小田原の役②
感想に水軍について触れられていましたので、早速取り入れました。
節操のない筆者でありますw
戦国時代の一番早い移動手段は、水上移動である。
当時のいわゆる海賊というのは、水上運搬の護衛や、委任交易、湾岸襲撃など、商人や大名と緊密な関係を築いてきた。
織田信長の時代に、志摩の守護職であった九鬼氏出身の九鬼嘉隆を臣属させ、水軍を編成したのである。
これは、大名が自身で水軍を持つという画期的な出来事であった。(有名な毛利水軍も当時は厳密には存在せず、村上水軍という、独立勢力であった。)
そして、水軍の独立性は、秀吉が海上賊船禁止令を発布し、水軍の収入源であった通過商船の有償護衛などの活動を海賊行為として禁止し、海賊たちに領主の支配に服することを命じた。
これにより、海賊衆は陸上に生活拠点を移していった。(当時は水上が荒れない限り海賊衆は船上で寝泊まりをしていた。)
秀長は紀伊を治めており、田辺別当家の流れをくむ、熊野水軍を傘下に治めていた。
豊臣秀長、116万石の大名である、和泉、紀伊、大和3カ国を治めるその家臣も、大名クラスの所領を預る者も多い。
有名どころでは、紀伊国田辺1万9千石を預る杉若無心、紀伊粉河2万石は藤堂高虎、紀伊和歌山3万石、和歌山城城代桑山重晴、大和高取城主となり2万5千石を領する、本多利久、大和5万石は横浜一庵、大和小泉城主4万8千石は羽田正親、有名どころは、大和1万石、島左近(この人、有名な割に一次資料が少ないです。)など、ご存じな方も、初耳な方も居られるかと思いますが、代表格の家臣団です。
当然、秀長が存命であれば、彼らは秀長配下として参陣する事になります。
熊野水軍を率いる杉若無心、軍監に藤堂高虎(史実でも、無心の水軍術を学んでいる)約1万。
天正18年4月15日、秀長率いる陸路1万人の総勢2万人の秀長勢が相模国、早雲寺に着陣する。
ここで秀吉、秀長兄弟は約1年ぶりの再会を果たす。
はしゃぎ、目には涙が溢れ、秀長の両手を握りしめ、
『小一郎よ・・・。よう病から・・・・床から出れたのう・・・よう回復した・・・・。祝着じゃ、祝着じゃ・・。』
秀吉は顔をくしゃくしゃにして、何度も秀長の手を力一杯握りしめた。
決して、人前では弟といえども家臣の形を崩さず、兄を立てる弟は、
『関白殿下!ご心配をおかけいたしました。この秀長、殿下の天下統一最後のお手伝いいたしますぞ!!』
そして、秀長は、
『殿下、誠に厚かましい願いでございますが、快気祝いにお願いしたき事がございます。』
おお!と、秀吉は笑顔で何度も何度も頷き、
『なんでも申せ、なんでも申せや。』
『こたびの北条攻め、小田原城攻略先陣、秀長に仰せつけくださいますようお願いいたします。』
秀長は北条攻めの、正に一番の肝を自分に任せてほしいと願い出たのであった・・・・。