小田原の役①
小田原の役突入します。
今回は官兵衛さんが初登場です。
秀長が出陣する4月までの流れをおさらいしておきます。
先ず、2月10日に徳川家康が小田原攻めに向け二万の軍を率いて駿府を出陣、同28日に宇喜多秀家が小田原攻めに参陣、3月1日豊臣秀吉が、小田原へ向け3万2千の軍を率いて京都を出陣、同27日秀吉が駿河三枚橋城に到着、この時に津軽三郡・合浦の領主、津軽為信単身十八騎を率いて参陣し、領地の支配権を認められています。
そして、4月6日豊臣秀吉が早雲寺に本陣を置き、北条氏政・氏直親子の籠もる小田原城を包囲したのである。
秀吉本陣にて・・・。
『なんと!小一郎(秀長)が、参陣すると?!!』
この頃の秀吉は、間違いなく戦国一のキレ者であり、他者に付け入る隙をまったく与えない、軍略家であり戦略家、そして策略家であった。
『はは!秀長殿、大和より出陣、遅くとも10日後には着陣出来ますかと。』
黒田官兵衛は、控え目に、しかし抑えきれない喜びの感情が声に出て、秀吉に報告をする。
この人は、秀吉の与力として(当時、官兵衛は信長の家臣)羽柴家の内情を知る官兵衛は、豊臣秀吉という人が、秀長という人間が豊臣政権に無くてはならない人であると、つくづく実感していた。
『官兵衛よ、これで、家康殿には楽にしてもらえるのぉ』
含みのある秀吉の言葉に官兵衛は、
『はっ、何やら先を見据えた動きが目に余り増す狸ゆえ、少し下がっていただきましょうか。』
官兵衛は家康の意図を読み切っている。
というのは、北条の豪族たちに接近し、これからの運営を見据えた露骨な動きが活発になっている。
『これ、官兵衛!豊臣を支えてくれる家康を狸と申すとは、言葉が過ぎるぞ!』
笑いつつも官兵衛をたしなめる。
秀吉は家康を当然警戒はしている、が、それは家康を含んだ三河者全てであり、個人的には、そばで控えるこの官兵衛を一番恐れていた。
当然、官兵衛もこの事は良く踏まえていて、前年天正17年、家督を嫡男長政に譲り隠居、「如水軒」と号したのである。
『いやいや、関白様、この様な隠居者とは違い、家康殿は食えぬ狸でございますぞ、何せ、裏ではいまだに氏直と連絡を密にしておる様子・・・。』
お前も食えぬ狐であろうと、心で毒づき、秀吉がつぶやく・・・・。
『久しぶりに小一郎と茶でも立てながら、ゆっくり語り合いたいの・・・。』
この天下人は、北条攻めなど、豊臣政権の強大さを諸侯に見せつけるだけのイベントぐらいにしか思っていないのである。
その頃、官兵衛が狸と呼ぶ家康はというと、
『おおお!大和大納言ご回復誠に祝着、祝着、』
と、諸侯の前で派手に喜んで見せていた。
腹の中では言葉では説明できない憎々しい物が蠢いているのだが・・・。
この、我慢を人間に表わしたらこうなった、と、我慢我慢の男、家康はおくびにも出さずに、
『これでこの戦、益々我らが万に一つも不覚をとる事などないだろうよ!』
などと、諸侯の景気を煽っているのだから大したものである・・・。
この後、家康は正信と2人で密談を始める・・・・。
黒い陰謀の塊が2人の空間を支配する。
行燈の光を通して壁に写る家康の姿は正に、見た目は愛くるしく滑稽であるが、敏捷で賢く、どの様な餌でも自身の血肉に変えてしまう狸の様である。
4月15日、豊臣秀長が、秀吉の本陣に到着。
当時、秀吉は実際家康さんより官兵衛さんを読み切れていなかったみたいです。
秀吉さん、史実通りに壊れた人にしようか、考え中w