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Kanaan  作者: や
2章 本戦
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本戦外典:下 生きている理由がない、それがないなら・その人がいないなら・そこに行けないのなら

 俺を助けてくれたのが誰なのか、あの見覚えのある魔女の正体を、俺が知るのは、少し先になる。

 母が死んで以来、俺は次第に発作を起こしやすくなった。

 任意入院が必須入院になり、大きな病院といったりきたりを繰り返すようになった。

 発作が起きると、目の裏が熱くなって、筋肉が変にひしゃげ、胸全体が重く痛み、歯を食いしばるから顔も頭も痛くなる。発作から回復しても、待っているのはママの形に空席のできた世界で、担当ケースワーカーのアビーは見舞いに来たり来なかったり。施設の職員も来たり来なかったり。みんな、俺以外のことで忙しいのだ。

 俺のことで忙しくしてくれるのが「ママ」だったんだと思うと、世界は静かに明度を落とした。

 病院は、何度も読んだ本をまた読んでいると「大人しくていいこ」という評価を得られる退屈なゲーム盤の上にあって、ルーレットの出目によっては病状が安定した日が続く。ドベを踏んで発作が起これば、振り出しに戻る。回復すれば、またルーレットが回る。繰り返す。繰り返す。

 疲れた顔のアビーが疲れた笑みで「今回も乗り越えられて、良かった」という景色はママが俺に見せてくれたものより随分色褪せていて、アビーは「良かった」の後に「私の宝物さん」とか「あなたがママの生きる希望なの」とか無言でハグしてくれるだとか、そういうキャンディはくれない。くれるのは、溶けかけのハーシーズと「ご褒美だよ。よく頑張った」という大人が大人にするような労い。

 悪くなかったけれど、アビーのキャンディはママのくれる諸々より甘くない。

 ママにもらっていた甘みの原料が「親子」という特別な関係性由来だと知った時、つまりアビーはママにならず、今後誰も俺のママにはならないのだと知った時、多分俺は絶望という語彙の本当の感触を知った。

 容体の安定と、破綻と、虚しい回復。

 これが、あと何回繰り返されるだろう。


「俺、いつ、治るの」


 医者に聞けば、「心臓を取り換えるまでだ。希望はある。NHSはきみを見放したりしない」

 心臓を取り換えるってことが俺以外の誰かの死と密接に繋がっていることを、俺はまだ理解しておらず、心臓は研究所や培養室で日夜生産されていて、多くの人(例えば、お年寄りとか)がそれを必要としてるから小さい自分にはなかなか回ってこないのだと思っていた。ひとりにつきいっこしか備わっていない内臓なのだということを理解するには、まだおつむが足りなかった。

 当時7歳の俺の大問題といえば、


(治っても、ママは、いないんだ)


 そればかり。

 形見のママの手帳を、食べるんじゃないかって勢いで何度も見た。

 意味のわからない単語は調べて、少しずつ読み解いていった。毎日、隅々まで点検する。見つけていない単語や走り書きがあるんじゃないかと思って。

 本当は、いずれ新しい言葉が追加されるような奇跡が、起こることを期待していた。


 奇跡なんてものはない。


 入退院と転院を繰り返して、季節は冬。

 何もかも灰色になる季節。雲はどうしようもなくなって項垂れる首みたいにどろんと垂れ込め、窓の外には入院した方が良さそうな枯れ木が並んで患部の痛みに耐えるように立っていた。誰にもオーバーコートを着せかけてもらえない北風が、ママを亡くした時の俺の癇癪みたいに荒れていた。

 大きな病院にはホスピスにはいない特大の怪異がいくつもいて、大きな病院はホスピスより子供向けの娯楽がなく、クロイドン・エッジ・ハウスと違って善き隣人はほとんどいなかった。

