第1章 禁猟区
その日はとてもよく晴れていた。
最高気温22℃、最低気温16℃という11月にしては少し暑いくらいの天候で、外を歩くと太陽熱にやられてじんわりと汗ばむ。冷たくなってきた風だけが季節に適応していて、シャツの間をするりとすり抜けては、汗をさらさらと乾かしていく。
望月雪人が亡くなったと聞いたのは、そんな何気ない秋の日のことだった。
「心臓発作だってさ。生まれつき心臓が弱かったらしい」
しんみりとした口調でそう語る安達健次に、水瀬結菜はそうですか、と曖昧にうなずいた。
どう反応するのが正解なのか、思考を巡らしていることをばれないように、頼んだばかりの紅茶にミルクをたっぷりと注いだ。赤茶けた液体の中に、どろりとした白色がゆっくりと溶けていく。その様子がなんとなくおかしくて、いつまでも眺めていたいと思ったけれど、安達の視線を感じて、やめた。
ミルクが均一になるようにかき混ぜて、ストローを口にくわえてみる。こうして口を塞いでおかないと、何か余計なことを話してしまいそうだった。間違った表情を浮かべてしまいそうだった。
何気なく外を見てみると、景色よりも先に、窓に映る自分と目が合った。黒よりも少し明るい色のショートボブ。感情のない大きな瞳。美しくも醜くもない平凡な23歳の女が、こちらを見て不吉に目を細めた。
ストローを口から離し、唇の端をくいっと上げて、子供のように無邪気にせせら笑った。それが自分自身だと気付いて、結菜は慌てて唇を噛んだ。項垂れて眉を下げ、膝の上で拳を握る。肩を震わせ、大げさに息を吐いてみる。
今自分は、知人を亡くした哀れな女の感情をうまく表わしているだろうか。早すぎる死を嘆いているだろうか。どんなに悲しみを浮かべようとしても、涙は少しも出てこない。
それは空が雲一つない快晴だからだろうか。それとも、喫茶店が人の笑い声で満ちているせいなのか。どちらも違う、と結菜は思う。どんな残酷なニュースでも、もう自分の視界を曇らせることはできないのだ。
「大丈夫か、水瀬」
安達が気遣うように顔をのぞき込んできた。この男は昔からそうだった。誰かが暗い顔をしていたら、それがたとえ他人だとしてもためらうことなく声を掛ける。完璧すぎるその優しさが、結菜は苦手だった。
「大丈夫です。それで、葬儀の方は」
「親族だけでひっそりと済ませたらしい。俺も昨日知ったばかりでさ、まだ混乱してるんだ。水瀬には伝えた方がいいかなと思って。……付き合ってたんだよな?」
「いえ、そういうのじゃなかったんです。そりゃ、好きじゃなかったって言ったら嘘になりますけど。ほら、望月君を好きじゃない女の子なんていませんでしたから」
「それもそうだな」
当時を思い出したのか、安達は懐かしげに目を細めた。
高校時代、望月雪人は絵に描いたような美少年だった。背はすらりと高く色白で、美形という言葉は彼のために作られたのではないかと思うほどだった。頭もよく運動神経もいいが、決してそれを驕ることはなかった。儚げな外見とは裏腹に、活発で、人懐っこい性格をしており、男女共々彼を敬愛し、崇め、慕った。
そんな完璧人間の訃報は、彼を知る全ての人間に暗い影を落とした。彼の友人、家族、学生時代の恩師、そしておそらく、これから出会うことになるありとあらゆる人間も、喪失による悲愴感に胸を痛めていることだろう。雪人の死は、テレビの向こうで微笑むどんな人気スターよりも、この世界に満ちる空気を暗欝なものにした。それほど彼は人望が厚く、愛されていた。
私が死んだらどうなるだろう。
言葉を続ける安達をよそに、ぼんやりと結菜は考えた。誰か悲しんでくれる人はいるのだろうか。友人、家族、同僚……順に思い浮かべて、やめた。指折り数えようと広げた手は、役目を果たせず膝の上に落ちた。
「世の中不公平だよな。いい奴ほど早死にするって本当なんだな。まだ23だぜ」
安達は悔しげに顔を歪め、残りのコーヒーを勢いよく喉に流し込んだ。
「なんか暗い話でごめんな。わざわざ時間作って来てくれたのに……ってまあ、この話のために呼び出したんだけどさ」
「いえ、教えてくれてありがとうございます」
そのまま彼が席を立ったので、結菜も慌てて腰を浮かせた。コップにはまだ紅茶が半分以上も残っていた。上着を羽織り、鞄を手に取る頃には、安達はすでにレジの前にいた。財布を取り出そうとした結菜を手で制し、彼は気前よくふたり分の代金を支払った。
「すいません、ご馳走になってしまって」
「いいって。俺が無理に誘ったんだし」
外に出て空を見上げると、太陽は徐々に西へと傾き始めていた。まだまだ夏の余韻を引きずっている気温とは反対に、1日の長さは日に日に短くなっていく。あと1週間もすれば、道端の木々も真っ赤に燃えることだろう。
「水瀬は電車? 送ってくよ」
「いえ、大丈夫です。買い物に行かなきゃいけないし」
「そっか。じゃ、また今度飲みに行こうぜ」
「ふたりで、ですか?」
結菜の問い掛けに、安達は一瞬固まったが、やがて理解したようにああ、と言った。
「恋人、いるのか?」
「ええ……まあ」
結菜はぎこちなくうなずいた。別に隠していたわけではないが、改めて告げると少し気恥ずかしい。安達は「やるねぇ」と口元をにやつかせ、じろりと結菜を眺め渡した。その視線から逃げるように、結菜は体を縮めた。
「じゃあ適当に人数集めて、な。また話聞かせろよ」
「はい」
結菜が照れながら微笑むと、安達は満足げにうなずいた。じゃあな、と去っていく安達に、結菜も控えめに手を振った。その背中が風景に吸い込まれ、視界から消えたのを確認してから、素早く笑顔を引っ込めた。
普段使わない筋肉を使ったせいなのか、頬の辺りが少し痛んだ。愛想よくするということは、なんと疲れることだろう。自然と口から息が漏れる。疲労も同時に吐き出せたらいいのに。そう考えて、その発想の幼稚さを自嘲した。
左腕にはめた時計を見ると、針はちょうど午後5時を示していた。早く帰って、夕飯の支度をしなければ。冷蔵庫の中身を思い出しながら、結菜は駅へと歩き出した。
帰りの電車は、来た時よりも混んでいた。
小太りのサラリーマンと、学生服の少年に挟まれながらつり革につかまって、がたがたと不安定な電車のリズムに身を任せた。右に倒れてはまた戻って、左に倒れては、また戻る。おきあがりこぼしのようにゆらゆら揺れるのが、結菜は好きだった。
浮遊感を楽しむ間もなく駅に着いた。今日の夕飯は何にしようか。彼は何て言っていたっけ。軽やかな足取りでスーパーに寄り、買い物かごに食材を詰めた。会計を済ませ、買い物袋を下げてスーパーを出る。マンションへと向かいながら、まるで若奥様みたいだなと考えて、少しにやけた。
10分も経たないうちに、白い、10階建のマンションがのっそりと姿を現した。いくつかの窓から、ぽつりぽつりと淡いオレンジの光が漏れている。7階の、1番端の部屋にある明かりを見て、結菜は足を速めた。エレベーターに乗り込んで、7階のボタンを何度も押す。扉が閉まる速度すらもどかしい。
鈍い音と共に、エレベーターが停止する。一目散に飛び出して、端っこの、701号室の前でとまった。鞄から鍵を取り出して、鍵穴へと差し込む。
「ただいま」
靴を脱ぎ捨てながら、思い切り叫んだ。急いだせいで息が弾んでいる。玄関に荷物を置き、乱れた髪を手で撫でつけた。
部屋の奥で、誰かが歩く気配がする。ゆっくりと、こちらに近付いてくる。くもりガラスの扉に映った人影が揺れる。
リビングから、ひとりの男が現れた。女のようにさらりとした髪。雪のように白い肌。彫刻のように整った顔立ち。朝見た時と同じ、白いシャツを着ている。
「おかえり、結菜」
絵本から飛び出した王子様のように品のよい笑みを浮かべて、男は大きく腕を広げた。その美しさに、思わずほう、と息が漏れた。彼の美しさは衰えることを知らない。頭の先からつま先まで、味わうように何度も視線を往復させてから、結菜は思い切り抱きついた。
「ただいま、雪人」
名前を呼ぶと、望月雪人は背中にまわした腕にぎゅっと力を込めた。おかえり、と囁く低い声が、結菜の鼓膜を優しく震わせる。彼の声を聞くたびに、結菜の体はバターのようにとろけていく。溶けて、流れて、消えていく。
「さっきね、安達君に会ったの」
「ふたりきりで?妬けるな」
「真剣な顔で『雪人が死んだ』なんて言うんだもん。笑いを堪えるのに必死だった」
雪人の柔らかな髪が顔に触れてくすぐったい。
「ばかな人。雪人はちゃんとここにいるのにね」
「健次は正しいよ。僕は死んで、そして生まれ変わったんだ」
力強く、雪人は囁く。
「僕は結菜のためだけに生きる。だから結菜も、僕だけのものでいてね」
それは呪文だ。二度と離れられぬよう、互いを縛る魔法の言葉。手錠を掛けるよりも、指輪をはめるよりも、ずっと強く互いを縛る。
「……ゆきとぉ」
確かめるように名前を呼んで、雪人に足を絡ませた。そうすれば、結菜、と名前を呼んでくれる。ありったけの愛を声に乗せ、結菜の鼓膜を犯していく。愛している、なんて言葉はいらない。抱き合い、口づけ、何度も何度も名前を呼ぶのだ。最愛の人の名前を声にする。形にする。
舌先を離れる時は少し苦い。しかし音となり空気に触れると、途端にそれは甘さを含む。あきれるほどの睦言に酔い、今日も温度を分け合うのだ。
