カナン戦1戦目 オマー爆破テロ事件は事実ですが、このお話はフィクションです。 犠牲になった方々に哀悼の意を表します。
しまった、と思った時にはもう遅い。
(燃える悪霊の、カナン!)
何かがガキンと言霊を弾いたころには、俺は名乗っていて、
悪霊の結界の中にいた。
そこは360°、空だった。
ホワイトタワーの歴史ある石の天井も、ロンドンの高層ビル群もない。
足元に、北アイルランドティローン州州都、オマー。俺の地元。
長閑だけど、田舎というには便利な地方都市。商店街はそれなりに賑やかでカラフル。街を抜けると緑の地平線が、バリカンで刈った髪みたいに均整に、でも未来にのびるみたいにのびのびと拡がる。
英国軍基地があって、父は昔ここの軍属だった。
突出した豪邸があるってんじゃない、お仕着せみたいな質の良くない煉瓦の建物の住宅地、その多くは二階建て。メイン以外の路地は狭い。
でも空は広い。
ロンドンみたいに高い建物がないから、どこまでも無限に、気ままにひろがって
羽のある人間を孤独にする。
あの日俺は郊外の空から、それを見る。
俺は生まれつき飛べた。
魔力、霊力、フォース、ザ・パワー。オカルト業界でいうなら、エーテル。体力みたいに人間の肉体内に収まって不可視のはずの力。
これが多すぎて、体から漏れて、羽の形で物理的に存在してしまう奴。そいういのを翼人っていう。
うちの父方の親戚には時々そういうのが生まれた。らしい。百年にひとりとかだからもう伝説のレベルだ。とはいえそういう事情があって、あんまり人里には近付かなかった。はずなんだが、こっちが近づかなくたって、人里は拡張する。
加えて俺の両親はノーザンアイリッシュロミジュリ、つまり国教会家庭とカトリック家庭だった。北アイルランドのプロテスタント諸派連合(メソジスト、長老会、国教会、他)VSカトリックの宗教対立は、これが先進国イギリスかよってくさくさしちまう程度には、根が深く、激しい。
俺がガキの時分は、空から英軍ヘリが治安監視してたし、爆破予告による避難は日常のピースだった。
北アイルランドでは公式にカトリック信徒を差別する法律なんてものもあって、両親が結婚する頃には撤廃されちゃいたが、当時その名残は深雪に重く、溝は海溝に深かったと思う。
その状況で恋に落ちた二人が家を飛び出して出た先が、手近な都会のオマーだ。
オマーはベルファストやデリーなんかより、リパブリカン(過激派カトリック)とロイヤリスト(過激派プロテスタント)がうまく目線を逸らしあってたし、信教に人間関係が引きずられ過ぎてなかった。
両親はオマーの英軍駐屯地付近にいたが、俺はこの羽のせいで婆さんちに押し付けられる形で預けられていて、オマーとはいえ郊外も郊外にいた。この婆さんが、カトリックだった爺さん亡き後主を愛せなくなり、自分のルーツたるドルイド信仰に突っ走ってたおかげで、俺は宗教対立にはイマイチ疎く、ついでに色んなケルトの風習に触れられた。
若かった両親に羽の生えた子供は重かった。
二人の兄とたまに来て親と名乗るひと、かつて俺にとっちゃそれが両親だった。
親の目を盗んでしこたま虐めるひと、それが兄だった。
なんか、羽があることはダメなことだった。
兄二人には、幼い嫉妬もあったんだと思う。
空が飛べて、そこにはいないのに両親の気を引き続ける末の、交流のほとんどない弟。あまり年の離れてない兄弟に、それは、深雪に重く海溝に深い。事だったんだろう。
俺たち兄弟は、何度会っても馴染まなかった。
『んふ、だから手を貸したの?』
誰もいない空から女の子の声がした。
空から。
恐ろしいもんで、人間ってのは出所不明の声を神霊の類と思いたがるんだな。
空にいる俺は声に反応しそうになった。「違いますけどぉ!!?」つって。
ただしいものに俺は無実ですってみとめてほしいっていう、衝動だったし、反射だった。その反応は社会的生き物として間違ってるか? 集団からはじかれたら、狼だって野垂れ死ぬんだぜ。
ここでものを言ったのは、オカルト業界経験だ。
不可知のものに反応するな。
俺は沈黙を保った。
拳をぎゅっと握って。
その拳があまりに小さい事に、そのとき気づいた。
握力が覚束ない。
見れば、手は3、4歳児のものだった。
どっと、経験が押し流されそうになった。
反対に記憶が甦る。
(流されるな、俺はプロだ!)
