悪いの誰だ
この「悪いの誰だ」は、次の「食罪」と前後編の話になっています。また、これより前に投稿する予定であった「恋の遠近法」、「体育際のスター」の話の流れを汲んでいます。よって、主人公の発地が短期間で、女子の方から話しかけられ、有頂天になっているという話の流れがあります。時系列上とても読みにくい形になってしまい申し訳ございません。
「ひとりは辛い。だって、この悲しみを分け合えないのだから。」
しおりの挟まれた小説のページの第一節目がこれだった。確かこのページを読み進めた時に、読むことが辛くなって、このページにしおりを挟んだのだ。
しおりをそのページから取り出した。やはりまだ、自分はぼっちが辛いと心の奥底では感じていたのだろうなと思った。高校一年生の時、書店で平積みにされている本を片っ端から読み漁ることにはまっていたのだが、なぜかこの一冊だけは読み終わることができなかった。
高校二年になってからも何度か読み直したのだが、やはり、同じようなところで読むことを辞めてしまう。最近は、夏休みに読んだきりだった。そして、昨日部屋の整理をしているときに、ベッドの下の奥深くにこの本が落ちていることに気が付いた。おそらく、誤ってベッドと壁の隙間に落としたまま、放置されていたのだろう。
この本は、埃をかぶっていて、秋雨の影響からか少し黒くかびていた。その他に、この本の異常なところは、しおりが挟まれているページの前までは、手汗で膨らんでいるが、後ろのページは、綺麗まっすぐとなっていて、とてもいびつな形をしている所だった。
この本は「悪いの誰だ」という題名で、いわゆる感動ものである。本の帯には、「最後のページは涙で見られませんでした。」と言う嘘くさい宣伝文句と人気子役を使った映画化が来年公開することについて書かれていた。
なんとも流行りに群がるイナゴを集めることが上手い出版社なようだ。ちょうど今、うるさい程、この映画の大々的なコマーシャルをよく見る。本自体も120万部突破の大ヒットを飛ばしている。なので、こんなイナゴホイホイな大衆作品にあまのじゃくな自分が感動するはずがない。
きっと何か別の原因があるはずだと決めつけた自分は、まず、本を最後まで読まないといけない状況を作るために、自宅から自転車で30分程走ったところにあるSNS界隈で少し人気のあるカフェで読むことに決めた。こんなに労力をかけて読むのだからどんな状況でも読み切るはずである。
もし、この状況で感動してしまうようなことがあれば、カフェに入り浸るイナゴどもの前で恥をさらして泣いてやろう。自分は、そう心に決め、あらすじを思い出すように、パラパラと過去に読んだページをめくった。
主人公はキルトと言う10歳の少年で、キルトにはサイトと言う6歳の弟がいた。二人は、孤児院で育てられていた。そこでの生活は厳しく、キルトたちは孤児院の先生は、お金を浮かすため、子供にろくな食事を与えなかった。
さらに、キルトとサイトは、他の孤児院の子供たちと違った人種であることから、それが原因で、いつも暴力的ないじめを受けていた。兄のキルトは、いつもこのような暴力やいじめから弟を守っていた。
このような状況の中で、キルトは、ふと自身をこんな状況に追い込む存在は誰なのか、誰が悪いのかと疑問に思う。食べ物をくれない先生が悪いのか、いじめる子どもたちが悪いのか、僕らを捨てた親が悪いのか。いったいどこにこのいら立ちをぶつければいいのか分からなくなっていた。
この疑問に答えを出せずにいると、キルトとサイトの二人を引き取りたいという夫婦が現れる。この夫婦は、1か月後この二人を引き取りに再び現れると言って、孤児院を去っていった。キルトは、もうすぐこの状況から抜け出せると思った。
だが、夫婦が帰ってくるまであと三日となった時、サイトが体調を崩して、倒れてしまう。キルトは、サイトを病院に連れて行くように先生に頼むが、金がかかるという理由で、断られてしまう。キルトは、サイトの看病一生懸命をするが、それも空しく夫婦が迎えに来た日の朝、サイトは死んでしまう。