これは秘密の、ふたりぼっち計画。誰にも邪魔されない、ふたりだけの世界。結菜はひとりだった。雪人もまた、ひとりだった。ひとりとひとりはふたりにはならない。だから永遠に、ふたりぼっち。
食事を済ませ、洗い物も済ませ、ついでに風呂も済ませた結菜は、濡れた髪をタオルで拭きながら雪人の隣に腰掛けた。
ひとりで座るには大きすぎるソファーは、雪人のおかげでようやく本来の役割を果たせるようになった。火照った体を冷ますように、雪人の腕にするりと体を絡ませる。彼の体温はまるで死人のように低いのだ。雪人は結菜の額に軽くキスをし、ニュースキャスターの声に耳をすませた。
つられてテレビに目をやると、『連続殺人事件、犯人は未だ不明』のテロップが飛び込んだ。ふうん、とそっけなく呟いて、結菜はことん、と雪人の肩に頭を預けた。
テレビの中の映像はどこか非現実的で、まるで別世界の出来事のように感じる。色づき始めた紅葉も、政治家の不正も、都内で起きた自動車事故も、虚構なのではないかと思えてくる。――いや、もしかしたら本当は、幻なのはこちらの世界なのかもしれない。今雪人と共にいるという事実こそが、現実ではないのかもしれない。だからこそ、結菜は雪人と腕を絡める。ぬくもりを実感し、これが現実であることを確かめる。
「また連続殺人事件か」
アナウンサーの報道を聞いて、雪人が独り言のように呟いた。
「被害者は女性ばかりだって。結菜も気を付けてね」
「私なんかを殺す悪趣味な人、いませんよ」
冗談混じりに答えて、結菜は携帯を手に取った。ブックマークフォルダを開いて、接続。画面に溢れている文字を見ると、思わずくすりと笑いが漏れた。
「何を見てるの?」
雪人が結菜の携帯をのぞき込んだ。
「雪人は本当に人気者なんだな、と思って」
ほら、と結菜は携帯画面を示す。雪人はまじまじと画面を見つめ、顔をしかめた。高校の卒業生が集まるコミュニティーや個人のツイッターまでもが、望月雪人の死を嘆く書き込みで溢れ返っている。
「そろそろ広まってきたみたいです。この分だと、また近々同窓会とか開かれそう」
「井上さんの時はこんなんじゃなかったのにね」
あきれるように、雪人が言った。
「雪人は人気者だから」
「同窓会ってさ、どうせ中川が仕切るんだろ? あれ、見てて寒気がするんだよね。仕切りたがりって言うの?昔から鬱陶しかったなぁ。きっとこいつ、芝居がかって追悼の言葉述べるよ。えー、望月雪人はー、頭がよくて優しくてー」
「顔もよくてスポーツもできて、性格もよくて」
「惜しい人を亡くしました……ってね」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
「お決まりの台詞ね」
「そういうものさ」
雪人は体の向きを変え、結菜の髪を指で梳いた。長い指が、髪の水分を吸い取って濡れていく。指先に付いた水滴が、ぽたり、と結菜の膝に落ちた。乾いたはずの肌が、また、濡れる。雪人によって、濡らされる。
雪人はそのままタオルを手に取って、優しく結菜の髪を拭いた。それがなんだか嬉しくて、結菜は素直に頭を差し出す。こうして世話をしてもらうと、まるで彼の飼い犬にでもなった気分だ。恋人よりも甘く、家族よりも近い。
「……羨ましいな」
ほぼ無意識に、口からぽつりと呟きが漏れた。雪人は手をとめ、優しい表情で結菜の顔をのぞいた。
「私が死んでも、誰も泣いてくれないもの」
自虐的に吐き捨てて、結菜は雪人を見上げた。
「雪人だってそうでしょう」
「……そうだね」
雪人はそっと微笑むと、再び結菜の髪を拭き始めた。
「結菜が死ぬ時は、僕が死ぬ時でもあるんだから」
――逆もまた、然り。
「……そうね」
雪人から与えられた安堵は、すぐさま笑みに形を変える。結菜は目を閉じ、彼の優しさに身を委ねた。
殺されるなら、あなたがいい。愛撫のふりをして首を絞められるとか、キスのふりをして舌を千切られるとか、そういう終わり方がいい。愛情の温度に包まれたまま、死の海に溺れていきたい。
そうやって死ねたら、きっとそれは本望だ。
夜になると、途端に空は容貌を変える。
優しさの反対に冷たさがあるように、受容の裏に拒絶があるように、空は人間の二面性を色濃く表す。気温が下がり、闇に満ちる深い夜は、どんなネオンの光も対抗馬にはならない。心までもがどす黒い闇に支配され、昔の記憶が鮮明に浮かび上がってくる。
こんな夜は、思い出が、息を潜めてやってくる。
いつの時代にも色褪せることなく、懐古の対象として脳内に存在している、過去の記憶。できることなら忘れてしまいたかった。目を逸らし、耳を塞いでしまいたかった。だが時はそれを許してはくれない。現在が過去の延長線上に存在している以上、記憶はいつまでも残り続ける。
――あんたなんか、死ねばいいのに。
そんな言葉を、自分はどれくらい聞いたのだろう。
愛人の子。それが結菜に与えられた称号だった。疎まれ、憎まれ、蔑まれた。それが普通だった。飯を食べるように、眠りに落ちるように、至極当たり前のことだった。大企業の社長である父は、浮気相手を孕ませ、そして子を産ませた。女は母となる前に死に、子は水瀬家へと迎え入れられた。それが結菜だった。義理の母は、憎むべき女の遺子である結菜を憎み、虐げた。父は見て見ぬふりをした。
お前なんか、死んでしまえ。
愛の代わりに憎悪を与えられ、それを養分として吸収し、結菜は成長した。母を恨んだことはない。父を憎んだことはない。疎外され、虐げられることは、彼女にとって当たり前のことだったのだ。今更それを嘆く気にはなれない。
救いなど求めていなかった。必要もないと思っていた。だが自分でも気付かぬうちに、身近な存在に救いを見出していたことを知る。それが、弟の要だった。誕生日が数ヶ月違うだけの、腹違いの弟。家族の誰もが結菜を忌み嫌う中、要だけは純真無垢に結菜を慕った。自分を愛してくれる、小さな弟。要の存在だけが救いだった。大して年も違わないくせに、姉ぶって遊んであげたりした。お姉ちゃん、と名前を呼んでくれる。手を差し伸べてくれる。要といる時だけは、生きることを許されている気がした。
成長するにつれ、要は美しく「男」になっていった。姉である自分も見惚れるほど、要は綺麗な男に成長した。必然のように、愛した。愛を知らぬ自分が愛を注ぐなど、矛盾していることだったのかもしれない。それでも結菜は要を愛した。だが母はそれを許してはくれない。要が結菜に懐くのを、母はよしとしなかった。
「あんな女に近付いたら、あんたまで不潔になっちゃうわ」
いくら愛を知ろうとしても、愛を与えようとしても、この手に抱くことすら許されない。両親の仲は冷え切っていた。それでも離婚せずにいたのは、父の財産と、要への配慮だった。温かさのない、形だけの家族。ままごとのような家庭。そして日常的に起こる差別。母は要に全てを与えた。最新のおもちゃや高級なお菓子、洋服、金で買える全てのものと、愛。結菜に与えられたのは、必要最低限の衣類と食事だけだった。そうやって、母は区別したのだ。実の子である要と、浮気相手の子である結菜を。
時と共に、要も結菜がどういう存在かを認識し始めた。結菜が母に嫌われる理由も理解した。要は母を責めることができなかった。その優しさゆえ、どちらかに肩入れすることはできなかったのだ。結果、要はどちらとも距離を置くようになった。家族から会話が消滅した。
本当は、要をこの手で抱き締めたかった。愛していると言ってあげたかった。だがそれは叶わない。今までも、これからも、永遠に。もしかしたら、家族愛以上の感情を要に抱いていたのかもしれない。唯一優しくしてくれた人。純粋な感情を向けてくれた人。その優しさに、甘えたかっただけなのかもしれない。知らず知らずのうちに、自分は逃げ場所を探していたのかもしれない。平気な顔をしながら、大丈夫だと言い聞かせながらも、きっと心は求めていた。愛情を。そして、居場所を。
自分の存在が母を、そして要を苦しませている。自分は水瀬家にいてはならないのだ。だから、高校に入学すると同時に家を出た。いや、追い出されたと言った方がいいのかもしれない。わざと自宅から遠い高校を受験したのは結菜自身だ。そして、それを喜んだのは母だった。
「あなたのために部屋を借りてあげたの」
母は喜々として言った。
「嬉しいでしょう」
答えなど、初めから決まっているというのに。
「ありがとう、ございます」
そんな茶番を平気で行った。澱んでいく心は悲鳴を上げることもできない。
結菜の進学した高校は、全国有数の進学校だった。友人と遊ぶこともなく、趣味に没頭するわけでもなく過ごしてきた結菜にとって、勉強は唯一の暇つぶしだった。その積み重ねが、いつの間にか成績の向上に繋がっていたらしい。いくらテストで満点を取っても、褒めてくれる人などいないというのに。
成長するにつれて、感情は存在意義を失っていく。喜びも悲しみも、分け合う人などいやしない。小学生の時、笑わない子、つまらない子というレッテルを貼られた。中学では愛想笑いを覚えた。高校では少し疲れた。必要最低限の付き合いと、必要最低限の会話。それだけの技術をやりくりして、1日1日を生きていく。朝起きて、学校に行き、授業を受け、家に帰り、眠る。たったそれだけのことが、徐々に結菜から生気を奪っていく。呼吸をすることも面倒で、瞬きすらも煩わしい。世界はいつだってモノクロだった。
