第3章−3
ーーーーーやっぱりなぁ、おかしいと思ったのよ、転生前の世界で線路に倒れてるお婆さんを救ったこともなければ、車の前に飛び出した猫を助けたこともない。特に立派な人生を送ったわけでもないのに、こぉんな可愛いエリシアちゃんに転生して、王子様に愛されるなんて。
マンガじゃないんだから、人生そんなうまくいくわけないし。ははは…その気になっちゃってバカみたい。
ーーーーーなのになんでこんなに涙が出るんだろう。さっきからずっと止まらないんだけど。ほんとバカみたい。
エリシアは涙で濡れた枕をさらに濡らし続けた。
先程、ラウルとの婚約に対し辞退の申し入れをすべく、メイザード侯爵が王宮に向かった。
「もし真実であるなら王家の血を引く命には勝てない。勝つべきでもない」
それがメイザード家が出した答えだった。
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「ハワード!ハワード!」
「ライナス、なんだ朝からうるさいな」
「大変だ」
良く言えばおおらか悪く言えば大雑把なライナスの引き攣ったような表情に緊張が走った。
「なにがあった?」
「ラウルが…ラウルがシュルバルト侯爵の娘を孕ませた」
「……………………は?」
「今朝からその話で大騒ぎだ」
「そんなわけないだろう!ラウルは?」
「今、陛下に呼ばれている」
「………行くぞ」
入室を許可され国王執務室に入ると、正面の執務机に両肘をつき手を組み合わせた国王と、その向かいに立ちはだかるラウルの背中が目に入った。彼の背中は強ばり立ち上がる煙が見えるようだった。抑えきれない怒りが息苦しいほど部屋に充満していた。
ラウルの隣に立つモルティが目を伏せたままハワードに軽く頭を下げる。
「陛下、これは」
「今、ラウルから話を聞いておる」
「ラウル、どういうことだ、身に覚え…」
「ないに決まってます!」
ラウルが怒りに顔を歪ませ国王である父とハワードに訴える。
「シュルバルト侯爵の娘を誘うなど神に誓って絶対にない。私はエリシアを愛しているんだ!」
「シュルバルトは?」
ーーーーーお前がエリシアを愛していることくらい皆が知っている。
ハワードが努めて冷静な声を発した。
「先程シュルバルト家に送った使者が戻って参りました」
国王付側近長サヴァンが答えた。
「侯爵より懐妊は事実だと。シュルバルト家の医師が確認したと返事がきております。王室医師の診察を受けるようにという要請には現在令嬢の体調が思わしくない為しばらく待ってほしいと。そして…陛下にお目通りをと」
「会うのですか?」
「まだその時ではないかと」
サヴァンが代返した。
「それで懐妊は…どれくらいなのだ?」
「シュルバルト家の医師とはいえ妊娠を確認したということは3〜5ヶ月にはなっているかと」
「……ラウル、その頃になにか心当たりはないのか?」
ラウルがチラリと父親を見た。
「今しがたその話を聞いていた。たしかにシュルバルトの娘と2人きりになったことがあるらしい」
「あるのか!」
国王の言葉に思わずライナスが叫んだ。
「違う!たった1度だけだ!もちろん何もない!しかも屋外だ!校舎の裏だぞ!何かあるわけないだろうが!」
「そんなものヤろうと思えばどこでも出来る」
「ライナス、貴様…」
「それが世間の目だ!お前が何を言おうと世間はどうとでも勝手に決めつける。冷静になれ、ラウル」
ライナスが一喝する。
ハワードの側近という立場のライナスがラウルを叱っても父親である国王は何も言わない。
彼がライナスに、もちろんモルティにも、どれだけの信頼を置いているかがわかる。
「で、そこでは何があったんだ?」
「呼び出されたんだ。誰にも聞かれたくない話があると。しかし室内で2人きりになるのは避けたいと思って、西棟の裏で話をした」
ハワードとラウルの会話に父親は言葉を挟まず顔色も変えず、ただ顔の前で手を組んだままラウルを見つめていた。
「何の話だったんだ?」
「舞踏会に着ていくドレスの色は何色がいいかって話と、一緒に踊ってほしいって話だった」
「は?」
「だから特定の相手とだけ踊ることはしないし、ドレスの色はわからないと答えて、その場から離れた」
「相手にされなかった腹いせか」
「いや、ライナス、単なる腹いせにしては事が大きすぎる。モルティはどうしていた?」
「それが…その時、私は学園長の部屋にいました。今思うと…あれは…」
「なにかあったのか?」
「ある生徒がやってきて学園長が部屋に来てほしいと言っていると言われたんです。で、学園長室に行ったのですが、誰もいない。少し待ちましたが一向に学園長は姿を現さない。帰ろうとした時に学園長が戻ってきたんです。しかし彼は私を呼んではいないという。なにかの勘違いかとその場は終わったのですが…」
「ラウルと2人きりになる状況を作ったんだろうな」
「おそらくそういうことかと…」