夫婦は、サイトが死んでしまったことを知ると、兄弟じゃないならいらないと別の兄弟の孤児を連れて、去っていった。キルトは、この悲しみを分かち合う存在の消失にやるせない怒りを感じた。
そして、「ひとりは辛い。だって、この悲しみを分け合えないのだから。」とつながるというわけか。私って滅茶苦茶不幸だよねと言う謎自慢をするかまってちゃんが泣き叫ぶ系のお涙ちょうだい物語ね。と分かっているはずなのに何か込み上げてくるものがある。
とてもリアルな描写と感情を揺さぶるセリフの数々のおかげで、べたな感動ものと分かっているのに、泣いてしまいそうになる。そして、端々に筆者の風刺的な問題提起をこの小説の題名である「悪いの誰だ」によって、読者に考えさせる構造になっている。非常に良い作品と言う他ない。
だが、今の自分は、この先のページを読むことに抵抗はなかった。むしろ、この物語の続きを読んでしまいたいと思っている。やはり、イナゴどもに囲まれることで、自分もイナゴのミーハーな思想に染まっているのだろうか。
ひねくれ者の自分が大衆と同じようになることは嫌だったが、ずっと違和感として引っかかっていたこの小説を読み終えてしまえるなら、好都合である。今はひねくれ者のプライドをしまって、流れに身を任せよう。
「あのー、お客様。お冷お取替えしますね。」
「よろしくお願いします。」
「・・・かしこまりました。」
女性の店員がやってきて、声をかけてきたので、にこやかに返事をした。なんだか、店員の顔が不自然だった気がするが、大丈夫だろう。
って、大丈夫じゃない。ぶぶ漬けじゃないか。
京都人が早く帰ってほしい時に言う皮肉めいた「ぶぶ漬けいかがどすか。」だ。店員は、帰ってほしいのだ。腕時計を見ると、自分がカフェに来た時間は、昼の一時だから、三時間ほど経っていた。まだ席に余裕はある。
だが、自分は、コーヒー一杯しか頼んでいないのにもかかわらず、自転車で流した汗を補うように、水をがばがば飲んでいた。そして、水に飽きたので、備え付けの砂糖を入れて、砂糖水を作って、飲んでいた。さらに、その砂糖水にも飽きたので、備え付けのコーヒーフレッシュをドバドバ入れて、オリジナルドリンクを作って、飲んでいた。
よく考えてみると、これって少し迷惑かもしれない。
中身の少なくなったの砂糖の容器と机の上にばらまかれた三十個程のコーヒーフレッシュの空容器を見て、そう思った。ちょうど一年間閉ざされたページの先を見られると思ったのに、ここで切り上げなければならないのか。せっかくのイナゴヘッドをリセットせざる負えないのか。少しの間考え、この店を出ることに決めた。
「こちら、お冷になります。ごゆっくりどうぞー。」
店員は、上辺だけの笑顔でピッチャーを雑に置きながら言った。自分は、椅子から腰を離しながら、財布をポケットから取り出した。
「あのー、ご勘定お願いし」
「君、その本好きなの」
突然、店員とは違う女性の声が自分の声を遮った。声のする方を見ると、二十代後半くらいの女の人が女性店員の後ろに立っていた。その女性は、黒い眼鏡に、白いマスクをつけていて、知り合いかどうか判別ができなかった。
「あっ、ごめん。初対面なのに、声かけちゃって。もしかして帰るところだった。」
「はい、そうですけど。」
「そうなんだ。もし時間があったらでいいんだけど、おごるから一緒に話さない?」
モテ期到来。
女子に家に誘われたり、二人三脚やったり、米運ばされたり、まさかとは思っていたが、これはもう必然的にモテている。
「よろしいですよ。お嬢さん。」
「あははっ。君から見たら、お嬢さんと言うより、お姉さんじゃないかな。」
可愛い。抱きしめていいですか。
おそらく今の自分の顔は、信じられないくらいにやけていたと思う。
