ぼっちの死刑宣告
「五人組作って~」
軽々と教師から発せられた言葉は、私にとっての死刑宣告だった。
自分の名前は、発地一。高校一年生だ。もうひとつ自己紹介に追加するなら、ぼっちということだ。
高校入学時、どこかの歌のように友達百人や二百人くらい早々とできるだろうと自信に溢れていた。なぜなら、中学校、小学校、幼稚園に至るまで、多くなくとも友達に囲まれながら生きてきたからだ。しかし、高校では、突然、一人も友達はできなかった。
とても不思議なことが起きていると思ったが、よく考えてみると、理由は簡単だった。自分から友達を作ろうとしなかったのだ。中学校や小学校では、誰かが話しかけてきて、知らぬ間に大きな友達の輪の中に入ることができていた。しかし、高校ではその話しかけてくれる誰かはいなかった。
よって、この受け身戦略がだめだと気付いたころには、クラスの交友関係は完璧に出来上がっていた。こんな調子で、休み時間には寝たふりをして時間をやり過ごすような完璧ぼっちが出来上がったのである。だがしかし、私にはぼっちの才能があったようで、あらゆる状況をのらりくらりと一人でやり過ごしてきた。ただ今回はとても難しい状況である。
「千石先生、六人組も作ってもいいですか?」
クラスの中の誰かが質問する。
「えー、今日の出席者は三十七じゃなくて、三十八人だから、五人班と六人班をいい感じになるように班をつくってください。」
なんて女だ。かわいい顔しておるから見逃しておったのに、付け上がりやがって。活字に直してその言葉見直してみろ。表現の自由を超えているぞ。六人組を作るなら、五人組が最低条件みたいになるじゃないか。たった一人で修学旅行に行ってもいいじゃないか。ボッチの人権を侵害している。
それでも文句なんて言えない。いや、言う勇気がないと言った方が正しいか。そんなことができる勇気があるなら友達なんてできている。ただ、五人組を何としてでも作らないといけない。
「あっ、あと言い忘れていたけど、もし、グループがこの五時間目までにできなかったら、希望の班ができていたとしても、出席番号順に班をつくることになるからね。」
そう、出席番号順班。こうなってしまったら終わりだ。
もしこうなってしまえば、早々に班を作った陽キャ達は、夜はホテル抜け出そうぜとか、トランプやらウノ持って来ようぜとか修学旅行に思いをはせる。
そんな期待に水を差すのが、出席番号順班である。出席番号順に並べられた班は期待しあった友達同士をバラバラにするだけでなく、嫌いなクラスメイトと班同士になる可能性だってある。
こんな事態を引き起こした犯人が友達を作れず、普段影を潜めて生きているスクールカースト最底辺のぼっち人間と知ろうものなら、卒業するまでずっと言葉やら行動やらの精神的な凶器でなぶられ続けるだろう。
だが、実際はこのようなことになる場合は少ない。現実は一人余ってしまえば、友達の多い連中が
「おい、お前行けよー。」
「嫌だよー。まぢ無理。」
「しゃーねーなー。じゃんけんな。」
「分かったよ。負けた奴らがあれだからな。」
という風な流れで、そいつらは全力でじゃんけんを行う。両手を組み合わせ、それを捻って出す手が分かっただの、俺は今からパーを出すだの力の限りを尽くして何かの役割を全力で回避しようとする。そして、敗者達が決まると、その敗者達は自分の近くに来て
「一緒のグループにならない。」
と心にもないことを言う。そして自分は
「あっ、よろしく~。」
なんて心にもないことを同じように言う。その言葉を言った瞬間、自分で自分を殺している感覚になる。自分が崩壊するのだ。
つまり、ボッチは、教師から五人組を作る指令が来た瞬間に精神を試されることが確定してしまうのだ。玄人なボッチはそのような精神攻撃は平気でやり過ごすだろう。
だが、自分は高校に入る前までは友達がいたという過去の栄光をいつまでも忘れられず、孤独を受け入れることができないでいる。孤独を認めない自分の心の中では、過去の事実から育った理想の自分がいて、眼前に広がる現実の自分といつも矛盾を起こしている。そんな矛盾が戦っているうちに、その境界線である自分の心はどんどん蝕まれていく。一年半もの間、蝕まれ続けたこの心は、五人組の精神攻撃に完全に壊されてしまうことは明白であった。
これを回避するには今から私は、修学旅行の班決めのために四人をうみださなければなければならないのである。
自分の選ぶことのできる選択肢は二つ。五人に分身するか、切腹するかである。
分身したとしても、全員同じ顔なら分身していると、ばれてしまうし、筆箱の中の刃先が丸いはさみがあるが、それでは、確実に死ねるかも分からない。
ならば、不可能な話だが、正攻法で四人集めるしかないのか。不可能を可能にするのだ。自分が集められる人間を考えろ。
……紀子に俊夫に、あと貴美子と克己!これで四人そろった。
……だがだめだ。
学校行事に家族は参加できない!
