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MAD CHILD  作者: 七瀬あきら
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第2章 解放区

 雨上がりの空は水分を含んでみずみずしいような気がする。真っ白な雲は綿菓子のようにふんわりとしていて、一度でいいから触れてみたいという欲求を掻き立てる。うっすらと空にかかる虹を見つけた時の感動は、何度繰り返しても色褪せることはない。宝くじが当たったような、アイスの当たりを引いたような、そんな感覚だ。その嬉しさを教えてくれたのは、同じ施設にいた年上の男の子だった。


 にんげんはきらい。あやめをいじめるから。

 あいじょうがほしい。あったかくてやさしいから。


 歌うように呟いて、大きな手をぎゅっと握る。そうすれば、彼は笑顔を向けてくれる。


「お兄ちゃん」


 その笑顔を手に入れたい。10年先も20年先も繋ぎ止めておきたい。


「あやめのお兄ちゃんになってくれる?」


 幼き脳で考えた、彼を繋ぎ止める唯一の方法。血を共有するのだ。自分の血を彼の体内に流し込んでしまえば、永遠に彼を繋ぎ止めておける。


「いいよ」


 彼はあっさりと承諾し、少女の手を握り返す。雪のように白い肌を持つ少年は、雨上がりの空を指差した。


 虹のふもとには宝物が眠っているんだって。それを見つけるとね、幸せになれるんだよ。


 あやめも幸せになれる?


 もちろん。


 お兄ちゃんもなれるよね。


 僕は、なれないよ。


 どうして?


 そう尋ねると、彼はゆっくりと少女に視線を向けた。暗い色の瞳が寂しげに笑った。


 ――僕は、



     *


 事の始まりは1本の電話だった。


「もしもし、お兄ちゃん?」


 愛しい愛しい「兄」である望月雪人から来る久々の電話とあって、雨生あやめは意気揚々と携帯を耳にあてた。ちょうど学校が終わり家に帰ろうとしていたところだった。まだ忌々しい蚊は一向に繁殖をやめる気配がなく、ぬるりとした風は汗を乾かす素振りも見せずに厭らしく体を舐めていく、そんな晩夏のことだった。


『あやめ、僕は死ぬことにしたよ』


 まるで旅行に行くような軽い口調で、雪人は言った。


「心臓が弱くて、葬儀はもう全て済ませた……」


 雪人の言葉を繰り返すと、彼は『いい子だ』と嬉しげな声を出した。


『もし今後僕と連絡を取りたい人がいたら、そう伝えておいて』


「待って、お兄ちゃん」


 じゃあ、と電話を切ろうとする雪人を、あやめは縋るように引き留めた。


「行かないで」


 このままだと、雪人が手の届かないところへ行ってしまう。もう二度と会えないような気がする。そもそも、何故いきなり「死ぬ」なんて言い出すのだろう。


「どういうことか説明して」


『言う通りにしたら、ね』


 子供をあやすように優しく、だが有無を言わさぬように厳しくそう言うと、雪人は早々と回線を遮断した。後には単調な機械音だけが残った。


 雪人はその日、死んだのだ。たったひとりの女のせいで、あやめの日常から雪人が消えた。

 水瀬結菜。あいつがいなければ、雪人は自分のものだったのに。




 愛しさを度数で表わしたなら、自分は最高値を叩き出す自信がある。どこからそんな自信が来るのかと聞かれたら、共に過ごした時間です、とすぐに答えることができるだろう。


 幼くして両親を亡くしたあやめは、春風園という施設で育った。父の顔も母の声も記憶にないため、辛さや悲しみを感じたことはない。ただあるのは、名付けがたい不満だけだった。両親というあるべき者がいない喪失感と、友達という作るべき存在が作れないことへの苛立ち、そして絶対的な愛を受けられない寂寥感、ただそれだけがあやめの細胞に染み付いていた。


 施設の先生から与えられる愛情は、偽物のような気がして嫌だった。その愛がどの子にも平等に与えられるものである以上、それによって心が潤うことはなかった。親が自分の子供のみに注ぐような愛。他人の子に向けるものとは違う、独占的な愛。あやめが望んだのはそういうものだった。そしてそれを与えてくれたのが望月雪人だった。


 雪人もまた、施設で育った人間だった。どういう経緯で春風園に入ることになったのかは知らないが、あやめが入園するはるか昔から彼はそこに存在していた。穏やかで物静かな少年だった。あやめより6つ年上の雪人は、年齢よりもずっと大人びて見えた。 


 誰も寄せ付けず本ばかり読んでいる、その姿に惹かれた。まだ恋という言葉も知らぬ時のことである。


 血液を共有することを誓った。兄妹の契りを交わした。約束という名の拘束は、永遠になくなることはない。雪人は優しく、美しい少年だった。儚げな横顔と柔らかい微笑みは、この世のどんな美術品にも劣らなかった。


 どんな時でも傍にいてくれる、絶対的な存在を手に入れた。兄という、絶対的な味方を手に入れた。その時はそれで満足だった。しかし時が経つにつれて、想いは形を変えていく。


 小学校に入学する少し前に、あやめは春風園から出ることになった。あやめを養子に迎えたいという夫婦が現れたのだ。雨生夫妻はあやめを実の子のように迎え、育てた。子供が産めない雨生美砂にとって、あやめは待ち望んだ「娘」だったのだ。小学校では友達ができた。絶対的な愛を与えてくれる人が増えた。もうあやめは孤独ではなくなった。


 春風園を去った後も、あやめは頻繁に雪人の元へ通った。共有する時間が減っても、兄妹という繋がりがある限り関係が消えることはない。妹は、兄の傍にいるものだ。


 望月雪人は「ヒーロー」だった。美しい容姿は常に羨望の的であったし、優れた頭脳は勉強を教えてもらうのに役立った。あやめが悲しい時はいつも頭を撫でてくれたし、テストでいい点を取った時は大げさなくらいに褒めてくれた。それはあやめだけの特権だった。この愛を独占できるのは自分だけだと、あやめは信じて疑わなかった。


 高校進学と同時に、雪人は春風園を出た。遠い親戚から養子の申し出があったらしいが、雪人はそれを拒否し、高校の寮で暮らし始めた。


「自立したいんだ。あやめの自慢のお兄ちゃんでいられるように、強くならなきゃ」


 春風園から出る時、雪人は優しくあやめの頭を撫でた。


 街には春の陽気が満ちていた。もう待ちきれない、というように、桜の蕾はふっくらと膨らみ、今にも弾けてしまいそうだった。


 雪人の進学する高校は、あやめの家からずっと離れた場所にあった。春風園とは違い、もう気軽に会いに行くことはできない。何年も続けてきた学校帰りの楽しみが一つなくなる。そう思うと、あやめの小さな胸は痛みで引き裂かれそうになった。


「そんな顔しないでよ。会えなくなるわけじゃないんだよ」


 泣き出しそうな顔のあやめを見て、雪人は困ったように笑った。膝を折り、あやすように目線を合わせる。その仕草に、あやめの瞳はますます潤んだ。白いワンピースの裾をきゅっと握って、わななく唇を噛み締めて、涙を零さぬように地面を睨む。幼い反抗だとは分かっていても、容易に現実を受け入れることはできなかった。納得は屈することと同義だ。


 時はいつも残酷だ。ずっと一緒にいられると思っていた。ずっと一緒にいるために兄妹の契りを交わしたのに、年の差がそれを邪魔する。ランドセルは、子供の証。雪人が高校の制服を着ても、まだあやめはランドセルを背負ったままだ。セーラー服を着て、高校のブレザーに着替える頃には、雪人は制服を脱ぎ捨ててしまう。あやめが1歩進むたび、雪人は3歩遠ざかる。


