食罪
「あの小説を読んで、一番悪いと思ったのは、あなたです。」
「……それはどういうことかな?いわゆる、小説の中の悲劇を作り出している作者が一番悪いみたいなことかな。」
「……違います。そういう意味ではないことは、分かっているのではないですか?」
「さあ、よく分からないのだけれど。」
そういう彼女の目は、斜め上を向いていた。
「では、なぜそう思ったのか、順番にお話します。実はですね、何回も読み直しているって言いましたけど、あれは、いつも途中で読むことを辞めちゃうからなんです。それは何でか分からなかったのですが、今日は、なぜか読めてしまいました。
これは、多分、カフェで読んだからとか、筆者が隣にいたからとかでもないと思いました。自分が変わったからだと思います。自分は、学校に友達がいなかった。それを最近まで悩んでいました。だから、悩んだとしても、自分が傷つかないために、自分の心を偽っていました。
自分は、運が悪いだけだと。その時だからこそ、この小説は、最後まで読めなかった。これは、全くの推測ですが、この小説の登場人物で一番悪いのは、キルトだと思いました。何故そんなことを思ったかと言うと、パンの数です。
確かに、もし、キルトがパンを一つだけ受け取って、大きい方のパンをサイトに分け与えたのならば、素晴らしい兄弟愛です。しかし、自分はこう考えました。パンは一人一つと言っているので、並んでいる人に一つだけ配られたと考えることが妥当です。
しかし、孤児院の先生は、いつも通り人数分配ったそのパンを持っていけと言っている。これは、並んだ人にいつもどり一人一つパンを配ったと取ることもできますが、いつも通りの二人分のパンを配ったと言う意味と取ることもできます。もし、二人分のパンをもらったと考えたとしても、基本的にこの物語に矛盾はないのです。
しかし、一つだけ矛盾があるとすれば、キルトは、サイトの前では、一つのパンしか持っていなかったことです。
ですがこれは、キルトがサイトの分のパンを隠れて食べていたとしたらどうでしょう。
こう考えると、サイトより体の大きく、いじめで傷を負ったキルトが倒れずに、サイトが倒れたことに辻褄が合います。キルトは、上辺では、自分の食料を減らしてでも弟に分け与える優しい兄という体裁を保ちながら、実際は、食欲に負けて、弟の分のパンを食べてしまう悪者だったのです。
しかし、キルトは、悪いのは誰か考える時、自分の存在を考えていないのです。つまり、キルトは、自分を騙して、自分の罪を自分以外のものに押し付けたのです。ここまで分かると、キルトは、心を偽っていた過去の自分によく似ているとさっき最後まで読んで、気付きました。
このことを過去の自分は、無意識に感じていたのでしょう。だから、自分の心をえぐってくるような感覚に耐えきれず、途中で読めなくなったのだと思います。では、なぜ、このような事実を最後まで種明かしせずに隠しているのか。
それは、これがあなたの私小説だからではないですか。
先ほど確認しましたが、実際、この本のインタビューで、この本を私小説だと言っている。幼少期、あなたは、2歳下の弟と虐待をする両親と一緒に暮らしていた。虐待は酷いもので、児童相談所が駆けつけて、子供たちを保護しようとしたが、保護した時には、弟だけがもう既に亡くなっていた。
そして、この体験を基にこの本を書いた。これが事実なら、あなたもキルトと同じように、弟の食料を……」
「もう、やめて。」
今まで静かに聞いていた彼女は、突然大きな声を出して、話を遮った。しばらく静かな時間が流れた。その静寂の中、ぱらぱらと雨が落ちてきた。この先、激しく降り出しそうな雨だった。彼女は、そんな雨を気にせずに続けた。
「……そうよ。私が弟の食料を食べていたの。私ね、キルトと同じで、虐待される弟をかばっていたの。弟をいじめるんだったら、私にいじめてって言って、虐待の方向が弟に行かないようにしていたの。それで体中が殴られたり、蹴られたりした跡で、赤やら緑やらに変色していた。その傷は、今ほとんど治ったけど、この右頬の煙草を押し付けられた後はずっと残ってるの。」
彼女は、そう言って、右頬の絆創膏を剥がした。剥がした後の右頬には、どろりと溶けたような小さな火傷の跡が、いくつも残っていた。打ち付ける雨がその火傷をなぞり、その火傷の深さといびつさを強調させた。その彼女は、その濡れた火傷を触りながら、話を続けた。
「頬に穴開けてやるなんて言われて、いつも右頬に煙草を押し付けられていたの。親は、私のことを自分のおもちゃと思っていたんだと思う。でも、私は、そんなタバコを吸う毎に訪れる苦痛がとても怖くて、嫌だった。
