第2章−10
一部差別的表現がございます。
その人物の人となりを表すのに必要としたもので、決して差別的意図を含んだものではありません。
ご理解の程よろしくお願いいたします。
「娼婦達への暴行事件?さて、そう言われましても私には何のことやらさっぱり。なんにしても物騒な話ですね」
そう言うとナザルは先程まで必死だった紙幣集めの手を止め立ち上がった。
「では殿下、私はそろそろ帰らせて頂きます」
「まぁそう急がなくても」
「特に急いではおりません。しかしこの場にいても時間の無駄ですので」
エリシアはもちろん部屋にいる全員が話の展開について行けず、ただただラウルとナザルの不穏な、それでいて微笑みを浮かべたままの会話に聞き入った。
「被害にあった女たちに聞いたところでは、犯人の男は小柄で細身の男らしい」
「そうですか」
「何人か検討はついているんだが、なかなか決め手が掴めなかったのだ……今日までは」
ラウルの最後の一言に、ほんの一瞬ナザルの眉が動いた。
「今日までは?」
「ああ。正確にいうと、さっきまでは」
「ラウル殿下、言葉遊びでしたら他の者とお願い致します。私は失礼いたします」
「その者には!」
ラウルが声を張り上げ、部屋の扉に向かうナザルを呼び止めた。
「1つ癖があるようでね」
「………癖?」
ゆっくりとナザルが振り向いた。
「ああ。被害にあった者には共通して同じ傷があった」
「…………」
「何かしらその者にしかわからない欲求があったのだろう。屈折した欲求だとしたら不憫には思うが、だからと言って他者を傷つけてよいものではない。そう思わないか、ナザル?」
エリシアはナザルが強く拳を握りしめていることに気づいた。
「癖で犯人を特定できるとでも?」
「ああ。時と場合によるが。今回は出来そうだ」
「……それは良かったですね。私には関係ございませんが」
「関係ないのか?」
「はい、全く」
「皆の前で言わずに済むのならと思ったが…残念だ」
「…………」
「ナザル侯爵、被害にあった女たちには全員、腕に噛まれた跡があった」
「ヒッ」
エリシア、リリアナ、ターシャ、カーラの真ん中で、4人に守られるように抱きしめられていたリズが小さく悲鳴をあげた。
「リズ?」
「え?」
「まさか」
「ウソ」
「犯人の検討はついていたが、決定的なものが掴めなかった。そこで、リズの怪我の治療をした医師に問い合わせてみたのだ。そしてその返事を先程受け取った」
そう言うとラウルは、ハーベイ家の侍従が届けてきた手紙をひらひらと顔の前で振った。
「リズ」
ナザルに対してとは打って変わって労るような眼差しと優しい声でラウルがリズに話しかけた。
「リズ、君の医師に問い合わせをした。君にもその跡があるのではないかと思ったんだ。ここに…たしかにそれを確認したと書かれている。皆の前で心苦しいのだが腕を見せてもらえないか」
「リズ、大切なことだ。お見せしなさい」
リズの父親が言った。
「この傷のことは医師のオルガ先生と私と妻の3人しか知りません。酷すぎて…娘が可哀想すぎて」
真っ青な顔をしたリズがゆっくり手袋を外した。
「ひどいっ」
カーラが小さく呻いた。
リズの細く真っ白な右腕に、紫と赤の混じり合う異様に変色した部分があった。しかもそれは3箇所も。ところどころ皮膚がめくれた部分もある。どれほど強く噛まれたのだろうかというほどに痛々しい跡だった。
「君は噛まれて抵抗した。それで暴力を振るわれたのではないか?」
「手を取られて…階段を降りる為に手を取って下さったのかと思ったんです。でも腕をいきなり…痛くて痛くて…逃げようとしたら叩かれて蹴られてまた噛まれて…怖くて怖くて」
「やめてくれ!」
エドモンドが突然近づいてきてリズを抱きしめた。
「ラウル殿下、申し訳ありません。もうこれ以上は…」
突然のエドモンドの抱擁にエリシア達も驚いたが、一番驚いたのはリズだった。
しかしそうやって抱きしめてくれる腕に安心するものがあったのだろう、リズは再び声をあげて泣き出した。
「大丈夫だ。もう終わったんだ。辛かったね、もう大丈夫だから」
エドモンドはそう繰り返した。
「リズ、ありがとう。エドモンドの言う通りだ。もう終わったんだ。いや、終わらせよう、今ここで」
そう言うと、ラウルはもう一度ナザルの方へ向き直った。
いつの間にかモルティに後ろで腕を掴まれていたナザルは、それでもなぜか不敵な笑みを浮かべている。
「この歯形を他の被害者の跡と照合する…必要もなくお前の仕業だな、ナザル」
「殿下、たかだか娼婦ではありませんか。それくらいのことをされても当然ですよ。あんな者達が死んだところでなんですか?生きる価値もない人間だと思いませんか?」
「価値もない人間だと?その者たちに生きる価値があるかどうかを決めるのはお前ではない。陛下ただお1人だ。そして陛下は皆が生きる価値があるとおっしゃっている。お前を暴行及び殺人の罪で問う、覚悟しろ」
「チッ、こんなことならそこの小娘もとっととヤッておけば…」
バキッ!