盲点だった。修学旅行には生徒のみしか参加できないというルールを忘れていた。今回の修学旅行は広島だから、祖父母を現地調達できてお得だと思ったのに。やはり、クラスメイトから探すしかないのか。これは難しい。トム・クルーズでも諦めるレベルだ。だが、いけるところまでやろう。
まずは、同じぼっちを狙う。これはぼっちの定石である。ぼっちが集団行動を強いられるとき、同じ波長の人間を探す。同じ波長の人間は周囲を少ない視線で観察する。このような人間は同じような行動をしている人間をすぐに見つけてしまう。そして、目と目が合った二人は一瞬ですべてを理解し合い、集団となるのだ。
これで、体育の二人組などは確実に回避できる。つまり、今この教室を少ない視線で見渡せば、通じ合える。そう考えた自分は教室をちらりちらりと見渡した。教室では、ある程度の五、六人のグループができていて、あとは二、三人のグループがまばらにいた。
その中に、堂々と本を読んでいる人間がいた。やはり残っていたかと思いながら、その人間を見つめ続けるとあちらもこちらに気づき、通じ合った。すべてを理解し合った。すると、あちらはこちらに近づいてきて、自分の近くまで来た。そして、小さく僕たちは無機質にうなずき合った。
契約成立である。
ボッチ同士は言葉を使い合わない。ただうなずくだけだ。そうではあるが、このうなずき合いの中で、莫大な情報が交換され、互いに全てを理解し合った。
こいつの名前は有明正。自分と同じで友達はいない。だが、自分と違って友達を作れないのではなく、友達を作らないのだ。有明は一人でいることをこよなく愛している。彼は身長が180cm程あり、見た目が良い。おそらく、このクラスの男子の中では、一、二を争う外見の良さを持ち合わせている。
なので、高校入学当初は、クラスの女子がよく話しかけていた。しかし、有明はそんな女子達を「業務連絡以外で話さないでくれ。」と一蹴した。男子たちも同じように拒絶された。しかし、クラスの人間は有明を嫌うことはなく、一種の変人のような扱いをした。
このようにして、有明は、クラスで特別な位置を手に入れていた。つまり、有明は、孤独に苦悩する自分と違って、孤独を自身のアイデンティティーとして受け入れていたのである。
彼は、体育の時間などで、二人組を作るときによく自分と組んでいた。おそらく、自分は人に話しかけたがらないので、彼にとって気が楽だったのだろう。しかし、五人組を必要とする今回によく組んでくれたものだ。
だが、有明は、自分と違って、玄人ぼっちなので、陽キャのイヤイヤじゃんけんにも、出席番号順班にも耐えられる精神力を持っているはずだ。いくら自分といることが楽だと言っても、五人組を作ることができる見込みのない自分と組む必要はないのだ。でもおそらく、体育の時間に媚びを売っておいた甲斐があったようだ。まあ、そのような理由でなくても、なぜ自分と組んだのだと聞く勇気もないので、今はただ即席の二人組を組むことにした。有明は自分の近くの席に座ると、手に持っていた本を再び読み始めた。
一人仲間が増えたとして、あと三人をどうやって集めるかだ。周りを見渡してみると、さっきまで、二人組や三人組だったグループが互いに合わさって、五人組や六人組を完成させていた。この時、もう三人組がいなかった。
いるのは、二人組の男子だけだった。彼らは、確か休み時間に一緒に集まって、音ゲーをしている奴らだ。
ぼっち審査合格。
自分が五人組を作るからには陽キャを入れてはならない。これはぼっち審査のたった一つの基準である。陽キャが一人でも自分の組に入ってしまうと、その陽キャに主導権を握られて、あれこれ振り回される。陽キャの言うことを否定する勇気のない自分は、ただ、陽キャの自己満足に付き合うだけの地獄の修学旅行を過ごすことになる。
泥水にワインを垂らしても泥水のままだが、ワインに泥水を垂らすと泥水になるという言葉があるが、まさに、泥水が陽キャでワインが陰キャと言う関係である。だが、見る限り二人組は、眼鏡ガリに眼鏡デブ。極上のワインである。
だがしかし、自分にはあの二人を誘うことができない。自分からあの二人に話しかけたくないし、有明にあの二人を誘うように頼みたくもない。
