4-32 だって身体が動くから
――俺が絶対に助けてやるから。
醜い巨獣『キマイラ』へと姿を変えられてしまったドリマンは、初めて差し伸べられた優しさに瞳を震わせ、一時的に動きを止めた。
毒液の雨が止んで、悠太は視線を落とす。
毒を受けた右腕が段々と上がらなくなってきた今、頼りは無傷の左腕である。
啖呵を切ったはいいがとにかく時間がない。
タイムリミットは悠太の体力的が尽きるか、ドリマンが苦痛に負けて身も心も魔物と化してしまうまで。
課題は、三つ首の中央、豚の額に沈んだ魔導具『蝮女樹の呪珠』の破壊。
失敗は許されない。
無駄に傷つけて痛みで暴れさせることは避けたかった。
「できるだけ傷つけずに、一発で、魔導具だけ破壊するためには……」
ドリマンの身体が沈んでいるのは豚の頭部でよく動く。
魔法では先ほどの感覚からして照準を合わせることに難がある。
呪珠を握るドリマンの左手は既に額に沈み込んでしまった。
ステータス画面では、一定の距離にしか浮かべられない仕様上、射程に難がある。
残るは腕に装備した『大蔦豚の篭手』だが、ツタで四肢を縛る技『四蔦縛』は破壊には向いていない。
「欲しいのは……命中の精度と、ある程度のリーチ」
呟き、左腕に力を入れる。
篭手が反応して、緑色の蛍光ラインが入る。
――魔王の双剣を持つ少女、ネピテルがクエスト『水晶林の歌舞伎者』で披露した新技は、『傀儡界雷』という技のリーチ面にある難を見事に克服していた。
クエストから戻った後、揃って宿屋の皿洗いに取り組む中で「いつあんなの覚えたんだよ?」と尋ねてみた。
すると少女は人差し指で皿を回しながら得意げに、平たい胸を張って答えた。
――魔導具の御技を使う時、素材の魔物の声が聞こえるだろ?
あれに応えて精神を魔導具に潜入させるのさ。
精神を浸食されないように深い所まで入り込めたなら、新しい能力が開花することがある。
あっけらかんと打ち明けた少女は、かつて魔導具に身体を乗っ取られたことがある。
危険だろうと叱ると「ボクが乗っ取られたのは身体だけだもん。身体は好きにできても心は屈しないんだもん」などと意味不明の供述ではぐらかしていた。
ともあれ、手札と時間がない今、賭ける価値のある可能性だと思った。
「……他に良い手も思いつかないんだ、やってやる」
悠太の篭手が御技を繰り出すたびに脳裏に響く声は――『貪れ!』
かつて辺境の村を食いものにしていた巨大な魔物『大蔦豚バビルーザ』の生前の愉悦に誘う言葉である。
――左腕を前に突き出す。
無光沢な深緑の篭手に集まる粒子が一層強くざわめいた。
すると、いつも通り頭の中に声が響く。
――貪れ! 獣欲が突き動かすままに!
悠太が目を伏せ、力の具合を一定に留めると、意識は暗闇の世界へと誘われていく。
そこは仄暗く淀んだ世界、禍々しく黒ずんだツタが蠢く世界であった。
そして野太く豪胆なその声は、間断なく悠太の頭へと流れ込んできた。
――蹂躙せよ! ねじ切れ、突き刺せ、打ち砕け!
やかましい猛り声の中、意識を投げ出し暗闇の奥へ奥へと沈んでいく。
深度に比例して、思考が黒いものに浸食されていった。
まるで魔導具の意思が乗り移ってきているかのように、まるで魔導具に乗っ取られていくかのように。
ツタに足を取られた人間が這いつくばるのを見下ろす征服感。
幸せな絆をツタで絡めとり引き剝がす快感。
四肢を吊るした無抵抗者を好きに甚振ることができる優越感。
人間なら心のどこかに隠している残忍な加虐願望。
――支配せよ! 力で、恐怖で、全てを従えよ!
魔物の力はそれらを満たしてくれる。
更に深いところに、淡く緑に輝く光の玉があった。
手を伸ばすと、光玉の中から細いツタがいくつも伸びてきて、悠太の腕を絡めとる。
そして光を捕らせようと強く引き寄せるのである。
声は一段と、悠太を惑わすべく大きくなる。
――力はくれてやる! 犯せ! 殺せ! 楽しもうではないか!