ラウルがナザルの頬を殴りつけた。
「おっと」
モルティが顔色も変えずナザルを荒っぽく引っ張り体勢を立て直さす。
「すまない、手が滑った。しかしナザル、令嬢方の前だ言葉に気をつけろ。お前の品格が問われる…いや、そんなもの初めから持ち合わせていないか。モルティ、連れて行け」
「はい」
それでもラウルを睨みつけるナザルを、モルティが後ろ手にしたまま歩かせ始めると、ハーベイが先回りし扉を開けた。そこには数人のラウル付近衛兵が待ち受けていた。
「さて私の用件は終わりました。エドモンド、次はあなたの番ですね」
リズの肩を抱いたままのエドモンドが俯き小さく息をはいた。
「はい」
顔を上げた彼の顔は凛々しかった。
「メランザ侯爵、よろしいでしょうか?」
「もちろんです」
エドモンドに声をかけられたリズの父親が頷く。
エリシアは急に緊張した。ついにこの時が来た。ずっとずっと願い続けたこの時が。エリシアとリリアナはどちらからともなくギュッと手を繋いだ。
エドモンドはリズと向かい合い微笑むと、彼女の前に跪いた。
「リザベラ・メランザ嬢、あなたに結婚を申し込みたい。エドモンド・メイザードがあなたに永遠の愛を誓います。私と結婚して頂けませんか?」
予想もしなかったのだろう。リズは泣き濡れた顔のまま驚きで固まってしまっている。
「ずっと君が好きだったんだ。いつからなんて覚えていないほど昔から。なのに私が臆病だったがために君に辛い思いをさせてしまった。私がもっと早くこうして申し込んでいれば…いや、君の気持ちは私にはないだろうが、それでも何かは変わったかもしれない」
「リズ」
彼女の父親が声をかけた。
「メイザード侯爵は我々に援助を申し出て下さった。しかし見返りは何も求めていらっしゃらない」
「なにも?」
「ああ、リズ、何もだ。ツラい思いをしたお前をこれ以上苦しめたくないと…」
「リズ、私の気持ちは政略結婚でも援助の見返りでもない。ただ1人の男として君が好きなんだ。今すぐでなくていい、私を結婚相手の候補に入れてくれないか?」
「候補だなんて!そんな!でも…」
「リズ、素直になったら?」
「そうよ、カーラの言う通りだわ。今度こそ好きな人
と結ばれるのよ」
「えっ?」
「えっ?」
「えっ?」
ターシャの言葉にメイザード3兄妹が順番に反応した。
「ほんとに気づいてなかったのね」
ターシャが呆れたようにからかうように笑う。
「は?」
リリアナの大きな目は驚きで更に大きくなっている。
「リズはずっとずーっとエドモンド様が好きだったのよね」
カーラが彼女の肩を抱いて笑いかけた。
「「「ええええええーーーー!!!」」」
「だって、え?どういうこと?なぜ?」
「そんなこと一度も言ってくれなかったじゃない!」
リリアナとエリシアが顔を真っ赤にしたリズに詰め寄る。
「言えるわけないわ!うちとメイザード家では格が違うし、何よりリリアナとエリシアのお兄様よ!私みたいな見た目も平凡で何の取り柄もない女なんて」
「そんなことはない!君は可愛い!見た目ももちろんだが君は人として本当に可愛い。全てが可愛い。リリアナやエリシアなんて比じゃない!」
「それはそれでどうなの、お兄様」
「その通りだ、それはそれで私にも言い分があるぞ」リリアナの反論に、ラウルが続いた。
「リズが可愛いということにもちろん異論はないが、とはいえやはり俺はエリーが一番…」
「殿下!入ってこないでください!」
「しかしエリー、比じゃないと言われて黙ってはいられない。俺はエリーが…」
「だから殿下っ!」
「まさかっ!そうなのか?そうなのか!そういうことかっ!」
ターシャの父親であるハーベイが、やっとラウルがこの場にいることに合点がいったとでも言いたげに叫んだ。
「ええ、まぁまだ公にはしていませんがそういうことです。とはいえ今朝、私はエリシアにフラれ…」
「デ・ン・カッ!!ちょっと黙ってて下さい!」