そんな時、いつも綺麗な肌の色をした弟が心配してくれるの。その弟を見ていると、なんだか怒りを覚えたの。この感情は持ってはいけないって分かっていたのに、その感情は、増すばかりだった。
そんな中、私は、罪を犯したの。
両親は、家を何日も開けることがあったの。なのに、食べ物もろくに残さなくて、子供二人が食つなぐには、明らかに足りないことが何回もあったの。最初は、二人で少しの食料を分け合って、食べていたの。
でも、私は、あまりの空腹に耐えることができなくて、弟に隠れて、二人で分け合うはずの食料を食べて、弟の食料をばれない程度に少し減らしたの。私が隠れて食べている時、とても幸せだった。その幸せは、空腹から解放された幸せよりも、別の幸せが大きかったと思う。
その後も、隠れて食べることは、当たり前になっていったの。隠れて食べる量が増えて、弟は、みるみる痩せていった。
そんなことが続いていったある日、その日は私が保護される一日前だったの。私は、いつも通り弟に隠れて食べて、弟に残った食料を分け与えたの。残った食料は、小さなクリームパン一つだけだったの。それを半分に分けようとしたら、うまく割れなくて、小さい方と大きい方ができたの。私は、弟に、大きい方を上げたの。
そしたら、弟がありがとうって言って泣き出したの。僕をお父さん、お母さんから守ってくれてありがとう、いつも食べ物を分け合ってくれてありがとうって。私は、何も言うことができなくて、ただ、弟を抱きしめたの。弟の体は、肉がなくて、骨が浮き出ていて、冷たかった。
私は、ただクリームパンのクリームが多く入っているから、小さい方を選んだだけなのに。
私は私が憎かった。弟は、こんなに優しい人間なのに、私は、こんなにも醜い人間なのが、嫌だった。
次の日の朝、起きると、弟は、動かなくなっていた。私は、何が起こったのか分からなかった。いくら揺すっても、弟は起きなかった。そんな時、児童相談所の人が来て、私を保護してくれたの。その後、いろいろあったと思うけど、起こったことが衝撃的で、何も記憶がないの。
でも、大人の人達が私を噂する声が聞こえてきたことは覚えているの。両親の虐待から弟を守ったとか、二人で健気に食べ物を分け合って、あの子だけ生きていたとか、私のことをかわいそうだと思っていたの。
それを聞いて、私は、それを真実だとすることにしたの。
親から虐待を受けていて、食べ物を仲よく分け合っていたが、弟だけ死んでしまった悲劇の姉を演じようと決めたの。それから私は、私を騙して、生きていったの。時がたつにつれて、私は、私自身を騙しているはずなのに、今の私が正しいんじゃないかって思うようになったの。
周りの人間は、私の罪を責めてこないし、本当は、弟と二人で食料を分け合って、生きていたんじゃないかって。私は、その時、心がすっと軽くなった気がしたの。背負っていた十字架が取れる感じがしたの。
そのまま私は、普通に生きることができるようになった。学校でみんなと一緒に勉強したり、遊んだりしたの。やること全てが楽しかった、その中でも、お腹いっぱい食べられることが楽しかった。そうやって私は、育っていって、小説家になって、たくさんお金を稼いだの。
そんな中、私は、「悪いの誰だ」を書いたの。その時は、もう私の犯した罪なんて忘れていて、ただ、私のかわいそうな過去を知ってもらうために、その作品を書いたの。それは、一種の自己顕示欲を満たすようなことだったと思う。
私は、少しの違和感を持ちながらも、その作品を書き上げたの。それは、私の作品の中でも大ヒットして、一気に人気作家になった。それは、今の私のことを肯定してくれる気がしたの。実際、私のことを優しい人間だって、読者のみんなが言ってくれた。
でも、君は、違った。君は、私の罪に気付いて、私が無意識に題名に込めた、知って欲しい思いを突き付けてくれた。実は、君に声をかけたのは、私の本を読んでいるからだけじゃなかった、君が弟になんとなく似ていたからなの。
無意識に答えを求めていたの、弟は、こんな私をどう思うかって。そしたら、君は、正解をくれた。みんなみたいに同情や共感はしてくれなくて、無情にも答えをくれたの。今、とても悲しいはずなのに、なんだか嬉しい不思議な気持ちなの。」
そう言うと、彼女は、ベンチに座ったままうずくまった。雨は、とうとう本降りになってきて、大きな水の塊が自分たちに容赦なく降り注いだ。彼女は、声にもならない声を上げていた。その声は、雨の音にかすれながら、自分の耳に入ってきた。顔は見られないから分からないが、おそらく泣いていたのだと思う。
自分は、どんなことを彼女にかけてあげればいいか分からなかった。それでも、自分は、彼女の肩に手を当てて、励ます言葉を紡いだ。