ならば、あれをするしかない。その二人組は教室の後ろの隅にいたので、そこまでギリギリ聞こえるように音を鳴らしながら、立ち上がった。そして、周りを見渡す動作をしながら、座った。
これは、サブリミナル勧誘である。有明と違って、あまり知らない人たちなので、目を合わして、意思疎通することは恥ずかしい。なので、あの二人の無意識に、自分たちを認識させるのである。このガヤガヤとした教室に起こったほんの少しのノイズと視界の端に映った人間の動き。この二つが相手の五人組を作りたいという意識に働きかける。これが、サブリミナル勧誘である。
すると、その二人はゆっくりとこちらに近づいてきて、
「あの、私たちと組みませんか。」
と話しかけてきた。それを聞いた自分は、その勧誘を寝耳に水であったかのように数秒驚いたような動作をして、小さく会釈した。相手の二人組も同じように会釈し、静かに自分たちの近くに座った。
これで何とか四人組を作れたわけだが、あと一人を見つけなければ、泥水どもがじゃんけんし始めて、努力が無駄になる。なので、もう一度教室を見渡したが、もう自分以外の全ての班が出来上がってしまっていて、
唯の一人も残っていなかった。
終わってしまったのか。
いや、まだだ。どこかから一人引き抜けばいいのだ。五人組の四組は全員女子だから引き抜けないから、今ある六人組の三組のどれかから引き抜けばいい。
二組は全員泥水グループだから無理として、あと一組は、ワインの匂いが微かに香る平凡な奴らだ。全員似たような芋顔で、背丈も170cm周辺に集まっている。多様性が叫ばれる時代に、量産型な人間どもだ。
問題はどうやって誰を引き抜くかだ。確か奴らは、卓球部の仲良しグループだ。休み時間は、よく奴らの寒い内輪ノリが耳に入ってくる。こういうのは変に仲がいいから一人を引っぺがすことは難しいかもしれない。
だがしかし、六人をよく見てみると、喋っているグループは四人と二人に分かれている。これは、表面上は六人とも全員卓球部への帰属意識があるから仲がいいように言い聞かせているが、実際は、なんとなく心惹かれる者達で集まって、グループを分裂させているのだ。
つまり、あのはぶられた二人組は、引きはがすことができる可能性はある。卓球部グループは平凡ではあるが、最低限度の社交性があるグループなので、二人を引き剥がした後は、他の六人組から誰か連れてくるだろう。今回は、あの二人組は、組を作る意識が薄いから、サブリミナル勧誘はあまり効果がない。
ならば、話しかけて交渉するしかないか。よし、男と生まれたからには、勇気を見せなきゃいけない時もある。
「あのー、有明さん。あそこの班のあの二人をこの班に来るように話しかけてくれないでしょうか?」
言えた。我ながらやるじゃないか。一度も詰まらずに言えた。有明と顔見知りではあるが、いつも会釈でコミュニケーションをしていたので、入学してから百文字も喋っていない。そんな相手に臆することなく。なんという進歩、なんという達成感。もしかしたら、自分は陽キャかもしれない。
今夜はナイトプールだ。
「嫌だ。無理。」
有明は本を読みながら、そう吐き捨てるように言った。
やっぱり今夜は、家に帰ろう。
「あの二人なら、引き剥がせると思っているのかもしれないが、それは無理だ。もうすでに六人組というノルマを達成しているのに、少々仲が悪い程度で、わざわざ六人組を崩してまで二人を明け渡して、違う班から人を連れてくるようなリスクを取るわけがない。」
有明が百文字以上喋ったことに呆気をとられながらも、有明の言い分に納得した。確かに、自分のいいように考え過ぎていた。相手の利害関係まで考えれば、その通りだ。わざわざ、六人組を解散するはずがない。
考えれば、簡単なことじゃないか。なのに、なぜ考えなかったのだ。
いや、考えなかったふりをしたのか。
班はすべてできている。どこかから引き抜くしかない。だが、どの組からも引き抜けそうにない。詰んでいるのだ。自分はそんなどうしようもない状況を分かっているから、責任を他人に求めようとしたのかもしれない。
ぼっちとして暮らしてきて1年半。自分の心は、こんなに弱くなってしまったのか。高校に入る前までは、自分で責任を持って、いろいろなこと解決してきたつもりだった。
だがもう、自分は孤独に暮らし続けた結果、こんなみみっちい心を持つようになってしまったのか。
