4-31 パノプティコン・コロシアム
『キマイラ』とは本来――獅子と山羊の頭、蝙蝠の羽、蛇の尾を持つ伝承上の怪物である。
その外見的な特徴から、現代ではキメラとも呼ばれ、異質なものの合成体の象徴として扱われることがある。
膨れ上がった巨体を眺めて、広場を囲むように積み上げられた鉄檻の上で白ローブの少年がえずいた。
「うげ、やっぱ一般ヒュームで『魔実転生』しちゃうと媒体の精神反映しまくっちゃうのね。マジ醜悪だわ」
そのように仕向けた張本人が軽薄に嘲笑う先の魔物は、たるんだ皮膚の巨獣であった。
中央に豚の顔、両肩に牛と馬の顔、背に鶏の翼、尾は鼠のそれ……全身の汗腺から脂っこい汗を滲ませる姿は、醜いと評されるもやむを得ない。
一つ大きな問題として挙げられることは、この見上げる程の魔物が、元々ドリマン・ルバーカスという人間であるという点であった。
悠太はいっぱいに見開いた目で瞳を震わせ、一歩たじろいだ。
「人を、魔物にする魔導具……火熊の時と同じ……」
少年は過去、クエストに訪れた村に魔導具の力に溺れた姉弟がいたことを思い出した。
姉は腕を、弟は全身を火熊という魔物に変容させて、多くの人間の命を奪っていた。
悠太にとっては魔導具という代物の恐ろしさ、禍々しさを再認識した事件であり……今また同じような悲劇が目の前で繰り広げられている。
「痛ぁいぃぃぃ……!」
唸り声のような叫びが、豚頭の額から聞こえる。
ぎょっとして見上げると、そこにはほぼ魔物の皮膚と一体化したドリマンの顔と、魔導具『蝮女樹の呪珠』を握った左腕が浮き出ている。
助けを求める彼の顔と左腕は、徐々に魔物の額に沈み込んで行くように見える。
「ひゃはっ、ウケる。家畜の合成魔獣っておっさんなかなかユーモアあるじゃん」
残酷な光景を傍観しながら、白ローブの少年は手の平をメガホン代わりに添えて呼びかける。
「そんじゃまドリマンちゃーん、俺っちここで見てるから、そこのお二人さん片付けちゃってね。そしたら元の姿に戻してやんよー」
嘘八百を隠しもしない言葉に誘われ、三つ首の巨獣は六つの獣眼を悠太たちに向けた。
もう人の頃の判断力が失われているのか、それとも苦しみに耐えきれず甘言に縋るしかないのか。
いずれにしろ、一戦を交えなければならないことは確かであった。
悠太の隣、鞭を引き絞り臨戦態勢を崩さない赤髪の軍服女が低い声を向ける。
「……ヤマダ」
「は、はい」
調教師ギルドマスター、サーバ・ベンディンガーは冷静に状況を把握し、合理的な指示を送った。
「貴様がドリマンをやれ。自分は……共に戦ってやる余裕がない」
神妙な視線が見上げるのは、キマイラから三時の方向、鉄檻の上の白いローブであった。
軽薄にキマイラへ手を振る彼からは、悠太でも感じるほどの殺気が放たれている。
白ローブに隠された顔が視線に気づき、手を振る先を二人へと変える。
「お? そこのエロい身体した姉ちゃんは観戦モードかい? そんな弱っちそうな奴に任せて大丈夫?」
「ふん、横槍を入れる素振りも隠さず何を言っている。怪我をしたくなければじっとしていろ」
軍帽の鍔下からじろりと、挑発気味な一言。
それを聞いたどこか若さの残る少年の声は、「あ?」と軽薄な雰囲気を一転させて苛立った返答を寄こした。
「調子乗んなよ女。あんたと俺、どっちが強いと思ってんの?」
返事は端的で、また意外なものであった。
「貴様だ。自分では良くて腕一本取ったところで殺られるだろう」
サーバの発言には裏表というものがない。
そのように認識している悠太にとって、敗北宣言とも取れる言葉は不安を覚えさせるものであった。
「サーバ、さん?」
「わかってんじゃないの、なら少しは口の利き方を……」
そして悠太が次いで思い出したのは、サーバ・ベンディンガーという女性は自分のギルドの為であればあらゆる手段もいとわないある種の愚直さを持ち合わせていることであった。
「かまわん」
「は?」
「くく、かまわんと言っている。この命と引き換えで結構だ。
何としても貴様の腕一本、この自分がもぎ取ってやろう。もぎ取った腕はヒールもできん程の細切れにしてから死んでやろうか」
とても返り討ちに遭うと言った人間とは思えない獰猛な眼光が邪悪な笑みを浮かべ、白ローブの軽口を封じた。
「貴様に有利な取り引きだが、どうだ? 受けるのか、受けないのか」
汗一つかかずにそう言い放つ胆力に、ローブの少年は一瞬だが気圧されたように見える。