「……わかった……ありがとよ」
悠太は意識の世界で、言われるがまま緑光の玉を掴み取った。
――その瞬間、黒い声と感情が歓喜の声を上げたが……今はそれどころではなかった。
悠太はニッと白い歯を見せると、笑って言い渡す。
「……だけど、悪いがお前の力はお前の為なんかに使ってやんない」
歓喜が一気に怒号と悲鳴に変わり、頭の中は非難轟々の嵐となった。
手に取った緑の光から数多の細かいツタが伸び、悠太の全身を絡めとって精神を暗い世界に縛り付けようとした。
そんなことに付き合ってやれる時間もないので、全て無理矢理引きちぎって意識を浮上させた。
「少しは償えよ、お前の力は――沢山の人を助けられるんだから!」
脳内の声を全て黙らせて、悠太はカッと目を開く。
視界には光の板と、激しく発光する左腕の篭手。
光の板の形状は円形――ステータス画面と対を成すイクイップ画面であった。
十字に四分割されたその画面の『大蔦豚の篭手』の枠には、『四蔦縛』の他に二つ、御技が追加されていた。
「……わかる、この技なら!」
悠太は左腕を突き出したまま、毅然として叫んだ。
「研ぎ澄ませ――『四蔦縛成・剣』!」
篭手からツタが勢いよく飛び出して、互いに激しく絡み合う。
造り上げたのは、篭手に備わる緑光の手甲剣であった。
刀身はツタがきつく絡み合っただけなので、外見上はドリルとの表現が似合う。
窄められた先端の鋭利さは刺突武器として十分に活用できる。
「行くぞ」
悠太が手甲剣を振りかぶり腰を落とすと、見上げる先の巨獣はズシンズシンと足踏みをして苦しそうな表情を少年に向ける。
豚の額にはもうドリマンの目鼻口だけしか残っていない。
悠太はレベルにより強化された脚力で地面を蹴ると、真正面から豚の顔へと跳びかかった。
額の魔導具を守るように、醜悪な豚顔がガパリと口を開き、鼻の歪むような臭気と共に紫の毒液で迎撃に出た。
「痛い、我慢、できな、おえぇぇぇ!」
まだ人の意識があるだけ上出来であった。
悠太は毒で細かな動きができなくなった右腕を無理に振り上げてステータス画面を目前に浮かべ、宙に浮かぶそれを掴み飛び乗ると踏み台とした。
毒液の射線から外れるように二段ジャンプをし、すれ違うように豚の額に迫る。
「これで……」
急所へと確実に迫っていく悠太に反応して、両肩の牛と馬の顔が上がり、再び口を開ける。
同じ迎撃方法なら同じ回避ができる――悠太も再度ステータス画面を宙に浮かべ、掴み、回避を準備しようとした。
しかし予期せぬ正面斜め上から――蠍のように振り上げられた長い鼠の尾――超高速の突きが悠太の右肩へと打ち込まれ、身体を弾いた。
「ぐっ……」
体勢を崩した少年は、咄嗟に身をかがめ、足元にステータス画面を出しなおす。
――諦めない。
そう強く思って前を睨むと――視界の両端には喉元まで毒液をこみ上げさせた牛と馬の顔。
「間に合わ……」
尾の一撃が与えた一瞬は、悠太の回避を封じた。
今から跳んでも、毒液の範囲からは逃れられない。
こみ上げてくるその奔流に頭から呑まれれば、骨も残さずに溶かされてしまうであろう。
それでも、少年は画面を踏みしめる足に力を入れ、前だけを向いて跳びかかった。
自己犠牲など、誰だってしたくない。
だがそれは打算でするものではない。
悠太の仲間が……少女が身を投げうって青年を庇ったように、青年が危険を承知で力を使ったように。
誰かを助けたいという衝動が身体を突き動かすのだから仕方ない。
◇◇◇◇◇
薄れゆく意識の中――この少年はどうしてこんなにも必死なのか。
膨張した身体はもはや痛みすら感じなくなっていて、意識は魔物に身をやつすことを受け入れつつあった。
何一つ善行など積んでこなかった人生。
今にして思えば、魔物になって殺される末路は、自分に相応しい最期とさえ思える。
だからもう、救ってくれなくてもいい。
両肩の頭から吐き出される毒液は、確実に少年の身体に命中する。
回避さえしていれば、自分の命だけは助かったものを。
にも関わらず、跳びかかってくる少年はどこまでも必死な表情を崩さない。
こんなろくでなしの為に、馬鹿ではないのか、愚か者め。