こんな奴だから、もう一人は来ないのか。
やはり、この班決めを乗り越えることは自分には無理だった。
どれだけ頑張っても、自分は身も心もぼっちなのだから。
「ねぇ、発地君。もし良かったら僕がこの班に入っていいかな。」
うなだれた自分の頭の上から思いがけない声が降ってきた。その声を発していたのは、皆見だった。皆見はこのクラスの委員長で、スポーツ抜群、勉強は優秀、愛想が良いの人気者三大要素のすべてを持つこのクラスのスーパースターだ。そんな皆見が今、自分の班に入りたいと言っている。
「あのー発地君、聞こえているかな。迷惑をかけないように何でもするからさ。入れてくれないかな。」
そう小声で言って、皆見は頭を下げながら、懇願した。
完璧だ。
ここまで過剰に下手に出ることによって、イヤイヤじゃんけんのような不快感を覚えることはない。さらに、自分たちが班決めの人数を集められていないことを他のクラスメイトに知られないためになるだけ早く自らの対応する自己犠牲の精神。この申し入れをとても自然に受け入れるさせるようになっている。
だが、皆見は人気者である以上陽キャだ。泥水だ。受け入れてはならないはずだ。
なのに、皆見は、他の陽キャとは違う気がする。
透き通った声とさわやかな笑顔。この二つを持つ人間は、自分のようなどうしようもないぼっちを受け止めてくれるのではないか。陽キャは、自己中で他人の領域にずかずか土足で入り込んでいくようなゴミである。
だが、皆見は、自分達のようなスクールカースト最底辺の人間が土足で入っていっても、それを気にせず、優しく包み込んでくれるのではないか。
自分は、今、高校に入って初めて幸福の一歩手前に立っているのではないか。
今、一歩踏み出せば、受け身な自分を変えれば、この先の学校生活が変わる。皆見を始めとして、他のクラスメイトとも話せるようになって、友達がたくさんできるかもしれない。そうなれば、この一年半付き合ってきたぼっちともおさらばだ。
きっと変わる何もかも。
だって、中学まではたくさんとは言わないが、それなりに友達はいた。だからきっと、あの頃に戻ることができるのだ。ほんの少し掛け違えたのだ。本当は高校でも友達ができるはずだったのに、運が悪かったのだ。
そう、だから、この喉に引っかかっている「よろしく」という言葉を出すだけだ。
そのまま、「よろしく」と口から出そうとすると、後ろからそれを遮るように肩を掴まれた。一瞬何が起きたのか分からず、体をびくつかせ驚いた。肩を掴まれたのだと理解して、振り向くと、有明の手が自分の肩に伸びていた。
「お前はそのままいつものように流されやすいのか。」
有明はそう問いかけた。
何を言っているんだ。
自分の受け身で流されやすい性格を今変えようとしているんだ。いつもとは違う自分になるんだ。そう自分に言い聞かせた。自分は不思議そうに有明を見つめた。すると、有明は、数秒自分を何か訴えるかのような目で見つめ続けた。有明は目線を離すと、立ち上がり、教室のドアへと歩き出した。
「千石先生、トイレへ行ってきます。」
有明はそう言って、教室から出ていった。いったい何なんだ。何なんだ。この引っ掛かりは。今、皆見と組むことは何も悪いことじゃない。
なのに、なぜ、駄目な気がしているのだろう。
それを正確に表現するならば、まるで自分を欺いているという罪の意識のようだ。そして、こんな罪の意識を幾度も感じてきたという感覚がうっすら湧き上がるのはなぜだろう。その感覚が自分の心の中に隠されている。
きっと隠したのは自分だ。
何度も何度も丁寧に自分自身に見つけられないように隠していた。
そして、自分も見つけないようにしていた。
それなのに、有明はその自分の弱みを言い当てた。流されているのだ。自分は人から話しかけられないからと、それを友達のいない理由とした。
自分から話しかけることもなく。
そもそも、一年半誰からも話しかけられないなんてことはない。話しかけられても、自分はそのチャンスを逃し続けてきたのだ。話が続かなかったり、間が悪くなったりする毎に、その事実を隠してきた。自分を傷つけないために、受け流してきたのだ。