 このままどんどん距離が離れて、いつか雪人を見失ってしまうような気がした。雪人は常に優しく完璧だったけれど、時折ひどく悲しげな目をする時があった。魂が抜け落ちたように、ぼんやりと宙を眺めている時があった。そんな雪人を見るたびに、あやめは雪人が幽霊のように透けて消えてしまうんじゃないかと不安になった。彼の冷たい体温も肌の白さも儚げな笑みも、生きている人間とはどこか違っていて、それゆえ、危うかった。


「休みの日には会いに行くよ。だから、あやめも遊びにおいで。電車の乗り方、分かる?」


 小さくうなずいてみたけれど、ひとりで電車に乗ったことはなかった。切符の買い方も、電光掲示板の見方も知らない。自分は、どうしようもなく幼かった。


「……会いに、行く」


 泣き顔を見られぬよう、思い切り抱き付いた。


「あやめは、お兄ちゃんの妹だからね」


「うん」


「妹はお兄ちゃんから離れちゃいけないの。ずっと、ずぅっと一緒にいなきゃいけないんだから」


「分かってるよ」


 雪人は声を小さくした。あやめの耳元に、息と共に言葉をふっと吹きかける。雪人の腕が、あやめの小さな背中にまわされる。このまま背骨を折ってくれたらどんなにいいか。


「覚えておいてね。お兄ちゃんは、あやめから、離れちゃいけないんだよ……」


 雪人は何度もうなずいて、小動物に触れるようにあやめの髪を撫で続けた。


 想いを言葉にして、約束を交わす。愚かで幼かった自分は、たったそれだけで雪人を繋ぎ止めた気になっていた。雪人は決して自分を裏切らないと、自分だけが雪人の特別だと、たかをくくっていた。重ねた年月が油断を招いたのだった。


 別々の時を過ごすにつれて、雪人は少しずつ変わっていった。今までよくも悪くも他人と距離を取っているように思えた雪人は、高校ではその微笑みに人懐っこさを追加した。それが原因なのかは定かではないが、彼の周りは常に人で溢れていた。よくよく考えてみれば、それは何も不思議なことではなかった。あれだけの美貌を持っている男を、周囲の女が放っておくはずがないのだ。それなのに絶対的な信頼が邪魔をして、雪人に女ができる可能性を排除してきたのだ。


 どうして自分は、雪人の妹になってしまったのだろう。遅すぎる後悔が、胸の中でどんどん肥大する。妹である限り、雪人の恋人になることはできない。永遠に、雪人とは結ばれない。だが一方で、妹でしか手に入らない居場所を自分は持っている。雪人の隣にいる女は日ごとに違った。雪人は特定の恋人を作らなかった。誰にでも優しく、誰にでも冷たい。雪人は女達に平等な愛を与えていた。


 雪人の恋人になりたい。女として見てほしい。だがもし恋人になったら、独占的な愛は手に入らない。あの女達のように仮初めの愛という餌を与えられ、ごみのように捨てられてしまうだけだ。そんな愛はほしくない。そんな存在にはなりたくない。


 妹としてなら大切にしてもらえる。恋人にはなれずとも、雪人の妹でいれば絶対的な愛がもらえる。捨てられることなど決してない。血の呪縛は強い。だから自分は、妹のままでいい。妹としてならずっと彼の傍にいられる。そう信じていた。あの女が現れるまでは。


 高校2年生の秋。


「雪人と連絡が取れないの」


 雪人から「死」の報告を受けてから、そう言ってあやめを訪ねてくる女が後を絶たなかった。あやめは雪人に言われた通りのことを彼女達に伝えた。女達は悲しみ、嘆いた。人目を気にせず涙を流す女達を、あやめは冷めた目で見つめた。偽物の死に流す涙はない。


 雪人の死は瞬く間に広がった。春風園の職員達も雪人の死を悼み、あやめを憐れんだ。


 雪人はこの世界から消えたのだ。このままだと、雪人は本当に死んでしまうような気がした。1日が過ぎるたび、雪人という存在が薄まっていく。雪人はちゃんと呼吸し生きているのに、死という虚構が雪人の生を犯していく。そのうち自分の脳までもが雪人の死を認識してしまうようで恐ろしかった。


 雪人の携帯に電話を掛けても通じない。雪人の部屋を訪ねてみても、そこに雪人はもういない。この世界から雪人が消えていく。雪人の生きた証が消えていく。


 再び雪人から電話があったのは、それから一ヶ月後のことだった。待ち望んでいた連絡に胸が弾んだ。ようやく雪人に会える。雪人は確かに生きているのだ。


 会ったら思い切り抱き締めてもらおう。優しく頭を撫でてもらおう。期待に胸を膨らませながら指定されたマンションを訪ねた。だが、雪人はひとりではなかった。雪人の隣には、見知らぬ女が立っていた。


「紹介するよ、結菜」


 雪人はその女の肩を抱きながら言った。


「僕の妹だ」


 結菜は探るような眼差しであやめを見た。それからふんわりと微笑んだのだ。残酷なくらい優しく、恐ろしいほど穏やかに。


 雪人はまずあやめを結菜に紹介し、そして結菜をあやめに紹介した。その順序も優劣をつけられているようで勘に障る。だが何よりあやめを絶望させたのは、雪人の口から出た「恋人」という単語だった。


 ――僕の、恋人だ。


 これから僕らはふたりで暮らすんだ。


 そう、雪人は言った。


 納得なんてできるわけがない。あやめが積み上げてきた年月を、結菜は一瞬で奪ったのだ。そして何も知らずに彼らの「ふたりぼっち」に荷担していた自分自身にも腹が立った。


 お兄ちゃん、どうして。


 そうやって雪人を責めたかった。泣いて喚いて、こんなの異常だと叫びたかった。


 おかしいよ、変だよ。あたしだけのお兄ちゃんでいて。恋人になんてなれなくていいから、あたしだけの雪人でいて。


 雪人はやんわりとあやめの唇に指をあてた。


 このことを知っているのはあやめだけなんだ。本当は秘密にしようとしてたんだけど、あやめは特別だから話したんだよ。あやめは僕の大切な妹だから。あやめは僕らを「ふたり」にしてくれたから。だから話すんだよ。あやめはいい子だから、他の人にばらしたりなんかしないよね。


 あやめは僕の妹なんだから。


 ――その瞬間、ようやく気付いた。


 雪人を兄とし、拘束したつもりだった。他の誰にも渡さぬよう、首輪を掛けたつもりだった。だが本当に縛られていたのは雪人ではなく、あやめの方だったのだ。


 妹。それは呪いであり魔法の言葉だ。雪人の妹である限り、雪人を裏切ることは許されない。雪人の命令に拒否する権利はない。


 雪人は何を考えているのだろう。今まで特定の恋人を作ることはなかったのに、何故結菜を選んだのか。そして何故、「死」を選んだのか。きっとあの女が何かを吹き込んだに違いない。確かに昔から浮き世離れしたところがあったが、雪人は決してあやめを悲しませるような人間ではなかった。


 全部、あの女が悪いのだ。


 消えてしまえばいい。あんな女、死んでしまえばいい。こんなにも人の死を願ったことがあっただろうか。憎しみは日ごとに大きくなっていく。どうやったらあの女を殺せるだろう。どうやったら復讐できるだろう。どうやったら雪人を取り返せるだろう。どうしたら、どうすれば。