 寒くなるにつれ、俺の病状は悪化した。冬の長いロンドンで、短い日照時間と孤絶は、俺の寿命をカウントダウン段階まで持っていくようだった。

 ホスピスには当時、俺くらい重い心臓病患者をカバーする余力はなく、俺はでかい総合病院で、アビーと担当医と何人かの親切な看護師に看取られて逝くものと思っていた。

 どうでも良かった。

 治ったところで、ママがいない問題は解決しないからだ。

 容体の安定と、破綻と、虚しい回復。これが俺の前に広がる未来の形だと思うと、恐ろしく、めっちゃくちゃに丸めて棄ててしまえれば楽なのにと思う日が続いた。

 そうやって泣いた日の夜は、手足がめちゃくちゃに生えた泥みたいな怪異が、俺の病室に来るようになった。

 やつは夜中、寝入る間際にやってきて、「こっちにおいでよ」とないはずの口で誘いかける。

 死がどうでも良くなってすら、俺は怪異が怖かった。

 大人は怪異を信じない。わかっていても、誰かに相談せずにはいられなかった。


「お化けが出るんだ。ホスピスに帰りたい」

「大丈夫、きっとそれは夢だよ」


 以上。終わり。大人の対応。俺はわかりやすく弱っていった。

 そんな中看護師の中に、一人だけ、俺の困りごとを「夢だから」と却下しない奴がいた。

 小児が専門じゃないけど、よく小児病棟に来る看護師だった。

 妊婦さんだったから、いると物珍しくてつい見てしまう看護師。

 彼女の名前は、マリア。


「初めまし。リアンす。こないだ切れた内臓の神秘が確認できるまでモルモットとして通院中です」


 魔女は怪異を大胆なひと踏みで霧散させて、儀礼としての挨拶をすると、「じゃあお大事に」と去ろうとした。

 俺は彼女を見間違えなかった。


「まままままま、待てよ魔女!」


 彼女だ!

 と思った俺は、消灯時間の過ぎた病室で読書灯をつけ、魔女に向けた。

 魔女の目の下は青黒いクマができていて、弾道みたいな目は夜のせいか昏く沈み、長い金髪は伸ばしっぱなしで荒れていて、顔は頬骨が浮くほど骨と皮だった。黒いロングダウンコートを着てフードを被っていたので、魔女が眩しさに手を翳さなかったら、生きてる人間でなく死神だと勘違いしたと思う。


「なんだなんだ穏やかじゃねぇな」

「お前! お前、ロンドン中に呪いまいてる魔女のヴィクトリアだろ!」


 乏しい光源の中でも、魔女の顔色が変わったのがわかった。

 子供でも、相手を緊張させた瞬間てのは、わかるもんだ。

 俺はママの手帳を取り出して、魔女の写真が貼られたページをふるえる手でようやく開くと、突きつけた。


「俺のママは、お前の呪いで死んだんだ!」

「……ヘルガ・ホフマン記者か。こいつぁ驚いた」


(魔女が罪を認めた!)


 俺は勝利すら感じた。どん、と心臓がはねる。喜びだろうと怒りだろうと、興奮すると、発作は起きる。

 俺はたちまちベッドの上で上半身を折った。呼吸が早くなる。目の奥が熱くなって、胸郭がギシギシ痛む。

 魔女が何か言うと、魔女のコートの裾から、額に宝石をつけた、善き隣人がぬるんと出てきた。クロイドン・エッジ・ハウスでたまに見るタイプの隣人だ。

 俺が反応できずにいる間に、善き隣人は俺の背中にへばりついたようだった。背中から胸にかけて、じんわりぬくもりが広がって、痛みがやわらいでいく。

 呼吸が整う。

 魔女は、一部始終を黙って見ていた。


「ママは。…………お前を、捕まえようとして。………………屋根から落っこちて。死んだ。……お前が、呪い…………殺した、だろ」


 荒れた呼吸を鎮めながら、ようよう吐き出す怨嗟を、魔女は黙って最後まで聞いた。


「私は魔女で間違いねーけど。

 娘と夫亡くした未亡人追い回して、休む隙も悲しみに浸る時間も真実のために差し出せつって追い回して、心が病んで言葉が出なくなっても報道の自由かざしてなお追い回して。魔の側にあるのは、お前、誰だと思う」


 俺は生まれてこの方投げかけられたことのない長い倫理文章題を倫理の真逆にいる(と思っていた)魔女に投げつけられて、面食らった。


「あまつ、正規のルートで入国して仕事してただけの他国人を移民をいいことに誘拐犯同然に報道したのはヘルガ・ホフマンだったな。

 あれは天晴れだった。こちらに報道の目を向けたおかげで、母にへばりつくパパラッチを少しは引き剥がせたからな。師匠も楽しんでたよ」


 俺は、褒められたのかけなされたのかもわからず、ただ警戒して魔女を睨みつけた。言われた内容はよくわからなかったが、ママの名前が出たことはわかったから。この頃の俺の語彙に「煙に巻かれる」という言葉はない。