「それでは、ごゆっくり。」
そそくさと去っていく女性店員の目は死んでいた。何と可愛げのない。目の前の女性を見習え。
改めて、お姉さんを見てみると、黒の薄手のニットに、大きなボタンのついたブラウンの毛糸カーディガン、そして、茶系のロングスカート、靴は黒い革のヒールブーツ、かばんは、少し大きめの茶色いショルダーバック、髪は胸くらいまであってくるくるしていた。大人可愛い。
「何、このミルクの空容器の数。何杯コーヒー飲んだの。」
「ああ、それは、あの、店からもらったんです。このくらいの器を集めているんですよね。」
「集めてどうするの?」
「なんか、あの、タワーを作ろうかと。」
よくわからないことを自分が口走ると、彼女は、腹を抱えて笑っていた。
「はははっ、君、面白いね。フッ、子供みたいだね。」
彼女は、しばらく笑い続けると、深く息を吸い、笑いを抑えた。落ち着いたところで、自分の向かいの席に座った。
「じゃあ、私もタワー建設に協力してあげる。すいませーん。」
彼女は手を挙げて、店員を呼び、メニュー表を手に取った。しばらくすると、あの目の死んだ女性店員が来た。
「水ですか。」
「いいえ。注文です。ブレンドコーヒー一つとスフレパンケーキ、アイス乗せフレンチトースト、チーズケーキ、あとスペシャルパフェをお願いします。あっ、あとコーヒーミルクあるだけください。」
「あの、もう一度お願いできますでしょうか。」
女性店員は、どうせこんな男の連れてくるような人間は、水のお替りかコーヒー一杯だけしか頼まないけち臭いやつだと高を括っていたのか、油断して、聞きそびれてしまったようだ。ちょっと食べすぎなのじゃないかと思うが、お腹はすらりとへっこんでいて、多分食べても、太らない人なのだなと理解した。
彼女は、注文を繰り返すと、女性店員は目の輝きを取り戻し、注文を取っていた。
「君も何か頼む?」
「えっ、じゃあ、たまごサンド一つで。」
「それだけで大丈夫?おごりだよ。」
「いえ、大丈夫です。」
「そう、じゃあ、以上で。」
「かしこまりました。しばらくお待ちください。」
女性店員は、綺麗なお辞儀をして、厨房の方へ帰っていった。
「よく食べますね。」
「あー、よく言われるわ。一時に昼食食べたばっかりなのに、すぐお腹減っちゃうんだ。こうやって、おやつ食べても、夜になるとすぐ消化しちゃうの。」
これ、おやつだったのか。てっきり晩御飯かと思っちゃった。
「それはそうと、君、悪いの誰だ読んでくれているよね。」
彼女は自分が手に持った本を見て、言った。読んでくれているって日本語おかしくないか。
「はい、そうですね。面白い作品だと思います。」
「いやー、自分の作品読んでくれていることが嬉しかったんだよねー。みんな読むとしてもブックカバーしていて、分からないからね。」
んっ、なんだって。
自分は、最初の本の袖に書かれている筆者の紹介写真を見た。それを見た彼女は、眼鏡とマスクを外した。すると、筆者の写真と同じ人物が目の前に座っていた。
「右頬の特注品のくまさんの絆創膏が偽物と見分けるポイントだからね。私、その本を書いている安食一花って言うのよろしくね。」
自分は分かりやすく、口をあんぐりと開けて、驚いた。数秒考えて、この偶然を理解した。いつもは自宅で読書をする自分が、偶然カフェで本を読み、偶然そこに居合わせたその本の筆者が偶然滅茶苦茶可愛かったということだ。なんという幸運。そして、くまさん付き。もうこの先幸せを前借しすぎて、悪いことしか起こらないのではないか。
「おーい大丈夫?」
自分の顔の目の前で、彼女が顔を近づけて、手を振ってくれている。彼女のいい香りで意識を取り戻した自分は、鼻で大きく息を吸った。
「うわー、びっくりした。やっぱ君面白いね。次回作は、君を主人公にしちゃおうかな。」
「いや、そんな小説になるような面白い人生送ってませんて。」