「進路とか、今から言われても実感わかないよねぇ」


 放課後の教室で、藤和千冬は忌々しげに進路調査書を眺めて息を吐いた。


「行きたい大学とかやりたいこととか、どうやったら見つけられるんだろう」


 窓からは橙色の光が差し込み、青春の一シーンを演出している。千冬は物憂げな顔つきで、白紙の調査書を折り紙のように折っていく。早く大人になれ、と急かす教師に囲まれながら、高校2年の秋が過ぎていく。暑くも寒くもない秋風が、千冬の短い髪をさらさらと揺らす。これもまた、青春。


「あやめは大学進学?」


「うーん……」


 そんなこと言われても分からないよ。


 馬鹿な回答は声になる前に飲み込んで、あやめは机に頬をつけた。ひんやりとした温度が肌に伝わって心地いい。


「あたしは……お嫁さんになりたい」


「は?」


「お兄ちゃんのお嫁さんになる。普通に結婚して、普通に暮らしたい。普通の幸せがほしいんだ」


 千冬は訝しげに眉をひそめたが、「ふうん」と興味なさげに呟くと、紙飛行機を中庭に向かって飛ばした。弱い風に乗り切れず、調査書は無様に地上へと落下した。1秒先の未来も描けないのに、明日に届くはずもない。白紙の進路調査書もうまく飛べない紙飛行機も、大人になれずに足掻いている自分と重なって不快だ。青春なんて綺麗な言葉で着飾っても、彼の隣に立てないのなら、若さなど何の意味も成さない。


 制服は、大人になるのを邪魔する。将来のことを決めろ、大人になる準備をしろと、教師はしきりに言うくせに、制服を理由に子供扱いするのだ。なんて身勝手な理論だろう。


「こら、ごみを飛ばすんじゃない」


 ひとりの男が中庭に落ちた紙飛行機を拾った。


「あっ、安達先生」


 千冬は弾んだ声を出し、慌てて窓から身を乗り出した。安達は千冬に近寄ると、


「俺ならもっと遠くまで飛ばせるぞ」


 そう言って、微笑みながら紙飛行機を千冬に渡した。


「かっこいいなぁ……」


 去っていく安達の背中を潤んだ瞳で見つめながら、千冬がほうっと切なげに息をついた。


「……若いだけじゃない?」


「そんなことない。優しいし面白いし人気あるし、最高」


 今度はあやめが「ふうん」と言う番だった。目の前の友人はまるで宝物のように紙飛行機を胸に抱き、幸せそうな表情を浮かべている。恋する乙女そのものである。


 恋、しているんだな。


 学校に通って、友達と話して、恋をする。どこにでもある風景を、あやめは羨ましく思う。自分も雪人と恋をしたい。素直に「好き」と伝えたい。あの異常な「ふたりぼっち」をこの手で終わらせて、堂々とふたりで出掛けたい。


 早く雪人を生き返らせなければいけない。このままだと雪人は結菜に囚われたまま、本当の死を迎えてしまうだろう。沈みゆく夕日を眺めながら、あやめは自分の無力さを呪った。


 早く大人にならなければいけない。大人になって、雪人の隣を取り返す。そしたらきっと、雪人はあやめを見てくれる。そのためにも、雪人を死から解放するのだ。雪人を生き返らせなければ、自分の生に意味などないのだ。




「お前なあ、もうちょっと真面目に書いたらどうだ」


 次の日の放課後。


 あやめを職員室に呼び出して、担任教師はげんなりと肩を落とした。


「進路希望調査に『お嫁さん』って……何考えてるんだか」


 老齢のせいか、担任は必要以上に大声で話す。使い古された喉から出るしゃがれた声に、あやめは耳を塞ぎたくなった。デリカシーのない担任のせいで、職員室中の視線があやめに集まっている。視線を泳がせていると、口元を押さえて笑っている安達が目に入った。ますますむっとして口を曲げると、安達はそのまま、そそくさと職員室から出て行った。


「勉強もな、もうちょっと頑張ればいい大学に行けるんだぞ。お前に足りないのはやる気なんだよ。持ってる力を出さないでどうするんだ。今頑張れば必ず将来いいことがあるんだ。今の世の中、学歴がないとやっていけないぞ」


 くどくどと吐き出される説教を浴びれば浴びるほど、元々少ないあやめの気力はすり減っていく。頑張れ、勉強をしろ、将来を考えろ。鼓舞されるのとは反対へ、気持ちが傾くのは何故だろう。


 なによ、いい人ぶっちゃって。


 声に出さぬよう気を付けながら、目の前の教師に悪態をつく。あたしが将来何をしようが、先生には関係ないじゃん。そんな子供の反論を聞き入れてくれるわけもない。そのくらい、分かっている。分かっているから何も言わない。教師に不満があるわけではない。だが満足もしていない。今雪人が死んでいる以上、明確な未来など描けない。それを誰も分かってくれない。


 あきれた眼差しの担任も、周りの教師の苦笑いも、子供というレッテルを貼り付けられているようで不快だ。制服を脱ぎ捨てて逃げ出したい。雪人の元へ走りたい。だが子供でなくなったら、雪人はあやめの頭を撫でてはくれないだろう。甘えさせてはくれないだろう。妹ではなくなったら、あの惨めな女達のように捨てられてしまうのだろう。そして二度とあやめを抱き締めてはくれなくなる。全部、分かっている。




『先に帰ってて』


 千冬からのメールを開くと、そこには飾り気のない文字が並べられていた。普段は不必要なほどの絵文字が使われているのに、よほど慌てていたのだろうか。携帯を見ながら、あやめは訝しげに首を傾げた。


 あやめが担任の説教を受けている間、千冬は教室で待っていたはずだ。だがいざ教室に帰ると千冬の姿はなく、代わりにメールが届いていた。先に帰ったのなら分かるが、何故「先に帰ってて」なのだろう。送信時刻を見ると、ほんの数分前のことである。もしかしたらまだ近くにいるのかもしれない。そう思ったあやめは、一通り校内を歩くことにした。


 校庭から聞こえる運動部のかけ声が、人気のない校舎に届いて反響する。部活中の生徒の声を聞くと、自分の孤独がより一層際立つような気がする。窓から入り込む夕日の光が、あやめの影を長く伸ばす。決して誰とも重ならない、影。光が強いほど影は濃くなる。


 裏庭をのぞいたところで、千冬の姿を見つけた。千冬、と名前を呼ぼうとしたあやめは、彼女がひとりではないことに気付き踏みとどまった。


 千冬と親しげに話しているスーツの男が安達だと分かるのに、さほど時間は掛からなかった。


 反射的に、あやめは校舎の影に身を隠した。何故そうしたのかは分からないが、体が勝手に動いたのだ。他に人の気配はない。どうして、千冬と安達がこんな場所にいるのだろう。進路相談にしては雰囲気が甘い。まるで、恋人同士の密会のようだ――そう考えて、あやめは首を振った。いや、そんなはずはない。いくら千冬が安達に好意を寄せているとはいえ、彼らは教師と生徒なのだ。そんなこと、あっていいわけがない。


 否定を確実なものにするために、あやめはそっと裏庭をのぞき込んだ。


 思わず、あ、と声が漏れた。


 女子生徒の背に腕をまわし、唇にそっと口づける男。そして嬉しそうに頬を染める自分の友人。呼吸をすることを忘れた。早く目を逸らさねばならないのに、体が言うことを聞かない。


 見てはいけないものを見てしまった。見たくないものを、見てしまった。心臓が嫌にスピードを上げ、早く引き返せと急かしている。気付かれる前にここから離れなければ――そう思った、瞬間。


