呼び売りの声
荷解きもそこそこに出掛けていくと、珈琲屋はサイフォンをセットしながら、カウンター越しに器用に片眉を持ち上げた。
「もう里帰りですか、先生?」
そう言って微笑う珈琲屋に私は苦笑してみせてから、カウンターの真ん中の席によじ登った。
この店のカウンターの席はどれも高く、よほど長身の者でも座るのには苦労する。五年生から身長が変わらないという珈琲屋がその奇妙な席をカウンターに据えつけた理由について、あえて詮索する者はいない。
「下宿の女将にも、さんざん厭味を言われたよ」
「そりゃ、あれだけ大見得切って行かれたんですからねぇ」
コポコポと、サイフォンの中で水が動く。
何度説明されても、私にはその原理がよく理解らない。理屈が通ることは分かるのだが、どうしても実感できないのだ。どうやらそれが彼には楽しいらしく、珈琲屋はいつも私の前では、どこか得意気にサイフォンを扱ってみせる。
やがて芳ばしい香りと共に小振りのカップが目の前に置かれると、私は少しほっとする。
どんな原理で淹れようと、コーヒーに変わりはない。ほとんど私専用となっている山吹色のカップに口をつければ、いつもと変わらぬほろ苦い匂いが口から鼻へと抜けていく。
そうやってカップの三分の一ほどを私が飲み下すのを待って、珈琲屋は切り出した。
「で、どうされたんです? 今度こそ引っ越すと宣言されていたのに」
カウンターに肘を置き、組んだ腕に軽く顎を乗せて、すっかり話を聞き出す体勢に入っている。その楽しそうにきらめく瞳を見ていると、実は小学五年で止まったのは身長だけではないのではないかと、疑いたくなってくる。
「うん、いや 確かに、今度こそ住み着くつもりだったさ」
「十年来の夢だったのでしょう?」
そう、この十年、何度も訪れたあの町に、旅行者としてではなく住人として留まることを、私はひと月前にようやく決心したのだ。
決めてしまえば、もう迷いはなかった。時には三ヵ月近くも滞在したことのある町のこと、勝手も分かっている。
定宿にしていた下宿にひとまずは泊まって、落ちついてから荷物を運ぶ算段などを決めればいい。町の骨董屋で古い箪笥など物色するのも面白いだろう。仕事道具だけ運んでしまえば、あとの家具などは全て町で見繕って、古い下宿に残してきたものは全て、女将に処分を任せてもいいとさえ、思っていた。
「良い部屋が見つからなかったんですか?」
「いや、部屋はすぐに具合のいいのが見つかったんだが……」
わけが分からないという顔をする珈琲屋に、私は小さくため息をついてみせた。
「音──が、気になってね」
「音?」
案の定、珈琲屋は、ますますわけが分からないという顔をする。
「旅行で行っていた時には、少しも気にならなかったんだがね……」
朝はまず、その声で目が覚めた。
そう大きな声ではない。たいがいは出来立ての焼き菓子だとか小鳥だとかを売る呼び声で、少し離れた市場通りから聞こえてくるらしく、いつもいくらかくぐもって聞こえた。
言葉のはっきり聞き取れない、そんなくぐもった呼び声が、なぜだか耳について離れない。しかもそれが、断続的に一日中続くのだ。
「通りから離れた部屋を捜しては、いかがなんです?」
珈琲屋が、もっともな意見を述べる。
そう、私もそれを考えて、不便を承知で町外れにまで下宿を捜して足を伸ばしてみた。ところがどこまで行っても、その声は聞こえてくるのだ。
「そんな、小さな町でしたっけ?」
「すり鉢の形を、しているんだよ」
市場通りはその真ん中にあって、町外れへと続く道は螺旋のように町中を廻りながら、細く幾つにも枝分かれしている。
まるで迷宮のようなこの町を誰が設計したのかは知らないが、その形と入り組んだ小路のせいなのか、この町では音が不思議な伝わり方をする。町外れを流れる川べりで寝ころんでいる時に、町の反対側の井戸端で囁かれる世間話が耳元で聞こえた時には、私も驚いたものだ。