「そうなのかい、でも、そんな人生でも私の想像力でちょちょいのちょいだよ。きっといい作品に仕上げてあげるよ。ペットのハムスター達のバケツを集める心優しい主人公は、実は、ヤクザの親分だった。とかね。」
「なんで、自分がヤクザなんですか。」
「想像力だよ。想像力。それに、悪そうな顔しているし。」
「そんな顔怖いですか?」
「冗談だよ。君の顔は、なんだか優しそうだよ。」
「本当ですか。次回作が本当にそんな話だったら、書店を焼いて回りますからね。」
「じゃあ、やっぱり悪い人なんじゃん。」
楽しい。
女子との会話楽しい。なんでもない話なのに延々と続けられそうだ。僕たちが年を取ってもこんな楽しい話をして、しわくちゃになりながら笑おうね。
「けっこ」
危ない。思わずプロポーズしてしまうところだった。早まるな。もう少し待て。
「けっこって何?」
「あー、結構なお手前でいらっしゃいますね。この小説。なんというか心に響くというか、染みるというか。最高ですね。」
「それは嬉しゅうございます。そちらこそ、お世辞が結構なお手前で。」
「お世辞とかじゃなくて、本当にいいと思いますよ。この本は、一年前に買ったんですけど、何度も読んでしまって、こんなに汚れてしまいました。」
嘘は言っていない。
「本当にすごく読み込んでいるね。本がしわしわだよ。まあ、でも、私のこと覚えてくれてなかったけどね。」
「いやー、さっきまでマスクしていたから、分からなかっただけですよ。外した瞬間、安食一花だって分かりましたよ。」
「本当にー。本の袖の写真と私の顔照合していたような気がしたけどなー。じゃあさ、君はその話の中で、どの部分が好き?」
やばい、どうしよう。ミーハー読者か、深読み読者か試されている。どちらかと言うと、小説を最後まで読んでいないから、ミーハー読者よりなのだけど、彼女にそんな読者に認識されたくない。
「そうですね。好きだと思うシーンはたくさんあるんですけど、なんというか、読むたびに好きなシーンが変わるんですよね。だから、まだ自分がこの小説を語ることはおこがましいという感じがするんですよね。」
「そうなんだ。なんだかそういうこと言ってもらえると嬉しいな。次回作の参考にしたいからさ。具体的にどこを好きになったか教えてくれない?」
やばい。適当に分かっています風の返事をしたのに、詰められた。自分は、適当に本のページをめくって、偶然開いたページを見た。
「このページのキルトが一つのパンを小さくちぎって、大きい方をサイトにあげるシーンですね。ここが過酷な状況でも芽生える優しい兄弟愛と言う感じがして、とてもいいと思います。」
「ふーん、そうなんだ。」
彼女は、少し真剣な顔になって相槌を打った。
「このシーンが好きなことが不満ですか?」
「いやっ、違うの。ちょっと仕事の顔が出ちゃっただけ。なるほど、君はそのシーンが好きなんだね。確かに、ここは何度も書き直したシーンだもん。そこを見抜いてくれるなんて、お主なかなかやりますなあー。」
「いえ、それほどでもありませんよ。」
セーフ。運任せなのに、意見があった。でも確かに、このシーンは何となく記憶に残っている。話を思い返すように、もう一度読み直してみることにした。
『「先生、パンをもう一つください。」
キルトはそう懇願するように言った。
「だめだ。パンは、一人一個までだ。それ以上あげたら、他の子どもにも上げないといけないだろう。」
「でも、弟が倒れて、もっと食べ物をあげないと死んじゃうかもしれない。」
「そんな簡単に人は死なんよ。見たところまだ死にそうになかった。それに、まだここの孤児院では、ほとんど死んだ人はいないのだから。」
「でも、でも。」
「ぐだぐだうるさい。後がつかえているだろ。お前が早く、俺がいつも通りにちゃんと人数分配ったパンを持って、食べさせてやりな。本当に死んじまうかもしれないぞ。」
