生米100キロ
コンビニに売られている週刊誌の漫画を読みながら、窓ガラスの外で激しく振る雨が止むのを待っていた。
ついさっきまで太陽が出て晴れていたのに、急に雨が降り始めた。おそらく通り雨なので、すぐに止むだろうと踏んだ自分は、自宅まで自転車で突っ切ることを辞め、このコンビニで雨宿りをすることにした。
しかし、雨は、三十分以上降り続けている。そして、これからの天気を調べてみると、これからずっと雨が降り続け、雨足はだんだん強まっていくらしい。
このコンビニにレインコートや雨傘は売っているが、五百円以上する。自分のような秋雨と言う概念を忘れた人間の足元を見て、法外な値段で売っているようだ。自分は、たった一回で使い捨てられる雨具のために、五百円以上も出すことはできなかった。
さらに付け加えるとすれば、台風中継のたびに、無残にも壊されるビニール傘を持っている人間を心底見下していたので、自身のプライドからも雨具は買えなかった。
つまり、いつか覚悟を決めて、雨に打たれながら、自転車で全力疾走しなければならないのである。
少しでも雨が弱まったなら、すぐに出発しようと、漫画を読みながら、時々外の様子を見ていた。しかし、天気予報の通りだんだんと雨足が強くなっていくだけだった。自分は、週刊誌を元に戻して、絶望と憂鬱を感じながら、外の様子をぼんやりと眺めた。
しばらく外を見ていると、傘を差さずに走ってくる女性が見えた。その女性は、自分の見ている窓ガラスの外の真ん前に走ってきた。女性は、びしょ濡れで、彼女の長い髪の毛から水がしたたり落ちていた。
着ている冬服の制服は、防水機能からか雨に濡れて、てかてかと黒光りしていた。彼女は、窓ガラスを鏡にして濡れた前髪を整えようとした。すると、彼女は、ガラス越しに自身の姿をまじまじと見つめる自分とがっつり目が合って、髪を整える動作を止めた。
髪を整える姿を見られていること恥ずかしくなったのか、自分がいやらしい目をしていたのか分からないが、彼女は、自分に対してすぐに背を向けた。自分は、なんとなく悪いことをしたような気持ちになった。
「良かったら、タオル使いますか?」
自分は、さっきコンビニで買ったタオルを彼女に差し出した。
「えっ、……ありがとうございます。」
彼女は、警戒しながら、自分の差し出したタオルを爪のよく伸びた手で取った。やはり、女子高生だから、ネイルやマニュキュアなどを塗るのだろうか。その手を使って、髪や顔に付いた水滴をふき取った。
「良かったらこれもどうぞ。」
自分は、さっきのタオルと一緒に買っておいたビニール傘を差し出した。二つ合わせて八百円もして、なかなか痛い出費だった。
「でも、あなたの差す傘がなくなっちゃうんじゃないですか?」
「ああ、大丈夫です。今日自転車できているんですけど、自分は、傘さしながら自転車運転できないので、傘はいらないんですよ。」
「はあ、なるほど。」
じゃあこの傘何のために持っていたんですかと聞きたそうな顔を彼女はしていた。
「そのセーラー服って、北高のですよね?」
「えっ、はい。……あなたもその制服ってことは、もしかして北高なんですか?」
「やっぱり北高なんですね。いや~、ここって北高から電車で一時間くらいかかるでしょう。だから、この町に仲間がいないと思っていたんですけど、自分の高校と同じセーラー服だからもしかしてと思って。」
「私も同じこと思ってました。まさか、この町に同じ高校の人がいるなんて思いませんでした。」
「そうですよね。自分もまさかと思って、舞い上がっちゃって、つい声をかけちゃいました。」
自分は、同郷の親近感から舞い上がってしまい、傘とタオルまで買って、話しかけてしまった。彼女は、同じ高校の一年生で、米倉麻衣というらしい。身長はとても低く、150cm位で身長差が20㎝程ある自分のことを見上げながら、話しかけてくる感じがとても可愛かった。
なぜ、いままで彼女と自分が今まで最寄り駅で面識がなかったかと言うと、彼女は、勉強熱心で、一番集中できる学校の図書館で勉強するため、かなり朝早い電車に乗って、夜遅い電車で帰っているらしいので、遅刻ギリギリの電車に乗って、授業が終わったらすぐ帰る自分とは、会わなかったということらしい。