こんな町だから、内緒話をする時には、暖炉か竈の前へ行かなければならない。
暖炉や竈に向かって話した言葉は煙突を伝って空へと抜けるから、入り組んだ螺旋小路に反響して思わぬ場所まで運ばれる心配がないのだ。
「へぇ……」
珈琲屋は、感心したようにため息をついた。
「それにしたって、そんなにうるさい音じゃあ、ないんでしょう?」
しかし一日中耳につくのでは、たまらない。
旅行で来ているのなら、それも面白い思い出となろうが、暮らすとなれば話は別だ。私は文章を書かねば仕事にならない。それがあんな音が一日中聞こえてくるのでは、気になって文章など書けるものではない。
どうにか慣れないものかと試みてはみたが、静かに原稿に集中しようとすればする程、どうしたものか、耳について気になってくるのだ。
「でも、旅行で行かれてた時には気づかなかったというのは、不思議ですねえ」
「やはり、旅行者として行くのと住人として行くのとでは、感じ方も変わってくるのかもしれないね」
本当に、何度行っても心魅かれる町だったのだ。きっと余生はここで送ろうと、心に決めていたので残念でならない。
しかし案外、これで良かったのかもしれないとも思う。
実際に暮らしてみれば、退屈で我慢ならないところも見えてきただろう。今まで通り旅行者として時折訪れて、いつか住んでみたいと憧れ続けているのが、もしかしたら一番楽しいのかもしれない。
「そうかもしれませんねぇ」
同情してくれているのか、珈琲屋は冷やかしもせずに相槌を打って、空になったカップに淹れたばかりのコーヒーを注いでくれた。
「まったくねぇ……」
小さく笑って、私は熱いコーヒーを口に含んだ。
珈琲屋は私にはいつもこのコーヒーを淹れてくれるようだが、私はその名前を知らない。
だいたいこの店には、品書きというものがない。
客はただ店主の淹れてくれるコーヒーを黙って飲むことになっており、客それぞれに淹れられるように、この店では小さなサイフォンを幾つも揃えている。どうやら珈琲屋は客の顔を見て好みのコーヒーを判別する技を心得ているらしく、出されたコーヒーに文句を言っている客など、見たことがない。
かく言う私も珈琲屋の淹れてくれるものより美味いコーヒーを、余所で飲んだことがない。
あまり私好みのコーヒーを淹れるので一度銘柄を尋ねたところ、教えると来なくなるからと言って教えてくれなかった。実は使っている豆はどれも同じで、それが客好みの味に感じられるようにカップに魔法をかけているのだという噂もあるが、真相は珈琲屋以外には分からない。
「まあ私はこれで、お客を一人、失くさずにすんだわけですね」
笑って、珈琲屋は背後の棚から、透き通った八角柱の瓶を取り上げた。
シルクハットが一つ描かれただけのラベルのその瓶の中身は透明な液体で、一見すると酒のようだが、それらしい匂いはしない。それは、珈琲屋が仕事の合間にいつも飲むもので、客には決して出そうとはしないものだった。何度か試みた結果私も、その中身を詮索するのは諦めた。
「まさか、君が企んだのじゃあるまいね」
窺うように見上げると、珈琲屋は大げさに目を見開いてみせた。
「私が?」
いかにも心外だと言いたげに目を瞬く。
「そんなことができるなら、こんなちっぽけな珈琲屋なんぞ、やっているものですか」
不機嫌そうに続けて、ショットグラスにシルクハットの瓶の中身を注ぐ珈琲屋に、私は慌てて笑いかけた。
「いや、失敬」
間違って機嫌を損ねると、しばらくコーヒーを淹れてもらえなくなってしまう。
「実は、町を離れてからも、あの声だけがまだ耳元で聞こえているような気がしていてね……」
「今もですか?」
驚いたように、珈琲屋が目を見開く。どうやら私の失言は無罪放免されたようだ。
「そう。いくらか小さくなったようにも思うんだが……ふと気づくと耳の奥で鳴っているんだよ」
「ふぅむ……」
ショットグラスを片手に軽く腕を組んで、珈琲屋は考えるふうで眉を寄せた。