「おっと、すまない。そうだね、エリーとはあとでゆ〜っくり話をしなきゃいけないからね、今は黙っているよ。すまない、エドモンド、続けてくれ」
そう言って彼はエリシアの睨みを涼し気な笑顔で無視した。
「あ〜え〜っと…」
リズと同じくエドモンドもすっかり顔が真っ赤になっている。
「あらためて、リズ……あなたを大切にします。結婚してください」
「…………はい。もちろん、喜んで。ありがとうございます」
「や………ったあ!!リリアナ、やったわ!」
「うんうん、エリー、やったぁ!嬉しいわ!」
「リズが家族になる!リズが!リズ〜!!!」
エリシアがリズに抱きつく。そして抱きしめあっている2人にリリアナが抱きつく。カーラとターシャも加わってぐちゃぐちゃになりながら笑い合い抱きしめあった。
メイザードはメランザと握手し、ラウルはエドモンドと握手している。
ーーーーーこんなに嬉しくて幸せなことってあるかしら。まさかラウル様まで…ラウル様…あれ、私、2人のことはなかったことにして下さいって手紙を…
「さてそろそろ私も帰る時間だ。メイザード侯爵」
まるでエリシアの戸惑いを見抜いたかのようなタイミングだ。
「はい」
「少々エリシアをお借りします」
「は、はい。もちろんです」
「どうぞどうぞ」
「いくらでも」
「ターシャ!カーラ!」
「ありがとう、君達には感謝している。どこかの誰かさんと違って前もって私に相談してくれて助かった」
「相談?え?ターシャ?カーラ?」
「ふふ、殿下、内緒にして下さいって言ったのに!」
「カーラ、どういうこと?」
「君は皆に愛されているということだ」
ラウルがエリシアを抱き寄せた。
「エドモンドもありがとう。何も心配はいらない、何しろメイザード侯爵自ら父に直接今日のことの許しを得に来て下さったからね」
「父が?」
「お父様??」
「当たり前だ。あんな男でも侯爵だ。侯爵家にケンカを売るようなマネをする以上、陛下に黙って行うわけにはいかない。まさかあんな卑劣な人間だったとは思いもしなかったが。陛下とラウル殿下には心から敬意を表し感謝申し上げます。ありがとうございました」
「それを言うなら全ては私の不甲斐なさから起きたことです。2年前のあの旱魃後なかなか業績が回復せず焦っておりました。リズにも皆様にも大変なご迷惑をかけてしまい、申し訳ありませんでした」
「リズ」
エリシアを腕の中に抱き寄せたままラウルがリズに声をかけた。
「君は今回とてもツラい経験をしてしまった。それは心から気の毒に思う。しかしここにいる皆が自らの犠牲を顧みず君をナザルから離そうとした。君を守るために皆が動いた。君はとても愛されている。幸せなことだ。それを忘れないでほしい」
「はい。ありがとうございます」
「言っておくが、そのおかげで俺は今朝エリシアにフラれたんだ」
「えっ!なっ、ウソ!エリシア!ダメよ!」
「殿下!なんでそんなこと言うんですかっ!」
エリシアがラウルの腕の中で暴れる。が、彼はそんな彼女の抵抗を物ともしない。
「まぁそんな簡単にフラれるつもりはないがな。ということで我々は話し合いが必要なんだ。失礼するよ」
いつの間にかお茶会も終わったようでハーベイ家は静けさを取り戻していた。
「あらっ!」
玄関ホールでターシャの母親がラウルとラウルに肩を抱かれているエリシア、そしてその後ろにいるモルティを見つけた。
「おば様、今日は色々ありがとう」
「いいえ。それより…エリシア?え?あ?そういう?」
「ええ、実はそういうことなんです、ハーベイ夫人。しかし私は今朝エリシアにフラ…」
「だから殿下、何回それ言うんですかっ!」
「ふんっ、一生言い続けてやる」
「ふふ、いいわね、若いって」
外に出ると陽が翳り始めた庭園は少し肌寒かった。しかし今はそのひんやりとした空気と漂う花々の香りが心地よく、エリシアは大きく深呼吸した。