第2章−8
ハーベイ家は侯爵の中では中流中の中流だ。それはリズのメランザ家、カーラのシルベヌス家も同じで、3家とメイザード家とは格が違った。
メイザード家の屋敷に比べると半分程の広さではあるが、ブルーの花が咲き乱れる手入れの行き届いた庭園に白とブルーを基調にした邸宅。まるで異国に来たように感じるハーベイ家がエリシアは好きだった。
しかし今日はこのハーベイ家がエリシア達の戦場になる。悪魔にリズは渡さない。何度も何度も皆で話し合い、時には言い合いをし、作戦を練って今日を迎えた。
心に引っかかりがないと言えば嘘になる。気づかないフリをしている心の痛みは執拗にエリシアを苦しめる。夜1人ベッドに入ると、その優しい大きな手、柔らかく押し当てられた口唇、名前を呼ぶ低く甘い声を思い出して眠れなくなる。
それでも決めたのだ、リズを取り戻すと。醜聞になるかもしれないと言われるならその元を切り離すしかない。
悲しいけれど、ここでリズを見捨てればきっと自分は自分を許せない。
今朝一番にラウルに薔薇のネックレスを返すべく王室に使いの者を送った。手紙にはこれまでのお礼。そして、やはり自分は殿下にはふさわしくないと思う。2人の関係をなかったことにしてほしい、とだけ書いた。
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「リズを助け出したい」
父と兄にそう伝えた時、兄のエドモンドは即座に同意した。何を持ってしても助け出すと。
しかし父は首を横に振った。
「エリシア、よく考えなさい。お前はもうただのメイザード家の娘ではない。お前はラウル殿下の妻として王族の一員となる身。それはエリシアだけではない。メイザード家は王室に連なる家柄となる。それは我々にそれ相応、いやそれ以上の責任が生じるということだ。リリアナもエドモンドも自覚しなさい」
リズを助け出す。それは同時にナザル侯爵からリズを奪い取ることを意味していた。
もちろんリズが暴力を受けたことを世間は知らない。人々はさぞかしおもしろおかしく話を作り上げ、噂をたて笑い合うだろう。他人の悪口や醜聞を生きる喜びにしている貴族など掃いて捨てるほどいる。
メイザード家が言われるだけなら気にもしない。それくらいで揺らぐ格ではない。今までの彼らならそう思えた、今までの、王室とは無縁のメイザード家なら。
「わかっています」
エリシアは父親を睨み返した。
「お父様に言われなくてもわかってます!私だって…私だって…ラウル様が……」
涙が溢れて言葉が詰まる。胸の薔薇がやけに重く感じる。
ーーーーー考えたのに!強くいたいのに!泣きたくないのに!
昨夜から一体何度ラウルのことを思い浮かべただろう。いや、違う、思い浮かばなかった瞬間などあっただろうか。それでも……
エリシアは大きく息を吸って呼吸を整え言った。
「ラウル様とのことはなかったことにします」
「エリシア!バカなっ!」
「婚約は正式ではないわっ!まだ断れるはず!リズを助けたいの!リズを見捨てるなんていや!リズが傷つけられるなんて耐えられない!彼女を見捨てるくらいなら結婚なんてしないわ!そんなの全然嬉しくもないし幸せでもない!」
エリシアはその場でラウルから貰ったネックレスを外し、父親の執務机に置いた。嗚咽が止まらない。
「お父様、リリアナは本気よ。昨日から2人でずっと話し合ったのよ。私だって何度も言ったわ。せめてあなたは関わるなって。でも……」
「お父様、それなら僕をこの家から追放してください。縁を切って下さい。僕はリズを愛しています。一度はあきらめました。でもリズがそんな扱いを…受けているなら……僕は今度こそ僕のすべてを賭けて彼女を救いたい。でもそれでエリシアに…王室の方々に迷惑をおかけするなら…」
「まったく…お前たちの頑固さは誰の血だ」
「あなたでしょ」
一歩下がって話を聞いていたエリシアの母親がそう言って泣きじゃくるエリシアの肩を抱いた。
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そうして迎えた今日、エリシアは普段あまり着ない真っ赤なドレスを着た。
派手で目を引く赤はリリアナの方がよく似合うし、何より目立つことは出来るだけ避けるというのが彼女の信条だった。
でも今日はこの赤が自分に勇気と覚悟を与えてくれる気がした。
なのにふっと胸元に寂しさを感じてドキリとした。ラウルに貰った日から外したことのないネックレスはもう彼女の元にはない。
エリシアの手紙とネックレスはたしかにラウルに渡したと報告があった。彼はもうあの手紙を読んだだろうか。どう感じただろう。
しかしそんな感傷も向こうから歩いてくる男を見たとたん全て消え去った。
「来たわよ!」
ターシャが声に怒りを滲ませ言った。
ナザル侯爵は小柄な男だった。5人の中では一番背が高いターシャと並んだら同じか少し高いくらいしかないだろう。貧相という言葉はナザルのためにあるのではないかと思うほどだ。
「なによあの何食わぬ顔」
「あ……リズ……」
カーラの声が詰まった。
リズはナザルの後ろで、まるで自らの気配を消すかのように俯いて歩いている。
いつもならエリシア達の姿をいの一番に見つけて笑いながら駆け寄ってくる彼女が、自分達のことを見ようともしない。
