シーホース:タツノオトシゴ。きれいな水にしか棲めない。 大悪臭:テムズ川が汚れすぎて臭かった。1858年夏。
マリアは顔をしかめた。
俺は茶を啜りながら、引っ越されたばかりの部屋を見渡した。
リフォームはしてあるが、建物自体は古い。実に英国、実に懐古主義。
外界の音が遮断された室内には、アマーリの寝息さえ聞こえる。
「マリアもちった聞いてんだろ。
リアンの妹、リザークレスは今回、生贄に当たんだ。
そこでダヌバンディアは静かにわれた。紀元前みたいにな。
生贄やむなし派と、ふざけんな懐古厨派だよ。そらそうだろ。ほんで5年前から冷戦してる。
この部屋の元々の家主ってのはさ、つまりリアンと派閥が同じで、でもリアンほど斬った張ったに秀でてないんで、部屋だけ貸してフランスに避難してんだな。
戦前と違って、現代の貴族は直接は戦わないもんだしな」
「でもこんなフラットを持ってるなら、少なくとも成人はしてるんでしょう。リアンちゃんはまだ未成年、子供だわ。どんな魔法が使えたって、子供を前線に立たせるなんて」
マリアが俺に非難めいた目線を投げる。
俺は眉を上下させて、俺に言われてもな、と示すしかない。
マリアは不満げにティーカップを持ち上げて、フォアマザーを口にした。気持ちを落ち着ける作用のある茶だが、果たして。
「しゃーねぇしゃーねぇ。
いつだって生贄なんて古い制度に異議申し立てるのは若い世代なんだよ。ここはパンクの国だぜ。
そもそも今回、オバケちゃんだって没年齢なら14歳だ」
マリアがそのまま続けなさい、と目で命じる。クライアント様の仰せのままに。
「内部分裂があったんだよ。内ゲバってなダヌバンディアのお家芸みたいなもんでさ。
17世紀。
そもそもダヌバンディアがダヌバンディアとして英国社交界に擬似ティルナノグ抉り出そうとした時にも、生贄と、英国内の宗教抗争があった。隠れ里に、魔女狩りの手が伸びてきたんだよ」
俺は目を伏せて、腕の中のアマーリを見た。
4歳。
俺にとってはだいぶん意義深い年だ。アマーリにとってもそうなるか、もう既になっているんだろう。アマーリの世界からは、姉ちゃんと妖精がいなくなって、夏が終われば幼児教育課程が始まる。
30分後、俺がマリアに昨夜のカナン戦を詳細に報告していると、ヤードからマリアの携帯に電話がかかってきた。
興奮を冷まそうとしました。と供述する17歳の少女がテムズから引き上げられ、この番号を連絡先として述べたという。
目がいっちゃってますが多幸感をもたらすドラッグでもやってるんじゃないですか、いえ薬物反応は出てませんけど本当にやってないんですよね、と疑われながら、俺は生まれて初めて護衛対象を警察署に迎えに行った。
テムズ川は近年、シーホースで話題になったとはいえ、大悪臭で英国史に不名誉を刻んでいる。
俺は妖精が人目に触れないのをいいことに、ファイアに頭上にいるよう頼み込んで迎えに行った。この時ほど、『妖精の吐息』というデオドラントスプレーについて真剣に考えることは、この先一生ないと思う。
オートロック対策として部屋に残されたマリアは、予定通りガサ入れを決行し、自分の高校時代の盗撮写真が引き伸ばされて貼ってある壁を発見した。
虎に包まれて寝かされたアマーリは、翼の生えた顔色の悪い子ども数人と楽しく遊ぶ夢を見たそうだ。
盗撮写真の件でマリアに頭が上がらなくなったリアンは、その後マリアに部屋に来るなと言えなくなったが、マリアはアマーリを連れてこなくなった。
「マリアがなんでか知らねぇけど合鍵持ってんだから、マリアも連れてみんなで署まで来てくれたら良かったのに」
迎えにいった先で、リアンには文句を垂れられた。
合鍵の製作には千里眼のウチの社長が一枚噛んでるわけだが、明かすと俺の方がリアンに頭が上がらなくなりそうなので。
「テムズに飛び込む方が悪いんだろ、お前の行動がそもそも頭悪いんだから文句言うな」
大人はテムズより汚ねぇからな、企業秘密ってやつだ。
でもテムズにだってシーホースはいるんだぜ。
いるんだ、Sinser Kanaan.