 安達の目が、あやめを捉えた。


 授業の時とは違う冷めた瞳に、ぞくりと背筋が粟立った。


 逃げるように、その場から離れた。罪悪感から逃れるように、全力で足を動かした。追いかけてくるはずはないとは分かっていたが、校門から出るまで振り返ることはできなかった。乱れた息を整えながら、震えた体を抱き締める。今自分が感じているのは動揺や混乱ではない。純粋な恐怖だ。自分は今、恐怖を感じているのだ。


 あやめを見つけた瞬間、安達は笑っていた。普段の優しい笑みではない。厭らしく、そして卑猥に。




 その日の夜、あやめはなかなか寝付けなかった。


 布団に潜り深い闇に身を委ねようとするが、寝ようと思えば思うほど目は冴えてしまう。時計の音が気になった。窓を揺らす風の音が、嫌にうるさく感じる。目蓋を閉じても、裏庭での出来事が目の前にはっきりと浮かんでくる。


 キスをしていた。先生と生徒なのに、キスをしていた。


 見間違いかもしれないとも考えてみたが、あいにくあやめの視力は人並み以上だ。間違えるはずがない。前々から千冬が安達に好意を抱いていることは知っていた。新任教師である安達は、その若さと気さくさ、授業の分かりやすさから男女共々に人気があり、あやめの担任教師もその優秀さを褒めていた。そんな安達に千冬が好意を抱くのは当然のことなのかもしれない。だがそれはあくまでも教師に対する敬愛であり、年上の男に対する羨望であると思っていた。まさか本気で安達に恋をしていたとは思いもしなかった。


 あやめ自身、安達に悪い印象は抱いていない。口うるさい担任に比べて安達は理解があると感じるし、授業自体も眠気を誘わない程度には聞き応えがある。ただ、あの誰にでも向けるにこやかな笑みが、あやめはどうも苦手だった。完璧な笑顔のはずなのに、完璧すぎるゆえ、何故か偽りのように感じるのだ。一度それを千冬に伝えたことがあるが、「何なのそれ。馬鹿みたい」といささか不機嫌に言われただけで終わった。それ以来、この違和感を誰にも告げるまい、とあやめは固く心に誓った。少数意見は弾圧されるのが常だ。


 千冬は安達と付き合っているのだろうか。もしそうだとしても、自分に咎める理由はない。教師と生徒が恋に落ちてはいけないという校則はないのだ。


 しかし一つだけ気になる点がある。千冬は本気で安達に恋をしている。だが安達はどうだろう。真偽は定かではないが、恋人がいるらしいという噂を耳にしたことがある。もしそれが本当だったら、いやそうでないにしても、安達が本気であるとは思えない。だったら千冬が傷付くことは目に見えている。


 自分はどうすればいいのだろう。いくら考えても結論は出ない。


 何をすべきか、また何をすべきでないかも分からないまま一夜が明けた。




「私の顔、何かついてる?」


 翌日、昼休み。教室で共に弁当を食べている最中、千冬は不思議そうに首を傾げた。


「ううん、何でもない」


「そう? 人の顔じろじろ見て。変なあやめ」


 おかしげに笑う千冬を見て、あやめは気まずくなって視線を落とした。弁当箱の卵焼きを所在なく箸でつつきながら、どう切り出せばいいのか思案する。千冬の態度は昨日と何も変わらない。心なしか機嫌がいいようにも見える。このまま何も知らないふりをすることもできるだろうが、眠れない夜が続くのは避けたい。しばらくためらった末、あやめは「あのさ」と控えめに口を開いた。


「ちょっと耳貸して」


「え?何? 内緒の話?」


 戸惑いながらも、千冬は素直に身を乗り出す。あやめは口元に手をあて、できるだけ小さな声で尋ねた。


「千冬は、安達先生と付き合ってるの?」


 千冬の息が、とまった。


「……何で知ってるの?」


 鬼のように恐ろしい形相であやめを見た。その瞳の暗さに、あやめは慌てて身を引いた。


「ご、ごめん……。昨日偶然見たの。裏庭で……」


「うわぁ、だめだめ。言っちゃだめ」


 千冬は両手を大きく振り、それから「うわああ」と困窮したように頭を抱えた。見られちゃったのか、恥ずかしいなぁ。そんなことをぶつぶつ呟いている。


「あ、あの、千冬」


 恐る恐る名前を呼ぶと、千冬は真っ赤になった顔を上げた。


「あのね、あやめ。このことは」


「大丈夫、誰にも言わないよ」


 あやめはきっぱりと言った。そもそも、こんなことを誰かに言えるわけがない。千冬は土下座すらやりかねない勢いで「ありがとう」と頭を机につけた。


「ほんとごめん。感謝する」


「でもさ、先生恋人いるって噂あるよ。……それでもいいの?」


「うん……知ってるよ。でもいいの。私は特別だって信じてる。たとえ他に女がいても私だけは特別。私だけは、先生の特別になれると思うの。いや、むしろなってみせる」


 千冬はまるで早送りボタンを押したように、一呼吸でこれだけの台詞を吐いた。それは絶対的な信仰であった。まるで神を崇めるような恍惚とした表情を見て、あやめは何も言えなくなった。


 恋は盲目とよく言うけれど、今の千冬はまさにそれだ。安達に恋人がいることは分かっているのに、それでも本気で付き合うなど、なんて愚かなことだろう。頭がおかしいとしか思えない。傷付くことは目に見えているのに。特別になんて、なれるはず、ないのに。何故こんな馬鹿な妄想しているのだろう。


 そこまで考えて、あやめは気付いた。


 ――あたしも、同じじゃん。


 雪人を愛していれば、いつか雪人の特別になれると信じている。妹としての特別ではなく、ひとりの女として特別になりたいと願っている。周りから見たら、自分も千冬と同様愚かな女だ。


 恋は人を狂わせる。独占欲が大きく膨れ上がって、不確定な未来をひたすら願って、自分が間違っているなんて思いもしない。


 このままだと、自分自身も千冬と同じ、叶わぬ恋に思いを馳せる馬鹿な女になってしまう。それを避けるためにも、早く結菜から雪人を取り戻さねばならない。やはり、妹という肩書きに甘んじてはいけないのだ。


 雪人の元へ行こう。雪人は今、周りが見えなくなっているだけだ。結菜との間に何があったのかは知らないが、結菜が雪人を洗脳したに違いない。そして雪人を救えるのは自分だけだ。目の前で幸せそうに笑っている千冬を見て、あやめはきゅっと唇を噛み締めた。まるで合わせ鏡だ。




 季節はゆっくりと冬へ移行していく。年々秋は短いものになっていき、気が付いた時には紅葉なんて残っていない。寒色の空の下を歩いて、あやめは結菜のマンションへと向かった。


 この時間なら、まだ結菜は帰っていないはずだ。雪人には事前にメールをしておいた。そうしないと、雪人は扉を開けてくれない。


「あんまり来ちゃだめだって言ったのに」


 扉を開けるやいなや、雪人は困ったようにそう言ってあやめを迎えた。


「お兄ちゃんに会いたかったの。すぐ帰るから」


 仕方ない子だな、と肩をすくめて、彼はリビングへ引き返す。テーブルの上には新聞や本が積み上げられている。またソファーに座ってのんびりと過ごしていたのだろう。飲みかけの紅茶からは、微かに湯気が立っていた。