唇を噛んだ。
記憶が黄泉還る。
(オマーは平和な)
俺はプロだ。
ぎゅうと目をつむる。
(平和な方だったんだ!)
『だから思わなかったって言うんでしょう。平和だったから。子供だったからって』
(だからそれは、悪いことか⁉︎)
実際俺は子供だったし、どんなに緊迫してたって、平和しか知らなかったんだよ!(流されるな、反応するな!)
血が出るくらい唇を噛んだ頃、
「きみ、ダヌバンディアかい? へぇ、初めて見たな!」
実存を持った声がした。
(反応するな)
俺の目蓋はいっそ目玉ごと持ってくんじゃないかって勢いでかっぴらいた。
痛い。
見まいとするのに、声のする方に、眼球が動く。
どんなに力を入れたって、目は、自力でどうこうするには限界が、(そんな言い訳じみたことは考えるな、悪霊の思う壺だ!)
視界の先では、おじさんが、曖昧な子供の記憶らしく、太ったり痩せたりしながらそこにいた。
軍用車の窓から、身を乗り出している。
記憶が蘇る。
感情が、ツナミみたいに胸を覆ったんだ。恐怖だった。
空を飛んでるのは、見られちゃいけない事になってた。見られた後は親父に怒られるわ母ちゃんに泣かれるわ兄貴らに悪者扱いされるわでろくなことにならなかったから。
特に兄らの「正義の鉄槌」は怖かった。金槌で俺の大事にしてるものをめちゃめちゃに殴り潰す。
「これは母さんを泣かせた罰だ」とか言われると、悲しいかな子供の俺は、受け入れるしかないと思った。
受け入れることが正しいと思ってた。
俺は正しくありたかった。
正しくあればいつかこの不愉快な家族関係もなんとかなるんじゃないか、神様がなんとかしてくれるんじゃないかって思ってた。
不器用な親父が訪うたびにプレゼントしてくれた英兵フィギュアも、母が差し入れてくれた瓶詰めキャンディも、祖母お手製のナナカマドのお守りも、だから正義に粉砕されるに任せた。
とはいえ砕かれる瞬間、物体の割れ目・裂け目・砕け目から噴き出す石粉・ガラス片・水飴・木屑になにか、別の、目に見えない、無念・悲鳴・疑問・思い出・怒りみたいなものが混じっていることに、気づいてないわけじゃなかったんだ。
見られたなら、身を隠そうと思った。見られた事そのものをうやむやにして、なかった事にしたかった。
でも俺の飛べる高さの空に、俺を隠してくれるものなんてなかった。
雲は雲の上の存在だった。高すぎて俺の味方じゃなかったんだ。
混乱した俺は(反応するな)
いつのまにか(反応するな)
おじさんに懇願してた(反応するな、声をあげるな!)