「いい目。そう。仇討つならそうじゃねーと。それだけ生命力あるガンとばせれば、怪異の類ってな寄ってこれねぇから」

「カタキってなに」

「敵のこと。私のわがままっちゅう呪いがイギリス中で死ななくて良かった人を殺したのは。そらそう。ヘルガもその一人だろう。あんたのお袋は、私の呪いにあたって死んだ。あんたもそうなるかもな。魔女の正体を知るってなそういう事だ」

「俺、死ぬの!?」


 俺は思わず叫んだが、不思議と恐怖はなかった。多分、後ろにへばりついてる善き隣人のおかげだと思う。

 冬にも関わらず、隣人をまとった俺の身体はポカポカして、心地よかった。

 魔女は肩をすくめた。


「人間誰でも死ぬし。ただ、魔女の呪いは回避できる。魔女を殺せば。できるかな」

「どうやって」

「自由。ただし確実に息の根止めろ。魔女の正体広めりゃ、広められた側にも呪いは及ぶぞ。魔女に半端に怪我させた程度じゃ、呪いが深まると思え。できるか? 孤独な戦いだぞ。

 とはいえそうだな、あんたのママはいいとこまでいった」

「ママが?」


 今思えば、魔女はこの時、俺と話すコツを掴んでいた。ママの話をすれば、俺の関心は簡単に釣れる、と。人心を惑わすために人心に通じているのが、魔女なのだから。


「ママは優秀な戦士だった、でも私の呪いからは逃れられなかった。あの日ヘルガが私を捕まえに行ったホテル。私はそこに寝泊まりしたこたないんだが……さ、魔の出番だ。誰がその情報を彼女と彼女のアシスタントに与えたと思う?」

「……それって、ど」


 その時、自分でも驚くくらい、でかい涙が俺から溢れて、言葉が出なくなった。

 ママの話をするうち、ママの記憶が膨らんで、破裂してしまったのだ。

 どんなに忙しくても置いて行ってくれるバースデーカード、あんまり上手じゃない料理、底がはがれてパカパカした靴を履いて買ってくれる俺の新しいサイズの靴。どうしても抜けられなかったクリスマスにした喧嘩、点滴の間中読んでくれる絵本、夜中なん時に起きても書き物机で言ってくれた「こんな時間にどうしたの」。「怖い夢を見たの?」「怖いものを見たのだね」「ノアは嘘つきなんかじゃない。あなたに見える世界は、ちゃんとあるんだよ」


 ママは。

 誰かに。

 おびき出されて。

 死ぬように仕向けられたんだろうか?


 気づいたら俺は泣きじゃくっていて、善き隣人が後ろから頭を撫でてくれていた。魔女の使い魔かも知れないが、善き隣人は実際、善き存在なのかも知れない。


「呪いだよ。全部ぜーーんぶ魔の側による。恨むなら魔女を恨みな、それも魔女の仕事のうち。

 さ、そろそろ巡回が来る頃だろう。私はマリアの願いは叶えた。あんたはマリアに感謝して、寝ろ」


 瞬きをしたら、朝だった。

 俺は随分ぐっすり寝ていたそうで、起こしにきた看護師に笑われてしまった。その日は数値も血色もかつてないほど良く、これが続けば退院できると言われた。

 俺は慌てた。

 魔女は、確かこの病院にモルモット的に通っていると自己紹介した。

 数日、体調をみて、歩き回ってヨシと診断された俺は、外来受付にはりついた。勿論、魔女を見つけるためだ。

 魔女は見つからなかった。魔女が職員通用口から出入りしていたと知ったのは、ひと月経って、俺が退院し、クロイドン・エッジ・ハウスにまた預けられるようになってからだった。