「……ねぇ、お兄ちゃん」


 雪人の部屋ではないこの空間が、雪人の色に染まっていく。訪ねるたびに、雪人の色が濃くなっていく。


 あやめはそっと、雪人を背中から抱き締めた。


「お兄ちゃんは今、幸せ?」


「……どうしたんだい、あやめ」


 突然抱き付いてきた妹に、雪人は優しく問い掛けた。


「あやめと一緒に暮らそう」


 雪人の広い背中を感じながら、あやめは強く訴えた。このぬくもりを取り返すのだ。この人を、自分だけのものにするのだ。


「お父さんもお母さんも優しいもん。きっとお兄ちゃんが住むこともオッケーしてくれるよ。あやめが頼んでみるから大丈夫。ここにいるよりずっと幸せになれるよ」


 ぎゅっと腕に力を込めた。雪人の細く華奢な体は、今にも折れてしまいそうだった。だからこそ強く繋ぎ止めなければならない。血よりも肩書きよりも強く、体温で互いを繋ぐのだ。


「そうしよう、そうだよそれがいい。いつまでもここにいちゃだめだよ。だってここにいる限りお兄ちゃんは自由になれないお兄ちゃんはあやめと一緒に暮らすのそうすればお兄ちゃんは絶対幸せになるよううんあやめがお兄ちゃんを幸せにしてみせるあの女よりずっとお兄ちゃんを幸せに」


「――僕の、幸せ?」


 雪のように冷たい声が、空気を震わせた。


「あやめに僕の幸せが分かるの?」


 蔑むような雪人の言葉に、あやめははっとして体を離した。雪人は正気を疑うような、嘲りの色を浮かべてあやめを見ていた。


「あやめは僕の何を知ってるの?」


「……知ってるよ」


 こんな雪人を、自分は知らない。雪人はこんなに冷酷な目をしない。こんなに残酷な声を出さない。


「お兄ちゃんは優しくてかっこよくて、素敵な人だって……」


「それは嘘だよ、あやめ。僕はそういう『お兄ちゃん』を演じてきたんだ」


 雪人は悲しげに微笑むと、避けるように目を伏せた。


「あやめは僕の表面しか見てないね。だからあやめは僕の特別になれないんだよ」


 ――特別には、なれない。


 胃の内側が、ずん、と重たくなった。視界が曇り、雪人の美しい顔がぐにゃりと歪んだ。


「でも、お兄ちゃんはあやめにとって特別だよ……」


 懸命に喉から声を絞り出しても、雪人の表情は変わらない。手を伸ばしても応えてはくれない。抱き締めてなどくれやしない。


「僕はね、弱いんだ。とてもとても弱いんだ」


 だからね、と雪人は続けた。


「僕は、君の全てを受け止められない」






 ぶるり、と寒さに肩が震えた。


 結菜のマンションに隣接する公園のブランコに腰掛けているうちに、気付けば太陽はすっかり眠りに着いていた。帰らなければ。そう思いながらも、あやめの体はなかなか言うことを聞いてくれない。


 逃げてきてしまった。自分は雪人から逃げてしまった。肌を刺激する寒さを感じるたび、その事実を痛感する。


 雪人はいつだってあやめに優しかった。あやめを実の妹のように愛し、抱き締めてくれた。あれほど強い拒絶をされたのは初めてだった。


 だから、恐ろしかった。雪人が途端に知らない男のように見えた。何も言えず、あやめは部屋を飛び出した。これ以上拒絶の言葉を聞きたくはなかった。それでもマンションのすぐ傍で何時間も留まったのは、雪人に追いかけてきてほしかったのかもしれない。そんな下心のある自分にも嫌気が差した。


「何してるんですか」


 頭上から落ちてきた声に、あやめはぼんやりと顔を上げた。月の光に照らされた、白い女の顔が闇夜に浮かび上がっている。世界で1番、憎い顔だ。


「……あんたがいるから、お兄ちゃんは自由になれない」


 まるで条件反射のように、あやめの口から毒が漏れた。


「死ねばいいのに」


 それはもはや恨みではなくあきれだった。諦めにも似た感情が、胃と肺の中間でぐるぐると渦を巻いている。こんな歪んだ性格の女がまだ生きていることも雪人を独占していることも不条理に思えた。世の中はつくづくうまくいかないものだ。少なくとも目の前の女よりはまともに生きている自信があるのに、雪人は自分を選んでくれない。


「私が死んだら雪人も死にます」


「何それ」


「そういう運命なんです」


 結菜は無感動な瞳のまま、きっぱりと言い放つ。


「何であんたなの」


 その自信も態度も全てが勘に障る。


「何であんたが雪人の特別なの」


 この女さえいなければ。何度そう思ったか知れない。何故神様はこの女と雪人を出会わせたのだろう。きちがいで、無愛想で、何を考えているのか分からない不気味な女。何故雪人はこんな女を特別にしたのだろう。何故、自分ではないのだろう。


「あなたは雪人のために何ができるの?」


 結菜は静かに問い掛けた。


「何でもする。何でもできる」


「雪人のために死ねる?」


「死ねる」


「雪人を殺せる?」


「えっ……?」


「私は殺せる。その差です」


「……どうして?」


 あやめはブランコの鎖を強く握った。そうしないと、倒れてしまいそうだった。


「あんたはどうして殺せるの?本当にお兄ちゃんのことを思うなら、幸せにしてあげればいいじゃん。一緒に生きてあげればいいじゃん」


「あの人はそんなこと望んでいない。そんなことも分からないんですか」


 道路を走る車の音がうるさい。結菜の声は今にも消えてしまいそうなほど小さくて、耳をすまさなければ聞こえない。


「愚かね。愚かで、とても優しい子。きっと周りの人に恵まれているんでしょうね」


 結菜はそっと、あやめの頬に手を添えた。


「幼い頃に両親を亡くした? 施設で育った? たったそれだけを不幸の証明にするの?」


 綺麗な女だ。至近距離にいる結菜を見て、あやめは素直にそう思う。綺麗で、狂った女の顔だ。


「好きな人と一緒にいたい。一緒に生きたい。それが普通よ。だからあなたは正しい。普通の子なんです。だけどね、雪人は普通じゃない。だからあなたじゃ、雪人の特別にはなれないの」


「あんたなんかに何が分かるのよ」


 結菜の手を振り払い、あやめはブランコから立ち上がった。


「あたしはずっとずっと雪人と一緒にいた。雪人のことがずっとずっと好きだったの。あんたみたいに軽い気持ちじゃないの。あたしには雪人だけなの。雪人しかいないの雪人じゃなきゃ嫌なの。だから返してよ。雪人をあたしに返してよ」


「嘘」


 抑揚のない声で、結菜は言った。


「雪人しかいないなんて嘘よ」


 冷たい風がふたりの間をするりと吹き抜けていく。木の葉がかさかさと乾いた音を立て、泣いた。


「あなたは雪人に依存したいだけでしょう。ずっとそうやって雪人に依存してきたのね。雪人に頼って、雪人に守られて、雪人の気持ちなんて考えもしないで」


 ――僕は、弱いんだ。


 そう言って目を逸らした雪人。あやめは僕の表面しか見てないね。悲しそうな目と声は、何を訴えていたのだろう。


「あなたは雪人のことを分かろうとした? 誰も分かってくれないなんて孤独なふりをして。雪人だけだなんて嘘をついて」


 じり、と1歩足を下げると、太ももがブランコにぶつかった。前進も後退もできない。肯定も否定もできない。何か言おうと口を開いてみるものの、適当な言葉が見つからない。


「……だから雪人は疲れちゃったの」


 あきれと憐れみが混じったような表情を浮かべて、結菜は静かに言葉を紡ぐ。


「雪人は依存したかったの」


 あたしは雪人に依存したい。


「雪人は守られたかったの」


 あたしは雪人に守られたい。


「雪人は弱音を吐きたかった。泣きたかった。でもあなたがいるから。あなたが勝手に雪人をヒーローのように扱うから、仮面をはずせなくなったんじゃない。雪人のことを知ろうともせずに、雪人の気持ちなんて考えもせずに、愛されたいと願うだけ」


