第1章−1
よろしくお願いいたします
すーーっ…
骨張ってはいるがよく手入れされた長い指が耳元から首へそっと下りていく。
「あ、あの、あの、ラウル殿下…」
「ん?」
「これは……な、なに…」
初めて間近で見るラウル第2王子の顔は、遠目で見るより何倍も美しかった。
男性美といえば良いのだろうか。眼の前に迫る美を直視出来ない。
しかし、その間も彼の長い指はエリシアの首、頬、喉元から胸元へ、柔らかい肌を味わうかのようにゆっくりとすべりなぞり行き来している。
「これ?ん、なんだろうね。君の方がよく知っているはずだけど」
涼し気な目を少し細め意地悪そうに楽しそうにラウルが微笑む。
「次に『俺』が何をするかもわかるよね?なんたって君が描いたんだから」
「?!?!違っ、それは…あの、いえ、でも、殿下…」
「さぁ『俺』のセリフ。なんだっけ?」
「い、い、言えません」
「エリシア」
「無理です」
息がかかるほど近くにある世にも美しい顔に耐えきれずエリシアはとうとう目を固く閉じた。
「エリシア」
ラウルの優しいようで圧のある声にもはや逃げ切れそうにない。
「…………『キ…』…『キスを』」
彼の柔らかい口唇がそっとエリシアの口唇に触れた。
遠くに舞踏会の音楽が聞こえる。
舞踏会場である城の入口を入ったとたん、彼の側近であるモルティに声をかけられ、そのまま長い廊下を歩き城の奥の奥、王族専用エリアの1室に連れてこられた。
それから数分後の今、なぜか長椅子に押し倒されている。
そして、そう、このシチュエーションはたしかに彼女が描いたものそのままだ。
ちょっとした出来心で描いたラウルと彼の側近であるモルティとの身分差純愛恋物語。であると同時にガッツリBLマンガでもある『殿下、おしおきの時間です』
ーーーーーまさか殿下自身に読まれてしまうなんて…最ッ悪!!
「で、殿…下、も、もうお許しを…」
口唇が離れたとたん、エリシアはなんとか声をあげた。
「許す?俺でしかない主人公にあんなことさせて許されるとでも」
「うっ…そ、それは、その…」
「そうだな…俺の言う事を聞くなら考えてもいいが」
「聞きますっ!聞きますっ!なんでも聞きますからぁぁぁ」
「ふーん、なんでも?」
「はい!なんでもです!」
柔らかく真っ白な身体を包むイエローのドレス。その見事なグラデーションと光沢、ドレス全体に施された緻密な刺繍は彼女の家がこの国でも屈指の侯爵家であることを表している。
「なら、今日のところはここまでにしてあげようかな」
「あ、あ、ありがとうございます。では……ご、ごきげんよう〜〜」
覆いかぶさっていた彼の身体が起き上がったとたん、彼女は長椅子から転がり落ち、よろめきながら扉へ向かう。それでも最後に彼を振り返り膝を折ると、この状況に余りにもふさわしくない美しい挨拶をして部屋を飛び出していった。
その姿はまるで捕獲者から命からがら逃げ去る小動物のようだった。
「フッ、ハハハ」
ラウルは思わず笑いをこぼした。
「「なんでも」って簡単に受け入れて大丈夫なのか?…それにしても…参ったな」
若い2人の熱い息と興奮が部屋に充満している気がした。
ーーーーーいや、俺の身体に充満しているのか?
「フーッ」
乱れた髪をかき上げながら身体の熱を放出するかのように大きく息を吐いた。
目の前のローテーブルには昨日彼女から没収した数枚の紙が散らばっている。
その1枚を手に取った。
ーーーーー『マンガ』と言っていたな。初めて見た。見事だ。これはなかなかすごい。それにしても…
「これはヒドいだろ、よく書けるな」
笑わずにはいられなかった。
そこには男同士が裸で互いを貪り合う様が細かに描かれていた。
ーーーーーはぁ、参った。俺とモルティの…男同士のこんなえげつない絵を描いたくせに、さっきの反応はなんだ?相当慣れてると思ったのに……あの程度でそこまで赤くなるか?
