎を見上げて、結菜がひとりごちた。職員室には何人か教師がいるようだった。見つからないよう気を付けながら、ふたりはこっそりと昇降口から校舎の中に入り込んだ。
息を潜めて、悪戯のように密やかに、古びた廊下を歩いていく。教室からは、学校のにおいがした。青春の群像がぼんやりと浮かび上がるような気がした。かつて自分が過ごした教室で机に触れると、ひんやりとして気持ちよかった。
高校時代の思い出は特にない。懐かしむような青春も過ごしていない。ただ、振り返ってみれば、1番充実していた時代だったと思う。安達と出会い、たとえ表面上だけだとしても、友がいた。それだけでもう十分だったはずなのに、知らず知らずのうちに、欲が出ていたのかもしれない。もっと幸せになりたいと、願ってしまったのかもしれない。
屋上の扉を開けると、空はもう黒く染まっていた。星がきらきらと輝いていた。春とはいえ、夜の風はまだ少し寒かった。フェンスに近付き、誰もいない校庭を見下ろした。淡い照明に照らされて、闇に桜がぼんやりと浮かび上がっている。
誰もいない教室。
誰もいない屋上。
誰もいない校庭。
誰もいない、桜並木を、ふたりじめ。
「綺麗だね」
冷たくも温かくもない風が頬を撫でた。結菜は言葉なくうなずいた。秋に見た、東福寺の紅葉を思い出した。燃えるような赤に見惚れたあの瞬間も、こうして隣に結菜がいた。桃色の花びらが、ひらひらと風に舞っていた。
「……ごめんなさい」
風に紛れて、結菜がかすれた声を出した。隣を見ると、結菜は静かに泣いていた。
「どうして謝るの。どうして、泣くの」
「分からない」
雪人は微笑んで、頬を伝う涙を指先で拭った。涙の粒が、指先を伝って風にさらわれていく。
「笑って、結菜」
あやすように髪を撫で、優しく体を抱き寄せた。
「僕はね、幸せだったんだ。君と一緒に生きることができて、幸せだったんだ」
きっともう、結菜は分かっているのだろう。雪人が何を考えているのか、また、何をしようとしているのかも。だからこそ、こうして似合わない涙を浮かべるのだろう。涙を流せるくらい、彼女はもう、普通になったのだ。普通の、綺麗な女になってしまったのだ。
だからもう、一緒にはいられない。一緒には生きられない。
「最初はね、君のことを愛してはいなかった。守ってくれるから、愛しているふりをしていた。でも分かったんだ――たとえ君が僕を見ていなくても、僕は君が好きなんだ」
結菜がはっとしたように顔を上げた。離れようとする体を、雪人は更に強く抱き締めた。
気付いたのは、ふたりで暮らし始めてしばらく経った時だった。机の引き出しにたまっていた、書きかけの手紙を見つけた。宛先のない、届かない手紙。そこには、弟である要への愛情だけが溢れていた。家族も恋人も越えた、絶対的で、無償の愛。
それを見て確信したのだ。結菜は自分を見ていない。別の男と、重ねているだけだと。
「それでも、君は僕を愛してくれたね」
偽りでも構わない。
「守ってくれたね」
愛情がなくても構わない。
「僕は嬉しかったんだ。君のことが、大切だったんだ。だから泣かないで。笑った方が何倍も素敵だよ」
結菜は小さく首を振り、声を押し殺して泣いた。ごめんなさい、ごめんなさい。謝り続ける結菜の頭を、雪人は優しく撫で続けた。
そのまましばらく、ふたりは時間を忘れて抱き合った。この瞬間は、この景色は、もう二度と巡ることはない。今こうして抱き合って、体温を分け合う行為さえも、数秒先には過去に還る。腕の中にある体温も、鼻をくすぐるシャンプーの香りも、しっかりと覚えておきたかった。離れても思い出せるように、心に刻んでおきたかった。