――そして、少年はドカリと屋根に腰を落とし、胡坐をかいて不機嫌そうに頬杖をついた。
「だりぃな、何マジになってんの?」
その態度に鼻を鳴らしたサーバは、流し目で悠太を捉え、口早に告ぐ。
「というわけだ。悪いが自分は奴との睨めっこで動けん。貴様の手で……ドリマンを討て」
サーバの覚悟を決めたやり取りを見ては断れなかった。
悠太は一歩足を踏み出して……元の世界仕込みの優しさからポツリと呟いた。
「助ける手は、ないんですか」
討て、が殺せという意味であることは察している。
故に躊躇せざるを得なかった。
ドリマンは人間である。
今、目の前の姿形がどうあれど、元がどんな悪人であろうと、人間なのである。
悠太はこのエルナインで、元の世界では無縁であった命のやり取りを何度も行っている。
魔物を返り討ちにし、魔物を狩り……元人間であった魔物を倒したこともある。
どれも決してすっきりすることではなく、やはり多くの人を守る為とは言え、元人間を相手にした後は何日も葛藤に震えたことを覚えている。
剣と魔法に魔物が蔓延るこの世界は、ゲームのようであってもゲームの世界ではない。
痛みも喪失感も、その後の悲しみも本物である。
だから自分の心が壊れない方法を探したかった。
「本当に、やっつけるしかないんですか……?」
懇願染みた声に、サーバは一瞬で思案して、短く答えた。
「……ドリマンの意識が残っている間に、数珠を破壊しろ」
それが唯一、魔物と化した人間が命を繋ぎとめる方法だと、サーバは魔導具ギルドのアシャラ老から聞いていた。
そして彼女自身は、この方法で同じ状態に陥った者を救えたことがない。
だから表情を一転させて明るくした少年に、笑みで返してやることはできなかった。
「ありがとうございます!」
しかし戦う意義が見えた少年は、拳を打って踏み出す。
その後ろ姿に、聞いたこともない優しい声が届けられた。
「……頼む。クズではあるが、一応は調教師ギルドのメンバーなんだ」
俄然やる気の出た悠太は、朝日を背負って唸る巨獣に対峙した。
◇◇◇◇◇
――魔導具『蝮女樹の呪珠』。
その技の一つ『魔実転生』は人を魔物に変貌させてしまうことができる。
変貌には加速度的な細胞分裂と変化、神経の延長と接続が伴い、媒体には強烈な痛みと苦しみが襲いかかる。
それらの苦痛に耐えきれず意識を閉ざした者は、以後の一生を魔物として過ごすこととなる。
欲に塗れた男は今正に、豚牛馬の三つ首の巨獣に成り果てようとしていた。
「――ドリマンさん! 気を確かに!」
悠太の必死な叫びに返されたのは、悲痛な叫び声と両前脚を振り上げる攻撃準備であった。
「痛ぁいぃぃぃぃ!」
繰り出されたのは巨体を存分に活かしたのしかかり。
彼を救い出すためには豚の額にある魔導具を破壊しなければならない。
悠太はバックステップで範囲から逃れ、ズンと土を跳ね上げる巨体から数メートル距離を取る。
そして右手を前方にかざし、ステータス・オープンと念じる。
突き出した手の平の先十五センチ程がチカリと輝き、ブンと光の板が浮かんだ。
少年の挙動に、白いローブの観戦者が、目を鋭く細めた。
システマチックなステータス画面には、悠太のHPやら力やら防御やらとあわせ、使用可能な魔法が一覧として表示されている。
「――『番う焔よ』!」
エルナインで魔法を使うためには令歌、魔導符、魔導書といった詠唱や道具が必要であるが、何かと都合の良いこの光の画面は、それらの代用となって魔法発動に役立ってくれる。
「『鳴き穴に薪くべて、紅蓮の海に授かりし』――」
悠太の詠唱に赤い粒子が集まりだし、その輝きが画面を赤く染める。
愚鈍なキマイラはようやく前脚を踏ん張って身を起こしたところであり、魔法を撃ちこむ余裕は十分にあった。
狙うは『炎ノ槍』。
炎の槍を撃ち出す魔法で魔導具をピンポイントに貫くつもりであった。
「行くぞコール……!」
しかし、少年の詠唱が完成することはなかった。
「痛い痛い痛いぃぃぃ! 助けえぇぇぇ!」
自分ののしかかりの反動で痛覚が刺激されたのか、巨体は苦しそうに三つ首を振り、大暴れする。
額に照準を合わせられないことが一つ。
もう一つ、悲痛な叫びをあげる人間に魔法を向けることの抵抗が邪魔をして、悠太は歯噛みした。
結局魔法を撃てないままでいると、その隙に付け入るように豚の大口が開き、舌がだらんと垂れた。
「助け、苦し……おえぇぇぇ!」