「しかし、今日は、まだ六時前ですよ。今日は、何か用事でもあったんですか?」
「いや、そういうわけではないんですけど……。」
彼女は、何かを言いかけて辞めるような様子で、何かを発するように口を開けてはゆっくりと口を閉じた。彼女の触れてはいけない出来事に触れてしまったような感じで、さっきまで楽しく話していたのに、急に会話が途切れてしまった。しかし、しばらくして、彼女は、覚悟を決めた様子で口を開いた。
「明日の七時までにお米を100キロあの坂の上まで運んでくれませんか?」
彼女は、崖のような急斜面の坂を指さしながら言った。自分は、彼女の言葉をすぐに理解することができなかった。とりあえず、一つ一つの単語を整理することから始めた。
まず、この坂は、「おり坂」と言われている。名前の由来として、余りの急斜面から普通の人間は、自転車を漕ぐことを諦め、自転車を降りることとかつて自転車を漕いで、この坂を毎日登っていた高校生がある日、両足を疲労骨折したことから二つの意味を込めて「おり坂」と言われている。
実際の所は、男であれば、自転車で毎日通っていると、どんなに遅くとも二か月程で、足を着かずに登りきることはできるので、疲労骨折の噂は、眉唾ものである。しかし、彼女はこの坂を登って、米を100キロ運べと言った。この場合、話は別である。
この坂が通学路にある者は、足を鍛えられ過ぎて、ふくらはぎに子持ちシシャモのような筋肉を携えている。しかし、そのような筋肉をもってしても、荷物を背負って、自転車を漕ぐことはきつい。なので、皆、少しでも荷物を減らすために、置き勉をして、家で勉強せず、馬鹿になる(現在進行形の実体験に基づく)。
それ程、この坂を重い荷物を持って、自転車を漕ぐことが危険なのである。なので、この坂を重い米を持って、往復するなんてことは、自殺行為に等しいのである。
「う~ん、ちょっと自分ひとりじゃ厳しいかな。大人の人に頼んで、車とかで運んでもらうのはどうですか?」
「駄目!絶対にあなた一人でやってもらいたいです。もちろん、ただでとは言わないです。お米代を含んだ十万円をバイト代として渡しますから、お願いします。」
彼女は、何かを恐れているような様子で、頭を深く下げて、懇願してきた。自分は、その彼女の懇願に頭を悩ましていると、おり坂の道路を走るバスが見えた。
「そうだ、確か坂の頂上にバス停がありましたよね。それなら、大丈夫ですよ。」
「絶対に駄目!……です。どうしても自転車で米を運んでほしいです。」
彼女はとても必死にバスを使うことを拒絶した。自分の中で?が飽和している。なので、根本的な疑問を問いかけた。
「あのー、その米何に使うんですか?」
「それは……言えないですけど。でも、あなたに運んでほしいです。」
十万円という高校生にとっての大金を出してまでも、大量の米をあの坂の頂上まで運ばせたい目的とはいったい何なのだろう。でもどんな理由だろうと、自分は、ただ合法な米を運ぶだけだ、違法でハイな薬を運ぶわけではない。それに、なんとなく感じる同郷が故の親近感が後押しして、この不可思議なバイトを引き受けることにした。
「分かりました。でも、今日は雨が止まないらしいので、明日から運びましょう。頑張って、夜の七時までに坂の上に米を百キロ運びきります。」
「変なお願いなのに、引き受けてくれるんですね。ありがとうございます。明日朝八時に坂の上のバス停で待っています。」
彼女はそう言って、ビニール傘を広げ、坂の方向へ帰っていった。自分はびしょ濡れで自転車を漕ぐ自分の姿を見られないために、彼女の姿が完全に見えなくなってからしばらくして、自分は、同じ坂の方向へ雨に濡れながら全力で自転車を漕いで、帰った。
次の日、いつもならぐうすかとよだれを垂らして寝ている土曜日の朝六時半、よだれの跡をきちんと拭き取り、坂の頂上へと出発した。
昨日の雨は止んでいたが、所々に水たまりができていた。米を運んでいない坂道で力を使わないように、自転車をついて、坂をゆっくりと登った。
坂の頂上まで行くと、彼女が屋根のあるバス停の下のベンチに腰かけていた。彼女は、自分を見つけると、にこやかに手を振ってきた。