過去ばかり見て生きてきたんだ――雪人は、思う。過去を過去として受け止め、前に進む勇気が雪人にはなかった。罪を償おうとしても、償い方を知らなかった。周りの人間はひたすら雪人の容姿を愛でるだけで、雪人を裁いてはくれなかった。
だからきっと、安達は自ら死を選んだのだ。雪人の狂気を受け止めて、全て背負って、雪人と同じ運命を辿ることを選んだ。
安達もまた、狂った大人だったのだ。おかしくて、優しい、狡い男。自分がどれだけ周囲に恵まれていたのか、ようやく雪人は実感した。求めていた幸せは、すぐ傍にあった。
どれくらい時間が経ったのだろうか。雪人はそっと結菜の体を離した。いとおしむように、額に軽くキスをする。結菜は惜しむように手を伸ばしたが、その手は雪人に届かなかった。
雪人はフェンスに手を掛けた。このくらいの高さなら、容易に上ることができる。力を入れて、地面を蹴った。落ちないように気を付けながら、雪人は慎重にフェンスを上った。
「雪人……?」
結菜が焦ったような声を出した。
「君はそこにいて」
フェンスを超えて、雪人は屋上の縁へと下り立った。弱い風が吹いていた。校庭を見下ろすと、フェンス越しに見るよりもずっと桜が鮮明に見えた。不思議と高さに恐怖はなかった。結菜が、慌てたようにフェンスに両手を掛けた。
「私もそっちに行く」
「だめだよ。危ないよ」
「でも」
「ねぇ、結菜」
手を握ろうとしても、フェンスが邪魔をして、指先にしか触れられない。もう体を重ねることはできない。彼女の涙をとめてやることもできない。
「君は、僕の言うことは何でも聞いてくれるんだよね?」
「……ええ」
「僕を裏切ったりしないんだろう?」
結菜は何度もうなずいた。その答えだけでもう十分だった。
「君に呪いをかけてあげよう。一生解けない呪いだよ」
母を殺したあの夜から、雪人を縛り続けた呪い。それを今、魔法に変えて、結菜に託そう。
「生きて」
力強く、雪人は言った。
「君は、生きるんだ」
薄雲の隙間から、冴え冴えとした月の光が落ちてくる。朧げで、こころもとない光が、弱く優しくふたりを照らす。濃紺の闇に、不完全な子供の白い肌が浮かび上がる。
「……嫌です」
悲しくて、空っぽの、泣き声に似た息が、桃色の唇から漏れた。
「嫌です、嫌だ……雪人がいない世界なんて、嫌だぁ……!」
結菜の瞳から、ぽろぽろととめどなく涙が溢れる。結菜の訴えに応えるように、フェンスがぎしぎしと音を立てて揺れた。
「どうして……ねぇ、どうして……? ふたりでいるって決めたのに。雪人が死ぬ時は私も死ぬって、私が死ぬ時は雪人も死ぬって、そう言ったのに……嘘だったんですか」
「そうだね。僕は嘘つきだから」
さらりと認め、雪人は微笑む。嘘ばかりついて生きてきた。本当みたいな嘘と、嘘みたいな本当を織り交ぜて、毎日を死人のように生きてきた。
結菜と出会って、雪人は死んだ。幽霊となり、死を纏った。だがきっと、本当は違った。結菜と出会って、ようやく雪人は生きることができたのだ。それが、ふたりぼっち計画の、たった一つの誤算だった。
「ずっと死を望んでいた。だけどひとりじゃ怖くて死ねなかった。誰か一緒に死んでほしかった。この呪われた運命を分かち合いたかったんだ」
「だったら私が」
「だめだよ」
「どうして?」
「君は案外鈍いんだね」
雪人は困り果てて頭を掻いた。陳腐で、ありきたりで、普通の言葉を、改めて口に出すのは照れくさかった。偽りの愛ならいくらでも囁けるのに、本当の心を曝け出すのはこんなにも気恥ずかしい。
「好きな人には、生きていてほしいに決まってるじゃないか」