ただ、自分の中にある問題に立ち向かうことを保留し続け、その問題は時間がたつにつれて大きくなっていくことにも気が付かないふりをした。その大きく育った問題は、いつか自分の心を壊してしまう。このまま、見ないふりを続けてはいけない。受け流してはいかないのだ。
「えっと、有明君なんか怒っていたようだったけど、大丈夫かな。」
と皆見は言った。そうだ、この状況を簡単に受け入れてはいけない。自分は、五人組を同じ波長のものだけで作るのだ。皆見は確かに、なんでも受け入れてくれそうではあるが、そこに問題がある。
皆見が自分を受け入れてくれるということは、皆見が気を使っているということだ。気を使われていると自分が感じてしまえば、自分の中のぼっちと言うコンプレックスが強調されてしまう。それが修学旅行中ずっと続くと考えると、耐えられるわけがない。
こんなことにも気が付かなかったのか。
ただ、自分は簡単な方へ、一瞬自分の心が楽になる方へ流されようとしていた。だが、自分は、簡単な選択肢以外を選ぶことができるのか。この教室から同じ陰キャを抜き出すことはもう不可能だ。どうあがいても無理なのではないか。だがしかし、もう流されたくない。
「有明君がいないけど、僕をこの班に入れてくれるかな。」
やることは決まった。
「皆見君、さっき自分の班に入るためなら、何でもするって言ったよなあ。」
「ああ、そうだね、君たちの班に入るためなら、好きなように自由時間を過ごしたらいいし、君が班長になってもいい。なんでも君たちに譲歩するよ。」
「そうか。」
皆見のその言葉を聞いた自分は右手を強く握り、皆見の頬へその手を力一杯振りぬいた。
皆見はバランスを崩して、思いっきり吹っ飛ばされた。その時近くにあった机が倒れて、大きな音が教室に響いた。初めて人を殴ってしまった。殴った方もこんなに痛いのかと思いながら、何が起きたかわからない様子の皆見に飛び乗り、馬乗りになった。
そして、自分はもう一度、右手を握りただ殴り続けた。痛みなど感じなくなるくらいに。
「お前は何でもできていいよなあ。能力があって、友達がいるから何でも頼れるから何でもできて。自分は何にもないから何にも出来ねえんだ。能力もない、友達もいない、信じられる自分もいない。だから、何でもやってもろくにできやしないんだ。だからよお。こんなろくでもないやり方しか選べないんだ。」
そう自分叫びながら、殴り続けた。
ただ増えていく血しぶきを何も考えずに眺めていた。その血しぶきがかかる皆見の顔に、ポタポタと透明な水滴が落ちていた。
その時、自分が泣いているのだと気付いた。
事態を把握した近くの男子生徒数人が自分を羽交い絞めにして抑え込んだ。床に飛び散った血はかなりのもので、女子生徒が何人か叫び声をあげていた。先ほどまで、修学旅行への期待に包まれていた教室は、覚えのない人間によって、突然地獄絵図となった。
自分は、自分の選んだ選択に一歩踏み出した喜びと深い後悔を重ね合わせていた。こんな事件の原因が修学旅行の班決めだと分かれば、班を作ることがなくなると思った。だが、その考えはとても短絡的で、長期的に考えると、今まで否定してきたどの選択肢より酷いものになると、この教室の状態を見て思った。
この選択肢は自分が選びうる一番の悪手だったのかもしれない。
それでも、自分が自分であるために、この選択肢を選んだことが気持ち良かった。
「ちょっと、自分が何をやってるの、発地君。」
千石先生は起こっている事態にどう対処すればいいか分からず、怒るというより尋ねるように言った。
「先生、そんなことよりも早く発地君の傷の手当てをしないと。手から血が止まらないです。」
自分の手からこぼれ出す血はポタポタと右手を抑える男子生徒の制服に滲み続けていて、その男子生徒が先生に訴えた。
「でもこいつは、俺の友達を殴ったんだ。俺はこいつを殴らないと気が済まん。保健室に連れていく前に一発殴らせろ。」
がたいのいい男子生徒が教室の前から出てきてそう言った。そいつは拳を構えて、自分の顔めがけてその拳を振り下ろしてきた。
「やめろ。それ以上やるなら、俺が相手になってしまうぞ。」
殴りかかってきた男子生徒は、他の教師が入ってきたと勘違いしたのか拳を自分の顔の直前で止めた。声のする方に皆が目を向けると、太った男が立っていた。
皆この状況を理解できずにいた。時間が止まったように教室中の人間は固まっていた。そんな中先生が声を上げる。