「謀られたか」
ライナスの言葉に皆が黙る。それはずっと皆の心に浮かんでいた疑念だった。
「これでは言った者勝ちだ。私はシュルバルトなどと関係は持っていない。向こうが一方的に言っているのに、それだけで私が責任を取らないといけないのですか?本当に妊娠してるどうかすらわからないのに…いや、違う、絶対にしていない。もし妊娠しているなら、それは私の子ではありません!」
「言った者勝ちと言われない為に先に世間に漏らしたんだろうな。既成事実を作ったんだ」
ハワードに言われなくてもラウルもそれくらいわかっている。それでも口に出さずにはいられなかった。
「いずれにしろ、こうなっては我々も無視することは出来ません」
サヴァンの静かな口調にはっきりとした不快感と怒りが滲んでいる。
「お相手さんも必死だな。ウソだとしたら娘が恥をかくどころの騒ぎじゃないぞ」
「気に入らん」
そう呟いて国王が背もたれに大きくもたれかかった。
「侯爵が言うには、世間に漏れたことは自分達も驚いている。医師或いは侍従が漏らしたのではないかと。ちなみに侯爵からこの件に関し謝罪の言葉はなかったということです」
「本当に医師や侍従が漏らしたなら即刻打ち首だな」
ライナスが舌打ちする。
「エリシアが気になるな」
ハワードの言葉にラウルがビクリッと反応した。
「クソっ」
「ラウル、クソと言いたいのはエリシアだろう」
コンッコンッ
「なんだ」
サヴァンが返事をすると侍従が扉を開けた。
「失礼いたします。陛下、メイザード侯爵が陛下にお目通りをと」
国王が頷きサヴァンが答えた。
「お通ししろ」
「はい」
「父上!私も!」
立ち上がった国王をラウルが引き留める。
「私も同席させてください!」
「ダメだ」
「父上!」
「今、お前が何を言おうとメイザードとエリシアには気休めにもならん。このことが落ち着くまでお前は王宮を出ることも誰かと連絡を取ることも許さん。もちろんエリシアにもだ」
「そんな…父上!」
「ラウル、わからんのか?お前が下手に動けばエリシアが悪者になる。王室へと向かう矢はより放つことの容易なエリシアへと向かう。大切なら耐えろ。これは命令だ。モルティもだ」
「はっ」
父親とサヴァンがいなくなると、ラウルは糸が切れたようにヘナヘナとソファに座り込んだ。
「さっきの話だが…いつ頃のことだ?」
ハワードがソファで頭を抱えるラウルに声をかけた。先程までより少し声が和らいでいる。
「春の舞踏会の前日だ」
「春か…日数的にも合う…が、よく覚えているな」
「エリシアと初めて会話を交わした日だ」
あの日、シュルバルト令嬢との無意味な会話を手短に済ませその場を離れたが、モルティも学園長室から戻らない。面倒事に巻き込まれないよう、人のいなさそうな場所を選び、芝生の上に寝転んだ。
今でもはっきり思い出せる。まだ春になりきれず冷たさが混じった空気とそれを暖める陽の光の心地良さ。芝生の匂いと混ざり合う花々の香り。そして驚きに目を丸く見開き自分を見つめるエリシアの表情。
その時はまだこんなに彼女を大切に思うことになるとは考えもしなかった。こんなに愛することになるとは…
ーーーーーエリシア、すまない。
「とにかく父上のおっしゃる通りだ。いまはおとなしくしていろ」
「これが全て計画の上でのことなら…また何か仕掛けくる可能性もあるからな」
「お前もわかっているとは思うが、本来ならそれでも無視することは出来るんだ。勝手に作られた既成事実など我々にとっては取るに足らないものだ。それでも父上が無視しないのは、エリシアのことはもちろん、お前の名に傷が付くのを避けたいと思ってらっしゃるからだ」
ラウルの肩をポンッポンッと叩きながらハワードが言った。
「モルティ、頼むぞ」
「はい」
「メイザード侯爵、待たせた」
接見の間に入ると、はっきりと苦渋の色を顔に滲ませたメイザードがそれでも礼儀正しく深々と頭を下げた。
「陛下。突然申し訳ございません」
「いや。エリシアはどうしている?」
「はい…………」
次の言葉が続かないことが、今のエリシアの状態を物語っていた。
「えっ?では陛下も今朝ご存知になられたと?」
「ああ、ラウルもだ」
「まさか……そんな…ことが……」
「これをどう受け取るかは侯爵次第だが…ラウルは身に覚えがないと言っている。わしも、あいつがそこまで愚かな男だとは思っていない。親バカですまぬ」
そしてラウルとモルティから聞いた事をメイザードに話した。
「しかし陛下、もし万が一にでも陛下やラウル殿下を謀るなどしたら…それは…」
「……………」
「メイザード侯爵、先程の申し入れだが。このような状況になった以上、受け入れざるを得ないことはわかっている。しかしそれは表向き、あくまでエリシアを守る為だ。
我々は…ラウルはまだエリシアを諦めていない。それをそなたの胸に留めておいてくれ」
「陛下…もったいないお言葉、恐れ入ります」