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かすかな鳥のさえずりとともに目を覚ました。空気が止まってしまったみたいに静かな朝だった。
動くものは何もない、純粋な静寂。でもそれは決して重苦しいものではなく、澄んだ空気の軽さが肌で感じられた。
体を起こして窓の外を見た。夜の余韻を多く残した儚いような切ないような空が広がっていた。快晴ではではないけど晴れていることに間違いはなく、空の2割ほどを占める雲がぽつんぽつんと浮かんでいる。一見動いているのかわからないくらいの速度でゆっくりとみんな同じ方向へ流れている。一体どこへ向かうのだろう。
僕はその雲をただじっと見つめていた。動いているのは雲と時間だけだった。集中して雲を目で追っていると、体の感覚がだんだんと失われつつあった。最初に足、毛布が重くなって金縛りにあったみたいにぴくりとも動かせない。次に腕、ものすごい勢いで血が抜かれたみたいにすぅーと力が失われて手のひらを上にしたままだらんと垂れて動かなくなった。口をぽかんと開けて表情が全く失われただらしない顔をしていた。目だけが空を泳ぐ雲を追いかけるためにゆっくりと動いていた。といってもその動きは本当に微々たるものだったので例えタイムパノラマで撮影したとしても止まっているように見えたかもしれない。
時間が流れ、時計の短針くらいの速度で僕の目も動いた。
いつまでそうしていただろう、中空にあったはずの雲は大きく位置をずらしていた。東の空に浮かぶ太陽が朝を告げていた。光が眩しくて目をつむった。
ぴちゃ。しずくの音がやけに響いた。空は間違いなく晴れていた。それでも雨は降る。
珈琲を淹れた。近くのスーパーで買った名もない珈琲だ。一応~ブレンドなどと書いてあった気もするが500グラム300円の珈琲の名前を気にする人なんていないだろう。苦くて珈琲のの香りがした、それで十分だと思った。
部屋の中は相変わらず静かなままだった。8畳の空間にベッドとソファとローテーブル、服をかけるためのラック、キッチンには薬缶が1つ。
それが僕の家にあるすべてだった。家電が無いからそれらが稼働するために起こる電気の音もない。本当に静かだ。
耳鳴りのようなものが聞こえる。静かすぎるせいだろうか。耳をふさいでも、唾をのんでも、一向にそれは消えなかった。きっと孤独の音だ。
それでも目が覚めた時とは静寂の種類が違った。日が進むにつれ、現実が空気を侵食する。
あるべき重さと引っかかるような感触が溶け込んでいる。
時計の針は10時を指していた。僕は窓のカーテンを閉めた。分厚くて遮光性の高いカーテンだ。少し高かったけれど致し方ない。
世の中にある遮光性の高いカーテンのほとんどは僕たちのような人々によって所有されている。
突き刺すような陽光は鍵を忘れたみたいにカーテンと窓の間に取り残されていた。
そろそろ時間だ。
僕はつばの高い帽子と、真っ黒いサングラスを身に着けた。
扉を開ける。
僕のアパートの前にはそれなりの大きさの公園がある。狭すぎるわけでも広すぎるわけでもない。緑と遊具とベンチと広場が適切な広さを保っている。
今日は平日だからあまり人はいないみたいだ。
小さな男の子とその母親が砂場にいて、老人がベンチで新聞を読んでいた。
僕は息を大きく吸い込んだ。木々と花と虫と土と鉄と日と老人と…女と子供の匂いがした。
僕は公園に目を向けないよう努めながら、家を離れた。
僕たちは喫茶店で向かい合って、僕の前にはミルクが彼女の前には珈琲がおかれていた。
「ねぇ、なんでミルクなんて頼んだの?」明らかに馬鹿にしたような調子で彼女は言った。
「家で珈琲を飲んできちゃったから」
「だからってミルク頼む?あなたが注文した時私のほうまで恥ずかしかったんだから」彼女はそう言うと思いだしたように口を押えて笑っていた。
「別にいいでしょ」
僕がミルクを飲むと、彼女は目だけでこちらを見ながらにやにやしていた。
でも僕の顔をじっと見ると笑みが徐々に失われていった。
店の中にもあまり人はいなかった。店員同士が暇そうにして喋っていた。何の変哲もない雑談だった。特に意味のない隙間を埋めるためだけの。
通学バッグを脇に置いた学生が文庫本を読んでいた。公園にも喫茶店にもいない大勢の人はいったいどこにいるのだろう。
わからない、向こうには向こうのルールに則った世界があるのだ。
突然頬に彼女の手が触れた。異様なくらいに暖かかった。
「あのさ、余計なお世話かもしれないけどいい?」真面目な顔をしていた。
「無駄はなるだけ省きたいんだ、時間は有限だからね」今度は僕が笑って答えた、ほんの少しだけれど。
「ご飯食べてないでしょ、飲み物すら飲んでない。」
「君が馬鹿にしたミルクを飲んでるじゃないか。ミルクだって血液の一種らしいよ」
「ふざけないで、意地張っててもどうしようもないでしょ。」頬に手を当てたまま落ち着き払った声で彼女は言った。
僕は諭されてるみたいな、いや実際そうなのだけれど、感じがしてなんだか落ち着かなかった。
「でも、どうしようもないんだよ、本当に。」どうすればいいんだろう、本当に。
彼女は手を頬から離して、テーブルの上の僕の手を捕まえた。彼女の手は重くて優しかった。彼女は僕をただ見つめていた。
「わかってるでしょう。」
「わかってるよ」わかりたくないだけで、僕はそれを知っている。
「でも…っ」
鋭い痛みが走った。彼女の爪が僕の手の甲に食い込んでいた。血が滴りテーブルに落ちる。
「あっ、ごめんなさい」彼女はすぐにおしぼりを傷に当ててくれた。泣きそうな顔だった。
「いや、僕のほうこそごめんなさい」僕は彼女を傷つけた、彼女は僕に小さな傷を与えて、それがまた彼女を傷つけてしまった。
「あのさ、アヤさんはこういう時どうしてたの」
アヤさんは何でもない風に笑って言った。昔から作り笑いが上手だ。でも僕は敏感だからその奥の深海みたいな悲しみを感じてしまう。
「食べるのよ、当たり前でしょ。私たちは吸血鬼なんだから」
残酷な答え。僕はそれを求めてた。自分を納得させるために。手に取れるくらいはっきりとしたその答えを僕はずっと前から知っていた。理解してるつもりだ。頭の中では。
でも…
刻まれた爪の傷跡が僕を戒めるようにそこに残っていた。