 結菜の言葉を聞けば聞くほど、網膜が潤っていくのを感じた。


 何も、言えない。反論しようと睨んでも、喉から言葉が出てこない。

 

 今まで自分は、雪人をヒーローだと信じて疑わなかった。それが望月雪人なのだと。それが当然なのだと。雪人の考えていることなど気にも留めなかった。何を思い、何を願っているのか考えもしなかった。


「あなたがいるから、雪人は幸せになれないの。雪人は壊れてるんです。壊れちゃったんです。だからあなたはどう足掻いても、雪人の傍にはいられない」


「……あんたは、どうなの」


「私も雪人と同じです」


 結菜は寂しげに微笑んだ。今にも消えてしまいそうな笑みだった。なんとなく、雪人に似ていた。


「壊れてるんです。お互いに壊れてるから補える。あなたは普通で、健全だからだめなの」


 あやめはスカートの裾を強く握った。そうしないと、涙が零れてしまいそうだった。


「ひとりとひとりはふたりにはならない。ふたりになることなんて望んでない。ふたりでひとりなら、それでいいの」


 自分に言い聞かせるように呟いて、結菜はそのままマンションへと去っていった。


 彼女の姿が見えなくなっても、あやめはその場から動けずにいた。


 悔しかった。何も言い返せない自分が情けなかった。


 手の甲で涙を拭いながら、のろのろと自宅へ向かった。こんな惨めな姿は誰にも見られたくないのに、人工的な光は否応なくあやめを照らした。道行く人の何人かはぎょっとした顔であやめを見たが、話し掛けてくる者はいなかった。


「ああ、あやめちゃん。おかえりなさい」


 やっとのことで家に帰ると、母はいつもと変わらずあやめを迎えた。


「……ただいま、お母さん」


 テーブルの上に用意された食事を見て、あやめの目に再び涙が浮かんだ。


 帰るべき場所がある。温かい家庭がある。食事がある。友達がいる。こんなにも恵まれているのに、何故気付けなかったのだろう。


 だけど雪人はどうだった?

平穏な家庭は? 心の許せる友人は?


 知ろうとしなかった。雪人の表面ばかり見て、心にある悲しみに気付けなかった。自分が救われることばかり考えて、彼の苦しみを受け止めてあげられなかった。


 ああ、自分はなんて幸福で愚かな子供なんだろう。





 年が明けると、寒さはますます厳しくなった。地球温暖化とは名ばかりで、今年の冬はここ数年で1番の冷え込みになるだろう、とテレビのアナウンサーは口を揃えて言っていた。息を吐けば室内でも白く染まる。こたつに潜り丸まって過ごすうちに、気付けば3学期が始まっていた。


「菖蒲の花言葉はね、『よき便り』なんだって」


 バス停まであやめを送りながら、雪人が思い出したようにそう言った。


「あと、『神秘的な人』っていうのもあるらしい。素敵な名前だね」

きっとまた暇つぶしに得た知識なのだろう。そうなんだ、と適当に応えて、あやめはマフラーに顔を埋めた。


 あの日以来、正直雪人に会うことが怖かった。だがそこで連絡を取らなくなってしまったら、もう一生雪人に会えないような気がした。雪人からあやめに連絡をくれることは滅多にない。電話をすれば出てくれる。会いに行けば会ってくれる。雪人はいつだって受動的だ。今日も、突然訪問したあやめを快く迎えてくれた。あの日のことには一言も触れず、ただあやめの世間話にうなずくだけだ。会話と呼ぶには一方通行な触れ合いが終わり、こうして何度目か分からない別れの時間が来る。


 雪人のことを知りたい。知らねばならない。そう思うのに、いざ本人を前にすると関係のない話ばかりべらべらと喋ってしまう。そんな自分が情けなかった。


 バス停が近付くにつれ、あやめの歩幅は小さくなっていく。いつまでもこうやってくすぶって、焦燥感ばかりが募っていくことに嫌気が差す。雪人を取り戻そうともがけばもがくほど深みにはまって、うまく身動きが取れなくなる。結菜の紡ぐ正論に負けてしまう。幼さが邪魔して、言葉から力が失われる。そう思うと、足が動かなくなる。前に進むのが怖くなる。


「お兄ちゃん」


 名前を呼ぶと、雪人は足をとめて振り向いた。雪空を背景にすると、彼の白い肌が同化して、彼の存在がますます薄まっていくような気がした。雪花石膏のような白さに見惚れ、あやめは首を縮めた。


「……あのね、あやめはね」


 いっそのこと、好きだと伝えてしまおうか。キスをねだって抱き付いて、ボタンを外してしまおうか。愛なんてなくてもいいから、無理やり雪人を体内に取り込んでしまおうか。


 雪人、ねぇ雪人。

 あたしだけの、お兄ちゃん。


 手を伸ばしても届かない。こんなに近くにいるのに。ずっと一緒にいたのに。


 奪いたい。

 奪いたい。

 奪いたいのに、奪えない。


 唐突に、雪人のポケットから音楽が鳴った。


「ちょっとごめん」


 そう断って、雪人は携帯を耳にあてた。伸ばそうとした手を引っ込めて、あやめは地面へ視線を落とした。


 相手など、声を聞かなくても分かる。雪人へ連絡する者なんて、自分以外にひとりしかいない。結菜だ。


 いつもそうだ。行き場のない怒りを噛み締めて、あやめは強く拳を握った。いつも結菜が邪魔をする。こうやって雪人と結菜が話すたび、あやめの心は悲鳴を上げた。孤独や寂しさが肥大して、苛立ちへと転化する。


「お兄ちゃん」


 力を持たない叫び声は、雪人の耳には届かない。雪人の心には響かない。


 いたたまれなくなったあやめは、電話が終わるのを待たずに、ひとりでバス停へと走り出した。雪人は追いかけてこなかった。その方が都合がいい、と思った。今の自分はどうしようもなく無力で幼かった。愚かだった。雪人との距離を縮めるために、自分にはやらねばならないことがある。


 春風園へ行こう。春風園へ行って、雪人を知るのだ。雪人の悲しみも苦しみも、全部吸収してしまおう。湿った風が裸の足を冷やす。決意も孤独も痛みも、無知の前には無力だった。






「本当に久し振りねぇ」


 春風園に着くと、叶麻紀は満面の笑みであやめを迎えた。


「でもびっくりしたわ、突然なんだもの。ああ、もちろんいつ来てくれても大歓迎なんだけどね」


 あやめを客間の椅子に座らせて、麻紀はせかせかとお茶の準備をし始めた。その落ち着きのない動作を見ていると、なんだかこちらまでそわそわしてしまう。あやめは両手を膝の上に置いて、きょろきょろと視線を漂わせた。最後に訪れたのはいつだったのだろう。もう思い出せないほど昔なのは確かだ。自分の記憶と何一つ変わらない空間に、懐かしさがじんわりと胸を満たしていく。


 春風園の職員である叶麻紀は、あやめと雪人の育ての親だ。母親のように優しく、父親のように厳しく愛を与える彼女は、10年以上経った今でも、変わらずにここで働いている。数年ぶりに見る麻紀は、以前より一回り太ったように思えた。頬にふっくらとついた肉が丸い顔を更に丸く見せ、それがより愛嬌を生み出しているようでおかしい。麻紀は目元をくしゃくしゃにして、あやめに緑茶を差し出した。