 魔女は実習生として、クロイドン・エッジ・ハウスで働いていた。アプレンティス、という単語はこの時覚えた。

 今にも死にそうな顔をして、目の下に濃いクマを作ったまま働く魔女は、ただの小柄で疲れた女の子に見えた。


「おい魔女!」


 俺を見た魔女が驚いて見開いた目の紫と、「マジか! 縁あるな!」と破顔した時のくしゃっとなったクマを、俺は忘れられずにいる。

 魔女でも笑うんだ、という衝撃と、その後噂で知ることになる魔女の境遇(マリアって看護師の家で夜泣きのひどい赤ん坊のベビーシッターをやっているという)、殺さなければ呪いがかかるという運命は、四六時中、俺に魔女のことを考えさせた。

 母の死のことも。

 彼女の突きつけた倫理問題も。


 一度、魔女に、彼女の母親のことを訊いたことがある。


「職員のプライベートは教えられませ〜ん」


 と雑にあしらわれた。

 まだまだ子供だってことだ。

 年嵩の連中(と言っても今の俺くらいの歳だが)の間で、魔女をデートに誘うのが男女問わず流行ったときは、友達を守るために、リチャードとデイジーにあいつが魔女であることを打ち明けた。

 真面目なリチャードは「女性を魔女呼ばわりなんて許されない!」と怒り出し、以来、俺たちはギクシャクするようになった。これも魔女の呪いのひとつだったのかも知れない。

 デイジーは、魔女を魔女であると分かったうえでデートに行って「あんなエスコート上手になりたい!!」と目を輝かせるようになった。まんまと魔女に魅了されやがって。先週死んだのだって、症状の緩やかな進行によるものなんかじゃなく、魔女の呪いが成就しただけかも知れない。


 嘘だ。

 本当は知っている。


 クロイドン・エッジ・ハウスに、大人になれるまで生きられる病状の子供はいない。

 ハウスは日々施設が充実して、大きい病院に行かなくても手術が受けられるまでになった。施設内伝説では、塔の上にお姫様が入院していて、お姫様を不自由させないために、ハウスは拡充を続けているという。

 俺が心臓発作を起こしてから、リチャードもデイジーも塔の謎住人には触れなくなった。二人なりに罪悪感を持ったのかも知れないし、興味をなくしただけかも知れない。真相を知る前にデイジーは死んでしまった。俺はリチャードとはそんなことにならないように、なんとか関係を良好なものに戻して、腹を割って話せる親友に返り咲きたい。

 生まれて親友の一人もなく死ぬより、俺は親友のいる人生だった報告を持って、ママのいる天国を訪問したい。

 そうこうするうち、今度は魔女が突然ハウスを去ることになって、俺には心臓移植手術の話が舞い込んだ。

 デイジーが抜けた穴は大きくて寂しいが、ハウスにいれば、死は不貞腐れて泣き喚くことじゃないってわかってくる。人間は、みんな死ぬってわかってくる。

 俺がしっかりしてないと、デイジーが天国でハラハラしちゃうかも知れないことも。


 この手術を越えれば、俺は少しだけ、長生きできるかも知れない。

 長く生きれば、魔女に子供としてあしらわれない明日もあるかも知れない。

 魔女が振りまく呪いというもの、その正体を知る日が来るかも知れない。魔女の隙をうかがっていてわかったことがあるとすれば、魔女が意外とよく笑うこと、魔女は話す時に相手の目線までしゃがむこと、魔女がマリアの話をしがちなこと、魔女の動きが敏捷で猫みたいによく動くこと、魔女は呪いをまきたくてまいてるんじゃないんじゃないの? ということ。

 魔女は献身的で、ノリがよく、頭はイマイチだがそう悪い奴でもなく、なんというか、普通。普通に女子。

 

(生きてみれば。発作と発作の間が続く世界であろうと、わかるかも知れない。魔女を観察するうちに、魔女の情報が増えてったみたいに)


 魔がなんであるのか。ママがしていたことが本当はどういうことか。魔女自身を魔女の呪いから解く、ということは可能なのか。魔女から魔を引いたら普通に女子になるのか。

 それがわかるまで、ママもデイジーも取りこぼして俺のことも振り落としそうなポンコツな世界だけど、俺は存在してみたい。


 手術は怖いが、魔女がよくわからないマジックアイテムをくれた。

 俺は越えられると思う。

 魔女を殺すことと同時に、殺さずに済む道を探すことも視野に入れる、そうすることが、なれはしない「大人」に「近づける」手立てだと仮説を立てて。

 手術着に着替える。



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