「長く船に乗っていると、下りてからもしばらくは、波の上にいるように体が揺れて感じると聞きますが、そういったものでしょうかね?」
「かもしれない」
そう言っている間にも、思い出したせいか、かすかにあの声が聞こえてきたようだ。遠くの喧騒がもれ聞こえてきているようで、言葉ははっきりしないが、呼び売り特有の歌うような節回しは間違いようがない。
「気にしすぎなんですよ、先生」
いつの間にか眉をひそめてひどく難しい顔をしていた私に、珈琲屋は苦笑を見せた。
「町から戻られて、すぐいらしたんでしょう? ひと晩ゆっくり寝めば、きっとすっきりしますよ」
「──そうだね」
乾杯するようにショットグラスを掲げた珈琲屋に、私もコーヒーカップを持ち上げて小さく笑ってみせた。
あの町から帰ってくる列車の中では、なぜかいつも少しだけ感傷的な気分になる。忌々しいはずの呼び売りの声すらも、あの町にまつわるものとして心に留めようとして、無意識に思い出しているのかもしれない。
珈琲屋の言う通り、きっとひと晩眠れば、こんなことも一つの旅の思い出として心の奥に仕舞われて、新たな生活を始める気持ちの切替えができるだろう。
それから珈琲屋はショットグラスを傾けながら、留守中のニュースをいくつか話してくれた。
相変わらず、大きな事件などは起こらない。
ランプ通りの食料品屋が今年のジャムを売り始めたとか、スパイス坂に最近店を開いた魔女のまじないはよく効くとか、時計塔の鐘突き男が、今年もまた酔って夜中に鐘を打ち鳴らしたとか──この男、年に一度はひどく酔って真夜中に時計塔へ登り、町中の人間をたたき起こす。今年はその日に居合わせなくて幸いだった。
ひと月留守にしたくらいでは、生活が変わるような変化は起こらない。
相変わらずの町の様子を聞いていると、帰ってきたのだという実感が沸いてくる。
こうやって旅と日常生活とを切り換える為に、私は旅先から戻ってくるといつも真先に、この店に来てしまうのかもしれない。
二杯目のコーヒーを飲み干し、私は珈琲屋の笑顔に見送られて店を出た。
*****
開店早々に出掛けていくと、珈琲屋は煉瓦色のカップを磨きながら、カウンター越しに器用に片眉を持ち上げた。
「お早いですね」
「ああ……」
驚いたように目を見開く珈琲屋に曖昧に応えながら私は、カウンターの真ん中の席によじ登った。その様子に小さく首を傾げながら、珈琲屋がサイフォンをセットする。
コポコポとサイフォンの中で音がし始めても私が口を開かずにいると、珈琲屋はカウンターに両肘をついて身を乗り出し、私の顔を覗き込んできた。
「いったい、どうしたっていうんです?」
「いや……」
つい不機嫌なままに口ごもる。すると珈琲屋は束の間考えるふうで視線を彷徨わせ、それからもう一度私の顔を覗き込んだ。
「そういえば、あの声はどうなりました?」
途端、思わず顔をしかめてしまうと、珈琲屋は、してやったりとでも言いたげな、どこか得意気な表情をした。
私は観念してため息をついた。
「おとつい、耳鼻科にも行ってみたんだが、健康そのものだと言われたよ」
「そりゃ、おめでとうございます」
「めでたいものかね」
おかげでこの三日、仕事はおろか留守中にたまった用事の整理も儘ならない。
不機嫌にしている私の様子が可笑しいらしく、下宿の女将は日に何度も用事を作っては、部屋を訪れてからかっていく。夕べは時計屋に将棋で大負けした。
「ああ、道理で今朝、時計屋が上機嫌だったわけですね」
面白そうに珈琲屋が笑う。そういえば先刻磨いていた煉瓦色のカップは、時計屋がいつも使っているものだ。
どうやら朝一番の客は私ではなく奴だったらしい。
いっそう苦い顔をした私に、珈琲屋は喉を震わせながら笑いを飲み込んで、山吹き色のカップを私の前に置いた。小振りのカップに口をつけると、不思議に気持ちが落ちついてくる。
「医者は、もっと静かな場所で、少しのんびりしてはどうかと言うんだ。精神的なものではないか、とね」