声帯も、自力でどうこうするのに限界があるって点では眼球と大差ない。
動かすまいと力を込めても、顔の筋肉ってのも、実は自力でどうこうするのは難しいもんだって思い知る。
顎と喉に力を込めた結果だったんだろう。
俺からは、およそ幼児とは思えない、事故ったカエルの断末魔みたいな音が出た。
「ヲ自さン、ダレニも、いわないDe」
ああーこういう声悪魔祓いバラエティみたいな特番で悪魔つきさんから聞いたことあるー……。
おじさんは膨張したり収縮したり老年になったり中年になったりしながら、笑って「いいよ」と応えた。
俺はホッとした(反応するな)。
心底ホッとした(反応するな)。
軍のことはよく知らないが、軍は父の職場、軍用車は父の車って認識があった。父と同じ仕事の人なら、裏切らないと思った。軍は、国民を守るためにあるって父が言うのを、信じていた。
「ダヌバンディアは我々と同じ、英国を守るものだからね! いわば同志だよ。
で、同志。そこからちょっと、見てくれないかな。裁判所の前に、赤い車はある?
ほら、あの建物だよ」
おじさんはそう言って、双眼鏡を差し出した。
俺は止めたい腕をギリギリさせながら、受け取ったし、見たし、応えた。
いっぱイあルよ、ていうか、クる魔でイッパいだよ。
おじさんの顔色がさっと変わって「双眼鏡を返してくれ、ありがとう同志」と言って車を発車させた。
それからしばらく、俺はおじさんの示した先を見てた(反応するな)。
そして
爆発音。
衝撃波に襲われて目を瞑る「反応するな、もう目を開けるな!」
俺から俺の声がして、俺は目を開いた。空から女の子の哄笑が聞こえてきたが、それどころじゃない。
オマーが燃えていた。
家族のいるオマーが。
俺は夢中で飛んだ。
誰も空なんか見なかった。
何が起こったかわかんないってこえーよ。
俺は爆心に向かった。
両親を助けなきゃと思った。
心臓が千切れるくらい、あのとき、両親を思った。
『そう! そおぉ! お前の大切なものは、両親なんだねぇ!』
なんか女の子の声が聞こえた。
俺は妙に熱い建物に降りた。
地上はけぶって、カラフルな商店街なんてどこにもなかった。
爆心では、ひとから炎があがっていた。
それなのにそのひとは動かなかった。
みんな逃げ惑っていて、誰もそのひとに声をかけようとしない。
俺はそのひとが両親でないかどうか確かめようとして、
「ガキが何やってるんだ! ばかやろう、にげるぞ!」
大人に首根っこをつかまれた。
「ちくしょう、リパブリカンの糞野郎、糞野郎!!」
でぶっちょの、血塗れの大人だった。
この時俺を助けてくれたのが、爆風で建物の屋上まで吹っ飛ばされて奇跡的に一命を取り留めるも、のちにロイヤリストテロリストになるジャックだった。
1998年8月。
世に言うオマーの爆破事件だ。
主な参考文献およびサイト:
渡辺洋子(2014)『アイルランド』―自然・歴史・物語の旅 三弥井書店(既出)
武部好伸(2010)『【改訂版】北アイルランド「ケルト」紀行』彩流社(既出。本当にお世話になりました)
「The Omagh Bomb: 15 August, 1998」http://www.wesleyjohnston.com/users/ireland/past/omagh/main.html (※メニューページになります)
「No public inquiry into Omagh bomb says NI Secretary」
https://www.bbc.com/news/uk-northern-ireland-24062543
「Bomb atrocity rocks Northern Ireland」
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/151985.stm#sa-link_location=story-body&intlink_from_url=https%3A%2F%2Fwww.bbc.com%2Fnews%2Fuk-northern-ireland-24062543&intlink_ts=1591286886096-sa
「オマー爆弾事件、真相究明のインクワイアリーの道が閉ざされた。」
https://matome.naver.jp/odai/2137898293492522901
「北アイルランド和平プロセスの今」http://peacebuilding.asia/north_ireland2017/
「【ルポ】北アイルランド和平20年の危機 ブレグジットでカトリック系とプロテスタント系の対立再燃」https://news.yahoo.co.jp/byline/kimuramasato/20180408-00083714/
「【北アイルランド・ルポ】暴動に巻き込まれて亡くなったジャーナリスト その背景とは」
https://news.yahoo.co.jp/byline/kobayashiginko/20190519-00126082/