愛想のない自分にも、愛想を向けてくれる子はいた。それは少なからず救いであったし、ありがたかった。人と話すことは苦手だけれど、人間関係は卒なくこなしたと思う。上辺だけの友情。まがいものの平和。そういうことに関しては、結菜は長けていた。
こうやって人生は過ぎていくものだと思っていた。四季の美しさに心を震わせることもなく、誰かの優しさに感動することもない。太陽の熱に汗を流し、頬にあたる風の冷たさに身を縮める。そうやって時は過ぎ去るものだと。
そんな時だった。彼に出会ったのは。
「望月雪人と同じクラスなんて、ラッキー」
高校3年の春。そう喜ぶ女子の声をよく聞いた。数少ない友である井上詩帆も例外ではなかった。
「望月、雪人?」
「なに、あんた知らないの? モテモテ王子だよ。ほら、あそこ」
そう言って詩帆が指差す先に、彼はいた。
色白で、儚げな少年だった。数人の男女に囲まれ、楽しげに談笑しているその姿は、まるで映画の一シーンのようにきらきらと輝いて見えた。
あれが、望月雪人。
成績もよく、運動神経もいい。誰にでも分け隔てなく接し、誰からも愛される美少年。ほんの少し、要に似ていた。
ただ単純に、憧れた。その不自然なまでの完璧さに。背徳的なほどの美しさに。
気が付けば2年以上要に会っていなかった。正月すら、帰省することは許されない。完全に見捨てられたのだ、自分は。
今頃、要はどんな風に成長しているのだろう。声は低くなっただろうか。勉強はちゃんとしているだろうか。もしかしたら恋をしているかもしれない。恋人ができたかもしれない。そうだったら、少し寂しい。そんなことを考えながら、雪人と要を重ねていた。要を見守ることは叶わないから、代わりに雪人を目で追った。声を掛けることなどできなかった。誰にでも愛される雪人は、自分には眩しすぎたのだ。
人はみな平等だと偽善者は謳う。だが雪人を目の前にしたら、誰がその言葉を信じようか。誰もが雪人を慕った。誰もが雪人を愛した。きっと神ですら、彼に魅了されているのだろう。そんな雪人と自分が平等だなんて、考えることすらおこがましい。
雪人は完璧だった。雪人は完全だった。黒い噂もあったが、そんな些細なことは気にもならなかった。誰も気にしていなかった。
数多くの女子が雪人に告白をしたが、雪人は特定の恋人を作らなかった。誰にでも優しく、誰にでも冷たかった。人気者の望月雪人は、誰のものにもならなかった。それと同時に、誰のものでもなければならなかった。モナリザのように、オーロラのように、公共のものでなければならなかったのだ。
この人を、独占したいと思った。
誰のものにもならないからこそ、自分のものにしたいと思った。何も与えられなかったからこそ、何か一つ、大きなものがほしかった。
妄想をした。監禁して拘束して、自分のものにする妄想を。本当にそんなことはできないから、頭の中で構築した。世界は広がり、やがて色が着く。思春期特有の病気みたいなものだ。頭の中で、風邪をこじらせたのだ。実現するなんて思っていなかった。思うだけなら無罪だ。
言葉を交わしたことはない。体に触れたこともない。大した接点もないまま高校を卒業し、大学が過ぎ、そうして自分は手に入れた。
彼の死と、生と、ふたりだけの孤独を。
「結菜。……ゆな」
目を開けると同時に、ひゅ、と短く喉が鳴った。
暗闇に、白い天井がぼんやりと浮かび上がっている。荒い息を整えながら、首を少し傾けてみると、雪人が心配そうな顔でこちらを見ていた。
「ゆき、と」
老婆のようにしゃがれた声が出た。その声の醜さに驚いて、結菜は軽く咳払いをした。
「怖い夢でも見たのかい?うなされてた」
「……大丈夫。ごめんなさい」
ベッドから上半身を起こし、結菜は長く息を吐いた。朦朧としていた意識が、次第に現実に引き戻されていく。汗ばんだ体に、シャツがぴたりとくっついて気分が悪い。体の火照りを冷ますように、隣に座る雪人にそっともたれた。
昔の、夢を見た。
幸せの彼方に忘却していた記憶だ。真夜中は闇が侵食する。水瀬の家を出てから、何度も何度も、繰り返し過去の夢を見る。母の、化け物を見るような鋭い瞳と、決して届かない父の背中。そして要の、花のように美しい微笑み。全部捨てたはずなのに。
時計の音がやけにうるさく耳に響く。窓の外で、風が木々を揺らしている。雪人は気遣うように、そっと結菜の髪を撫でた。何度も何度も、ぎこちなく。大きな手からぬくもりが伝わる。冷たくて、でも温かい。雪人は精神安定剤だ。傍にいてくれるだけで、乱れた心が凪いでいく。
「ねぇ、今度ふたりでデートしない?」
唐突に、雪人が明るく提案した。
「大丈夫。誰も僕らのことを知らない場所に行こうよ」
不安げに顔を上げた結菜に、雪人は優しく微笑んだ。
「思い出をたくさん作るんだ」
「作って、どうするの?」
「刻むんだ」
その声に甘い誘惑を乗せ、雪人は結菜を抱き締めた。
「頭に、体に、心臓に」
週末、ふたりで紅葉を見るため京都へと向かった。普段家にこもってばかりの雪人にとって、今回は久々の外出となる。太陽の光を浴びた雪人は、体が溶けちゃいそうだ、と冗談を言った。帽子を目深に被り、彼は無邪気に笑った。そんな彼を見て、結菜も目を細めた。よくよく考えてみると、休日にふたりで出掛けるのは初めてかもしれない。新幹線に乗ってしまえば、知り合いに出くわすこともない。
「綺麗だ」
赤々と燃える紅葉を目に焼き付けて、雪人はため息混じりに呟いた。うなずく代わりに、結菜は繋いだ手に力を込めた。
本当は、雪人を人目に晒したくはなかった。彼の美しさは人目に触れてはならない。雪人が自分以外の視界に入るたび、彼の美しさが拡散し、自分のものではなくなっていくような気がした。我が儘で傲慢な願いだと分かっていても、独占欲はとまらない。こんなにも誰かに執着することはなかった。こんなにも愛に飢えることはなかった。
結菜の不安とは反対に、東福寺の紅葉を前にして、雪人を気に留める人間はいなかった。若い女性からの視線が集まることは何度かあったが、声を掛けてくる者はいなかった。雪人の隣を歩ける自分を、誇らしくも感じた。
「久々の外出はどうだった?」
帰りの新幹線に乗る頃には、夜はもうすっかり更けていた。
「空気がおいしかったかな。あと、わりと寒かった。こないだまで暖かかったから油断してたよ」
「もうすぐ12月ですもんね」
「今年ももう終わりかぁ」
感慨深げに呟いて、雪人は窓の外に目をやった。人工的な光で輝く街が、残像となる間もなく駆け抜けていく。
「結菜はどう? 楽しかった?」
「ええ、すっごく」
結菜は力強く答えた。雪人と過ごす初めての秋。雪人と見る初めての紅葉。「初めて」を経験することがこんなにも楽しいなんて、昔の自分は知らなかった。モノクロの世界に色を着けてくれたのは雪人だ。雪人がいなかったら、きっと一生こんな感動を味わうことはなかっただろう。落ちていく枯れ葉を気にも留めず、冬を迎えていたことだろう。
「また来よう」
雪人は結菜の手を優しく握った。
「ふたりで。……ふたりだけで」
「……うん」
――刻むんだ。今日という日を。
心の中で、呪文のように繰り返す。今を永遠にする魔法を。
頭に、体に、心臓に。そうすればきっと、それは永遠に変わるから。
ふたりぼっちの日々を永遠にする。あなたの時間を私のものに。私の時間をあなたのものに。それがふたりの、ふたりぼっち計画。誰にも邪魔はさせない。
ふたりぼっちの日々は、退屈なほど平凡だった。朝起きて最初に「おはよう」を言い、最後に「おやすみ」を言う。たったそれだけのことが幸せと思えた。水瀬の家にいた頃は、そんな当たり前の挨拶もなかった。平凡な日々と平凡なやり取り。たったそれだけで、死にたくなるほど幸せになれた。
『飲みに行かないか?』
安達からそんなメールが来たのは、12月末のことだった。
『葛西と月島と、4人でさ』
「水瀬」
待ち合わせ場所の居酒屋に行くと、安達が席から結菜を手招いた。
「こんばんは」
引き寄せられるように近付いて、結菜は安達の向かい側に座った。他のふたりはまだ来ていないらしい。
年末なだけあって、店内は大勢の客で溢れていた。明るい照明の下で、店員がせわしなく動き回っている。
「無理に誘って悪かったな。嫌じゃなかった?」
「いえ、嬉しいです。あの、他の人は?」
「仕事が長引いてるんだってさ。もうちょっとしたら来るから、先に始めてようぜ」
そう言うやいなや、安達は店員を呼び止めて生ビールを頼んだ。結菜も慌ててメニューを広げ、少し悩んだ末、カシスオレンジを注文した。
それからふたりは、他愛もない話をした。職場のこと、学生時代のこと。過去を話すのも今を話すのも苦手な結菜は、ただ安達の話にうなずいてみせた。うなずき、同意し、笑顔を作る。それだけで会話が成り立つのは、安達の気遣いがあってのことだろう。
高校時代、安達と結菜は同じクラスで3年間を過ごした。学級委員だった安達は、雪人に劣らないほどの人望があった。雪人が人を引き付けるタイプだとすれば、安達は自ら人に寄っていくタイプだった。クラスで孤立している人がいれば、率先して声を掛けに行く。それは結菜に対しても例外ではなく、現に今でもこうして頻繁に連絡をくれる。世話好きで社交的で、明朗な好青年。それが安達健次だった。
「あの、どうして私に構ってくれるんですか」
注文した品々も出揃い、世間話も一段落した頃。訪れた沈黙を埋めるように、結菜は長く胸に生じていた疑問を口に出した。