生暖かい口臭に鼻をつまむ悠太に向けて、巨獣は紫に濁った液体を吐き出した。
迫りくる腐ったような臭いの奔流に呑まれないよう、少年は左に向け横っ飛びの回避をした。
集めていた赤い粒子は散ってしまい、その場に残されたステータス画面が奔流に呑まれる。
「くっそ……」
地面を転がり受け身を取りつつ、先に自分の立っていた場所を振り返ると、液体のかかった地面が異臭を上げて溶け、抉れているのが見て取れた。
それに顔を引きつらせていたせいで、牛の顔からも吐きかけられた同じ液体への対応が遅れた。
「やべっ!?」
更に横っ飛びで巨獣の側面へと回避するも、右手首に熱と痛みを感じ、顔をしかめる。
篭手の上から被弾した液体が、隙間から入り込んで右手首を焼いた。
「痛っ……」
歪めた視線を右手の平に向けて、悠太は引きつった声を上げた。
手首からじんわりと、黒ずみと痛みが徐々に広がり、皮膚を浸食しているのである。
「何が……くそ、ステータス!」
無事な左手で光の画面を浮かべ、自らの状態を確認する。
元の世界にいた頃に遊んだゲームでは幾度となく患ってきたプレイヤーに不利に働く状態。
徐々に減っていくHPバーの横には、『状態異常・毒』と記されている。
アイコンは、死のカウントダウンを表す髑髏のマークである。
「……へ、元から悠長にしてる時間はないんだ、構うもんか」
呟いて自分を鼓舞しながら思う。
事前の心構えには未だ時間がかかるが、一度戦闘に入ってしまえば命のやり取りには慣れたもので。
ただの高校生が、削られゆく命に対して慌てなくなった。
この世界では泣き叫んだってどうにもならない。
自分の望むハッピーエンドを手にするには、行動するしかないのである。
「いぃぃ!? 痛いぃぃぃ!」
痛みに暴れるキマイラが、その寸胴な図体に不釣り合いな鶏の翼を羽ばたかせながら、地団駄を踏むように暴れる。
無論その巨体が飛翔することはなかったが、暴れた拍子に口や汗腺から分泌される紫の毒液が飛び散り、雨のように降ってくる。
サーバは鞭を振るい全てを叩き落した。
白ローブの少年は汚らしそうに腰を上げてひょいひょい避ける。
フィールドを囲むのは積み上げられた鉄檻の畜舎。
家畜の入った檻にも毒液が降りかかり、家畜たちの悲鳴が聞こえる。
「痛い痛い痛いぃ! 助けで助けぇぇぇ!」
相変わらず悲痛な叫びを上げてばかりのドリマンを、ステータス画面を雨傘代わりに毒液を防ぐ悠太は真っすぐ、静かに眺め……ギリリと歯を噛んだ。
自分がこれから助けようとしているこの男は、金に目をくらませて沢山の家畜たちを殺してきた悪人である。
自分だけが頑張って助けることに、少し腹が立ってきた。
だから叫んで呼びかけてやる。
「ドリマンさん! ……おいこら成金デブ親父!」
痛みの悲鳴に負けじと出した大声に、三つ首の瞳が、豚頭の額に埋もれた顔が悠太を向いた。
それらの瞳は全て死と痛みに怯えていて、都合よく助けを求めていた。
彼が今まで、同じ瞳をした家畜を何頭葬ってきたのか。
考えれば考えるほど反吐の出る話だが、それでも悠太は言葉を浴びせた。
「何とかするから、少しじっとしてろ!」
「あああ、無理だぁ!」
豚の頭にあるドリマンの顔は、もう口鼻目だけを残して皮膚に沈んでいる。
『蝮女樹の呪珠』を握った左手はもう既に沈みきっており、わずかに根のような数珠の一部が覗くだけになっている。
「駄目だぁ痛いぃぃぃ!」
「痛いのは全部自分のせいだろ! 助かりたいなら少しは耐えてみせろ!」
尚も暴れる巨体に、一際大きな声が響いた。
「俺が絶対に助けてやるから!」
それは、ドリマンの長い人生で初めて聞いた言葉であった。
――助けてくれないのが当たり前の子供時代で、大人になってからは助けてあげないのが当たり前の日常。
自分がクズである自覚はあったから。
自分のようなクズに向けられる言葉には「助けてやる」等はないと諦めていたから、金を集めて、力を集めて、貪欲に自分を守る必要があった。
自分のようなクズに「助けてやる」なんて言われると思ってもいなかったから、我知らず動きを止めた。
「たす、ける……? なん、で……?」
「何だよ助かりたいんだろ!
それに言ったろ、謝らせるって。このままケジメもつけずに死なせてたまるかよ」
まるで物語の主人公が言うような綺麗事。
それを真剣に語る瞳もまたドリマンにとっては初めて見るもので、戸惑いが痛みに勝った。





