1話「雨やどり」カット1
日光照明が消灯する。そろそろ夜になる。帰路を急ぐ。
アスファルトの道端で居合わせた酔っ払いがゲボを吐いても何の嫌悪感も抱かなくなった。無計画に建てられたカーテンウォールのビルが並ぶ周りの景色が一層色あせて見えた。人間の気配だけ際立って、腐敗臭よりも不快な柔軟剤やパルファムの匂いに吐き気を催す。気力の無い雑踏の徒党に広告塔のビルのモニタで流れる小鳥のさえずりがかき消される。色あせた夜なのにやたら青い月光照明がうざい。空気がすっぱい。
人類が宇宙に進出してもう何世代目になったのだろうか。いつかどこかの経済学者が唱えた資本主義の彼岸が訪れるという予言は実現する事なく、資本の増殖は人間の欲望によって新たな領域に入った。
宇宙空間に建設された居住区、TUBE。その中で新しく生活を実現した人類の歴史の陰には誰も目を向けることはないしこれを記している筆者もここに記すつもりもない。あなたたちも知る必要は無い。
宇宙空間なのでTUBEの窓を開けて汚れた空気を換気とはいかないから大気はいつまでも淀んでいる。31世紀に入るもこの期に及んで人間関係の陰鬱とした雰囲気が社会を覆っていた。
現実を忘れられる方法がある。仮想現実装置、VRC(Virtual Reality Connection)を装着してスイッチを入れること。
———◆◇現実世界から仮想世界へ◆◇———
瞑られた瞼が作り出す暗闇の奥から光が向かってくる。自分の体が完全に光に飲み込まれた瞬間、大自然の環境が、人の営みの痕跡である日用品や建物が、全て触れられる距離にその造形が出現してゆく。脳内にわずかな信号を送り、まるで本当にその場にいるような体験を作り出してしまうのである。
作り出された仮想の立体たちが、まっさらの光の空間を全て埋め尽くしてしまうとき、あなたはそこにいる。
コンピュータグラフィックスの雨粒は完全な球体である。深緑に佇む紫陽花の葉の上を、透明な球体が滑り落ちてゆく。木枠の窓が四角く切り取る外の様子をとあるプレイヤーが木の長椅子に座りながらぼんやりと眺めていた。
少し窮屈に感じられる石造りの簡素な教会の棚には貸し出し用の聖典が詰め込まれ、入り口の近くには一件の依頼が張り出されている。教会の中はやや木陰より暗いので、異邦人が座っている位置からはやや読み取りづらい。
「今朝は雨ですね」
祭仕女のNPCが声を発した。蒼を基調とした直線的なデザインの祭服をまとい、頭には何も被っていない。サイドを三つ編みに編み込んだ髪が揺れる、格式高い祭服とはやや不釣り合いな印象の。
神代教団。宗教の一派、教義は質素と自己の精錬を旨とするもの、かつて征服者として恐れられた信徒たちは今や牙を抜かれた狼の群れである。しかしに未だにかつての恐れから弾圧を受け、おうおうにして疎まれるのである。
異邦人は思い出したようにぽつりとつぶやいた。
「3Dプリンタのレジンが切れてたからカートリッジを取り寄せないとな。ああ、それと来週は引っ越し業者が来るから、それまでに荷物をまとめておかなくちゃ」
「充実されていますのね」
そう言うと、祭仕女は隅にあった棚の引き出しから小さな蒼色の正八面体を取り出す。それを指先で潰すと、それは魔法のように蒼色の半透明の小さな石板へ形を変えて、祭仕女はペンでそこに先程の内容を書き込むと、再び石板を正八面体に戻して異邦人の方へ飛ばす。それはひとりでに手のひらに収まると、結晶が薄く広がるようなエフェクトとともに消えてしまった。
「ご用件がありましたら何なりと」
再び窓の外を見る。今度は紫陽花のさらに向こうの空を見上げた。雲の隙間から美しい光が差す。
この仮想世界はおぞましい猛毒だ。
AIによって作り込まれたその世界や人物像は実物以上に完璧で、正確無比、均整の取れた美しいマテリアルによってデザインされた無垢な世界。
「どうぞご自由に、心ゆくまでご覧になってお楽しみください」、と言われているかのような。まぶたを強く瞑ってもここでは閉ざすことはできない。見ない権利は無い。
「アルマさん。あなたはどんなに無理なお願いでも嫌だと言いませんね」
「申し上げるときは申し上げますのよ。でもやっぱり私は誰かの役に立ってたいんですわ」
「……護符をひとつ」
雨が止み、異邦人は頭に巻いたスカーフから垂れた深い紫色の髪を束ねて仕舞うとダンジョンへ向かう。黒衣で顔面をすっぽりと覆い、長袖のシャツに黒い革製のチョッキと丈の短い黒のマントを羽織った黒尽くめの格好は、淡く色づいた石造りの町並みとは不釣り合いだった。
「アルマ様、どうなさいました」
奥から出てきた教会の牧師が、異邦人の行方を見守るアルマに声をかけた。
「牧師様、あのお方はいつも何をしていらっしゃるのでしょうか。クエストも受けていらっしゃらないご様子で」
「私たちにできることは、打ち明けてくださったときに受容して差し上げることです。彼女との信頼を勝ち取りたいのであれば、今は我々が準備をしておく段階です」
「わかりました」
「待ってたよ、雅麗」
「悪い、教会で雨が上がるのを待っていたんだ。祭仕女にもらった護符は、濡れるとだめになってしまうから」
ダンジョンから少し離れた位置に蒼い石で装飾された古い聖堂がある。簡単に整えられた祈りを捧げる場所があるが、滅多に人の気配は無い。むしろ豪華な祠である。その蒼の聖堂の真裏にある、石のアーチから女性アバターの異邦人が短い赤髪をツンと尖らせて登場した。短い黒のマントを羽織り、簡単な胸当てのついた軽装で雅麗を出迎えた。
「リュシャさんの今回のお目当ては?」
「ゴールドカーバンクル」
「好きだね」
「当然!」
錬金術師のリュシャとは雅麗は馬が合った。一方的に世話になっていて引け目を感じることもある。雅麗にとっては錬金術が使える彼女は非常にありがたい存在だった。リュシャにとって連れ合いは誰でもいいのだが、雅麗にとってはリュシャしかいないから誘われたら行くようにしている。
「雅麗は?」
「私は、そろそろ顔の素材が欲しいな。このマスクも外したいし」
「そっかそっか」
じゃあ行こう、とリュシャが雅麗を手招く。
2人は蒼の聖堂の裏手にあるダンジョンの暗闇へと入っていった。