「おはようございます、来てくれたんですね。来てくれなかったらどうしようかと思いました。」
「自分は、どれだけ時間に遅れても、約束をすっぽかすことはないですよ。まあ、昨日会ったばっかりの関係じゃそう思ってもしょうがないですけど。」
「とりあえず、来てくれてよかったです。じゃあ早速、作業に取り掛かりましょうか。」
「分かりました。確認なんですけど、運んだ米は、どこに置いておけばいいですか?」
「運んだ米は、このバス停のベンチの上に置いておいてください。あんまりこのバス停の利用者はいないので、多分放置しても大丈夫だと思います。そして、その米は、私が別の所へ運ぶので、その間にどんどん米を運んで行ってください。他に質問ありますか。」
「大丈夫です。じゃあ始めましょうか。」
自分は、体の底から湧き上がる疑問を喉元で押さえながら、にこやかに始めようと言った。
彼女は、全方向につばのついた黒い帽子を被り、白い無地のTシャツと黒い半ズボン、その下に日焼け対策の黒いインナーとタイツを着て、薄い灰色のジャンパーを羽織っている。今から登山でも始めようというような風貌である。
確かに、バス停の後ろは山になっているので、おそらく米をこの森の奥に持っていくのだろう。しかし、そのことに理由を求めなくなっている自分がいて、どうやら、社畜の才能が芽生えてきたようだ。彼女は、ジャンパーのポケットから財布を取り出し、札束を抜き取った。
「十万円です。よろしくお願いしますね。」
差し出した彼女の手は、昨日と違って、爪が短く切られていた。自分は、その十万円を受け取り、ポケットに入っている自分の財布の中に入れた。そして、自転車のカギを開け、坂を下りた。
坂の下の近くの二十四時間営業のスーパーで売っている米は、十キロで三千円程だった。つまり、単純計算で手取り賃金は、約七万円である。何ともぼろい商売なのかと思ったが、実際に十キロの米を持ち上げると、お金の大切さが身に染みた。
片手ではとても持ち歩くことのできない重さで、買ってから自転車まで持ち運ぶことも一苦労だった。例えバスを使えていたとしても、次の日は、ペンすらも握れない程の筋肉痛に襲われていただろう。まあ、それよりもひどい筋肉痛をこれから全身に受けることになるのだが。
自分は、忍び寄る苦痛にため息を吹きかけた。自分は、自転車の荷台に米を乗せて、家から持ってきたゴムロープで落ちないように縛った。そのまま自分は、自転車のスタンドを蹴り上げると、自転車が自分のいない方向に一気に傾いた。
自分は、力一杯自転車を自分の方向に引き寄せた。すると、自転車の右ハンドルが腰骨に当たって、声を出しそうになるほど痛かった。米の重さで、バランスがとりにくくなっているようだ。
なんとかバランスをとって、自転車に乗った。自転車のペダルは、ものすごく重く、平坦な道でもあの坂道を漕いでいるようだった。その上、いつもより重心が後ろに乗るので、運転がしづらかった。なんとか、足を所々着きながら、スーパーから坂道までの道を走った。
おそらく、勢いで一気に坂道を駆け上った方がいいだろう。自分は、坂道までの平坦を全力で漕ぎ、そのままの速度で、坂道に突っ込んだ。そしたら、意外といけるもので、坂の中腹までは、するすると坂を駆け上がることができた。
しかし、坂の終盤の所で、勢いがなくなり、ペダルは、石のように動かなくなった。バス停の屋根が少し見える頂上までほんの少しの所で、自転車を降りた。ほんの少しの所で坂の頂上にたどり着けなかったことがもどかしくて、悔しかった。
自分は、乱れる呼吸のまま、自転車のハンドルを持って、その場でうずくまった。この先体力がじり貧になる一方の米運びにおいて、最初の一回で登り切れないということは、もう登りきることはできないだろう。長年この坂を登ってきた人間として、足を着いて自転車をつくなんてことは、屈辱的だった。
「大丈夫ですか?何か飲みますか?」
自分は、その声を聞いて、顔を上げると、彼女はしゃがんで、自分と目線の高さを合わして、水筒を両手で持ちながら、話しかけてきた。彼女の吐息が肌に吹きかかる程顔が近づいていた。
トクン
あれ、不整脈?
