第2章−2
大臣達の心無い言葉はハワードに強いショックを与えた。
そのショックは《思いもよらなかった》からではなく、《やはり皆そう感じていたのか》という思いからだった。
実のところ、彼は大臣達に言われる以前から秘かに考えていたのだ。王位継承権はラウルに譲るべきではないだろうか、と。
身体の弱い自分と健康なラウル。
おとなしく人づきあいがさほど上手くない自分と明るく快活で黙っていても人が寄ってくるラウル。
ラウルが太陽なら自分は月だ。
そして何より見た目から性格から、ラウルは父親にそっくりだった。
ラウルなら父のような立派な王になるだろう。
自分では王として不十分なのではないだろうか。
そう考え始めたのはいつだろう。もう思い出せないほど前だ。
ある時不意に心に浮かんだその思いは、ラウルが成長し自信に満ち溢れた立派な青年になっていくにつれ、ハワードの心の中でどんどん大きくなっていった。
自分が継承者なのだと自身を叱咤する思いとラウルへの思いが混沌と層をなしていた彼の心に、あの日、大臣達の言葉が稲妻のように突き刺さったのだった。
それ以来、忘れようにも忘れられない傷はふと心が弱った時や病で身体が弱った時に頭をもたげてきては、彼をジクジクと痛めつけた。
国王である父に継承権の放棄を申し入れようかと何度も考えた。それが結局は民の為になるのではないかと。
しかしその度彼を引き止めるものがあった。
婚約者の存在だ。
彼には婚約者がいた。隣に位置するダカッサ王国のカタリナ王女だ。
彼らの結婚は国同士の繋がりを強固にするため、つまり政略結婚。
しかし彼らは初めて会った時から互いに惹かれ合い、訪問し合うたびに話をし時を重ね、会えない期間は文を交換することでゆっくりだが着実に愛情を育てていった。
初めてカタリナと顔合わせをしたのはハワードが19歳、彼女が14歳の時だった。
まだまだ幼い少女は顔を真っ赤にしながら、それでも自分がいずれ嫁ぐ相手であるハワードの目をしっかり見つめて挨拶をし、自分が話す際も、話を聞く際もそれは変わらなかった。
幼く可憐に見えるが、やはり王女としてしっかりと芯の通った女性でもあるのだろうと好感を持てた。
親しく話が出来るようになると、歳が離れているとはいえ2人は似ているところがあった。
静かに落ち着いて話すところや、読書が好きなこと、外で過ごすより部屋で過ごすことを好むなど。
小さなひとつひとつだが、生涯を共に過ごすには大切なことだった。
あまり外向きな女性は避けたいというのが正直なところだった。
彼女の存在がハワードの心に温かい光を灯し始めた頃、彼の心に傷をつけたあの出来事が起きたのだった。
人として王位継承者として男として何をどう選べばいいのか、何が責任ある行動で何が無責任なのか。日々揺れ動く思いの中で、カタリナへの思いだけは揺れることなく彼の心にしっかりと根付いていった。
そう。ただ1つ、どうしても継承権を放棄しようと思いきれない理由、それはカタリナと結婚したい、その思いだった。
国同士の結婚だ。継承権がラウルに移ることになれば、カタリナはラウルの結婚相手となる。
それだけは、何度考えても受け入れることが出来なかった。
それならとハワードは日々自分の未熟さを叱咤し、王位継承者として、カタリナの夫としてふさわしい人間になれる様さらなる努力をしようと決めた。
幸い、日々、国王の側で学ぶことや考えることは多く、心の傷も時間と共に記憶の奥へと消えていった。
なのに時を経て、とうの昔の古傷が再び彼を痛めつけるべく姿を現したのはこの度の流行り病がきっかけだった。
流行り病自体はたいしたものではなかった。
問題は、その時届いたカタリナからの手紙だった。
そこには美しい文字で彼の身体を心配し無事を祈る言葉が書かれていた。
カタリナの文字だけで心が和らぎ身体が軽くなるように感じた。
しかしそこにあった一言に彼の古傷が反応した。
『父もハワード殿下の体調を心配しております』
わかっている。それは単に見舞いの言葉だ。
なのにその一文を読んだ瞬間、あの大臣の言葉が突然脳裏に蘇った。下卑た笑いとともに。
「あれでは王位を継いだところで世継ぎが出来ないんじゃないか」
その日からだ。何をしていてもため息ばかりついてしまう。
自身の未熟さはまだ克服出来ていなかった。それが更に彼を打ちのめす。
ラウルから最初のマンガの束を受け取ったのは、そんな鬱屈した思いを抱えている時だった。
そしてそれから数週間経った今日、ラウルがやって来るという。
「やぁ兄上」
「ラウル。先日は済まなかった」
「体調は?」
「相変わらずだ、情けない」
「思うんだが、兄上の身体が弱いのはライナスといるからじゃないか。ライナスが兄上の健康を全て吸い取っているんじゃないか。元凶…」