僕はそのままパンを配る列を後にした。
「サイト、大丈夫か。」
サイトが寝ている二段ベッドの近くに駆け寄り、そう声をかけた。
「大丈夫だよ。兄さん。」
そうつぶやいたサイトの声は、その言葉と裏腹に生気は失われていた。僕はサイトの枕元に座って、片手に持った一つパンを小さくちぎった。
「ほら、ちゃんと食べろよ。」
そう言って、大きな方のパンを渡した。周りを見渡すと、みんなは、パンを一人一つずつ食べていた。サイトはそんな様子を見ていた。キルトは、その状況にびくびくしていた。
「お兄ちゃん。ありがとう。こんな足手まといな弟にこんなにパンをくれて。」
「足手まといだなんて言うな。あと少しだ。もう少しでいっぱい食べられるようになるからな。あの夫婦は、お金を持ってそうだっただろう。きっと大丈夫だ。だから、あと少しの辛抱だ。」
そう言って、僕はサイトを抱きしめた。抱きしめたサイトの体は、僕の体よりとても小さくて、軽かった。その体は、強く抱きしめると壊れてしまうくらいに弱弱しかった。
「ごめん、ごめん、ごめん。こんなになっていることにも気づかないダメな兄ちゃんでごめん。」
僕は、その言葉を口に出すと、涙が一気にあふれ出してきた。』
やはり、ここはいいシーンだと感じる。ベッタベタの感動展開だが、ここに至るまでの二人の辛い日々を知っているから、この二人が分かりあった時、一気に感動が押し寄せてくる。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーとスフレパンケーキ、アイス乗せフレンチトースト、チーズケーキ、スペシャルパフェにたまごサンドでございます。そして、コーヒーミルクをあるだけ持ってまいりました。」
よく一回で持って来ようと思ったな。実は、曲芸師ですかと聞きたくなる程のバランス感覚で、手や腕に銀のお盆を二枚乗せ、淡々と商品を並べていく。そして、コーヒーフレッシュが入っていた箱を新しいものと交換していた。
「ミルクの容器持っていきましょうか?」
「いや、これは彼の大事なものなので回収しないでください。」
「…はあ、そうですか。それでは、ごゆっくり。」
もうこのカフェには来られないな。女性店員は、小さくお辞儀をすると、逃げ足で自分たちの席を離れた。かなり大きいダイニングテーブルだが、頼んだ商品で手の置き場もない程、敷き詰められていた。
「本当に食べ切れるんですか。成人女性の一日の摂取カロリーは余裕で越えてそうですけど、大丈夫ですか。」
「大丈夫、大丈夫。夕食は7時から編集さんと焼肉だし、これでもだいぶ抑えている方だよ。」
「7時って、こんな量食べていたら、いくら食べられたとしても間に合いませんよ。」
「ちっちっちっ、舐めてもらっちゃ困るなあ。人間掃除機と言われたあの安食だよ。こんなのすぐにペロリだよ。」
「何て呼ばれているのかなんて知りませんけど、皿が多すぎて、手を置けないから本を読めないんですけど。」
「はははっ、そうだね。まあ、頑張って読んでくださいよ。……あっ、そうだ。勝負しない。手が置けなくて落ち着かない君がその本を読み終わるのと私がこれを全部食べ切るのどっちが速いか。」
「はあ、別にいいですけど、あと三十ページくらいしかないので、すぐに読み終わると思いますよ。」
「いいハンデだね。」
「まあ、それならいいですけど。」
「それと、筆者から問題を出しとくね。何度も読んだことあるから、もう答えは君の中にあるかもしれないけど、この小説を読んで、一番悪かった人は誰でしょう?読み終わったら、君の今の答えを聞かせてね。」
遅延作戦か。こうやって深そうな質問をして、じっくり読ませて、その内に食べきる気だな。速読して、適切な回答を出してやる。これでも、現代文の成績だけは良いからな。
現代文の授業はずっとよだれ垂らして寝ていたのに、学年2位を取ったことがある。教師に一番嫌われるタイプである。よし、順当にいけば、20分もいらない。集中しろ、自分。