「どうして、って?」
「だって高校時代、安達君と私は特別仲がいいってわけじゃなかったし。それに、私は地味で目立たなかったし……」
「そんなことないよ。隠れファン、結構いたんだぜ。俺もそのひとり」
結菜が顔を上げると、安達は穏やかな目で結菜を見ていた。その表情があまりにも優しげだったので、結菜は慌てて目を逸らした。
葛西と月島は一向に来る気配がない。所在なさげに置かれている箸とつきだしを見て、早く来てほしいと願った。安達にしてみれば軽い冗談なのだろうが、この手の話題はどうも苦手だ。そんな心境を知ってか知らずか、安達は更に言葉を続けた。
「なあ、彼氏ってどんな奴?」
「え?」
「この前、いるって言ってたじゃん」
「もう、やめてくださいよ」
「いいじゃん、のろけ話くらい聞かせろよ」
「ええっと、そうですね……優しい人です」
「かっこいい?」
「ええ、私にはもったいないくらいの」
「望月雪人みたいな?」
――どくん、
心臓の軋む音がした。
安達は頬杖をついたまま、優しい瞳で結菜を見ている。
「……そう、ですね」
なんとか声を絞り出し、結菜はぎこちなく笑顔を作った。安達の視線は不気味なほど温かい。先程から何も変わらない。優しくて穏やかな目だ。
「俺さ、雪人と水瀬は付き合ってると思ってたよ。ほら、同窓会の日、お前ら一緒に帰ったじゃん。みんな噂してたんだよ。雪人の本命は水瀬だったのかって」
「まさか。望月君にはもっといい人がいましたよ、きっと」
「そうかなぁ」
「そうですって」
「ま、いいけどさ。で、彼氏とは仲良くやってんのか?」
「ええ、まあ」
「いつから付き合ってんの?」
「3ヶ月くらい前から」
「初々しいな。水瀬と付き合えるなんて幸せな奴だよ、雪人は」
結菜の顔から笑みが消えた。
息が、何の余韻も残さずに、とまった。
「……俺さ、この間見たんだよ。望月雪人を」
箸でサラダを取り分けながら、安達は静かに続けた。
「おかしいよな。あいつは死んだはずなのに。幽霊なのか? って、自分の目を疑ったよ」
結菜は何も答えない。心臓の音がうるさすぎて、店内の騒音も、もはや耳には入ってこない。
「それで驚くことにさ、そいつ、誰と一緒にいたと思う?」
「……」
「お前だよ、水瀬」
安達の声が、結菜を捉えた。
「仲良さそうだったな。腕まで組んで。でもおかしいよな。雪人は死んだはずなのに、何でお前と一緒にいるんだ?」
「……葛西君と月島さんは?」
「来ないよ。誘ってないもん」
優しい笑みも、穏やかな目も、高校時代から変わらない。変わっていないはずなのに、今はその全てが偽りに思える。
「……安達君」
諫めるように名前を呼ぶ。これ以上、何も聞きたくはない。だが安達はそれを許してはくれない。
「なぁ、水瀬」
彼は箸を置き、そっと結菜の頬に手を伸ばした。雪人とは違う、温かな体温が頬に伝わる。
お願いだから、壊さないで。
ふたりの時間を奪わないで。
どんなに願っても祈っても、彼の手から逃れることはできない。まるで金縛りにでもかかったかのように、体は意思を持たなくなってしまった。
安達は腰を浮かせると、結菜の耳元でそっと囁いた。
「……俺のものに、なってよ」
性急な性欲に身を任せ、毒を含んだ唇を合わせる。雪人の時とは何もかも違う、非生産的な行為。形だけの愛撫も、奪うような口づけも、全てが夜の闇に溶けていく。
絡めた指先が熱い。白いだけの天井を眺めては、早く終われと強く強く願う。重ねた体からは香水のにおいがした。合わせた唇は煙草の味がした。全部、知らないものだった。愛なんてどこにもなかった。
感情を封じることは容易だ。心を遠くに追いやって、五感の全てを遮断する。辛いとは感じない。痛いとも思わない。ただ、恐ろしいのだ。行為そのものではない。今まで秘密に育ててきた計画が、積み重ねてきた時間が、ようやく手に入れた幸福が、塵となって風にさらわれていく。それが何よりも結菜を戦慄させた。
浮かれてしまっていたのかもしれない。何年も想い焦がれ、望み、欲したあの美しい人を、ようやく自分のものにできた。その喜びに溺れていたのかもしれない。人目に晒すのを嫌いながらも、彼に集まる視線が心地よかった。雪人の隣を歩ける自分が誇らしかった。この人を独占しているのは自分だと、そう思えるような気がした。それが束の間の幻想だとしても、いつか覚める夢だとしても、やっと手に入れた幸せに溺れていたかった。そんな幸せ、自分には不釣り合いだと分かっていたはずなのに。
――雪人。
名前を呼んでも、答えてくれる人はここにいない。抱き締めるのは別の男だ。
それからのことは、あまりよく覚えていない。
――帰らなければ。
混濁する意識の中、どうにかその結論に辿り着いた結菜は、ふらつきながら上半身を起こした。隣を見ると、そこに安達の姿はない。少し離れたところから、微かにシャワーの音が聞こえてくる。
彼が戻ってくる前に、早く安達の部屋から立ち去ろう。早く雪人の元へ帰ろう。気だるい体を動かしてベッドから下り、床に落ちていた衣服を身に纏う。まるで逆再生のようにボタンをはめ、コートを羽織る。時間も共に巻き戻ってくれたらどんなにいいか。
鞄から携帯を取り出して見ると、時刻は午前2時を過ぎていた。メールボックスを開くと、雪人からのメールが溜まっている。不在着信も10を越えていた。彼への罪悪感で心臓が痛い。
顔を上げると、鏡に映る自分と目が合った。疲れた顔の女が、恨めしげにこちらを見ている。乱れた髪を手で整えると、自然と口から息が漏れた。首を絞めるように、マフラーをきつく巻く。このまま呼吸をとめてしまいたかった。気管支を狭め、気道を潰してしまいたかった。憎らしいのは安達ではなく、状況に流された自分自身だ。
玄関へ向かおうと足を進めた結菜は、あることに気付いてすぐに足をとめた。
寝室の反対方向にある扉が、異様な雰囲気で佇んでいる。何の変哲もない部屋の中、その扉だけが異質に感じられた。
どうしてそんな風に思ったのかは分からない。早く帰らねばならないはずなのに、結菜は知らず知らずのうちにその扉へと向かっていた。糸に引かれるように歩み寄り、ドアノブにそっと手を掛ける。
心がざわめく。額にじんわりと汗が浮かぶ。何故、自分は扉を開けようとしているのだろう。何故こんなに緊張しているのだろう。何故こんなに動悸が速まるのだろう。分からない。分からないけれど、引き下がることもできない。
開けてはいけない。
見てはいけない。
もうひとりの自分が警告している。
知ってしまったら、もう「今」には戻れない。
ほんの少し力を込めるだけで、扉はいとも簡単に開いた。
ゆっくり、ゆっくり。部屋の中をのぞき込む。
――ごと、ん。
何かが落ちる音がした。
「ひ……!」
視界に飛び込んできた光景に、結菜は息を呑んだ。叫び声を漏らさぬよう、咄嗟に口に手をあてる。
暗闇の中、赤い服を着た女が倒れている――死んで、いるのだ。
目立った外傷も出血もないが、結菜は直感的に理解した。青白い肌も紫色の唇も、生きている人間のそれではない。髪の長い、美しい女だ。目を逸らしたいのに逸らせない。顔を背け逃げ出したいのに、体は全く言うことを聞かない。
この女を、自分は知っている。記憶の片隅に残っている。ああそうだ。確か、この間のニュースに写真が出ていた。行方不明の憐れな女。
『――警察では、近頃の連続殺人事件に巻き込まれた可能性があるとして行方を追っています――』
ニュースキャスターの言葉が甦る。もしかして、もしかしたら安達は――
「……水瀬」
低い声が、鼓膜を揺らした。
結菜が振り返る前に、安達はふわりと結菜を背中から抱き締めた。濡れた髪からシャンプーの香りが漂う。抗うことなどできやしない。
「そろそろ捨てなきゃいけないと思ってたんだ」
「……安達君」
息絶えた女がこっちを見ている。くすんだ色の目蓋を越えて、助けてくれとせがんでいる。
「これは、何?」
「何って」
安達は静かに扉を閉めた。
「にんげんだよ。壊れちゃったから、もういらないんだ」
にんげん。
聞き慣れた単語は、知らない色を含んで脳に響く。重ねた体から安達の体温が伝わる。相変わらず、残酷なほど温かい。
「何年か前にさ、いとこの姉ちゃんが死んだんだ」
絵本を読み聞かせるように、優しく、安達は言った。
「俺、その人のこと好きでさ。だけど体が弱くて、ふたりでいた時に目の前でばたんって倒れたんだよ。そん時にさ、興奮したんだ。苦しそうにもがいてる姿を見たら、たまらなくぞくぞくした。ああ、俺しかいないんだ。今こいつ、俺しか見てないんだって。その時、頭のねじが外れたんだ」
「……苦しんでる人が好きなの?」
「逆かな。好きな人が苦しんでいるのが好きなんだ。死の恐怖に怯えてる人間を見るのが好きなんだよ。こうやって首に手を掛けるとさ、みんな俺のこと怖がるんだ」
安達は結菜を振り返らせ、その細い首に両手を掛けた。冷たい扉に背中があたる。瞳を逸らすことはできない。
「ぞくぞくするんだ」
安達は穏やかに微笑んでいる。1秒先の死を感じながら、整った顔立ちが作る曲線に見惚れた。華奢な雪人とは違う、武骨で男らしい手。その手に少し力を込められたら、自分の細い首などすぐに折れてしまうだろう。自分の生死は、今この男に支配されている。そう考えると少し癪だ。
「ずっと手に入れたいと思ってたんだ。お前みたいな、何考えてるか分かんない奴」
――ずっと?