こんなろくでなしを助けようと、死線に飛び込んでくるなど、正気の沙汰ではない。
だから、ろくでなしは思った。
この子の命は、こんなろくでなしのために散らして良いものではないと。
◇◇◇◇◇
――誰かを助けたいという衝動が、身体を突き動かすのだから仕方ない。
「いぎいぃぃぃ!」
毒液を吐き出す瞬間――牛頭と馬頭が自らの意思でバクンとその口を閉じた。
行き場を失った毒液の奔流はそれぞれの口の中を暴れ、両頭を溶かして崩した。
残った豚の頭は、忘れかけていた激痛に歯を食いしばって耐え、朝焼けを受けて飛び込んでくる少年の剣を、ただただ受け入れた。
ドリマンの左腕が沈んでいるだろう位置にドシュと沈み込む一突き。
ツタの手甲剣を叩き込んだ。
ブチブチとあの禍々しい根を貫いた確かな感触が――深緑の粒子を絶叫させた。
耳をつんざく豚の断末魔が悠太を吹き飛ばす。
ガシャンと背中から畜舎の鉄檻に叩き付けられ、「がはっ」と詰まっていた息を吐き出す。
そのまま力なく落下する悠太は、優しく抱き止められて藁の散らばった土へと降ろされる。
朝日まぶしくぼやけた視界には、紅炎のような髪の毛が靡いていた。
「げほっ、ごほ、はぁ、はぁ……ドリ、マン、さんは……?」
頭上から落とされた声は、凛々しくはっきりと少年を称える。
「見事だヤマダ・ユータ」
まっすぐな言葉が向かう先に、悠太は顔を上げる。
「感謝する」
そこには、吹き抜けの朝に放出される夥しい緑の光と、みるみる萎んでいき、人間の形を取り戻していく魔物だった者がいた。
やがて、地に落ちた『蝮女樹の呪珠』が黒ずんで崩れ去ると、男は広場の土へバタリとうつ伏せに倒れる。
一度膨れ上がった皮膚はひび割れ、痛々しく血を流している。
一部の関節は元に戻れず、おかしな方向へと曲がり歪んでいる。
しかし、ドリマン・ルバーカスは精一杯呼吸をしていた。
「はぁ……! がぁ……! わた、しは……」
生の実感と、命の尊さを自覚したその瞬間から、男の贖罪は始まった。
今まで奪ってきた家畜たちの命が、畜主たちの苦悩や恐怖が、重く重くのしかかってくる。
だが男は、それまでのように葛藤をないがしろにすることはなかった。
少年が、怒りや恐怖に真っ向から立ち向かったように、自らも罪と向き合い償わねばならないと――生まれて初めて心に勇気を宿した。
その勇気をあざ笑うかのように。
「使えねぇでやんの」
広場を囲う鉄檻の上、白いローブの少年が軽薄な声で見下す。
そして役立たずの口を封じるべく、ローブの袖先から鋭利な先端を持つ銀の鎖を撃ち出した。
それは真っすぐにドリマンへと伸びていき、その心臓に突き刺さる――寸前で、音速の鞭に弾き返される。
「あ、やっぱそうなる?」
睨み返すは、一瞬で射線に割って入った軍服の女性。
軍帽の鍔下から鋭い視線で見上げるサーバ・ベンディンガーであった。
「何だ、ようやく取り引きに応じる気になったか?
自分は構わんぞ、この命が尽きようと必ず貴様に深い傷を負わせてくれよう。
誓って腕を取る。一本必ず取る。そうだな右腕がいい、右腕だけは絶対にもぎ取る」
「なにその腕への熱い執着こわ」
相変わらずちゃらついた態度で肩を竦める少年は、潔く鎖を引いた。
そしてローブの奥の黒い瞳で、冷ややかに、ドリマンの命を救った悠太を見下ろした。
しばしの沈黙を挟み、彼はローブを翻した。
「ま、いいやもう。とりあえず面白いものも見れたし、俺っちはこれでさよならしとこうかな」
まるで真剣みのない置き言葉、しかし彼を追うことはできない。
この場の誰もが戦闘を継続するのは好ましくない状況にいた。
「そこそこ楽しい前座だったわ。じゃあ、またね? ユータちゃん?」
何故か悠太に手を振る白ローブは、畜舎の屋根から朝日に向かってひょいと跳び、早々に姿をくらました。
――長い一日が明けて。
悠太は崩れ落ちるように横たわり、遅い眠りにつくのであった。
その右腕は依然として毒に蝕まれており、予断は許されなかった。
悠太とドリマンの身体を両肩に支え、畜舎を出るサーバの目は厳しく、強敵の消えた方向を睨みつけていた。