「ふぅむ……」
珈琲屋も考えるふうで首を傾げる。私は芳ばしいほろ苦い液体をもうひと口飲んだ。
「ねえ、先生」
短い沈黙を破った珈琲屋の声は、まるでいいことを思いついた子供のように、少しだけ弾んでいた。
「スパイス坂の魔女のところへ、行ってみませんか?」
「魔女の?」
思わず、私は顔をしかめてしまった。若い頃に一度、こっぴどく魔女に振られて以来、私は魔女というものがあまり好きではない。知っているので、珈琲屋も苦笑する。
「別の魔女ですよ?」
「そうだろうとも」
あの魔女のその後の消息は知らないが、少なくともこの町にはいないはずだ。それにスパイス坂の魔女はずいぶん若いという話だ。もちろん、魔女の歳など外見で判断してはいけないが。
「耳そのものが健康だというなら、何か他に原因があるかもしれないでしょう」
「まじないなんぞで、治るものかね」
あの魔女のまじないは本当によく効くと、下宿の女将も夢中になって話していたが、私は金輪際、魔女とは関わるまいと誓ったのだ。
梃でも動くまいと考えているのが判るらしく、珈琲屋はもう一度苦笑いして、それからカウンターに両肘をついて身を乗り出した。
「じゃあ、こうしましょうか」
その目は、何かを企んでいる時の悪ガキそっくりにきらめいている。
「もし、魔女のところへ行っても治らなければ、シルクハットの瓶を差し上げますよ」
その申し出に、私は魔女のことも忘れて目を見開いた。
いまだかつて誰ひとり口にしたことのない、あの瓶を!
「その代わり、もしも治ったら、あの陶器の猫をくださいませんか?」
続けられた言葉に、今度は目を瞬く。
私が机の上のインク壺の横にいつも置いている瑠璃色の陶器の猫に、珈琲屋は以前からひどく執心している。
「いかがです?」
あの猫は私も気に入っているが、耳元で鳴り続けるこの声と引換えになら、失くしてもいいかもしれない。それに、もし治らなくてもあのシルクハットの瓶が手に入るのだ。悪い取引ではないだろう。
「よかろう」
しばし考えた末の私の言葉に、珈琲屋がひどく嬉しそうな表情をしたのが、少しだけ気になった。
スパイス坂に来るといつも、噎せかえるような雑多な香料の匂いで目眩を起こしそうになる。
魔女のテントは、生姜と唐辛子の店の隙間にあった。
藍色の垂れ布をはね上げると、透かし彫りの施された黒光りする木製の衝立があった。外の香料の匂いを圧倒する麝香の匂いがまとわりつく。
「奥へ」
少し低めの豊かな声に促されて衝立を回ると、銀と藍色のヴェールを被った魔女が、黒い布をかけた真四角の机を前に座っていた。いびつな水晶だのトルコ石だのを並べた机の上に組まれた両手は白く華奢で、どうやら外見はかなり若いらしいことが推測された。
「本日のお望みは?」
薄いヴェールに覆われて、暗い青色の瞳以外の表情は判らない。
しかしその全て見透かすような真っ直ぐな視線は魔女特有のもので、だからどの魔女に会ってもいつも、私を振ったあの魔女を思い出して嫌な気分になる。
四角い机を挟んで椅子に腰を下ろしたものの、むっつりと口を引き結んだままの私に代わって、傍らに立った珈琲屋が事情を説明してくれた。
羽虫を閉じ込めた琥珀を指先で弄びながら、魔女は何度か小さく頷いている。
珈琲屋が話し終えると、魔女は束の間考えるふうで目を閉じ、それから切れ長の目を開いて、真っ直ぐに私を見つめた。
「少しこちらへ」
真っ直ぐに見つめられながら華奢な両手を差し出されて、思わず言われるままに身を乗り出した。
魔女が手を伸ばして、私の両耳に軽く触れる。まるで陶器のようなひんやりしたその感触に、少し驚いた。
魔女の指は、私の耳の輪郭を軽くなぞってすぐに離れた。
「魔法がかけられていますね」
椅子に座り直した私に、魔女は事も無げに言った。
驚いて目を見開く私を気にしたふうもなく、テントの隅に置かれた低い棚へと立って行き、いくつもある小さな引出しの一つから何かを取り出して、再び向かいに腰を下ろす。