さらに、だんだんとその速くなった脈拍が自分の体をドラムのように叩いているようだった。運動後の激しい脈に彼女への本能的な衝動が相まって、今にも体中の血管から血が噴き出しそうだった。
今まで同郷の仲間と言う意識が強く、忘れていたが、彼女は異性の女子じゃないか。いつも遠くで見下げていた彼女の顔を間近で同じ高さで見つめ合うと、いつもより顔が立体的に見えた。
真っすぐに伸びて、シュッとした小さい鼻、小さな耳にぷっくりと付いた耳たぶ、プルンと潤った唇。
なんでこんな可愛い生き物のびしょ濡れ姿を昨日目に焼き付けておかなかったのだ。自分は、視界を覆う彼女の顔をしばらくまじまじと見ていた。最終的に、彼女の髪の生え際を視線でなぞっていると、ふと自分のあまりの気持ち悪さに目が覚めた。すると、顔を即座に後ろに引いた。
「はい、少しもらってもいいですか。」
自分は、朦朧とした頭の中は、さっきまで考えていた運動の辛い疲れとか、この坂を登れなかった屈辱よりも彼女のくれる液体のことでいっぱいになっていた。やっぱり自分って、頭が猿過ぎないか。
「分かりました。ちょっと待ってくださいね。」
彼女は、そう言うと、水筒の蓋を開けて、その蓋に液体を注いだ。自分は、坂を転げ落ちないように自転車を止めた。彼女は、水筒の蓋を自分に差し出してきた。自分は、早まって、奪い取るようにその蓋を取り上げた。
そのまま、一気に喉に流し込んだ。水と思って、飲み込んだが、何か酸味のあるものだったので、思わずむせこんでしまった。
「大丈夫ですか?」
彼女は、そう言って、自分の背中をさすってくれた。彼女のさする手のひら小っちゃくて、だんだんと彼女を知っていく感覚が先ほど芽生えた自分の恋心を急速に成長させた。
「すいません。水かと思って飲んでしまったので、むせかえってしまいました。」
「そうでしたか。これ、スポーツドリンクなんです。実は、朝から作ってみたんですけど、お口に合いませんでしたか?」
「いや、美味しいと思いますよ。ちょっと酸味が強いですけど。」
「そうですか。もう少し、蜂蜜入れたほうが良かったですかね。」
「でも、自家製なんて珍しいですね。」
「私、こういう飲み物を調合して作ることが趣味なんですよ。でも、私の舌の好みに合わせて作るので、他人の意見を聞けて良かったです。」
自分は、少し残った彼女の液体を飲み干した。
「さあ、気を取り直して、仕事を再開させましょうか。」
自分は、自転車のスタンドを蹴り上げて、坂の頂上に自転車をついた。バス停の近くで、荷台のゴムロープをほどいて、米をベンチに置いた。
「良かったら、たくさん作ってきたので、運ぶ途中でのどが乾いたら、飲んでください。」
彼女は、ピンクの保冷カバーのついたペットボトルを渡してくれた。自分は、神から神器を受け取るかのように片膝を地面につけて、両手で彼女の聖水を受け取った。自分は、その聖水を自転車のかごに入れた後、自転車に乗って、坂道を下った。
いつもより下るときの風が爽やかだ。燃え上がるこの気持ちを冷ますには、ちょうどいい風だった。
あのゴミ女がっ、米重いんだよ。自分は、坂の中腹で自転車を降りて、心の中で叫んだ。彼女への気持ちは、マグマのように燃え盛っていたが、一気に冷め切っていた。こんなことを思っていたのは、ちょうど八回目の米運びの登り途中だった。
体中の筋肉が悲鳴を上げ、肺は呼吸を拒んでいるような息苦しさだった。常に喉の奥から血のような味がして、頭は、脈打つたびに金づちで叩かれているようだった。ここまで人は疲れてしまうと、自身を疲れたらしめるものの存在を恨まざる負えなくなる。
よく考えてみれば、彼女がなぜ自分にこんなことを頼む理由は、女を見せれば、ホイホイついてくる単純な猿を見つけたと思ったからじゃないか。スポーツドリンクやらボディタッチやらでその気にさせておいて、奴隷のように肉体労働させているのだ。新手の美人局じゃないか。