大げさな副詞に、結菜は顔をしかめた。
ずっとって、いつから?
どんなに愛を並べても、陳腐な台詞にしか聞こえない。この褪せた心には響かない。
目の前の男は何を言っているのだろう。適当に見繕ったちっぽけな愛で、私が殺せるとでも思っているのか。あまりの馬鹿馬鹿しさに吐き気がする。
「……何がおかしい」
結菜の口から漏れた笑い声に、安達は眉をひそめた。
「あなた、狂ってるんですね」
くすくすと笑いながら、結菜は言った。
「私もね、独占欲が強いんです。ほしいと思ったものは手に入れたい。きっと大人になりきれていないの。狂った子供のまま、年だけを重ねてしまった」
満たされない心は徐々に肥大し、もはや自分でも制御できない。
狂気は成長する。
「さあ、どうぞ殺してください。そしたら私は、永遠に雪人の中で生きていける。記憶として、雪人の脳に刻まれる」
安達は考え込むようにしばし黙った。
暗い色の瞳の中で、狂った女が笑っている。ああ、これは、紛れもなく自分自身だ。狂気に侵され、死すら体内に取り込んだ、汚れた、醜い女だ。
「……つまんないな」
長く息を吐いた後、安達は不機嫌そうに手を離した。
「殺されそうなのに笑ってる。そんな女、初めてだ」
「私もあなたと同じなの」
遠のいた死を惜しむように、結菜は痛んだ首を手でさすった。
「頭のねじが外れてるんです」
死ぬことなんて怖くない。目の前にいる殺人鬼も、畏怖の対象になどなりはしない。
床に落とした鞄を持ち上げ、結菜は玄関へと向かった。背後から安達の視線を感じる。もはや殺意は消えていた。
さあ、帰ろう。
雪人に会える。そう考えるだけで笑みが零れる。玄関を出る頃には、死んだ女のことなど忘れていた。死体を見るのは、これが初めてではない。
タクシーを拾い、自宅へと走った。夜の街は不気味なほど静かで、まるで見知らぬ土地のように感じられる。寒気から逃げるように部屋の扉を開けると、そこにもまた、深い闇が広がっていた。
もう雪人は眠っているだろう。物音を立てぬよう、忍び足でリビングに入る。見慣れた部屋を見渡すと、どっと疲労が押し寄せてきた。肺から全ての二酸化炭素が溢れ出し、空気に溶ける。コートのボタンを外すたび、緊張感も共に消えていく。
「結菜」
突如響いた声に、肩が震えた。振り向くと、いつからいたのだろうか、寝室から雪人がこちらを見ていた。
「ゆき……」
名前を呼び終わる前に、雪人は結菜を抱き締めた。いつもの優しい抱擁ではない。強く力を込められ、呼吸の手段を塞がれた。
「……煙草のにおいがする」
雪人の声は、氷のように冷たかった。
「今までどこにいたの?」
「……ごめんなさい」
「もう帰ってこないかと思った」
彼の体から震えが伝わってきた。
「捨てられたのかと思った」
結菜は雪人の背に腕をまわし、もう一度「ごめんなさい」と言った。
「私は雪人を見捨てたりしない。もう不安になんてさせないから」
幼子に言い聞かせるように、言葉に強く力を込める。大丈夫、と繰り返して、安心を与えてやる。
「飲み会が思ったより長引いちゃったの。なかなか抜け出せなくて……もう参加するのはやめるわ」
「本当に?」
腕の力が少し緩み、圧迫されていた肺が楽になった。ほっと息を吐き、雪人を見上げる。雪人は嬉しそうに笑うと、再び結菜を包み込んだ。
「こうしていると安心するよ。こうしていないと不安なんだ」
「子供みたい」
「子供さ、僕は。大人になんてなれないよ」
耳をすませば鼓動が聞こえる。自分は今、1番近くで彼の生を感じている。そう思うと、体は勝手に喜んだ。
「上手に甘えられないのなら、大人になんかなりたくないね」
――ああ、やっぱりこの人は素敵だ。
彼の一言一言が脳髄まで浸透していくのを感じ、結菜は短く息を吐いた。
雪人は自分を求めている。疎外され生きてきた結菜にとって、それは極上の幸福だ。束縛はこんなにも心地いい。腕の中にあるぬくもりを抱く。体温を分け与えるように強く、きつく。こうしないと雪人の体はどんどん冷えて、死んでしまうような気さえする。
殺さなきゃ。
ふたりの平和を脅かす者は、たとえそれが神であっても許されない。
だから、早くあいつを殺さなきゃ。
雪が燦々と降り積もり、街が白銀に変わる日もあった。二酸化炭素が白く染まるたび、深まる冬を実感する。木々を飾っていた木の葉も力尽き、より一層哀愁を増した。
一瞬一瞬を積み重ね、記憶に新しい1ページを収納する。幸せに埋もれた日々を歩きながらも、一抹の不安が脳の裏にこびりつく。恐怖ではない。憎悪でもない。例えるならそれは、カビみたいに些細なもの。些細だけれど、不吉なもの。
安達の影が心のしみとなり取れないまま、年が明けた。
正月の3が日が終わると、街は息を吹き返したかのように忙しくなる。日々下がっていく気温と戦いながら出勤した結菜は、眉間に寄るしわを気に掛けながらパソコンに向かっていた。結菜の勤める役所の部署では、もっぱらデスクワークが多い。1日中パソコンに向かっている日もしょっちゅうだ。休み明けだからだろうか、掛け慣れているはずの眼鏡が重く感じる。
水瀬さん、と肩を叩かれて振り向くと、一つ先輩の城崎が立っていた。
「この間頼んだ資料なんだけどさ」
「ああ、それならついさっきメールで送りました」
「え、そうなの? ありがとう。追加した分って」
「一緒に入ってます」
「……相変わらず仕事早いなー」
感心したような、そうでもないようなため息を残し、城崎は「ありがとう」と去っていった。
社会人になってもうすぐ1年。当たり障りのない会話を駆使し、当たり障りのない関係を構築した。昔からの常套手段。冷え切っているわけではない。親密なわけでもない。人との距離なんて、そのくらいでちょうどいい。
仕事の合間に携帯を見ると、新着メールが届いていた。差出人の名を確認し、結菜は反射的に席を立った。
『安達健次』――もう、舌を打つことすら面倒だ。
ラウンジで電話を掛けると、安達はすぐに応答した。
「もう連絡しないでくれますか」
『電話出た瞬間にそれかよ』
堂々とした結菜の拒絶に、安達は苦々しく笑った。携帯で聞く彼の声は、いつもより少し低く感じる。無機質で、無感動な音だ。
『また近々会えないか?』
「何のために?」
『俺とお前のためだよ』
「……嫌だと言ったら?」
『お前はそんなこと言わないよ』
その絶対的な自信はどこから来るのか。彼の口調は柔らかだが、脅迫めいた雰囲気を纏っている。嫌な男だ。
『会えないなら、お前の部屋に行っちゃうよ』
住所なんて知らないくせに。そう言いかけて、やめた。
この男を、これ以上放っておくわけにはいかない。もし彼が誰かに真実を告げたら、その瞬間、ふたりの日々は消えてなくなる。そうなったら、また自分はひとりになる。家族も友人も恋人もいない、孤独で、惨めな女になる。
「……分かりました」
表情を変える代わりに、結菜はスカートをくしゃりと握った。
「そう警戒するなよ」
翌日、馴染みの喫茶店に来た結菜を見て、安達は困ったように笑った。結菜は鋭く安達を睨んだまま、カフェオレに手を伸ばした。
「警戒するなっていう方が無理ですよ。殺人犯なんだから」
ぬるくなった液体を喉に注ぐと、甘味より苦味が広がった。結菜は眉をひそめ、砂糖を二杯カップに落とした。紅茶を頼めばよかった、と少し悔やんだ。苦いのは口に合わない。
それもそうだな、と苦笑して、安達は頭を掻いた。
「仕事、うまくいってんの?」
「普通です」
「普通、ねぇ」
舌先で確かめるように繰り返す。卑猥で卑怯な仕草だと結菜は思う。言質を取るような言い方が、彼の得意分野なのだろう。こんな男のことを善人と認識していたと思うと、自分の眼球を抉り出したくなった。
「お前ってさ、いつも当たり障りないよな。高校の時も地味だったけどいじめられるタイプじゃなくて、でも人と距離を置いてた」
安達は微笑みながらコーヒーを手に取る。スーツの彼がブラックコーヒーを飲む姿は、悔しいくらい絵になる。短い黒髪も涼しげな目元も、嫌味なくらい、「いい男」を演出している。
「俺、お前のこと一目置いてたんだぜ。うまくやるなぁって」
「そんな風には見えませんでしたけど。安達君は同情で私に話し掛けてくれていると思ってました。学級委員としての責任みたいなものかと」
「それもあるけどさ」
安達はコーヒーをテーブルに置き、両手の指を絡め合わせた。
「……雪人は、お前が思うような男じゃないよ」
その顔から、もう笑みは消えていた。
「いい噂もいっぱいあったけど、それと同じくらい悪い噂もあった」
「知ってます」
「それでも世界中の女は雪人を選ぶんだ」
「そうですね」
「だけど雪人はお前を選んだ」
いや、と安達は訂正した。
「違うな――選ばせたのか?」
結菜は何も答えない。肯定も否定もしない。安達は足を組み直し、背もたれに体を預けた。
「まさかお前がそんなに情熱的だとは思わなかったよ」
「私も安達君がこんな人だとは思いませんでした」
「お互い様か」