「今は泣いてください。後悔してください。どれだけあなたの罪が重くても、受け止めてください。本当のあなたを分かってください。あなたは今、弟さんのおかげで生きているんです。弟さんは、あなたが殺してしまったのかもしれない。でも、あなたは、生き残ったんです。そのことを大切にしてください。その意味を考えて生きてください。」
彼女は、声を出さずに聞いていたようだが、顔はあげなかった。それからどれほど経ったのか分からない。ただ、その間に雨は止み始めていた。彼女は、ゆっくりと顔を上げた。その顔は、びっしょりと濡れていた。涙の跡は、残っていなかったが、目元は、赤く腫れていた。
自分たちは、言葉を交わさず、ゆっくりと立ち上がり、公園の出口へゆっくりと向かった。自分は、彼女を変えるまで送り届けようと思っていた。
「ありがとう、もうここまででいい。」
彼女は、そう言ってゆっくりと自分の帰る方向とは、別の道を歩いて行った。彼女の背中は、一人にさせてと言っているようで、強引に付き添うことは難しかった。自分は、ずぶ濡れた服とカバンのまま家に帰った。家に帰った時、もうすぐ八時だった。
自分は、風呂に入って、パジャマに着替えた。その後、何も食べず、自分の部屋に入った。濡れたカバンを乾かそうと中身を取り出した。本は、やはり濡れていて、ページを開けば、破れそうだった。
そして、奥の方には、綺麗に重ねられたコーヒーフレッシュの容器があった。正直いらないものだったが、なんとなく、自分の勉強机の上に置いておいた。自分は、カバンをまどのそとにつるして、ベッドに寝転んだ。
【「悪いの誰だ」などで知られる作家の安食一花(27)が自宅で死亡。飛び降り自殺か。】
それは、彼女と出会った五日後の朝のネットニュースだった。
自分は、このニュースを登校中の電車で見たのだが、見た瞬間、血の気の引くようなぞっとした感覚を覚えた。どこを調べても、彼女は、昨日の夜に自室のベランダから飛び降りて亡くなったという情報しかなくて、それ以上詳しい情報はなかった。
自分は、ただ彼女が亡くなったという事実を受け止められずに、何度も電車の揺れに倒れてしまいそうになりながら、長い電車の投稿を過ごした。
学校についても、ぼんやりとした頭で席についていた。すると、クラスの女子達の会話がふと聞こえてきた。
「知ってる?あの作家死んだらしいよ。自殺だって。」
「知ってる、知ってる。映画最近見に行ったから、衝撃だった。主人公達の兄弟愛に滅茶苦茶泣いちゃった。」
「まじ、あたしも見に行こうかなー。」
「でもなんで死んだんだろうねー。絶対信じられないほど稼いでるでしょう。」
「あれでしょう。作家にありがちな鬱とかなんじゃない。金持って自殺なんて、贅沢だよねー。」
「本当、私達にちょっとはくれないかなー。」
「確かにー、まあ、あんまり死んだ人にこんなこと言っちゃいけないか。」
自分は、何とも言えない怒りを覚えた。彼女について何も知らない世間が憎かった。そして、自分もそれと同じように、彼女のことを完全に知ることができなかったことが悔しかった。
自分は、気付けば、学校を飛び出していた。登校する生徒たちに逆行して、走っていた。彼女と過ごしたあのカフェへ何があるわけでもないのに向かっていた。
カフェは、平日も朝から空いていたが、通勤時間の過ぎた店内は、ほとんど人が入っていなかった。
しかし、彼女と一緒に話した席には、スーツを着て、眼鏡をかけたサラリーマンのような男性が腰かけていた。自分が店内に入った音を聞くと、近くの女性店員に目配せをしていた。女性店員は、その目配せの後、大きく首を縦に振った。
すると、男は、自分に向かって、一気に近づいてきた。そのまま、男は、胸倉を掴んで、自分を出入り口の扉に押し付けた。
「君が安食さんを追い詰めたのか。」
自分は、その言葉に何も返せなかった。ただ、その男の目をそらすことしかできなかった。男は、胸倉を掴んだ手を緩めた。
「……すまなかった。感情的になり過ぎた。」
その男は、手を完全に離すと、深く頭を下げた。そして、自分をあの席に案内して、自分たちは、向かい合って座った。女性店員は、恐る恐る自分たちの前に、お冷を置いて、そそくさと立ち去って行った。
「私は、安食一花の編集者の堂本敦です。今回は、あなたに渡さなければいけないものがありまして、ここで待たせていただきました。」
そう言って、彼は、二つに折られた原稿用紙を机に置いた。
「これは、安食が残した遺書です。この遺書には、あの日、カフェで出会った君へと書かれていました。私たちが読んでも、よく分からなかったので、あなたに渡すべきだと思いました。」
自分は、二つに折りたたまれた原稿用紙を開いて、中身を読んだ。