もう空は暗くなり始めていて、右手の腕時計は、四時を指していた。つまり、九時間くらい米を運び続けている。最初は、四十分くらいで坂道を往復していたが、だんだんと時間がかかってきて、一時間半程かかっている。自分は、米の乗った重い自転車を犬のように口をだらしなく開けて、息を切らした。
坂の頂上まで何とかして登ると、彼女は、バス停のベンチでいつものように座っていた。彼女は、暇そうにスマホをいじっている。必死こいて、彼女のためにやっているのに、毎度毎度見る光景は、この感謝のかけらもない彼女の姿だ。彼女も米を山に運んでいるようではあるが、汗一つかかず、涼しい顔をしており、とうの昔に米を運び終わっているようだ。これが資本主義の縮図か。
「お疲れ様です。これで八十キロ分の米を運び終わりましたね。残りあと二十キロだけですね。でも、この調子で運んでいると、七時までにすべての米を運び終われませんね。
……もう少し早く運んでもらうことはできますか?」
自分は、生まれて初めて明確な殺意を持った。
体がここまで疲れていなかったら、容赦なく米で彼女をぶん殴っていただろう。なんとか自由に動かない体を理性で止めて、殺意を抑えた
。
「どうですかね。あと二時間で二往復するなんてことは、難しいんじゃないですか。今、とっても疲れているんですよ。これよりスピードを上げるなんて考えられないですね。」
言葉の裏に、あんたより何億倍も疲れていることを理解しておりますか。と言う皮肉を込めておいた。
「そこを何とかお願いします。」
彼女は両手を合わせて、お願いしてきた。人にものを頼む時は、その人の気持ちも想像できないちっさい頭を地面に擦りつけろ。
「まあ、できるだけ頑張ってみます。」
自分は、限りなく希望の薄いことを感じさせる返答をした。自分は、棒になった足を何とか動かして、自転車に乗った。すると、彼女は、自転車の後輪を触った。
「あっ、葉っぱ付いていたので、取っておきますね。……絶対に米を運んでください。絶対に。」
自分は、何も言わずに、軽く会釈した。その後、すぐに坂道を下った。そういえば、坂を毎回下っていたんだった。体を動かすことにエネルギーを使い過ぎて、記憶にエネルギーがいっていないみたいだ。そういえば、二回目から七回目までの記憶がない。
本当に何やっているんだろう。
何のためかもわからずに、何度も何度も苦しいこと繰り返して、その繰り返した記憶もなくして、辛いという事実だけが残る。そんな状況で、速くしろと催促されて……。
もう、辞めてしまおうか。
バイト代は前払いでもらっているんだ。このまま米運びを投げ出して、お金だけ持って帰ろうか。別に今まで学校で出会わなかったんだから、ここで仲が悪くなっても支障はない。仮にお金をねこばばされたという噂をながされたとしても、ぼっちの自分にとっては何も影響がない。
よし、辞めよう。
自分は、引き返すために、坂道を下るたびにスピードの上がる自転車にブレーキをかけた。
パンッ
後ろから銃声のような音が聞こえた。すると、バランスが突然崩れ、自転車のハンドルが効かなくなった。自分は崩れたバランスを立て直すことができず、道路の右の地面に倒れこんだ。右半身に激痛が襲う。息ができず、声を発することができずに地面に体を擦りつけて、悶え苦しんだ。
さらに、倒れこんだ地面は、昨日の大雨でぬかるんでおり、自分が暴れるほど、服が汚れていった。血が溢れ出ているような所はないが、所々小さく擦りむいて、血がにじんでいる。視界の端に映る自転車の後輪は、タイヤの空気が抜けて、べこべこだった。
踏んだり蹴ったりだな。
タイヤはパンクして、傷だらけで、泥まみれ。それに体と心の疲労が相まってもうこのままここで寝てしまいたいと思ってしまった。自分は、ゆっくりとまぶたを閉じた。しばらく、そのまま休んでいると、彼女の最後の言葉が引っ掛かってきた。自分は、目を開けると、パンクした自転車のタイヤをよく見た。
やはりかと思い、もう一度目を閉じた。