「じゃあ、始めましょう。いつでも大丈夫ですよ。」
「おっ、やる気だねー。ならこちらもやる気を出さねば、不作法と言うものだね。」
そのように言うと、彼女は、髪を背中にかけて、羽織っていたカーディガンを脱ぎ、腕の形を綺麗に締め付けているニットの袖をまくった。すると、ふわりと甘く爽やかな彼女の香りが漂った。
やる気だな~。
無意識に大きくなった鼻呼吸を止めて、くらくらする夢見心地の頭を起こした。やけに自信があったのはそういうことか。自分は、自分の頬を力強く叩いた。
「よし、準備は万端のようだね。じゃあ、始め。」
彼女はそう言いながら、手を叩いて,始まりの合図出した。彼女は、フォークを持って、手前のパンケーキから食べ始めた。そして、その様子を確認すると、自分も続きの文章を読み始めた。彼女がナイフでパンケーキを切る音が聞こえたが、もう見てはいけない。
なぜなら、彼女がいっぱい食べている所を見ると、きっとドキドキしてしまう。小さな口へ次から次へと食べ物を運んでいる様はなんとも可愛いものである。そんな時に、口の周りに食べかすを付けようものなら、可愛さで、心臓が張り裂けてしまう。
危ない。そんな彼女を想像するだけで、ドキドキしてきた。落ち着いて、本を読まないと。
えーっと、続きから読むと。キルトは、弟も死んで、夫婦から引き取られず、絶望の中にいた。そんな中でも、変わらず食べ物は依然として少なく、いじめも同じく続いていた。こんなに傷ついているのに、全く変わらない周りの人間の対応に絶望を深めた。
そして、昔に考えていた誰が悪いのかという疑問をもう一度考える。前回同様に、周りの人間が悪いと思うが、そんな人間から助け出してくれない社会自体が悪いのではないかと考える。自分に絶望を与える人間を生み出す社会、それを見て見ぬふりをする社会、そして、そんな社会で幸せに生きる人間がいる社会、その全てが悪いと感じた。
だが、キルトは、そんな状況をどうすることもできないもどかしさを感じた。そして、片手に持ったパンを眺めながら、涙を流し、物語は終了した。
自分は泣いていた。頬をつたう涙がぽたぽたと最後のページを濡らしていた。自分は、自然に涙が出てくる涙に驚いてしまった。
「……大丈夫?」
彼女は心配そうに尋ねた。彼女は、全ての料理を食べていて、後は、コーヒーを残すのみだった。自分は、どうしても涙を止めることができなかった。
「すみません。少し、席を外します。」
そう言って、涙を手で拭いながら、席を立った。自分は、店のトイレに早足で入っていった。他の客は自分のことを可笑しげに見ていた。おそらく、別れ話を切り出されたとでも勘違いしたのだろう。トイレに入ると、洗面器の上に鏡があって、潤った目をした自分が写っていた。
もう涙は出てはいなかったが、思い出せば、すぐにでも溢れ出しそうだった。自分は、なぜ、この小説を読み切れなかったか理解した。自分は、ポケットに入ったスマホを取り出し、「安食一花」と調べた。そこには、思った通りのことが書かれていて、再び泣いてしまった。
「すいません、お見苦しいところをお見せして。」
「いや、大丈夫だよ。なんというか、私の作品にそんなに感動してくれて、作家冥利に尽きますな。……なんてね。」
彼女は、自分を励ますように、明るい口調で話しかけてきた。
「いや、負けちゃいました。あんなに早く食べちゃうなんて、本当に人間掃除機みたいですね。」
自分は、その明るさに答えようと、明るい口調で返した。
「……そうでしょう。二十分もかからなかったかなあ。」
彼女は、明らかに気を使ったような不自然な口調だった。自分は、その後につなぐ言葉を思いつかなかった。自分は、静かに席に座った。自分達の間には、とても気まずい空気が漂っていた。周りにもそれが伝播して、店内はとても静かになっていた。