「大きくなったわね。今高校生だっけ」


「高2。もうすぐ高3」


「ってことはもうすぐ受験生? 時が経つのは早いわねぇ」


 麻紀はしみじみとうなずいて緑茶を啜った。あやめも湯のみに手を添えたが、熱くて持つことさえできなかった。


「あのね、麻紀先生。今日は聞きたいことがあって来たの」


「なあに?」


「お兄ちゃんのことが知りたいの」


「お兄ちゃん……ああ、雪人君ね」


 そう呟いた後、麻紀は表情に影を落とした。


「まだ若いのに……本当、残念よね」


「……うん」


 こめかみを押さえ項垂れる麻紀に、あやめはうなずくことしかできなかった。麻紀の中では、いや、この世界では、雪人はもう死んだ人間なのだ。悲劇なんて言葉では形容できないほど、彼の死は人々を深い悲しみに陥れた。麻紀もそのひとりなのだろう。雪人が望んだこととはいえ、涙を浮かべる麻紀を目の前にすると、あやめの心はきりきりと疼いた。


「あたしね、思ったの。あたしが知ってるお兄ちゃんは、ほんの一部でしかないんじゃないかって。麻紀先生なら、お兄ちゃんのことをよく知ってるでしょ? だから話を聞かせてほしいの」


「仲良しだったものね、あやめちゃんと雪人君」


 当時を思い出したのか、麻紀はますます瞳を潤ませた。ごめんなさい、と涙を拭い、彼女は軽く咳払いした。


「雪人君は、そうねぇ……おとなしい子だったかな。あまり喋らないし、笑わないし。成長するにつれてだんだん話してくれるようになったけど、小さい頃は苦労したのよ? どうやってこの子と接していけばいいんだろうって、悩んだ時期もあったわ」


「どういう、こと?」


 麻紀の話す「雪人」に、あやめは眉をひそめた。


「お兄ちゃんはいつも優しくて、明るかったよ?あたしと一緒に遊んでくれたし、ちゃんと笑ってくれたよ」


「きっとあやめちゃんの前では格好つけてたのよ。男の子って、そういうとこあるじゃない」


 ――僕はそういう『お兄ちゃん』を演じてきたんだ。


 あの日雪人が言った言葉を思い出した。雪人は何年も仮面をつけて自分に接していたのか。気付けなかった。気付こうとしなかった。雪人はあまりにも完璧だった。


「雪人君はとても泣き虫だったのよ。暗くて、誰にも心を開かなくて……でも、あなたの前ではいいお兄ちゃんでいたかったんじゃないかしら。頼られるのが嬉しかったのね」


 麻紀は反動をつけて重い腰を浮かせた。その動作が年齢を感じさせるようで、ほんの少しだけ寂しく思えた。


「これ、よかったら」


 麻紀は棚から数冊のアルバムを取り出し、あやめの前に差し出した。


「施設にいた頃の写真と、雪人君の卒業アルバム。本当は雪人君が持ってるべきなんだろうけど、本人がくれたのよ。いらないからって」


 アルバムを受け取ると、ずしりと腕に重さがのし掛かった。気が済むまで見ていってね、と言い残し、麻紀は部屋から出て行った。

 

ひとりになったあやめは、施設のアルバムをぱらぱらと捲った。日常の何気ない風景からクリスマス会の様子まで、様々な写真が載っている。ほんの数枚だが、幼き日のあやめも映っている。その隣には必ず雪人がいた。今も昔も変わらない、美しい顔だ。笑みを浮かべている写真も少なくはない。間違いなく自分の知っている雪人だ。だがよく見ると、その瞳はどこか虚ろで、少しも喜怒哀楽を浮かべてはいない。雪人はこんな虚構的な笑みを浮かべていただろうか。そうだとしたら、何故自分は気付けなかったのだろうか。自分の愚かさにますます腹が立った。


 卒業アルバムは、小学校、中学校、高校の3冊だった。小学生の雪人も、中学生の雪人も、他の生徒とは明らかに違っていた。雪人は異常なほど美しかった。完成された美貌は人形のようで、人間味を感じさせないほどだ。高校のアルバムを開くと、3年7組に雪人がいた。今よりは髪が短く、顔立ちも少し幼い。今までのアルバムよりは表情が柔らかいようにも見える。あやめが雪人に違和感を抱き始めた頃だ。雪人の笑みに人懐っこさが加わったのもこの頃だった。


 そして同じページには、高校生の結菜がいた。眼鏡を掛けた地味な女。落書きでもしてやろうか、と邪な考えが浮かんだが、実行には移さなかった。気付かれないような嫌がらせをしても仕方ない。


 その時、あやめはもう一つ見慣れた名前があることに気が付いた。同じ3年7組のページに、見覚えのある顔が映っている。


「安達、先生……?」


『安達健次』の名前と共に映る男子生徒は、紛れもなくあやめの学校の教師その人だった。顔立ちは若干幼いが、優しげな目元も短い髪も、明らかに安達本人だ。安達は雪人のクラスメイトだったのか。全身から力が抜けるのを感じ、あやめは背中を椅子に預けた。


 全く知らなかった。雪人と同年代であることは分かっていたが、まさかこんな繋がりがあるとは。世間は狭いというが、これほどまでとは思わなかった。


 これは、大きな収穫だ。卒業アルバムを閉じ、あやめは強く拳を握った。安達に聞けば、雪人のことが分かるかもしれない。もしかしたら結菜の話も聞き出せるだろう。そうすれば何故彼らが「ふたり」になったのか、その理由にも辿り着けるはずだ。


 もう少しだよ、お兄ちゃん。


 遠く離れた雪人を思い、あやめは心の中で囁いた。


 もう少しで、あの女からあなたを解放できる。


 湯のみの緑茶を一気に喉へ流し込み、あやめはその場を後にした。先にある希望の光が見えると、心は風船のように軽かった。


 今度は、あたしが受け止めてあげるから。

 だから待ってて、お兄ちゃん。








 翌日の放課後、あやめは職員室を訪れた。本当はもっと早く安達を訪ねたかったのだが、短い放課の時間だけで済むような話ではなかったし、また、済ませる気もあやめにはなかった。


 職員室に入ると、安達の周りにはふたりの女子生徒がいた。どうやら授業の質問に来たらしい。というのは建て前で、本当はただ単に安達に構ってほしいだけなのだろう。それでも安達は丁寧に解説し、彼女らの他愛ない話にも耳を傾けている。まったく熱心なことである。


 ようやく女子生徒がいなくなったのを見計らって、あやめは安達に近付いた。


「安達先生」


 書類に何かを記入していた安達は、すぐに手をとめて顔を上げた。


「ちょっと、いいですか」


 緊張で声がうわずった。千冬との情事を目撃して以来、あやめは安達を徹底的に避けてきた。あの時確かに目が合ったような気がしたのだが、安達は何も言ってこない。今となっては本当に目が合ったのかさえ不確かだ。ただ、あの凍るような瞳、不適な笑みだけが、今もあやめの脳に刻まれているのだった。


「どうした、雨生。質問か?」


 安達はわざわざあやめの方に体を向けて言った。


「質問っていうか、聞きたいことっていうか」


「それを質問って言うんだぞ?」


 本当面白い奴だなぁ。そう言って笑う安達は、きっとあやめが進路希望に「お嫁さん」と書いたことを思い出したのだろう。あの時の軽率な反抗を顧みると我ながら大胆なことをしたものだと恥ずかしくなるが、今はそんなことを思っている場合ではない。


「先生は、望月雪人を知ってる……よね?」


 安達の顔から笑みが消えた。


「あ、あたし、お兄ちゃ……雪人の妹みたいなもので……それで、お兄ちゃんの昔を知りたくて。高校の卒業アルバム見たら、先生の名前があったから。何か聞けたらなぁって。それで」


 しどろもどろに説明するあやめから目を逸らし、安達は考え込むように腕を組んだ。


「……いい奴、だったよ。明るくて優しくて、絵に描いたような優等生。俺じゃとてもかなわない」


 でも、と安達は付け足した。


「雪人には致命的な欠陥があった。雪人自身じゃどうにもならない欠陥が。だから雪人は、完璧にはなれなかった」


「どういうこと?」


「俺から言えることじゃないな。直接雪人に聞かないのか?」


「……え?」


「生きてるんだろ?」


「……どうしてそれを」


 知ってるの?