「ヘンな女だ」
モザイク柄が描かれた天井を見上げる。
ーーーーーそれこそちょっとお仕置きしてやろうと思っただけだったのに…つい…
ラウルはそっと指で自身の口唇に触れた。そこに触れた彼女の口唇の柔らかさをなぞるように。
ーーーーーおもしろい。エリシア・メイザード…メイザード侯爵の娘は2人揃って美貌で名高いが、きちんとエリシアの顔を見たのは初めての気がする。姉のリリアナはたしかにとても美しい女性だ。でもエリシアは美しいというより可愛らしいが勝っているな…そして彼女はもっと、なんだろう、それだけじゃなくて…まぁいい、彼女にはひと働きしてもらいながらゆっくり楽しませてもらおう。
ーーーーーそれにしても、『殿下、おしおきの時間です』って一体どういう題名なんだ。どんなセンスだよ。
「クククッ」
あらためて笑いが込み上げてきた。
コンッコンッコンッ。部屋がノックされ入室してきたのはモルティその人だった。
「殿下、そろそろよろしいですか?陛下がお呼びです」
「ああ、モルティ、行くよ。その前にちょっと来いよ。おもしろいものを見せてやる」
「ムリっムリムリムリムリっっ!!」
一刻でも早く部屋から離れたかった。黄金の絨毯が敷かれた廊下を走りながらエリシアは思わず声を上げていた。
「なんで?なんで?いや、私が悪いんだけど…はぁーびっくりしたぁぁぁ!でも…………」
王族をモデルにしてあんなBLを描いたのだ。ラウルをモデルにした主人公の王子に
『もう待てない』
『ここに…欲しい』
『もっと…もっとおしおきしてぇぇぇ!!』
などと言わせたのだ。
本来なら、良くて死罪悪くて死罪、どんな処罰を受けても文句は言えない。
「そう思うと、ん?むしろあれくらいで済んだのはラッキーなのか!そうよね、とりあえず命は取られずに済みそうだし!って、いやいや、あれくらいって!初めての…初めてのキ…ス…だったのにぃ!!」
そこでピタリと彼女の足が止まった。
「待って、もしかしたら私はものすごい瞬間を逃したんじゃない?あの綺麗な顔を間近で、しかもオス化した顔があんな間近にあったのに観察もせずに逃げるなんて。これは……もしかして一生の不覚?!」
「あ〜もったいないことしたかも〜あ〜そうだ〜私としたことがぁ〜」
「でもでも仕方ないよ、転生前も男性とまともに触れ合うことすらない人生だったんだから。あんなシチュエーション、まさにマンガの世界!」
腕を組みゆっくり歩き始める。
「いや〜今思うと、やっぱり本物の王子の破壊力はすごかったわ。色気ダダ漏れ!もっと観察すればよかった!」
「あ、でもなんか約束させられた?ような気がする?!」
「いや、それより……うん、次の作品はこれでいこう!」
前を向いて歩き出した彼女の頭にはもう次に描くマンガのことしかなかった。
舞踏会場の入口あたりで心配しながらエリシアを待っていた姉や友人に声をかけられても全く気づかない。無視された彼女らは互いに顔を見合わせると
「あら、大丈夫そう?」
「まさか!あんなのが見つかったのに?」
「でも、そうね…」
「いつものエリシアだわ」
マンガのことを考え始めると何も聞こえない何も見えない、完全に自分の世界に入ってしまうエリシアをよく知っている彼女らはホッとして笑い合いながら、舞踏会場を去っていくエリシアの後に続いた。
今宵の舞踏会はまだ始まったばかり。それでも帰ろうとするエリシアを引き止めることはしないし、当然のように一緒に帰ろうとするところに彼女達の明確な優先順位と友情の強さが現れていた。