1年前の春、結菜に出会った。夏にはふたりになった。秋には紅葉を見た。冬には雪だるまを作った。そして春には、桜を見た。
泣いて笑って、ふたりで過ごした数ヶ月。
いつの間にか、恋をしていた。
純粋に、彼女を愛していた。
「……あなたが死んだら、私はどうなるの?」
瞳が真っ赤に充血している。言葉が喉につっかえて、うまく出てこないようだった。
「雪人がいなくなったら、私はまたひとりになっちゃう。ひとりは怖いの。ひとりはもう嫌なの」
「君はひとりじゃない。ひとりじゃないんだよ。君のことを思ってくれている人はたくさんいるよ」
人間は、泣き虫だ。泣いて生まれて、生まれてからも泣いて、そうやって生きている。だから最期は笑いたい。きらきら光る世界に、ざまあみろと叫びたい。いくら世界が不幸を押しつけたとしても、僕はこんなにも幸せだ。僕は笑っていられるんだ。
「ありがとう、結菜」
僕を幸せにしてくれてありがとう。
愛してくれてありがとう。
愛させてくれて、ありがとう。
雪人はフェンスから手を離し、大きく両腕を広げた。強い風が吹いて、シャツがはためいた。
心は嘘のように凪いでいた。今なら何もかも受け止められる。過去も現在も、数秒先の未来も。
「愛してるよ」
「……うん」
「大好きだ」
「うん」
「生まれ変わっても、僕は結菜を好きになるよ」
「私も……私も、雪人を、好きになる……絶対絶対、好きになる」
子供のようにしゃくりあげる結菜が、なんだかとてもおかしかった。いつも冷静で、涙なんて決して流さない彼女が、こんなにも感情を溢れさせている。
綺麗な涙だ――美しい泣き顔に見惚れた。思わず伸ばしそうになった手を引っ込め、雪人は小さく頭を振った。細い肩を抱き締めたい。大丈夫だよと囁きたい。でもそれは、もう叶わない。
「笑って、結菜」
明るい声で、雪人は叫んだ。
「素敵な笑顔を、僕に見せてよ。瞳に君を焼き付けたいんだ」
結菜は、小刻みに震える唇を固く噛み締めた。手の甲でごしごしと強く両目をこする。拭っては溢れて、溢れてはまた拭って、それでも結菜は、下手くそな微笑みを浮かべて見せた。綿菓子のような、あの、ふんわりとした微笑みだった。甘い、お菓子のようなその笑顔が、雪人は何より好きだった。
「ああ、やっぱり」
彼女の笑顔を逃さぬよう、雪人はゆっくりと目を閉じた。
「笑った方が、ずっと綺麗だ」
水面を跳ねるように、軽い調子で地面を蹴った。
スローモーションのような緩やかさで、世界がゆっくりと傾いていく。
両手を翼と偽って、頬を撫でる風を感じ取り、ふわりと空に落ちていく。結菜が大きく叫んでいる。雪人、と名前を呼んでいる。
目蓋の裏で、桜吹雪が舞い踊る。月の光を浴びながら、はしゃぐように命を散らす。
ひとりでは寂しいだろう。そう、語り掛けてくる。そうだね、と雪人は微笑んで、重力に身を委ねる。ひとりでは生きることも死ぬこともできない、子供だから。
大人になんてならなくていい。ひとりで生きることが大人だというなら、自分は子供のままでいい。網膜に彼女を焼き付けて、彼女のぬくもりを感じながら、ゆっくりと世界に溶けていく。ありったけの愛を込めて、さようならを囁くのだ。
今なら、確かに自分は、幸せだったと言えるだろう。最後に告げる言葉なんて、それでいいのだ。それだけで、いいのだ。
月明かりの下で、結菜は永遠と泣き続けた。声が枯れ果てても、その叫びが消えることはなかった。ただ桜だけが、悼むように風に揺れていた。淡い花弁は暗闇を舞い、やがて地面に落ちて、消えた。
LINEがまだあまり普及していない時に書いた記憶があります。