自分は、話をつなごうと周りを見渡した。すると、自分たちの机の上に、自分が頼んだたまごサンドが残っていた。
「良かったら、たまごサンド食べてください。今、食べることのできる感じではないので。」
「そ、そう。分かったわ。それじゃあ、遠慮なくいただくわね。」
彼女は、自分の顔を伺い、躊躇いながら、たまごサンドに手を伸ばした。彼女は、その躊躇いと反するように、リズム良くぽんぽんと口の中に、たまごサンドを詰め込んだ。その姿は、小動物のようで、とても愛おしかった。
このままの姿でいて欲しいと強く思った。しかし、自分は、おそらく彼女をこの後、深く傷つけることになるかもしれない。この本を読んで感じたことが、どうか違うものであってくれと願った。
「もう全部食べ切ったし、店出よっか。」
「そうですね。」
彼女は、立ち上がり、カーディガンを羽織って、帽子を被った。自分もそれに続いて、店を出る準備をした。机の上には、彼女が積み上げたであろうコーヒーフレッシュの容器があった。それは、一応持って帰ることにした。
会計は、彼女がしていた。何円程したのか見られなかったが、一万円札を出したていたのに、小銭しか受け取っていなかった。会計の後、自分たちは店を出た。もう日は沈み出していて、オレンジ色の光が青みがかった闇が伸び始めていた。さらに、降り出しそうな怪しい雲がいくつか出ていて、普段より儚い夕焼けだった。
「今日は、ありがとう。こういっちゃ悪いけど、とても良い体験をさせてもらったわ。また会うことがあったら、その時は、よろしくね。」
「もしまだ時間があるのなら、もう少し話しませんか?」
「えっ、そうだね、まだ会食まで時間があるし、ちょっとだけなら大丈夫だと思うけど。」
「ありがとうございます。この道をまっすぐ行くと、公園があるんです。そこでお話ししましょう。」
自分は、自転車を店の駐輪場に取りに行って、公園へ伸びる道を彼女と歩いて行った。彼女の歩くスピードはとても遅かった。自分には、彼女がこの先に歩くことを嫌がっているように見えた。
自分たちは、公園に着くと、バスケットゴールが見える電灯の下のベンチに腰掛けた。
「この公園にバスケのシュートを打ちに毎日来るんですよ。ここに来て、ショート打つことが日課なんですよね。まあ、雨がひどい人かは来ませんけど。」
「そうなんだ。毎日欠かさず、何かをしているって良いね。」
自分は、ベンチの下に隠してあるバスケットボールを取り出した。そして、バスケットボールをいつものように、片手で強く放り投げた。ボールは、綺麗な放物線を描いて、バスケットゴールに向かっていった。
しかし、ボールは、バックボードのかなり上の部分にあたり、ゴールネットを揺らすことはなかった。
「外れちゃいましたね。かっこいい所見せたかったのにな。」
「ここから入ったら、すごすぎるよ。だって、四十メートル位離れているでしょう。」
「でも、一回入ったんですよ。」
「それはすごいね。私は、スリーポイントシュートですら届かないから。こんな距離からシュートが届くだけで、本当にすごいと思うよ。」
「そうですか。……ちょっとボール取ってきますね。」
自分は、そう言って、ボールを取りに行った。完全に日は沈み、電灯で照らされているバスケットコート以外は、見えないくらいに暗かった。ボールは、電灯の光の届くギリギリの所に転がっていた。そのボールを見つめると、今から彼女にあのことを伝えるべきか悩んだ。
「すみません、なかなかボール見つからなくて。」
「大丈夫だよ。」
彼女は、優しく微笑んだ。その笑顔は、カフェの女性店員に通ずる作り笑いのようだった。
「誰がこの小説で一番悪いのかっていうやつの自分なりの答えを言ってもいいですか。」
「そういえば、そんなこと言っていたね。別にもういいのだけど。」
自分は、覚悟を決め、彼女を指さした。
「あの小説を読んで、一番悪いと思ったのは、あなたです。」