「俺がなんだって?面白いことを言うなぁ、我が君の愚弟は」
「おっ、耳まで健康か」
「いつでも剣で勝負してこい、ラウル。たしかお前が俺に勝ったのはわずか…」
「あ〜わかった、わかった、記憶力まで健康で何よりだ」
「ハハハハ…ライナスは唯一ラウルが勝てない相手だもんな。やぁモルティ」
「ハワード様。我が君の無礼をお許しください」
「おい、俺を裏切るのかモルティ」
「モルティはお前と違って賢いからな」
「ライナス、モルティ。お前達2人の態度の大きさには驚くばかりだ」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてはいない!」
「ハハハハ…相変わらずお前達3人は賑やかだな。で、ラウル、今日は?マンガの続きを持って来てくれたのか?」
モルティが手に持っている束は、前回ライナスから受け取った束と同じくらいの厚みだ。
「兄上、どうだった?続きが読みたくなっただろ?」
「当たり前だろ。あの終わり方はないぞ、ラウル」
その言葉を聞いて、ラウルとモルティが嬉しそうに顔を見合わせた。
「だよな。はい、ご所望の品だ」
ハワードとライナスは、それを読んだ時のラウル達と全く同じように驚いたり、感嘆の声を上げたりしながらあっという間に3作品を読み終えた。
「豚?!」
「豚だと?!一体なんだ、この話は」
「クククッ、最高だろ、アハハハハ!」
「ラウル、笑ってるが…まさか今日はここまで?」
「そうなのか?またお預けか?!」
「ああ。今日はここまでだ」
「全く…なんなんだ、ラウル?」
「おもしろいだろ」
「ああ、おもしろい。どんどん引き込まれる。本当に続きはないのか?」
「ああ。俺達だってまた続きは知らない。読ませてもらってないんだ」
「はあ~それにしても…すごいものを見つけたな、ラウル」
「ハワードの言う通りだ。こんなものは初めて読むぞ」
「ああ、本当に…すごいものを見つけたよ」
「で、誰が描いてるんだ?サルドアか?」
ハワードはアッサムベルダ家お抱え画家の名前を出した。
「いや、違う」
「だろうな、サルドアの絵とは全く違う」
「サルドア様の絵画は素晴らしいですが、マンガの絵はまた全く方向性が違いますね。マンガは絵がどんどん流れていく。動いていくと言いますか」
モルティがそう言いながらベルダ物語を指した。
「この闘いの場面。表情も剣を持つ腕も、踏ん張る足の位置も。次の場面では動いている」
「ああ。わかる。だから本当に闘っている感じがする。伝わってくる」
「迫力があるな」
「そしてこの魔女の3姉妹」
モルティが次に「まほがく」を手に取る。
「この長女の身体」
「言うと思ったぞ、むっつりモルティ」
ライナスがからかう。
「だが、たしかにこの長女の身体はすごいな」
「男なら皆、むしろ豚にされたいと思いますよ」
「ハハ…でも本当に身体の描き方や動きも絵画とは全く別物だ」
「俺は次女がいいな」
ライナスがニヤニヤと笑う
「こういう捻くれた女性のほうが一緒にいて楽しそうだろ」
「そういうのをツンデレというそうですよ」
皆が軽口を言い合える仲とはいえ、年下で身分の差もあるモルティはハワードとライナスに対して一応敬語を外さない、一応だが。
「ツンデレ?」
「ええ。普段はツンツン冷たいのに、実はその相手のことを好きでデレデレに甘えたり甘やかせたりすることをツンデレというそうです」
「……ツンデレ…ぶーっ、アハハハハ!ツンデレ!なるほど!いいぞ、俺は好きだぞ、ツンデレ」
「ハハハ…その言葉のセンスもすごいな」
ライナスが吹き出して大笑いしたのをきっかけに、ハワードも笑い出し、しばし年頃の青年らしい無意味で下世話だが楽しい会話で盛り上がる。
ーーーーー兄上とこんな風に笑い合うのはいつぶりだろう。
ラウルが願っていたのはハワードのこの笑顔だった。重苦しい空気を全て取っ払い、ただ笑う為だけにバカバカしい話をし合う。王族がはしたないと言われても関係ない。腹を抱えて心の底から笑っている。そんなハワードを見たかったのだ、もう何年も何年も前から。
ライナスもモルティも同じように感じていたのだろう。3人は明らかにテンションがおかしくなっている。そしてそれがまた嬉しくて楽しい。
笑い涙なのか、嬉し涙なのかわからないものが目に滲んだ。
皆が笑い疲れ「はあはあ」と荒い息をつきだした頃、侍従が新しく淹れ直した温かいお茶を皆に配った。侍従の顔もほころんでいる。
4人の中で唯一メガネをかけているハワードがそれを外し目尻を拭っている。その柔らかな笑顔を見ながらラウルが声をかけた。
「兄上、今日は兄上に話したいことがあるんだ」
「なんだ?」
「結婚したい相手が出来た」