腕時計の時刻は七時前になっていた。私はかれこれ一時間四十分程このバス停のベンチで待っていて、辺りはとても暗く、ちかちかと切れかけている街頭の光のみが私を照らしていた。彼はやはりすっぽかしてしまったのだろうか。
それもそうだろう。あんなにも重い米を少し動かすだけでも重労働なのに、その米を持って、自転車で急な坂を登ろうだなんてことは、自殺行為だ。それでも、私は分針が後三つ数えるまで腕時計から目を離せなかった。
分針が一つ回るたびに、胸が強く締め付けられる。私はやはり…
そう思った瞬間、息を切らす声が聞こえた。その声の主は、あたりが暗かったので、ぼんやりとしか見えなかった。しかし、そのぼんやりとしたシルエットは、街頭の光に照らされると、全貌が明らかになった。
彼だった。
彼は自転車に乗っておらず、左肩に米を抱え、右脇にもう一つの米を抱えて、立っていた。さらに、服は泥だらけで、血だらけだった。私が心配の言葉をかけようとすると、彼はそれを遮るように大声を上げた。
「応援する。」
私はただあっけにとられていた。
「自分は応援する。こんな泥だらけになって、血だらけになって、体に鞭打って、この米を運んだんだ。この米を使って、何をするか知らないが、お前を全力で応援する。
怖がるな。心配するな。
もし、不安なことがあるなら、自分が全力で支える。また米を二百キロでも三百キロでも運んでやる。だから、お前の好きなようにしろ。
自分はもう帰る。」
そう言って、彼はふらふらとしながら、朝来た方向に帰っていった。
あの日から二日後の月曜日、筋肉痛がまだまだ残る中、学校に行かなければならなかった。その上、パンクした自転車は、そのままにしておいたので、今日は歩きで駅に向かわなければならなかった。なので、筋肉痛の体で歩いても十分電車に間に合うように、家を出た。
両足を交互に痛ませながら、あの坂を登っていると、坂の頂上のバス停のベンチで、彼女がベンチに座っていた。彼女を見て驚いたのは、二日前と違って、腰のあたりまであった髪を肩のあたりまでバッサリと切っていた。
「土曜日からずっとそこにいたんですか?」
「ふふっ、そんなわけないじゃないですか。朝からあなたを待っていたんですよ。一昨日の時は、お礼を言えませんでしたから。ありがとうございました。」
「もう、終わったんですか?」
「まだまだです。でも、きっと大丈夫です。だって、私は私だけじゃない。あなたが応援してくれている。それにきっと、あなた以外の人も私を応援してくれる。だから、もう迷わない。」
「そうですか。」
彼女は最後までこの米運びの理由を教えてくれなかった。彼女はその理由を知られることを異常に嫌っていた。果たして、この理由は何だったのか分からないままだった。
だが、一つ確実なことは、彼女は誰かに背中を押してほしかったということだ。
彼女はきっと何かに悩んでいた。その悩みは、自身にしか知られたくなかった。その中で、彼女は彼女なりに選びたい選択肢を見つけた。だが、その選択肢が本当に正しいか自信を持てないでいた。そして、彼女は他人に知られずに自身の選んだ選択肢が正しいと確証を得るためにはどうすればいいか考えた。
結局、どう転んでそうなったか分からないが、米を百キロ運ばせようとなってしまった。この行為が彼女の選ぶものの後押しになると考えたのだろう。一人の人間から贈られる理屈のない応援を彼女は欲しがっていたのだ。
ただ自転車に画びょうを刺して、パンクさせることはやり過ぎだと思う。だが、それ程、彼女は変わることを恐れていた。頭では正しいと分かっていることでも行動に移すことは恐ろしく難しいのだ。
「最後に一つだけ質問してもいいか?」
「なんですか?」
「結局米はどうしたんだ?」
「それはですね。……全部食べちゃいました。」
「はははっ、それは食いしん坊だな。」
自分たちは、電車に間に合うようにゆっくりと坂を降り始めた。
次の話は、この話の補足となっています。この話を面白いと思ってくれた場合は、次の話を読んでいただくと、より楽しめると思います。