「みんな、喧嘩は終わりよ。一旦、発地君と皆見君を保健室に運んで。」
みんなは次々に起こる急展開に考えることをやめたのか、素直に先生の言う通りに自分を担いでいった。
保健室に運び込まれた自分は消毒の後、右手を包帯でぐるぐる巻きにされた。皆見は頬を一発殴られただけなので、ただ痛むところに薬を塗っただけだった。傷の手当てが終わるとここで待つように言われた。
しばらくすると非番の生徒指導先生がやってきて、自分たちに事情を聴いた。自分は、ほんの少し腹が立ったので殴ったと説明した。皆見は自分のことを許しているようで、どうか大怪我をしている自分を責めないでほしいと言った。
その先生は自分が皆見を殴った後、自分は皆見に馬乗りになって床を殴り続けたという状況を理解できずに、あまり怒らなかった。その先生はとりあえず二人の保護者に連絡すると言って、保健室を出ていった。
その後、皆見は怪我をあまりしていないので、一度教室に返された。だが、自分は骨にひびが入っている可能性があるから、病院で精密検査を受ける必要があるらしいと保健室の先生に言われた。
なので、救急車を呼ぶまでもないので、親の迎えが来るまでベッドで安静にしておくようにと言われた。なので、言われた通りに、ベッドに寝転がった。慣れないことをしたせいか、どっと疲れが押し寄せてきた。
しかし、時間をおいて考えてみると、人を殴った罪悪感は不思議となくて、自分の行動への恥ずかしさが大きくなってきた。人前で泣きながら弱音を吐いていたなんて滅茶苦茶恥ずかしい。なんであんなことをしたんだろうかと掛布団を頭に被せて、叫びたくなる気持ちを抑えた。
孤独に耐えかねた自分の一年半分ため込んだ気持ちが突発的に溢れ出てしまった。確かに気持ちは痛快なものだったが、これは本当に正しい気持ちだったのだろうか。布団を頭からずらして、白い天井を見つめながら考えた。
「頼もう~、赤神深夜ここに参上。」
そう言って、保健室の扉を力任せにと開けたのは、あの時の太った男だった。その後ろに有明もいた。
「お見舞いに来てやったぞ。右手の制御ができない愚か者よ。貴様のせいで教室の掃除が大変であったぞ。」
ほぼ初対面なのに、距離が近すぎやしないか。非常にかかわりたくない人間だ。
「お前は、お腹の調子を制御できない愚か者だけどな。」
そう有明が口を挟んだ。
「それを言うでない。」
こいつが幻の三十八人目か。こいつの存在は、今考えると、思い出した。
不登校児だ。
いつも自分のクラスには空席があった。誰か不登校の人間がいるのだなと思っていた。その不登校は、一年の終わりからだんだん学校に来なくなり、二年生の初めのころにはもう完全な不登校になっていたらしい。だから、その不登校児の席が空いていることはいつものことだった。
しかし、その空席には、今日カバンが掛けられ、机の中には教科書が入っていた。実際、いつもなら三十七人と言われるはずの生徒数が今日は三十八人だったのだ。
さらによく考えてみると、三十八人ならば六人組が三組、五人組が四組で完成するはずで、四人組が余ることなど起こるはずがないのだ。
有明は、それを見越して、赤神の存在を探しに行っていたのだろう。有明が自分に提示した解決法は、これだったのだろう。だから、有明は流されずにいろと自分に言ったのだろう。
しかし、自分は、これを力業で解決しろと言う読み違いをしてしまったようだ。
「有明、すまん。有明の意図を汲み取れずに、早まってしまった。」
「確かに、俺の予定した解決法とは違っていた。だが、お前の解決法はそれだったんだ。」
有明の言葉が心に強く刺さった。
自分は、一人であることに悩む自分が嫌いだった。
その悩みを見ないふりをする自分も嫌いだった。
そして、そんな自分を誰かが助けてくれるなんて考える自分が大嫌いだった。
だから、その大嫌いな自分を殴りたかったのだ。その行為には、古い自分との決別と新しい自分の獲得があった。一人を受け入れる自分、その自分を理解する自分、そして、そんな自分を解決する自分。そのすべてを手に入れる解決法があれだったのだ。
「そうだな。自分が納得する解決法はあれしかなかった。」
自分は、痛む右手を触りながら、新しい自分の誕生を理解した。