安達はからからと乾いた声で笑った。窓に映る彼の影も、意地の悪い顔でこっちを見ている。
雪人の死を彼から聞いたのも、ちょうどこの席だった。たった2ヶ月前のことなのに、もう随分昔のことのように感じる。あの時の悲しそうな口振りも、泣き出しそうな瞳も、偽りだったのだろうか。
水瀬、と名前を呼ばれた。その声色にはわずかな同情が含まれていた。
「お前は今、幸せか?」
まるで親が子を労るような、柔らかい口調だった。
「雪人を閉じ込めて、社会的に抹殺して」
「……幸せです」
「嘘だな」
安達はきっぱりと言い放った。
「お前、俺と同じ目をしてる。何人の女と寝ても何人の女を殺して
も満たされない。飢えてるんだ、何かに。お前もそんな目をしてる。本当は、何がほしいんだ」
「……」
「本当に求めているのは何なんだ」
「……何が言いたいんです?」
警報が鳴っている。
その先を言わせてはならない。自分が懸命に目を逸らし気付かないふりをしていることを、この男に言わせてはならない。
しばしの沈黙が訪れた。結菜は鋭く安達を睨む。安達は穏やかに結菜を見つめる。秒単位の沈黙が分に変わる。
喫茶店の扉が開き、カランカラン、と鈴の音が鳴った。若い母親が、小学生くらいの子供ふたりを連れて、店内に入ってきた。姉と弟、だろうか。子供達は仲睦まじく隣同士に座り、ぴたりと肩を寄せ合った。ひそひそと内緒話をして、くすりくすりと笑い合う。普通の、家族の一シーン。 視界に入れないよう、結菜は安達を睨み続ける。
長い空白の末、安達は短く息をついた。
「水瀬。俺はお前が気に入った。お前なら殺さなくて済むかもしれない」
「何ですか、それ」
「好きなんだ。純粋に」
安達の目は真剣だった。
「だから、俺のこと愛してよ」
「……帰ります」
考える間も作らず、結菜は席を立った。これ以上何を話しても無駄だ。人殺しの気紛れに付き合っている暇はない。
「水瀬」
安達は素早く立ち上がると、すぐさま結菜の腕をつかんだ。
「俺は本気だよ」
「……さようなら」
強引に手を振りほどき、早足で店を出た。カラン、カラン。扉に付いている鈴が、澄み切った音を立てて揺れた。
つかまれた腕が熱い。風から身を守るようにコートを羽織り、結菜は足早に駅へと向かった。一刻も早く安達から離れたかった。
狂っているのだ、あいつは。
何人もの女を殺した手で、自分に愛を与えようとしている。――反吐が出るほど、私と同じ。
群青色の空が徐々にくすむ。雲は太陽の光を遮り、結菜から明かりを奪った。
太陽なんていらない。眩しいのは好きではない。
月なんていらない。模造された光に価値はない。
雪人さえいれば、たとえ闇の中に放り出されても生きていける。それ以外の光は邪魔なだけだ。
*
久々に手紙を書きます。
寒さがますます厳しくなってきました。手はかじかみ、家事をするにも一苦労です。
そちらは元気ですか。
お変わりありませんか。
最近の私も相変わらずで、報告するようなことは何もありません。面白味がなくてごめんなさい。
あなたはどうですか。毎日楽しく過ごしていますか。たとえ遠く離れていても、あなたの幸せを心から願っています。
*
日曜日、昼下がり。
昼飯を済ませた結菜と雪人は、休日特有の安穏とした空気に身を任せていた。雪人が外出することは滅多にない。太陽の光を避けるように、朝から晩まで部屋にこもっている。今も彼はソファーに座り、今朝届いた新聞を広げている。一体何に興味を持てば、何時間も新聞を眺めていられるのだろう。そう疑問に思うくらい、彼は朝から微動だにしない。
――本当は、何がほしいんだ。
安達との会話を思い出し、結菜は持っていたペンを机に置いた。
――本当に求めているのは何なんだ。
あれはどういう意味なのだろう。普段滅多に動じることのない心が、今はぐらぐらと揺れている。
安達の、あの全てを見透かしたような目。憐れむような声。強い力。忘れようと目を閉じても、目蓋の裏に浮かんでくる。
ほしいものは、別にある? そんなことはない。自分が好きなのは雪人だ。それ以外は何もいらないし、必要ない。愛情なんて、もう十分手に入れた。代償満足なんてしていない。
結菜は振り返り、新聞を読みふけっている雪人を見つめた。綺麗な横顔。まるで宝石のように、美しい人。
私は雪人を愛している。雪人がいれば、もう何もいらない。
言い聞かせるように、何度も何度も繰り返す。
私は雪人を愛しているんだ。
――いつから?
そう考えて、結菜は首を傾げた。
いつから、だっけ。
結菜の視線を感じたのか、雪人がふと顔を上げた。
「何?」
「いえ……紅茶、入れますね」
書きかけの手紙を引き出しにしまい、結菜は席を立った。
余計なことを考えるのはもうやめよう。動揺も混乱も、自分には似合わない。戸棚からティーバッグを取り出し、カップを二つ用意する。
そういえば、と、雪人が新聞を閉じた。
「今日、あやめが会いたいって」
結菜の動きがぴたりととまった。
ぐらり。
心臓の揺れる音がする。
崩れそうになる平常心をなんとか留め、そう、と小さく応えたちょうどその時。
ピンポーン、と、インターホンが陽気な音を立てた。
「来た」
雪人は立ち上がり、結菜の隣を通り過ぎていく。開けないで。そう叫びたいのに声が出ない。腕をつかみたいのに動けない。
「お兄ちゃん」
玄関から甘い声がした。
「久し振り、あやめ」
「元気? 体調崩してない?」
「うん」
「ご飯ちゃんと食べてる?」
「うん」
「ならよかった」
恋人同士のような会話を繰り広げながら、彼と彼女はリビングに入ってきた。長い黒髪をなびかせて、雪人に腕を絡ませる少女。ミニスカートから健康的な足が伸びている。雨生あやめは結菜に気付くと、愛想よくにこりと笑みを作った。
「結菜さんもお久し振りです」
「久し振り」
結菜は静かに微笑むと、すぐさま彼女から目を背けた。戸棚からもう一つカップを取り出さなければ。
「お兄ちゃん、今度おうちに来てよ。お父さんもお母さんも、お兄ちゃんなら喜んで迎えてくれるよ」
「また今度ね」
「もう、いっつもそればっかり」
あやめは雪人の隣に腰掛け、不満げに頬を膨らませた。首に巻いていたマフラーをほどき、コートを脱いで膝の上に置く。寒さでかじかんだ手を温めるようにすり合わせ、はあーっと温かい息を吐いた。
「今日の最高気温知ってる? 5℃だよ、5℃。朝起きたら息が白いの。部屋の中なのに凍死しそう」
あやめのマシンガントークに辟易するように、雪人は曖昧にうなずきながら文庫本を手に取った。しおりを挟んでいるページを開くと、すぐさまあやめが顔を近付けてのぞき込む。そんなふたりの様子を見ながら、結菜は紅茶をカップに注いだ。
端から見れば、ふたりは仲睦まじい兄弟のように見えるだろう。たとえそれが偽りだとしても、ふたりが隣に並んでしまえば、たちまち他人を拒絶する空間ができあがる。
結菜は紅茶を運び終えると、ソファーから少し離れた椅子に座った。雪人がそうしたように、無造作に小説を手に取って開く。手持ち無沙汰になって居場所をなくすのは嫌だった。
あやめは滔々と雪人に日常を語った。数学のテストの出来があまりよくなかったこと、友達が先生に恋をしているかもしれないこと、体育の長距離走が嫌で仕方がないこと。実に恐ろしくどうでもいいことだった。雪人は本を読みながらも、逐一あやめの話にうなずいてみせた。それをいいことに、あやめの話はますます広がり、しまいには株がどうだの、今の政治はだめだの、自分には全く関係のないことまで喋り尽くした。
「もう帰らなきゃ」
ようやくあやめが締めの言葉を口にしたのは、西の空が赤く染まる頃だった。3時間以上沈黙を作らなかったのは、もはや一つの才能だと言っていい。帰り支度をし始めたあやめに、雪人は「送っていこうか」と提案した。
「最近、殺人事件とかで物騒だろ」
「ううん、大丈夫。無理しないで」
「じゃあ、私がバス停まで送ります」
「え、でも……」
結菜の申し出に、あやめは意見をうかがうように雪人を見た。
「雪が降るかもしれないし、すぐそこだし」
結菜の一言が決め手となったのか、雪人は「そうだね」とうなずいた。
「そうしてもらいな」
あやめはまだ決めかねていたが、結菜がコートを羽織り、靴を履こうとするのを見ると、慌てた様子でついてきた。
外の空気はひんやりとしていた。バス停はマンションから徒歩5分ほどの場所にある。普通に歩けばすぐに着いてしまう距離だ。中間地点にある公園を横目に、結菜とあやめはバス停を目指した。
ふたりが会話を交わすことはない。視線を交えることもない。同じ速さで歩いていても、ふたりの距離は次第に離れていく。結菜はゆっくりと歩調を緩め、やがて足をとめた。
「あやめちゃん」
結菜から数メートル先のところで、あやめも歩くことをやめた。数秒の躊躇を行った後、彼女は勢いよく振り返った。長い黒髪が、ひらりと舞う。
「もう、うちには来ないでくれますか」
あやめは何も言わない。その目に強い憎しみを映し、結菜を睨み付けている。
