19:ロベルトが見た世界④
ゴフリ。
口から大量の血液が溢れた。
背中を壁に強打した。たぶん肋骨も背骨もイっただろう。身体が動かない。
ずるりと床に滑り落ちながらも、ラシェルを抱きしめている腕から力は抜かなかった。
彼女は無事だろうか?
「っ!」
ラシェルが腕から抜け出してしまった。
大丈夫かい? 怪我はないかい? 傷付いていないかい?
――――温かい。ラシェルの力が流れ込んでくる。
聖女や見習いたちに癒やされると、どうしても異なる力が自分に流れ込んでくるので、大小あれど、皆総じて『気持ち悪さ』というものを感じる。だが、ラシェルから治療を受けると、ただ心も体もポカポカと温かい。
こんなこと、聖女の治癒でも感じることはなかった。
「あー、あー、あー! 本当に、忌ま忌ましい女ねっ!」
意識が軽く遠のきかけたとき、エミリアンヌの怨嗟を含んだ叫び声が聞こえた。
そちらに視線を向けると、兄上が剣を構えてラシェルに斬りかかろうとしていた。
「――――あに、うえっ!」
治癒を続けていてくれたラシェルを押し退けた。どこにこんな力が残っていたのかというほどに、素早く動けた。
両手を広げ、兄上からラシェルを守る。
絶対に彼女を傷付けさせはしない。そう決めたんだ。
兄上の剣が右胸に吸い込まれていく。不思議と痛みは感じなかった。
直前まで兄上は私の左胸近くの心臓がある位置を狙っていた。なのに、直前に目を見開き、軌道を変えてくれた。
それで気付いた。
兄上も操られている。
「っ、いやぁぁぁぁぁぁぁ!」
ラシェルの泣き叫ぶような声が聞こえる。
大丈夫だよ、ラシェル。
私はとても気分がいい。
やっと、君を守れたからね。
「っ、は……ラシェル!?」
落ちたはずの意識がフッと浮上した。
体が温かい。そして軽い。
どれくらいの時間が経過した?
私の治療をしてくれていたらしいラシェルの髪の一房が、黒から真っ白に変わる瞬間を見て、意識が完全に覚醒した。
「もういいっ! 止めろ!」
牢で一瞬にして白髪になっていた囚人たちを思い出す。
きっとあれと同じような力を使っている気がする。
「でも……」
「大丈夫だ。もう大丈夫だから」
「っ、良かった…………」
泣きそうなラシェルの頬に手を添えると、また寂しそうに微笑まれてしまった。
そして始まる最終局面。
聖女が息絶え、ラシェルの怒りと悲しみは、頂点に到達した気がする。
それは神たちの争いかと思うような凄まじさだった。
ある瞬間を境に、ラシェルが優勢になった。
きっとラシェルは自分の命を力に変えている。さっき私に治癒を施したときのように髪がどんどんと白くなっていっているから。
「やめてよ! せっかくここまで来たのにっ!」
エミリアンヌが、あの牢の囚人たちと同じように、どんどんと年老いていく。瞳は落ち窪み、髪や歯が抜け落ちて行った。
ドサリと床に倒れ込んでも、ラシェルは奪う攻撃を止めなかった。
エミリアンヌが骨と皮のようになり、パラパラと崩れ、砂となって消えた。
――――終わった。
そう思った瞬間、ラシェルの身体から力が抜けたように頽れた。
床に倒れ込むと思ったのだが、何故かゆっくりと何かに護られているかように、ふわりと床と水平に浮いている。
慌てて近付き、ラシェルの身体の下に腕を差し込むと、急に身体が落ちてきた。
しっかりと抱きしめた瞬間、頭の中に声が響いた。
『時間はかかるが、目覚める。それまで彼女を護れ』
男でもなく女でもない、不思議な声。何故かこの声は『神だ』と認識された。
そして、この声は、謁見の間にいた者たち全てに聞こえていたらしい。
――――君は一体、何者なんだい? ラシェル。