「目を閉じて」
真っ直ぐに見つめられながら言われると、何の疑問もなく従ってしまう。今回耳に触れたものは、魔女の指よりも冷たかった。
輪郭をなぞるように触れたそれが離れて目を開くと、魔女は両手に持っていたものを小さな瓶に入れているところだった。コツコツと硬質な音がして、小瓶の底に乳白色の小さな石が転がる。
「あの町の住人は、時々こんな悪さをするんです」
言われて気がつくと、あれほど私を悩ませていたあの声は、跡形もなく消えていた。
「せっかくですから、お持ちなさい」
差し出された、きっちりと蓋を閉めた小瓶を、私はまだ当惑したまま受け取った。
金貨を払って表に出た途端、突然の明るさに私も珈琲屋もその場に立ちすくんでしまった。再び強烈な香料の匂いがまとわりついて、甘い麝香の名残を消していく。
「約束ですよ、先生」
ようやく陽光に慣れて来た道を戻り始めると、珈琲屋が言った。その上機嫌な様子が、少し引っ掛かる。
「もしや、始めから知っていたのじゃあるまいね?」
窺うように言うと、珈琲屋は一瞬素知らぬ振りをしようと試みて、失敗した。
途端に顔をしかめる私に、必死で笑顔をこらえようとしている。
「確信があったわけじゃありませんよ? ただ、あの町へ行ってきたって人は何人も知っているけれど、あんな音が気になったなんて人には会ったことがないし。旅行者ならいくらでも歓迎するけれど、余所者が越して来るのは嫌がるって町は、珍しくありませんからね」
「それにしたって、魔法をかけることはないだろうに……」
もし気づかなかったら、私は一生、あの魔法を耳につけたまま暮らしていたのだろうか。
せめて、町を出れば消えるようにしておいてくれたら、良かったものを。そうすれば、気に入りの置物を珈琲屋に取られることもなかったのだ。
「でも先生、この猫は元々、私のものですよ?」
渋々陶器の猫を差し出す私に、珈琲屋が言う。
彼が言うには、この置物は、昔彼が飼っていたぶちの猫の生まれ変わりだというのだ。
「もしあの魔女に治せなかったら、本当にあの瓶をくれるつもりだったのかね?」
大事そうに瑠璃色の猫を抱えて帰りかけた珈琲屋に、私はふと訊いてみた。
振り返った珈琲屋は一瞬目を見開き、それから悪戯っぽく笑った。
「まさか、私が勝算のない賭をすると、本気で思ってらっしゃるわけじゃないでしょう?」
その台詞に呆れて思わずため息をつくと、珈琲屋は更に喉を震わせて小さく笑い、それから軽く礼をして足早に去っていった。
その夜は魔女のくれた瓶を枕元に置いて寝たせいか、おかしな夢ばかり見た。
切れ切れの夢の中でただ一つ、瑠璃色の仔猫をびっしり詰めた籠を抱えた珈琲屋が、得意気に売り口上を述べながら螺旋の道を歩いていく光景だけが、やけに鮮明だった。
狭い籠の中で仔猫たちは、押し合いへし合いしてか細い鳴き声を上げ、口上の途中で一匹ずつ首根っこを掴んで持ち上げられるたびに、驚いたように金色の目を見開いて鳴き止んだ。
「魔法がかけられているよ」
細い小路から出てきた魔女が、笑いながら仔猫の籠を指さした。
藍色のヴェールがはためいて、銀の髪がこぼれる。
「そりゃそうさ。そら」
足を止めた珈琲屋が笑って、一匹の仔猫を放り投げると、びっくりして泣き止んだ仔猫はそのまま綺麗に弧を描いて石畳の道へと落ち、澄んだ音を立てて粉々の陶器の破片に砕け散った。
足下に転がってきた瑠璃色の破片を一つ手に取ってみると、その釉薬のかかっていない裏側には、黒い絵の具でいびつなシルクハットが描いてあった。
二つの月長石の入ったその瓶を私は、瑠璃色の猫のあったインク壺の横に置いた。
瓶を耳に近づけてそっと振ると、月長石の転がるコツコツという硬質な音に混じってかすかに、あの呼び売りのくぐもった声が聞こえてくる。そうやって時々あの腹立たしい日々を懐かしむ私を珈琲屋は、瑠璃色の猫を撫でながら呆れたように眺めている。