「邪魔なんです。あなたが」
そんな視線に物怖じすることなく、結菜は淡々と言い放つ。あやめはコートのポケットに手を入れたまま言った。
「あんたはいつ雪人を解放するの?」
「離しません。絶対に」
間髪を入れずに結菜は答える。
「あやめちゃんはいいじゃないですか。もう10年以上も雪人の傍にいたんですから。だから残りは私にください」
「……あんたを絶対許さない」
あやめは低い声で、威嚇するように言った。
「雪人はあたしのお兄ちゃんなの。顔も体も声も心も、全部全部あたしのものなんだ。あんたなんかにやらない。あんたなんか死んじゃえばいい」
逆上するわけでもなく、怒り狂うわけでもない。愛を囁くように、あやめは死を吐き出す。声にたっぷりと呪いを乗せて。
「お兄ちゃんの許可が出たら、あんたを殺してやる」
「許可なんて出ません」
結菜はきっぱりと言った。
「許可なんて出ない。絶対に」
自分に言い聞かせるように繰り返す。言葉を本物にするために。それであやめが納得できないのなら、何度だって言ってやる。
あやめは忌々しげに結菜を睨み付けていたが、やがてくるりと踵を返して歩き出した。彼女の姿がバスに吸い込まれていくのを見届けてから、結菜は自宅へと引き返した。
乾いた寒空は橙から藍色に着替えを始めた。昼と夜の変わり目を示す淡い色。二酸化炭素は口から出た瞬間に死に装束のような白を纏い、やがて空気に溶けていく。
あやめと別れてから、もうどれくらい時が過ぎたのだろう。何歩足を動かしても雪人の元には辿り着けない。
手足が凍るように冷たい。早く帰らなければと思うのに、足が鉛のように重く感じられた。
考えないでいようとしても、自然に浮かんできてしまう。あやめを見る雪人の穏やかな表情。頭を撫でる仕草。優しい声。それは自分に向けるものと少し違う。共に重ねた時間の違いか。いくら愛を手に入れても、欠けた時間までは埋められない。あやめは結菜の知らない雪人を知っている。幼少の雪人を、結菜は知らない。
雪人はどんな子供だったの。どんな遊びをしていたの。どんなことを思い、どんな夢を見ていたの。
考えても分からない。想像することも難しい。だから少しだけ、不安になる。恋する少女のように、胸がぎゅっと締め付けられる。本当に愛情は手に入った? 本当に、雪人はずっと傍にいてくれる? そう思うと怖くなる。自然に足がとまってしまう。
ふと顔を上げると、公園のブランコが風で弱く揺れていた。ブランコを見ると要を思い出す。冷えた家庭で唯一優しくしてくれた要。あんな子と遊ぶのはやめなさい。しきりにそう言う母の目を盗んでは、結菜を公園に連れて行ってくれたのは要だ。
何でお姉ちゃんに優しくしてあげないの。
お姉ちゃんがかわいそうだよ。
お姉ちゃん。お姉ちゃん。
無邪気に結菜の手を引っ張って、一緒に遊ぼう、と言ってくれた。それがどれほど支えになったか、きっと要は知らないだろう。母から真実を聞いた後は、ふたりで遊ぶことはなくなってしまったけれど。それでも要が結菜を見捨てることはなかった。
姉さん、どうしても出て行くの?
家を出る時、唯一引き留めてくれたのが要だった。会うのはこれが最後になるかもしれないと、要も感じていたのだろう。
私がいると、家族が家族でいられないから。だからいいの。
手紙、書くよ。半分しか血は繋がってないけど、姉さんは僕の姉さんなんだから。
彼はそう言って、結菜の手を握った。幼い頃から変わらない、屈託のない笑みを浮かべて。
だが、どれだけポストをのぞいても、要からの手紙が届くことはなかった。結菜から手紙を出したこともない。もし母が結菜の手紙を見つけたら、要が読む前に捨ててしまうかもしれない。ともすれば、要を非難する可能性だってある。送るあてのない手紙は、今も引き出しの中にしまわれたままだ。
雪人とあやめを見ていると不快に感じるのは、自分がまだ、兄弟というものに固執しているからかもしれない。家を出て全て捨てたつもりになっていても、弟の要だけは捨て切れないのだ。だから、途端にあやめが羨ましくなる。雪人を兄と慕い、勝手気ままに会うことができるあやめが憎らしい。そして何よりも恐ろしいのだ。彼女が自分から雪人を奪ってしまうことが。だから、ほんの少しだけ疑ってしまいそうになる。雪人の愛情を。ふたりぼっちの孤独を。
「結菜」
部屋の扉を開けると、雪人はソファーから立ち上がった。
「遅かったから心配したよ」
ごめんなさい、と謝って、結菜はそそくさと寝室へ向かった。コートをハンガーに掛け、クローゼットにしまう。
なんとなく、雪人と目を合わせづらい。醜い嫉妬だということは自覚している。あやめがいる限り、本当の「ふたりぼっち」にはなれない。だが一方で、あやめがいたから「ふたりぼっち」になれたこともまた事実なのだ。だから、あやめを妬んではいけない。不安になんてなってはいけない。
結菜、と優しく名前を呼ばれた。ためらいがちに振り向くと、寝室の入り口に雪人が立っていた。
「結菜」
分かっているよ。そう語り掛けるように、もう一度名前を呼ぶ。余計な心配をするんだね、と、困ったように微笑んで、雪人はそっと右手を差し伸べた。
「おいで」
――ああ、あなたは。
こんなにもほしい言葉をくれる。温かな愛で包んでくれる。不安になる理由なんてどこにあろうか。
目頭がじんわりと熱くなるのを感じた。もう涙など流さないと思っていたのに。涙を零さぬよう唇を噛み締め、結菜は雪人の胸に飛び込んだ。
これを愛と呼ばずに何と呼ぼう。優しさと言わずに何と言おう。結菜は雪人の背中に手をまわす。離れぬように、離さぬように。雪人は結菜を安心させるように、よしよしと背を叩いた。大丈夫。僕に必要なのは結菜だけだよ。愛を囁くその口で、雪人は結菜の息を奪う。二酸化炭素を共有して、そのまま死ねたら幸せだ。ふたりが「ふたり」になることができれば、きっと世界は輝くだろう。
雪人の永遠になりたい。網膜に雪人を焼き付けて死にたい。
強い風に吹かれて、窓がかたかたと音を立てた。薄靄に紛れた月だけが、雪人と結菜をじっと見ていた。
それから2週間ほどが過ぎた。
あれ以来安達からの連絡はない。あやめと偶然出くわすことはあったが、特に何事もなく終わった。
寒さはより厳しさを増す。束の間の安息を感じながらも、その寒さが殺意を増幅させるようで狂おしくもあった。しばらく安達と会ってはいないが、彼が諦めたとも思えない。一刻も早く排除しなければ。雪人との日々を壊さないためにも。
時計を見ると、短針が4をさしていた。凝りをほぐすように肩をまわし、結菜は小さく伸びをする。仕事とはいえ、1日中座っているのはやはり疲れる。何の変化もない作業は身体だけでなく精神までも疲労させる。
「眼鏡、取った方がいいね」
眼鏡を外し息をつくと、ふいに真正面に座っている城崎が言った。
「ああ、ごめん」結菜の顔に戸惑いが現れたのを見て、彼はしまった、と頭を下げた。
「セクハラとか、そういうのじゃないから。そうだ、これ」
城崎は腰を浮かせ、結菜に1枚の封筒を差し出した。
「これは?」
「水瀬さんへの個人あてだよ。うちに届いてたんだ」
「私に、ですか?」
何故職場に、個人あての手紙が届くのだろう。思い当たる人物はいない。訝りながらも、結菜は封筒を受け取った。
シンプルな白色の封筒だった。表には結菜の名前が書いてある。角張った、だが温かみのある優しい字だ――この筆跡を、自分は知っている。
はっと、息を呑んだ。
何年経っても覚えている。忘れるはずはない。幼い頃から、ずっと傍で見てきたのだから。何年も待ち続けた、たったひとりの愛しい人の字。
まさか、もしかしたら。
期待と不安に揺れながら、震える手で封筒を裏返す。
『水瀬要』
――心臓が、喜びで、とまりそうになった。
間違えるはずはない。この字は間違いなく要だ。何年も思い焦がれ、待ち続けた手紙。遠く離れた弟が、自分に手紙を書いてくれたのだ。
覚えていてくれた。自分のことを、忘れないでいてくれた。そう考えると、じんわりと胸が熱くなる。どうして、何故、そんな疑問を思い浮かべる余裕さえなかった。
机の下に隠すように手紙を入れ、丁寧に封を切った。
中から出てきたのは一枚の手紙だった。結菜は眼鏡を掛け直し、ゆっくりと手紙を広げた。
*
姉さんへ
元気ですか。僕は元気です。ずっと手紙を出せなくてごめんなさい。父に住所を聞いても教えてくれなかったのです。迷惑とは思いますが、仕事場に直接手紙を送ることにしました。驚かせてしまったならごめんなさい。
今回手紙を出したのは、ある報告があるからです。
僕、水瀬要はこのたび結婚することになりました。相手は戸沢ゆりさんという、とても素敵な女性です。式は6月に行う予定です。その結婚式に、どうか姉さんも出席してもらえないでしょうか。母は反対すると思いますが、それは僕がなんとかします。姉さんは僕の大事な家族だからです。両親との関係を改善するよい機会になればと思います。