 そう続けたかったが、声が出なかった。


 雪人が生きていることは、結菜と自分しか知らないはずだ。それなのに何故、何の関係もない安達が知っているのか。そして何故、あやめが「知っている」ことを知っているのか。


 あやめの心を見通すように、安達は続けた。


「俺はあいつのことなら何でも知ってるよ。『秘密』を共有してるんだ」


 その秘密が何なのか問いただしたかった。だが次から次へと浮かび上がる疑問に、思考がついていかない。声に出そうと口を開けてみるものの、それは意味を成さない呻きにしかならなかった。


「なぁ、雨生」


 安達が声をひそめたので、あやめは思わず彼に近付いた。安達からは微かに煙草のにおいがした。そのにおいを消すように、甘ったるい花のような香りもする。危険な、大人のにおいだ。


 悪い大人は、こう囁く。


「――水瀬から雪人を取り戻したい?」


 無垢な少女は息を呑む。甘い言葉に、誘惑される。


「……うん」


 力強く、うなずいた。ためらいなどあるはずもない。雪人を取り戻すためなら何だってする。それはもはや意地だった。


「方法、教えてあげようか」


 安達はメモ用紙を引きちぎると、そこにさらさらとペンを走らせた。そしてそれを小さく折ると、あやめの手のひらにひらりと落とした。


 広げてみると、そこには住所が書かれていた。


「俺の部屋だよ」


 安達は更に声を低くした。


 誰にも見つからないようにここにおいで。

 そうしたら、雪人は帰ってくるよ。


 風がぎしぎしと窓を軋ませた。空は泣き出しそうな色をしていた。




 時計の針は午後10時を指していた。


 両親に見つからないようにこっそりと家を抜け出して、あやめはメモに記された場所へと向かった。夜は一層寒さが厳しくなる。マフラーを何重にも巻いて、息を白く染めながら、夜の街を駆け抜ける。もうすぐだ。もうすぐ、雪人を取り戻せる。安達との距離がもどかしい。


 安達のマンションは、電車で10分ほどの場所にあった。


「よく来たな」


 チャイムを鳴らすと、安達はすぐに扉を開けてあやめを迎えた。学校以外の場所で見る安達は、普段とは違う人間に見える。教師という肩書きを脱いでみれば、雪人と同い年のただの男だ。何故だかいけないことをしているような気がして、あやめは慌てて目を伏せた。


 安達の部屋は静寂が支配していた。テレビは電源がついておらず、まるでインテリアのように置かれている。黒い画面のパソコンと資料だけがテーブルの上に散らばっており、そこだけがかろうじて生活感を演出していた。適当に座れよ、と言い残し、安達はキッチンへと消えていった。どうやらコーヒーを入れるらしい。


 ソファーには座らずに、あやめは安達の後を追った。


「……本当にお兄ちゃんを取り戻せる?」


「それはお前次第、かな」


 安達はカップにコーヒーを注ぎ、あやめに差し出した。両手で受け取ると、冷えた手がじんわりと温まるのを感じた。


「雨生、お前はどうして雪人が好きなんだ?」


「優しいから」


「それだけか?」


「人を好きになるのに理由なんていらないと思う」


 安達はそうか、と苦笑気味にうなずいてリビングのソファーに腰掛けた。


「先生はどうなの?」


 あやめはむっと口を曲げ、テーブルの上にカップを置いた。コーヒーを飲む気にはなれなかった。


「先生は千冬のこと、好き?」


「……かわいい生徒だよ。それ以上でもそれ以下でもない」


「なのにキスするんだ」


 自然と声が大きくなった。


 やはり安達は「いい教師」などではない。雪人とは正反対の、狡くて汚い大人だ。こんな男を一途に想う千冬が自分と重なり、憐れに思えて嫌だった。


「それって最低だよ。そういう神経が分からない」


「だったら、お前に雪人は救えない」


 安達はコーヒーを一口だけ飲むと、ゆっくりとあやめに近寄った。


「お前は自分が救ってほしいと思ってる。でも違うんだよ。あいつは誰かに救われたいんだ」


 もう彼は笑っていなかった。


「お前に雪人を救う資格はないよ」


「何……」


 その異様な威圧感に、あやめは思わず後ずさった。ドン、と背中が壁にぶつかった。


「お前に恨みはないんだ。好きってわけでもないしな」


 言い訳のように呟いて、安達はそっとあやめの首に手を掛けた。


「でも俺は知っちゃったんだ。愛を、知ってしまったんだ」


 焦らすようにゆっくりと、あやめの気道を狭めていく。


「本当に水瀬が手に入るなんて思ってないけど。あいつから引き剥がすために、少しは役に立つだろ」


 危険だ。本能が警告している。早く逃げなければ。そう思うのに、体は震えるばかりで動こうとしない。足に力が入らない。


 コツ、コツ、コツ……。


 頭の中で、足音が鳴っている。どんどんこちらに近付いてくる。


 ――ああ、これは、


 死の、足音だ。


「何か言い残すこと、あるか?」


「……嫌だ」


 酸素が喉を通らない。うまく言葉が紡げない。恐怖は涙を誘引し、あやめの視界を曇らせる。


「死にたくない……死にたく、ないよ」


 お兄ちゃん。お兄ちゃん。


 どれほど心で叫んでも、雪人にはもう届かない。


 ヒーローなんてどこにもいない。


「お願い……殺さないで」


「……ああ、やっぱりこうでなきゃ」


 安達は嬉しそうに目を細めると、


「そういうお願いされると、殺したくなっちゃうよね」


 ――あやめの視界が、黒く染まった。



     *


 夢を見た。雪人とふたりでいる夢を。


 夢の中で、雪人は笑っていた。


 ――どうしてお兄ちゃんは、そんなに冷たい目をするの。


 どうして悲しい顔で笑うの。


 幼い頃の記憶だ。春風園にいた頃、雪人とあやめは「ふたり」だった。ふたりで手を繋いでは、空にかかる虹に思いを馳せた。


 雨上がりの空は水分を含んでみずみずしいような気がする。真っ白な雲は綿菓子のようにふんわりとしていて、一度でいいから触れてみたいという欲求を掻き立てる。うっすらと空にかかる虹を見つけた時の感動は、何度繰り返しても色褪せることはない。宝くじが当たったような、アイスの当たりを引いたような、そんな感覚だ。


「虹のふもとには宝物が眠っているんだって。それを見つけるとね、幸せになれるんだよ」


 そう言って、雪人は微笑んだ。優しくて甘い嘘だった。


「あやめも幸せになれる?」


「もちろん」


「お兄ちゃんもなれるよね」


「僕は、なれないよ」


「どうして?」


 そう尋ねると、雪人はゆっくりとあやめに視線を向けた。暗い色の瞳が寂しげに笑った。


「僕は、呪われているんだ」

















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