『あの日、カフェで出会った君へ
この手紙を読んでいる時、私は、どうなっているか分からない。なので、君に伝えておくべきことがあります。それは、どんなことがあっても、一番悪いのは、私であることです。
君があの夜言ってくれたことは、遅かれ早かれ、いつか私が気付く自らの罪でした。だから、君が負うべき責任はないです。そう言っても君は、雨の中で、ずっと一緒にいてくれるくらいに優しいから責任を持ってしまうかもしれません。それでも、君は、私のようにならないでください。必ず生きてください。
安食一花』
とても綺麗な字で書かれていた。
「あなたと出会った日の夜、あんなに明るく、奔放だった安食さんが一気に魂を抜かれたように元気をなくした声で食事の約束を断る電話をかけてきた。心配になってその後、電話をかけても、返事はないし、彼女の住むマンションを訪ねても、居留守をつかわれる。
そして、昨日、彼女の住むマンションに向かうと、救急車が止まっていて、人だかりができていた、その人だかりの中心には、血だらけで転がる彼女がいた。彼女は、あんなに食べることが大好きな彼女が信じられない程に痩せていた。救急車が彼女を運んでいくと、警察が来て、事情聴取がはじまりました。
その中で、私は、彼女の部屋に入ったのですが、そこは、酷いものでした。部屋中に吐しゃ物の匂いが充満していて、そこら中に、戻したものがありました。
家具や本が包丁で切りつけられたり、壊されたりしていました。あなたが彼女の罪に気が付いたならば、どんな罪が彼女を追い詰めたんですか。教えてください。」
自分は、ほんの少し考えてから、自分が彼女に突き付けた罪について説明した。そして、続けて話し出した。
「彼女の罪は、弟を殺したこととそのことを隠したことです。これは、間違いないと思います。自分は、彼女の背負った罪を理解しているはずでした。でも、全く理解などしていなかった。
自分は、彼女にその罪を突き付けた後、その罪を背負って生きてくれと言った。自分は、ただ、上辺だけで、手垢のまみれた一般論で、彼女を励ました。それで十分だと思っていた。
でも、そんなもので足りるはずがなかった。彼女は、弟を殺して、そのおかげで生きている。そのおかげで、小説家になれた。そのおかげで、たくさんお金を稼いだ。そのおかげで、いいマンションにも住めて、好きなものを買って、好きなだけ食べることができた。
つまり、そうやって手に入れた全ては、弟を殺したという罪で出来ていると考えたのだと思います。これに気づけば、そのことに対して、新たな罪を感じるのです。そして、この罪は、考えれば考えるほど大きくなるのです。
生きている限り、この罪から逃げることはできない。彼女は、罪を知ってから、食べることを辞めたのだと思います。しかし、何度も食欲に負けて、食べるが、ふと我に返って、吐いてしまう。
これを繰り返し続けたある時、手に入れたもの全てに罪を感じ、壊してしまう。
そして、自らの体も罪で出来ていることに気付くのです。そして、彼女は、自分自身をも壊してしまった。これが真相だと思います。」
編集者は、静かに聞いていた。自分が喋り終わると、自分たちは、黙り込んだ。自分は、その静かな中、周りを見渡すと、コーヒーフレッシュが入ったかごを見つけた。自分は、そのかごから二つ、三つ容器を取り出して、出された水に入れた。砂糖を入れて、それを飲み干すと、容器をポケットにしまった。
「もう帰ってもいいですか。この遺書は、もらっておきます。」
そう言うと、自分は、彼女の遺書をカバンの中のクリアファイルに大事にしまって、店を出た。
自分は、そのまま家に帰り、自分の部屋に入った。勉強机に向かって座り込むと、少し考え事をした。
自分は、他人の本当の気持ちに気づかせてあげることが良いことだと思っていたし、実際今まで、そうして、結果良い方向へ進んでいた。だから、自分は、この行為をすべきだと思うし、していくだろう。
だが、そこには、他人を変える責任と言うものがあるのだということを分かっていなかった。彼女を変えた責任を自分は、取っていなかった。公園を出た後、自分は、無理やりでもついていくべきだった。そしたら、彼女の新たに生まれる罪に気付けていたかもしれない。
そして、最悪の結果を防げたかもしれない。そんな教訓と後悔を深く心の中に刻みこんだ。自分は、ポケットの中に手を入れた。ポケットは、残ったコーヒーフレッシュの汁がこぼれて、ベトベトしていた。
容器を取り出すと、机の上の積み上がった容器の塔に足した。これは、他人から見たらゴミに見えるだろうが、自分にとっては、彼女を、彼女の罪を忘れないために、大切なものだった。