僕の携帯番号とメールアドレスを記しておきます。まずは一度、連絡ください。待っています。
*
体調が悪いので帰らせてください。
そう告げると、上司はあっさりと結菜を帰してくれた。「あれ、帰るの?」城崎の声が聞こえたが、答えてやる余裕はなかった。
荷物を鞄に詰め込んで、素早く着替えを済ませると、結菜は一目散に自宅へと向かった。自然と歩調が加速する。電車に乗り、駅を出る。気が付くと結菜は走っていた。ヒールを履いた足がもつれる。通行人が不思議そうな目で結菜を見たが、気付くことすらできなかった。
今すぐ雪人に会いたい。抱き締めてほしい。キスをしてほしい。そうしないと、きっと自分は死んでしまう。
『僕、水瀬要は』
海馬に記憶された文字が、目の前でちかちかと点滅する。
『このたび結婚することになりました』
けっこんすることになりました。
あれほど待ち望んでいたはずの手紙は、計り知れないほどの不幸を運んできた。よい知らせのはずなのに、胸が痛くて仕方ない。『あなたの幸せを願っています』。出せなかった弟への手紙に、確かにそう書いたはずなのに。
嘘では、なかった。要が幸せであれば、それだけで十分なはずだった。要の幸せは自分の幸せだと、そう言い聞かせて生きてきた。
だけどどうしてだろう。心が悲鳴を上げている。祝福しなければいけないのに。おめでとうと、笑ってあげなければならないのに。浮かんでくるのは逆の言葉ばかりだ。
嫌だ、やめて。幸せになんてならないで。
結婚なんてしないで。
私の傍から、離れないで。
伝えたいことは山ほどあるのに、涙が言葉の邪魔をする。姉という肩書きが、本当の気持ちの邪魔をする。
こんなにも痛くて苦しいのなら、心臓を取り出してしまいたい。呼吸をとめてしまいたい。愛なんて、捨ててしまいたい。
でもだめだ。雪人の生が自分のものであるように、結菜の生もまた、雪人が支配しているのだ。だから雪人に会わねばならない。体の震えをとめてほしい。今雪人に会うことができたら、要への恋情も全て消せるような気がした。そうすればこの訳の分からない胸の痛みも、生まれる前に戻るだろう。
「雪人」
部屋の扉を開け、大声で叫んだ。こんなに大声を出すのは初めてかもしれない。
だが一向に、雪人が現れる気配はない。電気もついていない。そこにあるのは目を逸らしたくなるような闇と、耳を塞ぎたくなるような静寂だけだ。
「……ゆきとぉ……」
乱れた息を整えながら、もう一度名前を呼ぶ。靴を脱ぎリビングへと進む。おかえり、と迎えてくれる笑顔も、温かい抱擁も、そこにはない。寝室にも風呂場にも、雪人はいない。
どこかへ出掛けているのだろうか。だとしたら、なんとタイミングの悪いことだろう。ひとりきりの部屋はなんだか居心地が悪い。雪人がいない空間は、寂しさで息が詰まる。
雪人はどこに行ったのだろう。ベランダに出て外を見下ろす。七階からだと人が小さな星屑のように見える。これでは雪人を探せない。結菜は携帯を取り出し、雪人の携帯へと繋いだ。無機質な呼び出し音が何度も何度も繰り返される。
『結菜?』
数回ほどで、機械音が声に変わった。ひとまずほっと息を吐いた、その時。
お兄ちゃん。
微かに聞こえた、あやめの声。くらりと目眩、そして暗転。
「今、どこにいるの?」
『あやめがいきなり来たから、バス停まで送ってるんだ。すぐ戻るよ』
どうかした?
結菜を案じるように、雪人が尋ねる。
「いえ……何でもないの。ごめんなさい」
かろうじてそう言うと、結菜は雪人の返事も聞かず、電話の回線を遮断した。ふらつきながら部屋に入ると、全身の力がするりと抜けた。冷たい床にへたり込んで、ベランダの扉に背中を預ける。
雪人とあやめが会っていた。自分の知らないところで、ふたりきりで会っていた。
きっとあやめが無理やり押し掛けたのだろう。それはちゃんと理解している。雪人は何も悪くない。タイミングが悪かっただけだ。だから、雪人は何も悪くない。
それなのに、弱い心はどんどん嫌な考えを生み出してしまう。視界が滲む。肺が潰れて、うまく酸素が取り込めない。
泣いてはいけない。悲しいなんて感情は、とうの昔に捨てたのだから。ここで涙を流したら、過去の自分への冒涜になる。
私がいなくても、世界はまわる。要からの手紙で思い知らされてしまった。自分は誰の特別にもなれない。誰にも必要とされない。分かり切ったことだったのに、雪人と共に過ごすうちに忘れていた。元々生まれてはいけなかったのだ。自分は望まれた子ではなかった。だからこれは当然のこと。当然の結果。当然の、運命。
涙が流れぬよう目を閉じて、結菜は大きく息を吐いた。大丈夫。まだ私は、大丈夫。心の中で言い聞かせ、ゆっくりと目蓋を開けてゆく。目の前には何の変哲もない部屋がある。雪人の残り香が漂う空間。
大丈夫。まだ何も失ってはいない。
結菜はゆっくりと立ち上がり、携帯を操作しながら部屋を出た。
風が強い唸りを上げて木々を軋ませる。無機質な街は声も出さず、ただ冷酷な寒さに凍えるだけだ。
幼い頃結菜が母から与えられたものは、最低限の衣服と食事だけだった。父は結菜を自分の罪の証とでも感じているかのように避け、ろくに会話をしたこともない。家を出る時に借りた部屋は、ひとりで住むには十分すぎるほど広かった。息苦しい実家からようやく出ることができたのに、自分だけの空間は何故か更に息が詰まった。
結菜の部屋は物が少ない。それが部屋の広さを強調するのだろう。好きな音楽も映画もない。写真も花も飾られていない。ひとりになって初めて、自分は何もないのだと実感した。無色な自分にかろうじて色を与えていたのは要だ。要を失った結菜は、また透明に戻ってしまった。
この部屋に色が着くことはないのだ。そう思っていた。雪人に出会うまでは。
雪人が来てから、結菜の部屋は一変した。
まず本棚を買った。雪人は本を読むのが好きだった。CDを買った。雪人はクラッシックが好きだった。花を育てることにした。花に水やりをするのが雪人の仕事だ。そうやって雪人を拘束した。服や化粧品も増えた。雪人に愛され続けるため、美しい自分でいたかった。カメラを買った。写真は好きではなかったが、ふたりの思い出を増やせるような気がした。
雪人は結菜の全てだった。比喩ではなく事実だ。雪人がいなければ、あの部屋は今も無色のままだっただろう。そして結菜も雪人の全てでなければならない。最初からそういう契約だったのだ。雪人には自分だけいればいい。兄弟というものに対する羨望が甘えとなって結菜の中に残っていたのだろう。だがそれも今日で終わりだ。
私だけを見ていてほしいのに、あの子がいる限りそれはできない。
「どうしたんだ、お前から会いたいなんて」
安達の部屋に入ると、彼は物珍しげな目で結菜を見た。迷惑がっている様子はない。突如自分の元に舞い降りた異常事態を面白がっているようだ。安達の顔にはほんの少し疲れた色が出ている。殺人衝動を持った狂人でも、仕事は真面目にしているらしい。
「お願いがあるんです」
結菜は安達に歩み寄り、感情のない声で言った。
「叶えてくれたら、私はあなたのものになる」
その言葉が意外だったのか、安達は大きく目を見開いた。彼の温かい体に腕をまわして、心臓の音に耳を澄ませる。
「殺してほしい人がいるの」
言葉に甘い狂気を這わせ、彼の肺に二酸化炭素を送り込む。現実逃避に目を閉じて、抱き返された強さに甘えた。
優先順位を変えてしまおう。最初に殺すべきは誰なのかようやく気付いた。もっと早くこうするべきだったのだ。
さようなら。
心の中で繰り返す。
さようなら、あやめちゃん。あなたがいなくなれば、雪人は私のものになるね。
これでよかったのだ。これで全ては終わりだ。雪人の傍にいられるのなら、どこまで堕ちても構わない。
要からの手紙は破いて風に乗せてしまった。ひらひらと舞い散る紙吹雪は、桜のように美しかった。要への未練は捨てた。愛情も思い出も、自分にはもうない。これで自分には、雪人以外の居場所はなくなった。
ありったけの愛をせがんだ。ありったけの愛を、言葉を。
愛してる、と安達は言った。何度も何度も、あきれるくらいに繰り返す。甘ったるい睦言も、重ねた体のぬくもりも、吐きそうなくらい煩わしい。
あなたがいくらそう言っても、私は絶対に信じない。
きつく目を瞑りながら、結菜は安達にそう告げる。
同じ台詞を何人の女に言ったの。その愛で何人殺したの。
君が初めてだ。君が最初で最後の人。
そんな映画みたいにロマンチックな台詞を言ったって、冷えた心には響かない。もう何も聞こえない。聞きたくない。
お姉ちゃん。
記憶の彼方から要が呼ぶ。その優しさが好きだった。その美しさに恋をしていた。要との思い出が、するりするりと流れ出ていく。
これは夢だ。悪くて汚い夢なのだ。明日になれば全てが終わる。そうすれば、雪人は自分だけのものになる。
だから今日だけは、寂しい夜に甘えさせて。偽りの愛しているを囁かせて。頬を伝う一筋の涙が、暗闇に溶けて消えるまで。