ーーーーーああ、本当だったんだ。
ここに至ってもまだ、心のどこかで今回のことが全て嘘ならいいと思っていた。全ては侍女アンナの勘違い。リズには何も起こっていない。そう思いたかった。
もちろんそんなことはあり得ない。リズはエリシア達の見舞いを全て断り、今日この瞬間まで顔を見ることすら叶わなかったのだから。
そしてそんなリズを気にもせず、いや、むしろ自分の思うまま従順に付き従う若い婚約者に満足気な侯爵。あまりにも不似合で不穏でそして不自然な2人だった。
「リズのドレス」
「パープルだわ」
ターシャの呟きにカーラが答える。
「リズはパープルが嫌いなのに」
エリシアも口に出さずにはいられなかった。
恐らく好みの色をリズに着せたのだろう。彼は同じ色のスカーフを首に巻いている。
「気持ち悪いっ」
リリアナが心底嫌そうな声で吐き捨てた。
今日エリシア達が何をしようとしているのかは数日前にターシャとカーラに伝えた。
驚きと喜びに泣きださんばかりの2人にリリアナは言った。
「まだうまくいくかわからないの。泣くのはリズを取り戻してからよ」
この計画にエリシアが大きな犠牲を払うつもりでいることを知っているリリアナは容易く笑うことができなかった。
ハーベイ家のお茶会に招かれた客人達は4人の美しい令嬢と顔色の優れない1人の令嬢の思いも知らず、普段通り楽しげに笑い合い語り合っている。
初夏の陽射しを受けた庭園の花々は多くの人々を迎え、いつもより美しくそして芳しく咲き誇っていた。
「あ、お母様が合図をしているわ、全員揃ったみたいよ」
ターシャが母親の姿を見つけ3人に囁やく。
ターシャの母親は、エリシア達の父親の妹にあたる。今日この日を決戦の場に選んだのもハーベイ家に協力を求めることができるからだ。
もちろんリズをよく知るターシャの両親は快く受け入れてくれた…というより積極的に協力を申し出てくれた。
「行くわよ」
リリアナが赤ワインのグラスを手に声をかけた。
「うん」
3人は水の入ったグラスを手に頷いた。
ーーーーー始まるわ。とことんやってやる。
エリシアは顎を上げ前を向き、ただその1人を睨みつけた。
エリシアを除く3人が動いた。
「ごきげんよう、ナザル侯爵」
リリアナがその美しい顔をさらに美しく見せつける微笑みで声をかける。
「リズと親しくさせて頂いております、リリアナ・メイザードと申します」
ターシャとカーラがリリアナに続く。
「これはこれはお美しいご友人方だ。君には素敵な友人がいるんだね」
3人の令嬢に囲まれたナザルの顔がいやらしく下品に緩む。声をかけられたリズの笑顔が引き攣っているのを気のせいとは言わせない。
ーーーーーリズ!
「お姉様!!」
いかにも楽しげな声を作り、エリシアが後ろからリリアナを押す。
「きゃあっ!」
いかにも驚いた声を出し、リリアナが手に持っていた赤ワインをナザルにぶちまける。
「大変だわ、染まっちゃう!」
「水よ!水で落とさなきゃ!」
いかにも困った声を出し、ターシャとカーラが手に持っていた水を更にナザルにぶちまける。
「私も!」
これは明らかにわざとらしく、エリシアが手に持っていた水をもう一発ぶちまけた。
赤ワイン1杯に水3杯分をかけられたナザルは見事にずぶ濡れだ。
しかし彼もリズも何が起きたかわからず驚きで固まっている。
クスクスと笑う声があちこちで聞こえ始めた。
「令嬢方にかけられるなんてツイてるな」などと冷やかす男性の声も聞こえる。
「貴様らっ」
怒りで顔を真っ赤にしたナザルが客人達に聞こえないくらいの声で威嚇した。
「あら、どうしましょう!ずぶ濡れだわ!」
威嚇などどこ吹く風のリリアナがわざとらしい猫撫で声で叫んだ。
「ナザル侯爵、どうぞ中へ。着替えを用意させますわ」
ターシャが邸内へ誘う。
「さぁいきましょう」
リリアナがその美貌をナザルに向け、彼の腕を掴む。
「さぁ」
エリシアがもう一方の腕を掴む。
「あなたもよ」
カーラが、ことの成り行きに驚き立ち尽くすリズの肩を抱く。
まるで捕獲されたようにメイザード姉妹に腕を掴まれたナザルは、しかし怒りは収まらんとばかりに「離せっ」と2人を振り払おうとした。
リリアナはそれくらい折り込み済みとばかりにビクともしないが、エリシアは振り払われた拍子によろめいてしまった。
「おっと」
転びかけた彼女の身体を誰かが支えた。優しくふわりと。
「ナザル侯爵、令嬢達に手荒なことは良くありませんね。おや、どうされました?水浴びでもされましたか?」
その言葉に笑いをこらえていた客人達が一斉に声を出して笑い出した。
「殿下っ?!」
最初に声にしたのはターシャだった。
「うそ」
「キャッ」
リリアナとカーラがそれぞれ反応したが、エリシアはそれに続くことが出来なかった。まるで声を奪われたかのように口だけがパクパクと動く。
ーーーーーなぜ?ここに?
「やぁエリシア嬢、大丈夫かい?足をくじいた?痛いって?そうか、では私が介添えをしてやろう」
ーーーーーえ?何が?何もくじいてません!なぜ?なぜ?
口をパクパクさせたまま首を横に振るエリシアの腕を掴んだままラウルが彼女に笑いかけた。それは彼女が見たこともない世にも恐ろしい輝きを放つ作り笑いだった。